四月 八日
朝、祐樹の部屋には、目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響いていた。
祐樹は、その音が他人事であるかのようにゆっくりと寝返りをうち、手を伸ばして頭上の時計のスヌーズボタンを叩いた。が、彼はまだ、起き上がろうとはしなかった。
彼の中では、睡眠欲と理性がのんびりと闘っていた。
その最中でふと、思い出したように、理性が祐樹に向かって、今日が入学式であることを主張し始めた。
すると祐樹は、はっとしたように、しかしのんびりと、目を開いて時計を見た。六時三分。六時ぴったりにアラームをセットしていたので、希望よりは少し遅いが、まずまずだ。
祐樹は目覚まし時計のアラームのスイッチを切って、これまたのんびりと、ベッドから起き上がった。
入学式は午後からであったが、体を午後までに起こしておきたかったので、今日は早く起きた。朝寝坊で調子が狂って大失敗、となることは避けたかった。
祐樹はベッドを軽く整えると、グッと上に伸びをしてから、部屋を出て、階下へ下った。
リビングに入ると、母親が朝食の用意を済ませて待っていた。
いつもの、中学の時と何一つ変わらない光景だ。
――これが日常になっている自分は、きっと恵まれているんだろうな。
と、普段であれば考えもしないであろう、純先進国出身人的な考えが、唐突に祐樹の脳内に浮かんだ。
――柄でもない。
しかし祐樹としては、そんな考えが自分の頭にあることが面白くなかったと見えて、そんな考えはすぐに取っ払ってしまった。
「祐樹、早く食べて仕度しちゃいなさいよ。」
母親の、美緒がそう言った。
どうしてこうも、母親という生き物は、子供の理解していることにまで口を挟んでくるのか。
別に特段癪に障ったわけでもなかったが、小さな不満が心に湧いた。
――いけない、気が立っている。
祐樹はその感情を、入学式の緊張が及ぼすものと考えて処理し、努めて声色に乗せない様にして、
「うん。」
とだけ言った。
美緒が少しだけ怪訝な顔つきをしたが、祐樹は気づかなかった。
祐樹が朝食を食べていると、階段を下る音が聞こえてきた。
聞き慣れた、父、勇吾の足音だ。
勇吾の朝は早い。もうすでに、スーツに着替えている。
「祐樹、すまないね、仕事で、入学式にはいけないけど。」
と、申し訳なさそうに言うので、
「いや、いいよ、全然。」
とだけ返した。
勇吾はその言葉に、軽く眉をしかめて、惜しいような、哀しいような顔つきをしたが、それで特に何かをも言うこともなく、
「じゃ、行ってくるから。入学式、緊張しないようにね。」
とだけ言って、家を出て行った。
父が出たので、祐樹の注意はテレビに向けられた。
テレビの中では、女性キャスターが、今日は県立高校の入学式です。この冬は暖冬だったので――
などと、入学式関連のニュースを流していた。
テレビから流れるのは穏和なニュースばかりであった。
地域紛争や事件の話題など一つも無い。
なんだか幸先が良いなと思いながら祐樹がテレビを見ていると、
「祐樹、私お姉ちゃん呼んでくるからね」
と、さっきまでは洗い物をしていた美緒がそれを中断して、階段を登ろうとしていた。
祐樹はそれに
「わかった。」
とだけ応じて、また朝食を食べ始めた。すると階段から二人分の足音が響いてきて、
「あれ、祐樹、入学式午後からじゃないの。」
と言いながら、姉の美咲が姿を見せた。美咲はもう身支度は整えていたようで、髪も服装も、直ぐにでも出かけられる状態だ。
「午後からだけど、いろいろ用意とかしたいから。」
「寝ときゃいいのに。」
きっと美咲に悪意はないのだろうが、いつも彼女は少しだけとげのある言葉遣いをする。
中学の頃はそれでかなり喧嘩をしたものだが、今ではもう慣れたので何も言わない。
「ご馳走様でした。」
丁度、祐樹は朝食を食べ終わったので、挨拶だけして、スマホを見始める。
中学校の同級生からラインがきていた。
その中には、祐樹と仲の良かった、森田望や、小林海斗などもいた。が、残念なことに彼らとは高校が別である。さして話すこともなかったので、彼らに簡単に返事だけしてから、
「ちょっと外の空気吸ってくる。」
とだけ言い残して、玄関を出た。
うららかな陽気が彼を包んだ。見上げれば、群青の空が広がっていた。快晴だ。
――不安なんて、吹き飛ぶようだ。
普段であれば、まだ少し肌寒さの残るであろう四月の初めに、なんという暖かさであろうか。
ニュースのキャスターが、暖冬だったので、といっていたのを思い出した。
地球温暖化も、時には優しさを見せる――
「ぶぁっくしょい。」
盛大にくしゃみをしてしまった。
花粉がひどい。
