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きっと李凰の神の香とやらにまつわる何らかの儀式だ、この儀式により夏朗は許され、処刑を免れるのだ。篤弘はそう期待した。
もとより李凰の目は実に穏やかであったのだ、夏朗の目を見るそれは優しかった。少なくとも夏朗に刑を執行する者の目ではなかった。この一ヶ月ほど篤弘は幾度となく李凰に慈悲を求めて土下座を繰り返してきたがその必要もなかったようだ。
音が止まった。揺れていた影も、また。まさに、ぴたりと。
「どうしたというのだ」
李凰の声がはっきりと聞こえた。
「なぜ泣く」
夏朗が泣いているという。耳をすましてみるもよく分からない。頬に涙だけを流しているのか。
「あの者が気になるか」
李凰は言った。
「それなら部屋から出そう。充分にこの香は浴びた。もう良いであろう」
掠れた声がした。夏朗が何か言ったようだ。それはあまりにも小さいから言葉を聞き取ることはできなかった。
「まだ分からぬか」
李凰の笑った声ははっきりと届いた。
「この香がおまえを許したのだ。何も気にすることはない。ほら、おいで」
影が揺れる。李凰が夏朗へ手を差し出したのが分かる。夏朗のほうは両手のひらで自身の顔を覆ったのが影の動きから見て取れた。鼻をすする音が聞こえた。泣いているのだ。
「何が悲しい」
李凰は問うのだった。
「言ってごらん。夏朗」
まさに小さな子に問いかけるかのような口調だ、おそらくその手は夏朗の頭を撫でている。そっと、大事に、丁寧に。宝物に触れるかのように。目はきっと夏朗の顔を覗き込もうとしている。
「夏朗」
声が濁った。