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「おまえは夏朗を愛しているのだろう」
耳に李凰の声がねじ込まれる。笑った、湿った声である。
「髪型まであの者に似せてなあ。無駄な努力だ」
太い指が髪に絡んでくる。身を捩らせるなどしたら闇小屋送りの案件となるであろうから夏子はそのまま身を硬直させていた。
「残念ながら夏朗は信仰深い者しか愛さない。よっておまえを愛することはないだろう」
自分は涼華と何が違うのだろうと鏡に自分の顔を映すたびに思っていた。涼華は十六歳の頃この国に入ってきた。同い年であり仲が良かった。常に行動を共にした。夏朗が選んだのは涼華だった。
「仕事に関しては夏朗はおまえを高く評価している」
李凰の手が夏子の頬を撫でる、ゆったりと、ねっとりと。
「しかしおまえは仕事中は凛々しいが、仕事から一歩離れりゃこのざまだ。目がうつろなんだよ」
涼華のつぶらな目はいつもいきいきと輝いていた。李凰の神への忠誠の言葉を口にする時間、国歌を歌う時間、一段とそれは輝きを増した。
「せっかく可愛く生まれついたのにな。夏朗を見習え」
李凰の煙草の匂いが絡みついてくる。
夏朗は記憶をなくしている。あの時夏子は六歳であったが夏朗は五歳であった。その一年の差は大きいのだ。夏朗は完全に魂を奪われている。
これはおそらく夏子に対する罰である。李凰はたびたび夏子を神の館の一室に呼び寄せ、録画しておいたテレビニュースを見せるのだ。十二年ほど前から外界で騒ぎとなっている事件だ、思い出したように時折報道されるのだった。
間宮塾生失踪事件である。塾生達の脳の活性化を目的に、間宮塾という名の学習塾が毎年冬に登山を開催していたのだが、その年、山の中で四歳から六歳の塾生三人が忽然と行方不明になったのだ。大勢の捜索隊を投入して長い間捜索を続けても遺留品ひとつ出ず何の証拠も出てこないため神隠しとしか思えぬと人々は気味悪がった。
「敵はアランの教だけではないのだよ」
李凰が夏子の耳元で囁く。アナウンサーの淡々とした言葉に混ざりながら。
「そう遠くない未来に警察が嗅ぎつけるだろう。分かってるよな?」
不本意ながら唇が震える。目から涙がこぼれ出す。私はこの男を恐れているのだ。
「可愛いじゃねえか」
李凰の舌が夏子の頬をなぶる。抵抗すれば闇小屋、いや、この男の機嫌しだいで処刑だ――夏朗の日本刀によって私は斬られるのだ。
李凰は夏子の記憶が薄まっていくのを待ち続けてきたようだった。だが夏子から記憶が抜けることはなかった。頼りがいのある父に優しい母、いたずらっ子の弟に可愛い猫。
テレビ画面に幼い顔が三つ並んでいる。テロップと共に――
平山廉、大原渚、森野優人。
あの方は夏朗ではないし、私は夏子ではない。斬られたあの子も碧ではなかった。
「おまえには夏朗と結婚してもらう。この上なき悦びだろう」
ああ、と思った。この男はいよいよ私を帰さないつもりだ。