誰かに聞かれはしなかったかと、赤面しながら玄関を開けると、そこにはもう仕度を済ませた美咲がいた。
もう朝食を済ませたのだろうか。
「じゃ、お姉ちゃん行ってくるから。入学式失敗しないようにね。」
「うん。じゃあね、いってらっしゃい。」
美咲は高校三年生だ。高校三年生というものが、一体どんなものなのかは知らないが、
彼女はいつも生き生きとしている。
美咲と入れ違いで家に入ると、祐樹はすぐに自分の部屋に入って、椅子に腰かけた。
群青の空が、目に焼き付いている。
群青は、彼にとっての春だった。彼にとって、春とは、総てのスタートだった。
緊張する。
そう思いながら、祐樹は教室の扉を開けた。
教室内では、強張った雰囲気の中で、数人が一つのグループを形成して話し合っていた。
教室の入り口に、席が書かれた紙が張ってあったので、それに従い、自分の席に向かう。
廊下側から二列目の、一番前の席だ。
自分の左側の席は未だ空席であったが、右隣の席には、もうすでに、一人の女子が座って赤い本を読んでいた。
ので、話しかけるべく、その子の机に貼ってあった、名前の書かれたシールを見た。
――五十嵐日向。
「五十嵐さん、これからよろしくね。」
強張りながらも、そう言って話しかけると、斎藤は不思議そうな顔をしてから、机の上に視線を落として、合点がいったように、今度は祐樹の机を見て、
「うん。木下君。でも、私のことは日向でいいよ。」
と言った。
「なら、俺のことも、祐樹でいいよ。」
そんな会話を交わすことに成功した二人ではあったが、それ以上会話が弾むこともなく、
日向の視線はまた手元の本に戻ってしまった。
それに応じて、裕樹の視線も自分の席の上へ戻る。来た時から、机の上には生徒手帳が置いてあった。その他にも、生徒会が作製したらしい赤い冊子が置いてある。どうやら日向が読んでいた本はこの冊子だったようである。
祐樹は教室内を見まわした。
自分の真後ろの席には、男子生徒――木村利貴というらしい――が座っていたが、
彼は周辺の男子とすでに話していた。
教室の窓側では、女子四人が固まってなにやら話している。
ほかにも、ちらほらと、同性のペアが出来上がっていっているようで、祐樹は焦りを感じた。
――何故、この子はこんなにも落ち着いていられるのか...
そう思いながら日向を気にしていると、空席だった左隣の席に、バッグを下した男子生徒がいた。
バッグには、かつて読んだことのある、なろう小説のキャラクターのキーホルダーがあった。
――名前を見るに、佐々木智也君...
佐々木が腰を下ろしたので、勇気をもって話しかけた。
「ねえ、佐々木君、なろう読むの。」
「え、ああ、うん、アニメのが好きだけど、なろうも読むよ。」
「まじ、何が好き...
などと話していると、教室の前のドアがガラリと開いて、先生と思われる男性が入ってきた。
頭髪には白髪が混じっていて、身長は祐樹と同じくらいで、170cm前半。体つきはがっしりとしていて、年齢は五十代ほどの見た目だ。
「はい、ひとまずみんな席ついてー。」
先生が教壇に立ってそう言うと、さっきまでちらほらと会話の生じていた教室が、一瞬で静かになった。
「はい、えー、本日より君たちの、担任を務めます、森合雄一です。よろしく。担当は数学です。私もこの高校の卒業生で...」
森合と名乗った先生は、そう言って自己紹介と、入学式の諸注意の話を始めた。
対して裕樹は、担任の性格を見極めるべく、観察することにした。
まず彼はハキハキとした話し方をする人である。顔を上げて目を開いて生徒一人一人を見て話す、非常に朗らかな調子の先生だ。きっと生徒にも好かれるであろう。
後は、分からない。
見極めてやろうと意気込んだ裕樹ではあったが、目の前にした男から得られる情報が余りに少ないことに今更にして気付き、内心小さな歯痒さを覚えながら、結局彼はそれ以上の観察を已めた。思い通りに行かず、全く不愉快である。
それを不愉快と感じる程には、裕樹は自分を過大評価していた。が、当人の方は、それを過大評価と認めることの内心の恥辱を恐れていたので、その問題に気付いていながら、自覚はせずにいた。
「入場できます。」
ふと教室の入り口から顔を覗かせて、一人の見知らぬ先生がそう言った。
「オッケー。入学式の入場準備整ったみたいだから、みんな出席番号順に一列で出てきて。」
どうやら今の自己紹介云々の話は待ち時間を潰す為のものだったらしい。
「じゃあ出発するから。」
森合はそう言って教室を出ようとした。しかしそこで、何かに思い至った様に足を止めた。
「あ、そうだ。」
そう呟くと、彼は振り返り、踵を上げて背を伸ばして言った。
「一個だけ言い忘れてた。みんな、校歌歌うことになるから、さっき配った生徒手帳に書いてある歌詞みてね。」
