人狩りの街
愛するセオ。
わたしはいかなる罪もおかしてません。
赤児のように潔白でありながら、それを証明することもできず、みずからの愚かな自白によって死んでゆきます。
うその自白によって。
ああ、セオ。この姿を見たら、あなたはきっと憐れんでくださる。わたしの字を見てください。わたしは指をつぶされました。体じゅう、つぶされました。それでいながら、わたしは唾をかけられるべき女です。
異端審問官のベルローザさまは、わたしが魔女だという事実無根の自白を強要します。そればかりでなく、仲間の名前を明かすようせまります。わたしは無実です。魔女の集会など近づいたこともありません。どうして知りもしない魔女、あるいは魔術師の名前を口にできるでしょう。
ベルローザさまは、わたしにある名前をいわせたがっていました。
拷問具をちらつかせて、その名前をしゃべるようそそのかすのです。
あの方が聞き出そうとしていた名前──それはあなたのことなのです!
セオ、わたしを罵ってください、呪ってください!
わたしはもう、耐えられません。はやく処刑してもらうために、わたしは明日、あなたの名前をいうつもりなのです。うそをつかないと、あの人たちはやめないのです。拷問をやめないのです。
「疑いはきっと晴れる」そういってくれた、あなたの言葉を糧にがんばってきました。もう駄目です。わたしは火あぶりにされるでしょう。どうかあなたは逃げて。この手紙はわたしに同情的な獄吏にとどけてもらうつもりです。これを読んだら、一刻もはやく、この街から離れてください。
気をつけて、セオ。あなたの無事をいのります。
愛をこめて ルシアナ
川のほとりの広場だった。
柱にしばられた娘の悽愴さに打たれ、群集は声もない。
「わたしは、わたしの自白を撤回します! みんなうそです」
喉も裂けんばかりの、娘の訴えだ。「つくりごとです! 罪もなく投獄され、罪もなく拷問されました!」
娘の髪の毛は剃り落とされて一本もない。魔女が身体のどこかにもつという特別なアザをさがすため、陰毛まで剃られた。顔のうえ半分をおおう火傷のあと、頬にも焼けたペンチで肉をちぎられたあとがある。手足の指は「指締め」でつぶされ、爪は一枚も残っていなかった。着せられたボロからのびる太ももは紫色で、膝の骨は金槌で砕かれている。くるぶしのあたりは、肉が腐って真っ黒だった。
ずたずたに引き裂かれた肉塊となりながらも、血を吐くようにさけぶ彼女の瞳に、崇高ともいえる光がおびるのはなぜだろう、とアルナルドは思った。
目をつぶされていないから、ベルローザならそう答えるだろう。
「ほんとうに、生きながら焼くのですか?」
アルナルドは、異端審問官のよこ顔を見つめた。
頬の薄いよこ顔だ。顎ヒゲが反っていて三日月のようだ。
「そうするしかあるまい」審問官ベルローザが、前をむいたまま答える。「絞首ののち、死体を焼く慈悲をあたえるつもりだったが、あのとおり、自白を撤回した。火あぶりだ。苦しむだろうがな」
「あの娘は、十六の子供です」
ベルローザの返事はなかった。軽蔑的な表情がアルナルドにむけられただけで。
ベルローザの射るような視線は、相手をたじろがせ、恥じ入らせるだけではない。相手を震え上がらせる冷たさがある。アルナルドは知らず知らずのうちにうつむいた。かれは若い医師で、拷問の立ち会いをつとめた。苛烈すぎる拷問を目の当たりにした。職責を行使しなかったわけではない。やりすぎだ、と止めたのだ。医学的見地から拷問の差し止めを命じた。しかしアルナルドは、そのたびに異端審問官に説得された。その時は、冷ややかな視線に負けたのではない。
むしろ熱さに負けた。ベルローザは、ルシアナに強く入れこんでいた。
