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だしぬけに引き戸ががらりと開いて夏朗が姿を現したとたん寝室に緊張が走り、夏朗様おかえりなさいませと、全員が最敬礼に近いほどの挨拶をした。うん、と夏朗は答えるもひどく疲れているのがその表情から見てとれた。
入浴後のはずだが浴衣ではなくよそ行きの和服を着ている。そしてその目は篤弘を見つけると動きを止め、
「篤弘」
と言った。
「ちょっと来なさい」
思わぬ呼び出しに身を硬直させ、百人もの視線を浴びながら篤弘は寝室を出た。
夏朗に続いてしばらく廊下を歩いた。中庭が見えてきたあたりで夏朗は立ち止まりゆったりと篤弘を振り向くと、
「今夜はちょっと出かけてくる」
と言った。
「側近が一人ここに残って見回りをするから心配するな」
その顔には笑みがあった。いつもの笑みだ。歳の離れた弟を慈しむかのような目で篤弘を見下ろしながら、
「風邪ひくなよ」
と夏朗は言った。
「いい子だ」
夏朗の手が篤弘の頬に向かって伸びてくる。この手は数時間前に人を斬りその命を絶った。この手は血まみれになった。この身体も、この顔も真っ赤に染まった―― 一瞬の間にそういった思いが脳内に駆け巡った。自分の意思とは別物のように身が震え、同時に夏朗の手がその頬の前で動きを止めた。顔からは笑みが消えた。
瞬時に篤弘は床に正座をして夏朗に深く頭を下げた。自分で自分を叱責していた。李凰の神への忠誠の証として代々伝わる大仕事を終えた夏朗様に対して何たる無礼を働いたことか。申し訳ございません、お許しくださいと篤弘は言った。声が震えた。
「顔を上げなさい」
言われた通りに顔を上げるとそこには夏朗の笑みがあった、実に穏やかな。篤弘の前に膝をついてかがみこんでいる。
「ここに戻るのは明け方になるだろう。おりこうに待っておきなさい」
篤弘の無礼などとうに忘れたかのように夏朗が言って、何かが眼球にこみ上げてくるのを篤弘は感じた。はい、との声が上ずり、夏朗が笑った、可笑しそうに。そのまま夏朗の右腕が伸びてきて篤弘の身を引き寄せ、その胸に抱いた。
一瞬の抱擁でありその腕はすぐに離れていったが、離れる直前に篤弘の耳元に夏朗の声がかかった。小さな声だったから聞き取りにくかったがその言葉は、どこにも行くな、と聞こえた。
どこにも行くわけがないのにどうしたものだろうかと思っている間にも夏朗は立ち上がり篤弘に背を向け歩いていった。その背中に篤弘は深く頭を下げて見送った。冬の夕方の冷気が床から這い上がってくる。
寝室に戻るとそこは静まりかえっていた。百人もの視線が刺さってきた。先ほどいた場所であるちゃぶ台の前、慎也の左隣に戻ってからもずっと皆の視線が刺さり続けた。
何の話だったんだ。ついに沈黙を破ったのは慎也だ。片膝を立てた格好で篤弘の顔をじっと見ている。別に何でもありませんと篤弘は答えた。今夜は出かけるそうです、と付け加えた。すると寝室いっぱいに広がっていた緊張がふっとほどけ、食堂へ向かう為に動きだす者で溢れた。
「処刑の翌日は夏朗様は休みになるからな」
慎也が言う。
「だから今から外界に夜遊びに行かれるんだ」
「以前の執行人は夜遊びなんて許されなかったらしいがな」
慎也の右隣にいる十八歳の少年が言った。名は浩平だ、あぐらをかいている。
「夏朗様はいろんな意味で特権階級だ、李凰様からの寵愛を受けている。何かにつけて褒美をもらえるわけだ。それにあの方はまだ十七だが、見ようによってはハタチ超えてるように見えるだろ。だから夜の飲み屋街を歩いていても何ら違和感はない」
「ラウンジに風俗にバーにと、あちこちハシゴするらしいぜ。夜明けまで大勢の女と遊び放題だ」
と笑うのは篤弘の左隣にいる十八歳の少年である。太一との名の彼は篤弘の顔を覗きこんでにやりと笑い、
「あ、僕には刺激が強すぎるかな」
「処刑のあとあの方はいつもこうだ、遊び方がエグくなる」
慎也が篤弘の肩に手を回してくる。
「深酒するから毎回二日酔いだ、翌日は一日中寝ている」
「夏朗様は飲酒されるんですか」
篤弘の問いに慎也が笑い、
「李凰国に日本の法律はない。ついでに言えば日本国憲法もない」
と言った。篤弘の髪をゆったりと撫でながら。
「だが未成年で飲酒喫煙を認められているのは夏朗様だけだ。あの方が吸ってる銘柄は何だったか、忘れたが十四ミリのやつだ」
「美人局の被害に遭わないように側近が二人ついていくそうだがな、」
太一が下卑た笑みを浮かべている。
「風俗にしてもホテルにしても一緒に中に入って最中を見とかないといけないそうだ。なんちゅー仕事なんや」
篤弘を挟んで慎也が太一の頭をはたいた。李凰国には全国各地から人が集まっているが方言を使うのは禁止されている。
「こういった話を俺らに撒いたのは前の側近だ」
慎也は篤弘の腕を抱いて笑った。
「そいつが夏朗様の夜遊びを俺らに喋って、結果、闇小屋送りとなった」
「あー、俺もたまには外界の女と遊びてえな」
と天を仰ぎながら言うのは浩平である。
「外界の女どもは幼すぎるだろ」
それを否定するのは慎也だ。
「一度この国に入ればこの国の女じゃなきゃだめになる。夏朗様も国内の女じゃなきゃ本気になれねえんだろうな。外界でさんざん遊んでいるがマジになるのは国内の女だけだ」
「やっぱあれマジだったんだな」
浩平が言って、あれって何だと太一が目を細める。
「涼華様だよ」
慎也が李凰の妻の名を口にした。