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「名前は」
「篤弘です」
「どんな字を書く。手のひらに書いてみろ」
男が手のひらを広げるので篤弘はそこに人差し指を伸ばし、自身の名を書く。随分と大きな手である。皮の厚い、ごつごつとした、堂々たる手。
書き上げると男は笑う。達筆のようだな、と。
「俺は、ナツロウだ。歳は十七だ」
十七歳でこの落ち着きなのか。二歳しか変わらない。
「ナツは季節の夏、ロウは朗らかだ。おまえどこで暮らしてるんだ」
「この近くです」
「誰と一緒に暮らしている」
答えに詰まる、何と答えれば良いのか。店の看板がちらつく。
「親ではないな」
男――夏朗はゆるく笑う。
「それなら好都合だ、血縁がなければ切りやすい」
そこに質問も答えも必要なかった。先ほど夏朗は言った、分かってんだろうが、と。見透かされていた。分かっていた。だから言葉は必要なかった。
「おまえの中には、神がいる。分かるよ」
夏朗は言った。その、深い、底の見えない瞳で篤弘をじっと見据えて。
「おまえが消えれば店は大きな損失を食らう。だから俺がその分を支払う。俗に言う、手切れ金だ」
夏朗が人差し指を立てる。一、の字。一万、と篤弘は言う。なわけがない、と夏朗が笑うので、十万、と篤弘は言う。いや、と夏朗は言う。だから篤弘は、百万、と言う。夏朗は首を横に振る。
こくりと篤弘の喉が鳴る。一千万。篤弘は言う。
夏朗は頷く、ゆっくりと瞼を閉じながら。それから実にゆっくりと瞼を開ける。その顔には笑みが広がっている、実に穏やかな。
「なんだ、あんたもう寝んの? 今日は早いね」
軋んだ音を立てて扉が開くと同時に明かりと女の声が入り込んできて篤弘は頭から布団を被った。ここには礼儀もマナーもないからノックをされたことはない。
もともとは物置だった空間だ。三畳ほどしかない。だから布団しかない。住み込みの人間の身の丈に合った部屋である。
「疲れたか」
笑いを含んだ女の声が被さってくる。
「それもそうよね、一日の最後にあんな妙な男が来ればね」
布団の上から身体を撫でられる。店でも家でもずっと顔を突き合わせ続ける女である。自称独り身、自称四十歳で、和服姿しか見たことがない。洋服より和服のほうが楽なのだとか何とか。
この女に拾われたのは半年ほど前のことだ。深夜にこの近辺をあてもなく歩いていた時、突如として声がかかった。あんたいくつ? と。煙草を片手に、小首を傾げて、その黒々とした瞳を笑わせながら女は言った。あんた、いいとこのおぼっちゃんでしょ、分かるよ。そして訳ありだ、と。
それ以上は特に何も聞かれなかった。ただ、あたしの店で働かない? と、そう聞かれた。
最初は茶席の清掃や食品の買い付けなどの雑務をさせる予定だったようだ、それが急遽変更となった。篤弘を部屋に招き入れて茶を飲ませたとたん、女の目つきが変わった。
拾われた先でも茶道をやることになるとは思ってもいなかった。しかし商売になるのならと、それを受け入れた。流派はどうでもいい、と女は言った。お客は所作じゃなく少年見たさで来るんだから、と。あんたは、金になるわ。女はそう言って笑った。
窓の外は騒がしい。飲み屋街だからだ、酔っ払いの笑い声や卑猥な言葉がいくつも響き渡り、やむことがない。むしろそれは子守歌のようになっていつも妙な心地良さを与えながら篤弘を眠りの世界に放り込む。
だが今日は眠れそうもない。ここに女がいるから、ではない。いるのはいつものことだ、そして女がいてもいなくても篤弘は勝手に眠りに落ちる。
一週間後に、ここに来る。それまでに話をつけときなさい。
夏朗はそう言った。兄というものを思う声で、しかし、毅然とした、あの神のもとに存在する者の声で。
胸が高鳴る。脳内で歌が響いている。地の底から這い上がってくるような、どこまでも迫りくるような歌。中央アジアのどっかの国の国歌のようだと父が笑って一蹴した歌。あの神を信じる者の胸にしか響かぬ歌。あの娘が歌い続けた、あの歌。
「おやすみ」
女の声が遠のいてゆく。
「結局、あの男にたらしこまれたってわけね。たった一晩でねえ」
女が煙草の煙に巻かれている。あぐらをかいているから和服がめくれ、脚がむき出している。
「手切れ金をくれるって」
「いくら?」
女の目がくるりと動いて篤弘の目を捕らえる。その目に篤弘は、一千、と答える。何、千円? と女が歯をむき出して笑い、一千万、と篤弘は答え直す。
「まじか」女がゆるく笑う。「あいつら相当、金持ってんのね。それでも結構な痛手のはずよ。あんたにそれだけの価値があるってことか」
女が灰皿に煙草を押しつける。開け放した窓の向こうから入り込む乾いた秋風にその黒い髪を揺らされながら、
「で、それであたしがあんたを手放すと思ってんの」
女は言った。篤弘の目を真っ向から見据え。
自称四十歳、年相応である。名はヒロコだ、自称。名を呼んだことはない。
「あそこは禁欲の世界よ。一度、女の味を知ればあんなとこに行く気も失せるわ」
女が自身の衿の中に手を入れ、するすると、安いポリエステルの音を立てながらそれをはだけて、白い肩をあらわにする。
歌が途切れることはなかった。身体は確かに快楽に溺れているのに、あの歌だけは脳内で冷静に鳴り続けていた。
「もうできないのよ」
女は言う。しっかりと和服を着付けた篤弘は女の前に正座をし、畳に両手を揃え、深く頭を下げる。
「お世話になりました」
「ばぁか」
最後に女は捨て台詞を吐いた。
月明かりの下で夏朗が待っていた。彼の背後に複数の人影をみとめ、足を止めた篤弘に、怯えるな、と夏朗は言った。金を持ってきた、だから護衛だ、と。
それから夏朗はその視線をゆっくりと篤弘の背後に移してゆく。
篤弘の後ろにいる女に向かって夏朗は真っすぐに背筋を伸ばしたまま胸の前で両手を合わせ、それから頭を下げた。彼の背後にいる男達も同様に手を合わせ、頭を下げた。和服の男達のそのさまは、あの歌の中で育ち、鍛えられた、気高い武士そのものだった。