突然にそう言われたので、祐樹は慌てて生徒手帳をポケットへ忍ばせ、一つ前の出席番号の人の後ろに着いて、教室を出た。
入場が始まる。
一組から順に体育館に吸い込まれて行くのを眺めている中、祐樹は、緊張とは違った感情―焦りを感じていた。
友達は作れるのだろうか。孤立しないだろうか、という不安が渦を巻き、次第に焦燥へと変化しているのだ。そして焦りは少しずつ、言葉では捉えがたい倦怠と煩悶に変わっていく。しかし、焦っても仕方が無いとは気づいたので、一先ずは目の前の入学式をきっちりと済ませることに決めた。
出席番号一番の五十嵐が入場する。直ぐに自分の番だ、と理解した祐樹は、唐突に緊張をし始めた。ついさっきまでの焦燥がどこへやらと去り、代わりに緊張がその存在を主張する。
ついに祐樹が入場する番となり、彼は体育館へと足を踏み入れた。中に入ると、中学校の時とは比べ物にならない大勢の保護者達の姿が目に映った。
胸を張って真っ直ぐに歩こう、と思ったが、脚が安定しない。多分緊張のせいだろうと思った。
入学式の入場は、卒業式と比べて歩くのが非常に速い。学校生活の終わりと始まりで何故こんなにも違うのか、と疑問に思った。
自分の席の前に立ち、先生の合図で一斉に座る。練習こそしていないが、息はぴったりと合っている。多分各々、中学校で練習した為だろう。
教頭先生が開式を宣言し、国家を斉唱した後、校長先生が長い長い式辞を述べる。長くはあったが、やはり高校には望んで努力の上に入学したとあって、中学校の入学式とは違い、真面目に話を聴くことが自然とできた。
その後は来賓の方々の祝辞を聴き、校歌を歌って、閉式の宣言が行われた。
閉式の後は、高校生活での注意事項等を聞かされ、しばらくしてから退場となった。
教室に戻ってくると、祐樹と佐々木は、また会話を始めた。
先生は未だ戻ってきていないので、教室の至る所で会話が生まれていた。
しばらくして、裕樹達が、なろう小説の話に始まり、普段やっているゲームの話まで話していると、教室のドアが開き、森合が入ってきた。
「はーいみなさん。まずはお疲れ様でした。」
相変わらず大きな声である。しかし聴き取り易く、力の籠もった声質だ。
「それじゃあね、まずは今日提出のプリントから集めます。」
そう言って、提出物の提出が始まった。
1番後ろの列の生徒が、後ろから順にプリントを回収していく。
少し待つと、見知らぬ、しかし直に正真正銘のクラス『メイト』となるであろう同級生がやってきて、プリントを回収して行く。
クラスメイトでありながら、会釈を欠かさずに丁寧にプリントを渡す自分に、果してこの距離感で良いのだろうか、という疑問が湧いた。が、次にまたプリントを回収が後ろから集められているときにさりげなく見たところ、クラスメイトには五十嵐も丁寧に接していた。ので俺は小さく安堵した。
同時に、裕樹の心中にはこの距離は縮まるのだろうかという疑問も降って湧いていたが、その疑問は意識的に気にしないことにした。
「はい、さよなら。」
提出物の回収が終わると、森合は明日の連絡事項だけを伝えて、ホームルームを閉じた。
即座に、教室ががやがやとして、みんなが帰り支度を始める。
裕樹はさっさと帰り支度を済ませると、五十嵐と佐々木に「また明日」とだけ言って教室を出た。
昇降口を出ると、母親が待っていた。
「ホームルーム長かったわね。」
「プリントの回収が長かったんだ。」
「そう」
二人はそう言って、昼間来た道を歩いて帰った。
十数分程歩いたところで、自宅に着いた。
母はさっさと鍵を開けて家に這入っていってしまった。
その後を追って玄関をくぐろうとした矢先、ふと、祐樹は、開いたドアの前で振り返って、空を仰いだ。
斜陽に照らされて、空が薄く黄色がかっていた。
ピンクが混じった黄色で、これを聴色というのか、と、祐樹は思い出した。
そこには、朝見た群青は無く、ただ、終わりを知らせる聴色が、空の半分を染め上げているだけであった――
あとがき
この作品って、リアルの時事問題とかを織り込んで、現在進行形な感じで進めて行く積りなんですよ。ただ、そこに昨今のコロナ問題が直撃しまして...流石に主人公が不要不急の外出を自粛してしまっては小説が成り立たないので、コロナが無かった世界線で書くことに致しました。コロナいない!ひゃっはー!
あと、純先進国出身人ってのは造語です。適した言葉がわからなかったもので。多分、私は勝手な造語を使いがちになると思うので、もしそういう単語が出てきたら、文字通りに、意味を考えてください。
ボキャ貧でごめんなさい。伊東でした。
一回コロナありバージョンのプロット書いたんですがね...上手く行かなかったので諦め。