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教祖はただの身体障害者だろう、と父は言った。李凰の神? そんなもん存在しねえ、そう言って笑った。父はとある茶家の家元であり、篤弘はその跡継ぎであった。
近所に一人の娘が住んでいた。旧家の娘だった。篤弘よりひとつ年下であった。
あっくんがいつも着物を着てるからあたしもいつも着ていたい、そう言って幼いうちから着付けを覚え、自分できちんと着付けられた時などはさも嬉しそうに唇を横に引っ張って笑い、あっくん、見て見て、どう、似合う? などと駆け寄ってきたものだ。着物のよく似合う娘だった。
名はいずみといった。何の問題も抱えぬ少女のように思えたが、彼女自身の中にはひとつ問題があった。和服の下にある腹、そのあたりに傷だか痣だかよく分からぬが疾患を抱えていた。彼女自身はそれを奇形だと言った。そして、李凰様はきっとあたしを救ってくださる、そう言った。一代目の李凰様のお腹には二本の手があったの、あたしに似てるの、と。彼女は生涯、それを篤弘に見せることはなかったからそれが一体何だったのかは今も分からない。分かったのはそれが李凰の神を信じる材料になったということくらいだ。
いずみは学校でいじめに遭っていたようだった。篤弘とは別の私立中学に通っていたからその様子は何も分からなかったのだが、予測できるのはその腹への中傷だった。集団行動においてその腹を隠しきることは到底できなかったのだ。
どこで覚えたのか、いつしかいずみは李凰国の国歌を口ずさむようになった。どんどんと李凰国へ魂が引きずられてゆくようだった。まさか中学卒業後に入信するつもりじゃないだろうな、と篤弘の父は言った。あたしは李凰様に手招きをされているんです、といずみは言った。あたしのお腹は一代目の李凰様のものと似てるんです、と。すると父は言った。そうか、それなら、見せなさい、と。
いずみは篤弘の父に強姦されたあげく殺害されたのだ。そしてその事実はもみ消された。古くより父は警察の上層部の人間と親交があった。何度訴えても警察は篤弘を子供扱いした。母は篤弘を叱責した。あなたの憶測でしょう、と言った。実際に見たわけでもないのにどうしてそんなことが言えるの、と。母は犯罪者の妻になりたくないだけであった。
おまえは俺を疑っているのか、と父は篤弘に言った。どこにそんな証拠がある、と。神は見ています、と篤弘は言った。何の神だ、と父は聞いた。あなたにはいつか天罰が下ります、篤弘は言った。だから誰が俺を罰するんだ? 父は笑った。李凰の神です、篤弘は言った。家がひっくり返ると思われるほどの勢いで父は笑った。
李凰国の国歌だけが脳内に激しく流れ続けていた。今自分が手を下さぬともいつか必ず李凰の神がこの男に天罰を下す。篤弘は受験勉強もせず中学卒業の日だけを待ち続け、その日が来ると家を出た。何のあてもなかった。
そして気がついた時、篤弘は李凰国にたどり着いていたのである。まさにいずみの手招きであった。いずみの魂はすでに、李凰国にあったのだ。
世にも美しい少年である。真っ白の着物を身にまとい、実にゆっくりと日本刀を自身の顔の前まで持ち上げ、日の光を浴びて鋭く光を放つそれに口づけをする。忠誠の口づけである。それはあまりにも尊い。
ああ、あの方にこそ、李凰の神が宿っている。処刑を見物していた李凰様――腹に二本の手を抱えた初代李凰の血を引く李凰様にではなく。
相手が十五歳であろうが、気に入っていた少年であろうが容赦しない。罪人を斬る。ただそれだけの、単純明快な美しさ。そこには甘美がある。
だから篤弘は歌う、声高らかに。木刀のような棒を持って少年達を監視する姿が今日はここにないから歌う者達には明らかに緊張感がない。しかしそれは篤弘に何の関係もない。篤弘は歌う、己の内から湧き上がる、李凰の神への――李凰の神をその身に宿すあの方への激しい情熱を胸に。
頬を涙が流れてゆく。ただ、するすると。
あの方の姿のないお堂でも食堂でも職場でも常にひとつの視線を感じるからついに篤弘は聞く、
「どうされましたか」
「それはこっちが聞きたいな」
「なぜですか」
「いや、なんかびびらせたかなと思ってな」
慎也である。篤弘を真っすぐに見つめながら少し笑っている。
「あんま気にすんなよ。おまえは関係ねえんだから」
何をですかとは聞かなかった。実に見当違いであるからだ。