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「風邪か」
だしぬけに額にひんやりとした感触が降りてくると共に夏朗の静かな声が来た。
「少し熱っぽい」
暗闇の中、夏朗の目が篤弘をじっと見下ろしている。
見回りの時間が来たのだなと思った。なかなか寝付けずにいた。布団の中で咳を押し殺していた。深夜三時まで見張りをして十時頃まで眠り、それから会社へ行き夕方に屋敷へ戻り夕食と入浴を終え就寝時間を迎えた。体内時計がおかしくなっただけではないのはとうに分かっていた。
辺りからはすでに寝息が聞こえている。閉めきった障子の向こうからはさわさわと音が聞こえる。雨が降っているのだ。
「疲れが出たんだな」
夏朗の手がそっと布団を剥がし、篤弘の手を取った。
「来なさい」
手を掴まれたまま廊下を歩いた。途中、幾度も咳込み、そのたびに夏朗の手が篤弘の背中をさすった。ありがとうございますと頭を下げながら歩き、着いた先には八畳の和室があった。電気はついておらず、和紙製の置き型の照明が薄ぼんやりと黄色い明かりを灯しており、その明かりに浮かび上がるものはちゃぶ台のような机や座椅子、本のぎっしり並んだ本棚、そして襖一面に優雅に描かれた金魚の絵であった。
「薬の力を借りずに免疫力で治すのが一番いい」
そう言いつつ夏朗は隅に控えていた少年を見やり、布団を敷いてくれと言う。はい、と少年が答え、側近だ、と篤弘は思った。
夏朗の個室だと認識したとたんに全身に緊張が走った。昨夜、李凰も訪れた部屋だ。篤弘は畳に正座をして頭を下げた。
隅のほうにシンクがあり、そこで器用に包丁を使ってりんごの皮をむきながら夏朗の背中が篤弘に聞く。寒気は、と。少しあります、と篤弘は正座をしたまま答える。喉の痛みはと聞かれ、少し痛いですと答える。風邪のひき始めだな、一番肝心な時だ。夏朗の言葉と共にりんごの皮がどんどん長く伸びてゆく、途中で切れることなく。
布団を敷き終わった側近が、手伝いましょうかと聞くも、いや、いい、と夏朗は答え、まな板の上で慣れた音を立てながらそれを切り分けていった。
「食べなさい。ビタミンが必要だ」
篤弘は畳に両手をついて深く頭を下げる。頭を上げるなどおこがましいことである。そんな篤弘の前に夏朗は身をかがめ、
「顔上げろよ」
と言った、笑いを含んだ声で。顔を上げるとそこには可笑しそうに笑う夏朗がいて、それは黄色い明かりにぼんやりと照らしだされていた。
食べなさいと言われ、りんごを差し出される。ほら、と言われるので口を開ける。おこがましいが遠慮するのはもっとおこがましいことのように思えた。だからまるで鳥の雛となって、差し出されるままにそれを食べた。夏朗は親鳥だ、雛を慈しむように篤弘を眺めていた。
食べ終わると夏朗は言った。今夜はここで寝なさい、と。移してしまいますと篤弘は言った。大丈夫だ、と夏朗は笑った。俺は病原菌に嫌われている、風邪などもう何年もひいていない、と。
大きな布団だ。羽毛だろう、分厚くふかふかしている。その中で夏朗にしっかりと抱きすくめられ、身を縮ませながら必死に咳を押し殺すも幾度も出てきて、そのたびに夏朗の手が篤弘の背中を撫でるものだから、咳がうるさくて眠れないでしょうと篤弘は言う。うるさくなんかない、と夏朗は言う。リラックスしなさい。身体の力を抜いて、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐く、と。咳はどんどん出しなさい、と。
言われた通りにする。夏朗の体温が篤弘の身体にゆったり、じんわりと染み込んでゆく。閉めきられた障子の向こうから静かに響く雨音が次第に子守歌となってゆく。部屋の隅に控える側近の視線が徐々に意識の外へと消えてゆく。
いつ目を覚ましても隣には夏朗がいた。雨の音に包まれながら。綺麗な寝顔だと思った。
いつしか夏朗の体温で篤弘の身体は温まり、咳は出なくなっていた。