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潔癖の使者 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき……だっけ。

 ちょっと前に、学校で江戸の三大改革を習い出してさ。この前の授業で、寛政の改革にたどり着いたってわけ。

 難しいよねえ。直前の政権が汚職じみてて文句を言われ、かといって今度は引き締まり過ぎても文句を言われる。振り子のように、片方に大きく振れたら、もう片方にも大きく振れるべき……とは、人間思わないことが多いのかなあ。

 多くのことに対して、波風が立たないことを願う。日和見だったり、事なかれ主義だったり、色々な言葉で表されるうえ、あまりいい印象は抱かないと来ている。言葉が消え失せないあたり、よくも悪くも気にかけてもらっている言葉といえるだろうね。

 この落ち着いた、いわゆるバランスが取れた状態。やはり保ち続けるのは難しく、昔から様々な手段が風習となり、伝わっていることもあるのだとか。

 そのうちの一話、聞いてみないかい?



 むかしむかし。ひとりの旅人がとある村の近くへ差し掛かったときのこと。

 道の向こうからやってくる、一匹の柴犬がいた。おそらく野良犬だと、彼は思う。首輪や鎖の類を巻いておらず、近くに飼い主らしい姿がないことから判断した。

 見た目に、その犬はきれいすぎたんだ。きりっと顔をあげ、堂々と足を運んでくる姿は、いささかの毛並みの乱れもない。どこから歩いてきたかは知らないが、よく見ると足の裏にさえ、土汚れがついていないように思えた。

 いったい、どこの誰がこれほどにお手入れをしているのだろう。

 しげしげと見つめる彼に対し、犬はほとんど関心を示さぬまま、その横を通り過ぎようとしたときだった。


 犬が足を止めたかと思うと、びくりと大きく身震いをひとつ。目を見開き、しっぽを高く天へ突き上げたまま、動かなくなってしまったんだ。

 なんだ? と旅人も足を止めて、犬を見下ろす。ほどなく、道を外れる西の森の中から、かすかに琴を鳴らす音が聞こえてきた。

 犬は口を大きく開けて、「はっはっ」と息を吐き、それ以外は不動の姿勢を保ったまま、静かにそのまたぐらから、尿を漏らしてしまう。色のない放尿が、しとどに足元の土を濡らして、薄く水たまりができあがるや、犬はばたりと倒れてしまったんだ。

 彼自身の背を軽く追い越すほどの、大きな土ぼこりが立って彼を包み、追い越していく。明らかに犬の重さ、大きさで作れるものじゃない。しかも犬自身は、倒れ込んだにもかかわらず、やはりわずかな汚れもつけないまま、息を引き取っていた。

 身体をひっくり返して地面に触れたところを見ても、砂の一粒もついていない。


 ――もしや、あの砂ぼこりも犬を汚さぬように立ったんじゃないか? 砂が、犬をよけたとでも?


 そんな仮説が頭をよぎり、旅人は少し気味の悪さを覚える。これ以上、へたに犬へ触るのも得策と思えず、道端に倒れた亡骸をそのままにして、先を急いだんだ。犬が倒れるまで、わずかながら聞こえていた琴の音は、もうすっかり無くなっていた。



 そこから一里ほど先の村で、彼は一晩の宿を求めた。泊めてもらう代わりに、旅の話を依頼された彼は、その夜に集会場へ顔を出して、人々に見聞きしてきたものを伝えていく。

 当初こそ、興味深げに耳を傾けていた面々だが、例のきれいな犬とその最期の話に移ると、とたんに顔色が悪くなった。集まった人々のざわつきは、瞬く間に大きくなり、すっかり彼の声をかき消してしまう。

 話を止めた彼に対し、聴衆の中の何名かが詳しい様子を尋ねてきた。かすかに聞こえた琴の音のことを話すと、ますますその顔色は青くなり、彼はこの場で少し待つように頼まれてしまった。

 人がすっかりはけてしまった集会場で、改めてやってきた長老たちに、旅人は小さい革袋を手渡される。ひもで口を縛っているけど、そこから漏れ出す臭いは、故郷でも道中でも、何度も嗅いだことのある、馬糞まぐそのものだったんだ。


