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李凰の神の香だという。平べったい器の中にそれはある。液体である。湯にしか見えないが小さな火にちろちろと炙られ、確かな香りをよこしてくる。線香のような、重苦しい、李凰の神の香。
それを篤弘は運んでいる。梨子の後ろに続きながら。
就寝時間の間際であったが李凰から依頼を受けると梨子はきちんと和服を着直し、髪を結い直して、神妙な面持ちで李凰の神の香とやらの調合を始めた。李凰の神の血縁者の仕事であるという。慣れた手つきでてきぱきとそれは行われたが篤弘にしては初めて見るものであった。
おまえの身を清めるのだと李凰は言った。これでおまえは許される、と。言われた夏朗は李凰の前で何も言わない。風呂に入り身だしなみを整えたのだ、闇小屋で薄汚れていた姿など思い出せないくらいにその身も表情も凛としていた。
広い寝室である。李凰の個室である。照明の落とされたそこに静かに広がるのは和紙でできた置き型の照明から滲み出る黄色い明かりだ、それが襖一面に描かれた金魚の画をぼんやりと照らし出している。尾を優雅に広げた金魚だ、それは夏朗が少年部の幹部であった頃の個室の襖に描かれていたものとよく似ていた。夏朗は黄色い明かりを好んだし、金魚を好んだ。
似たような趣味趣向であるのか、それともどちらかの趣向がどちらかに移ったのか。不明であるが布団の上に李凰はあぐらをかき、夏朗は正座で、二人向き合っていた。
もとより夏朗は月に何度か李凰に呼ばれ、ここで一夜を過ごしていたようだ。梨子がそう言っていた。
李凰の神の香とやらを李凰と夏朗それぞれの背後に設置したのち、梨子は部屋に戻ってよいと李凰に言われ、言われるままにすたすたとここから出て行った。篤弘はこの部屋の隅のほうに控えるように言われた。
李凰の神の香の灯の消えぬよう、と李凰は言った。要するに香りの原料である液体を炙る火が消える前に火を準備するように、とのことであろう。事前に指示された通りにマッチは懐に入れてある。篤弘は衝立の陰に隠れるようにして畳に正座した。
寝床までかなり距離がある。衝立の向こうに隠れた二人の様子は気配でしか分からない。
何が始まるというのか。おまえは許される、と李凰は言った。
黄色い明かりが揺れた。夏朗が布団に両手をつき頭を下げたのが影の動きで分かった。
低く小さく、声がした。遠いから言葉ははっきりと聞こえないが、顔を上げなさい、と聞き取れた。夏朗が言われた通りにしたのも分かった。
影が揺れた。よく分からぬ揺れ方をした。やがて布の擦れるような音がした。これもよく分からぬ音だった。
あとに続くものは何やら息を大きく吸い込むような音、何かを吸うような、液体の交わるような音、それはまるで接吻のような――