あるいは鬼と果て得る夢幻の中で
完成された美。少年には彼女が、その一歩手前のように映っていた。
友人と会話をする際に覗ける八重歯が、唾液を纏ってによって微かな光沢を放っている。あの歯で首筋を貫かれたらどのような痛みに襲われるのか、少年は気になって仕方がない。
その鋭い八重歯の姿を遮った桜色の唇は、とても血肉を喰らうには相応しくない可憐な色を帯びている。校庭に咲き誇る桜にも負けぬ鮮やかさで言葉を紡がれると、鼓膜が一層震えてしまう。細められた瞳にはあまりに深い紅が湛えられていて、その血のような妖艶を、しかし慎ましくゆっくりと動かせるのだ。
少しふっくらとした瞼の上。スッと伸びる赤い眉。それは少し唇を閉ざせば芸術になる少女の性格を表すように、すこしばかり吊り上がっている。怒り、と言う程ではない。静けさによく合う程度の真剣さを描いているのだ。
眉尾の少し横で尖る耳。一見してただの人ではないと分かる形状が、だからこそ気高い。それは少女の肩上辺りで整えられた滑らかな赤い髪から時折扇情的に姿を覗かせる。
あの永遠の美の一部になれたら。少年は自身の考えのおぞましさを自覚していたが、そう思うことは止められなかった。
入学から一か月が経ったある放課後。
少年は校舎の屋上へと向かっていた。同じクラスで少女と一か月を過ごしても、少年の歪な思いは正されることはない。むしろ、ますます募るばかりだ。それはもはや性的な感情がほとんどない、彼にとっては崇高とさえ言えるものとなっていた。
それほど段数のない階段を、激しい息遣いをしながら登って行く。少年は痩躯を揺らし、壁に手を付けながら一段一段を踏みしめる。崇拝する少女を目の前にした時のような動悸。この階段の先に続く場所に、少女が居ることを少年は知っていた。
階段を登り終え、重い重い扉を開ける。一陣の風が体を襲い、少年はすこしよろけてしまう。だが、その突風は少年にとっては障害でしかなくとも、少女にとってはそうではないように映った。
屋上の手すりを掴む少女。僅かに憂いの見える背中。沈黙とは美の一種であると訴える静謐の中、風に晒され髪を押さえたその姿はいっそ美しい絵画の一枚であるかのようだった。
少女は一人で立っている。大きな目で校庭を、街を眺めている。そして、何か感銘を受けたかのように手で口を覆い、軽く瞼を降ろしたのだ。
「綺麗だ……」
意図せず少年は呟いていた。その声を、少女の先端の尖った耳は拾い上げたらしい。彼女はスッと身を翻して、同級生と視線を合わせた。
「あ……綺麗だよね、この景色。でも、いつも通りの変わらない景色。私には、あんまり良いものには見えないな」
その澄んだ声は授業中に幾度も少年を高揚させたものだ。しかし今、その音が自分にのみ向けられているのだと気付き、彼はぶるりと体を震わせた。
上手く言葉が出てこない。乾いた口内が、舌がから回る。一度唇を引き締めた少年が改めて放った言葉は、自身でも一生吐露できないだろうと思っていた醜さだった。
「あのっ……僕を、僕を食べて下さい!」
「……え?」
何を言っているのか理解できない。少女はしばし呆然とし、すぐに怪訝な面持ちとなった。
その表情すら見惚れるものだ。少年は自身の発言に後悔していたが、同時に全ての苦悩が吹っ切れたような爽快感の只中にあった。
「あ、変な意味じゃないんです!単純にあなたの血肉になりたいと言うか……ええと……」
「それも、十分変な意味だと思うけど……」
「それは……そうなんですが……」
少女はどんどん語調が萎んでいく少年を見て、それから急に振り返り、先ほどまで見つめていた景色を眺め始めた。
ドン引きされたかな。少年は屋上の床を眺めながら、引き攣った笑みを浮かべる。彼にとっては彼女こそが最上の存在なのだ。肉親より、友人より、教師より、医者よりも大きな存在。
その存在に否定されることは、人生の意義の否定と同じだ。少年は肩を落として咳をしながら、だが潔くその否定を持っていた。
