5
月の光に照らされながら錦鯉が静止している。冬であるし夜であるから池の水は非常に冷たい。だから冬眠している。しかしながらその身は実に逞しくそして優雅である。李凰国にふさわしい。
「ここにいたのか。探した」
突如として声がやって来る。待ちわびていた、神の声だ。今日は一度も皆の前に姿を現さなかった。就寝時間間際の今、唐突に篤弘の前に現れた。篤弘を探していたという。なんと恐れ多いことか。篤弘は草の上に正座をして深々と頭を下げる。夏朗様、おかえりなさいませ。
十八時間ほど前に夏朗は屋敷に戻ってきていたはずだが、今日初めてその顔を拝見する為その言葉を使う。普段それに対して夏朗は、うん、と答えるがこの日は違った。
「ただいま」
そう言った。月の明かりに照らされながら、ゆったりと笑って。吐く息が夜の闇に白く溶け込んでゆく。
少し疲れの残った表情をしていた。そしてかすかに酒や煙草の匂いが残っていた。
「なんで夜中に外にいるんだ。寒いだろう」
笑いを含んだ声でそう言いながら夏朗はゆっくりと篤弘の隣に腰を下ろし池の鯉に目をやった。
「鯉、好きか」
夏朗は皆が寝静まった後に一人で便所掃除を行っているらしいとの噂があるが、早朝にはこのあたりを一人で掃除しているとの噂もあった。まさに陰徳である。
鯉好きですと答えると夏朗は笑い、
「俺もだ。以前は部屋で金魚を一匹飼ってたんだがすぐに死なせてしまった。目がつぶらで可愛い子だった。おまえみたいだった」
そう言うと浴衣の懐に手を入れそこから包みを取り出した。
「おまえに土産を買ってきた。開けてみなさい」
思いもよらぬ土産である。なんと恐れ多い。包みを前に篤弘は手をついて頭を下げた。ありがとうございますと何度言っても足りないほどである。
いいから開けろ。可笑しそうに夏朗が笑うので篤弘はこわごわとそれに触れ、そっと封を開けた。
中から出てきた物は螺鈿細工の施された漆黒の茶杓だった。職人がひとつひとつ丁寧にこしらえた一点物であると一目で分かった。螺鈿の部分が月の明かりに照らされてエメラルドグリーンから始まるいろいろな色に複雑に重なり合いながら光り、宝石が散りばめられたかのような神秘的な美しさをたたえそれは息を吞むほどであった。
「これを私に」
「稽古で螺鈿の茶杓を使ったらおまえの目が変わった。だから買ってきた。茶道具であれば私物を持つことを許される」
篤弘の顔の近くに顔を寄せ、共に茶杓を眺めながら夏朗は言い、それから笑った。
「誰にも言うなよ。二人だけの秘密だ」
夏朗の声が篤弘の耳にかかる。
ああ、いずみ。李凰の神からこんなにも美しい茶杓を頂いた。これは僕ときみへ捧げられた物だよ。共に使おう。
「泣いてんのか」
「嬉しいのです」目の前で螺鈿が滲み、ぼやける。「あなた様に出会えた。こんなに嬉しいことはない」
池のほうからチャポンと水の揺れる音がする。鯉が目を覚ましたのだろう、李凰の神がこんなにも近くにいることに気がつき喜んで跳ねたのだ。
「そうか。俺もだ」
夏朗の手のひらが篤弘の肩に回った。
「さあ、就寝時間だ。今夜は俺の部屋に来なさい。一緒に寝よう」
夏朗の布団の中でその腕にしっかりとくるまれて眠った。