「もし、またいずこかで琴の音を聞き、自らの身体にも異状を覚えたならば、この袋の中身を振りかけなさい。

 お話に違いがなければ、訪れるは潔癖の使者。目をつけた者に、清浄たれと望みまする。それに抗するわ、自ら汚れの道をたどるよりなし。

 にわかにはこらえられないと思われますが、どうかそれを曲げて。さもなくば、かの犬と同じ舞を舞いましょう」



 翌朝。袋を腰帯に吊るして出発した旅人は、そろそろ二里に差し掛かろうかというところで、急に空腹を覚えてきた。

 同時に、もよおしてもくる。近くに人家の影も見当たらず、仕方なく道を外れた草原の中で用を足そうとして、ふと村人たちの言葉を思い出す。


「もし外で用を足すのであれば、そばの草をちぎり、服へこすりつけて見るとよいでしょう。

 草の色は、生地をも染める落ちない汚れ。それが服に染みつくならば、まずは安全。ですが、それが叶わぬときには……」


 旅人は手近な草を何本か手折ると、目立たないように、袖の裏側へこすりつけてみたんだ。


 ところが、いくら力を込めても色がうつる気配はない。荷物を「押し」にして、力を込めても同じ。白く抜いてある格子の縞は、わずかも汚れはしなかったんだ。

 どっと汗が出てきた。不気味さもあったが、それ以上に、内側からここぞとばかりにあふれてきているかのようだった。

 炎天下で絞り出される感覚とは違う。身体がおのずから、熱さえ発さずにひたすら水だけを出していく。こそりともほてっていない身体は、冷水をかけられたようにぐんぐん冷え始めた。


 時を同じくして。自分の尻から勝手に屁が出始め、股間からはしとどに尿が漏れ出てきてしまう。あらかじめ下に履いていたものを脱いでいて助かった。男から出たものは、直接真下の草たちをなでていくが、困ったことに、汗と同じくなかなか止まろうとしないんだ。

 音こそ無くなった屁だが、尻の穴をしめようにも、出ていき続ける圧がそれを許さない。たっぷり60拍を数えたにもかかわらず、勢いが弱まらない放尿は、すでに色さえはっきりしない、透き通ったものと化していたんだ。


 のどに強い渇きを覚え始める。かがんだ膝にあてがう両手の甲を見ると、老人のそれを思わせる、無数のしわが浮かんでいた。一気に何十年も歳を経たかとさえ感じられるその手は、心なしか大きさも縮んでしまっているような。

 そして耳に届き出したのは、遠くからの琴の音。昨日、犬が昏倒する前にも届いたそれが、今度は弱まる様子を見せず、じょじょに大きくなっていく。

 涙が出てきた。これも意識したものでなく、目が開きっぱなしになり、閉じないがための弊害だ。もはやまぶたも言うことを聞かず、潤いの失せかけた眼球へ、寒風が容赦ない刃物と化し、表面をさらっていく。


 血さえにじみ出そうな痛みを覚え、男は年経た手をなんとか動かし、あの革袋を手に取った。歩いている間で傷んだか、馬糞にくわえてどこか酸っぱい臭いも混じっていたが、構ってはいられない。

 わずかにでも楽になるならと、男は袋の中身を思い切り頭の上からぶちまけたんだ。

 初めは液体かと思ったが、それが髪や肩にかぶった後も、うねうねと動く感触がして、男は認識を改める。

 ミミズだ。馬糞臭さにまみれていたのは、大量のミミズ。そして自分の肌に触れてきたのは、奴らの湿った身体に他ならない。想定外の気色悪さに、ぐううっと胃が鳴り出すが、中身はもうない。放屁が止んだ直後から追いかけるように彼らは男の尻を抜け、地上へと独立を図り、いままさに自分の国を打ち立てんばかりに、ひしめいていたからだ。


 琴の音が唐突に止んだ。同時に汗も、放尿も、排便も、元栓をしめたかのように、ぴたりと収まってしまった。

 ただ、男のかがむ草むらのすぐ横で、草たちがそよいでいる。のみならず、見えない何かが草を上から踏みしめ、じょじょにこちらへ向かっているんだ。

 彼がほとばしらせた「しぶき」もいくらか草にかかっていたが、見えない足がそこを揺らすたび、色づいた部分はぱっと消え失せた。そのまま男の横を過ぎていった何者かだが、男が動けるようになったのは、更にしばらく経ってからだったとか。

 

 あれが村人のいう「潔癖の使者」なのだろうと、男は後に語る。

 人やものに取りつく、不浄の気配。それを根こそぎにせんと迫ってくる何かだと。おそらくあのままなら、体内の汗、涙、便……あらゆるものを切り離され、きれいなままで死ねたかもしれないと、男は感じていたそうだ。

 ゆえに、使者すらいとうほどの、意図的な不潔で追い払う。きっとそれが、かの地に伝わる「波風立たせない」生き方なのだろう、とね。


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― 新着の感想 ―
[一言] とても面白かったです。 清らかすぎていても、生きづらいものなのかもしれませんね……。 時には、受け入れて生きていくことも必要なのかもしれませんね。
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