だが、少女から返ってきた言葉は。
「……いいよ」
少女はくるりとまた体を回転させ、左手の小指で自らの唇を開いて見せた。生々しい肉の赤色。そこで光る鋭利な八重歯。
「それじゃあこれから毎日、君の血を頂くね」
「はっ……はい!はい!お願いします!ありがとうございます!」
少年が下げた頭を少女が掴む。女性とは思えない力強さで頭を持ち上げられ、すぐに見えたのは少女の尖った耳だ。首筋に強い痛みが走る。だが、甘美な痛み。少年は自らの体内から自身を構成する細胞が出て行き、それが少女の温かな口内へと運ばれることに、この上ない悦楽を感じていた。
久しぶりの学校だった。体が鉛のように重い。両親からも医者からも、学校に行かなくても良いと言われている。だが、少年にとって今生きる意味は、己の血肉を少女の糧としてもらうことだけだ。
顔面蒼白の彼を心配して声を掛ける担任に、大丈夫です、と小声で応じる。蝉の声がうるさい教室ではかき消えてしまいそうな力弱さだったが、担任の耳には届いたのか、恰幅の良い男は頭を掻きながら少年から離れていく。
「来たんだ」
その担任と入れ替わるように、声が響いた。少年が顔を傾ける。そこには彼の崇拝する少女の姿があった。少し黒く焼けた肌さえも艶やかで、少年はニコリと笑みを浮かべた。
「はい……今日もまた、お願いします」
屈託のない笑み。隈の酷い両目を、青白い唇を、白すぎる肌をそう見えるようにと動かして出来上がった表情は幽鬼のようであったが、少女にはそれが笑みなのだと分かっていた。
「……やめよう。もう十分、貰ったよ。これ以上は」
「お願いします!」
少年には、恐らくこれが最後の機会になるだろうと言う直感があった。これで完成に至ると言う直感も。
か細い少年が何とか出した大声を受けて、少女は珍しく少し視線を逸らした。だが、すぐにその大声を受け止める。
「分かった。互いにそう、望むなら」
その答えに、少年は満面の笑みを見せた。
夜空に輝く星が見える。
いつもの屋上、いつもの行為、いつもとは違う時間帯。少年は少女の膝に頭を乗せてもらいながら仰向けになっていた。それは少年にとって畏れ多い事だったが、少女の腕力には勝てない。ただでさえ、衰弱しているのだ。
「綺麗だ……」
少年は意図して呟いた。当然、星のことではない。自分を見つめる赤く光る瞳に対しての言葉だ。だが少女は、自身の事とは考えずに空を見上げた。
「綺麗だよね。きっと、夜にしか輝かないからじゃないかな?朝も、昼も、夜と同じようにあんなに星が輝いていたら、みんな飽きちゃう気がするな」
「本当ですか?僕は、飽きたことなんてないですけど……」
「それは君が夜だからじゃないかな?」
何を言うのだろう。少年は否定のために全く動かせない四肢をじれったく思いながら、何とか動かせる口を開けた。
「ずっと、ずっと見ていたかったんです。でも、やっぱり無理そうだ。分かっていたことですけど」
「ずっと見ていたら、飽きちゃうと思うよ。どんなものにも終わりがあって、だからこそ美しいと思える。良く聞く話だけど、人と違う私には骨身に染みる話だよ」
「そうなんですかね?ただそれだけは、あなたの言葉であってもイマイチ分からないんです。僕には、あなたのような終わりのない、終わりの分からない存在の方がよほど輝いて見えるんです」
「……うん。君と私は違うから。でも、君の立場ならそう思うんだろうって一応理解はできるよ……あれ?眠ったのかな?」
少年は答えない。ただ、その両目から一筋の涙が流れる。
「おやすみ。次は良い夢を」
少年は亡くなった。元々、高校を卒業できるのか危ぶまれていた命だった。
今日も屋上でぼんやりと街を眺める少女は、少年が自らに捧げた血の味を思い出して顔を顰めた。
血なんて、鉄臭くてとても美味しいものではない。
本当に彼女を満たしたのは。
「本当に、変わり映えがないな。この景色は」
少女は欠伸をしながらそう退屈そうに言うのだった。