『彼女を救いたい!』ふだん冷ややかなベルローザが、涙目で叫ぶ。『彼女は戦っている! どうか邪魔してくれるな! 彼女は悪魔に勝とうとしている!』
アルナルドはその激しさに呑まれたのだ。だまされていた。凄惨な拷問のがおこなわれているこの場は、ひとりの少女が自身から悪魔を追い出そうとしている戦いの現場なのだと思いこまされていた。
罪状の読み上げが終わり、ベルローザが着火の指示をくだした。
娘のまわりに置かれた薪束が、音を立てて炎を吹きあげる。
悲鳴がこだました。
裁判官のノンスターが、肥満体をよちよち揺らしてちかづいてきた。
「ようやく、だな」頬肉まで肥えて揺れている。
「手こずりました」ベルローザは、裁判官に目もくれない。
「強情な娘だったらしいな。異端を甘く見るのは禁物だぞ、審問官。セオ・メイザーが逐電したというじゃないか。せっかくやつの名前を吐かせたのに、大丈夫かね?」
「かならず捕らえます」
異端審問官は猛火と煙をながめて、目を細めている。鉄を思わせる面貌を、黄色いあかりが照らしていた。
「セオ・メイザーは先祖伝来の土地をもっている。悪くない土地をな」
ノンスターの肉厚な顔がゆがんだ。処刑された魔女や魔術師の財産は、教会と領主とで折半される。ノンスターは魔女狩りで私財をたくわえた成あがり者だった。
ノンスターは声を殺すように笑った。
分厚い口唇をふるわせるノンスターが、目もあてられないほど醜く見え、アルナルドは強烈な無力感にとらわれた。
「どうか、あわれみを!」娘の声が響く。「ひと思いに、どうか! ああ、どうか、あ──」
ルシアナ・エイメリはこうして火刑に処された。悪魔を信仰した罪、魔女集会に参加した罪、淫魔と交わった罪、嬰児の肉を喰らった罪、その他もろもろの罪──そして無罪を訴えた罪。灰はのこらず川に流された。
処刑から三ヶ月がすぎると──春になった。
アルナルドは丸テーブルを中庭へはこんだ。空が青く陽光がまぶしかった。芽吹いた緑がはじけて、あちこちに飛び散ったように見える。足元をてんとう虫が歩いていくし、蜂も羽音を残して花壇へ飛んでいく。春の温気がむんむんとせまい中庭にたちこめていた。やがて木々が花をつける。花びらがふりそそぐころには、このささやかな庭は葉陰で鬱蒼とするだろう。
テーブルに羊皮紙をひろげると、アルナルドは羽根ペンをインクにつけた。
かれは初めての著述に着手したばかりだった。知りあいの博士に本を書くようすすめられたのだ。衛生に関する内容だ。白いテーブルに落ちた枝葉の影が、風をうけておだやかに揺れていた。
執筆に没頭しようとするころ、妻が茶をもってきた。アルナルドは二十六歳だが、妻のオードはまだ十八歳だ。婚約したのは彼女が十三歳のときで、アルナルドが大学を卒業するまで結婚を待ったのである。
羽根ペンをインク壷にほうりこみ、アルナルドはオードの腹を抱きしめた。
「なぁに?」オードは銅の杯をテーブルに置いた。
「きみにじゃない、この子に用があるんだ」といって、ふくらんだ腹を撫でる。
「馬鹿ね」オードは笑った。「今のうちにわたしを大事にしないと、後があるのよ」
アルナルドも笑った。「蹴るかい?」
「ええ」
「今はきみにしか要求しないけど、生まれてきたらきっと、ぼくらにありとあらゆる要求をぶつけてくる」
「楽しみでしょ?」
「ああ」
「もう、ほうっておいても生まれる」
「ぼくがついてる。ぼくは医者だ」
「別に怖がってないわ」
「ぜったい男の子だ」
「あきれる。どうしてそう思うの?」
オードの手が、アルナルドの後頭部を愛撫した。アルナルドは目を閉じた。
「名前が決まってる。ルーサー」
「女の子ならルーシー?」
「悪くないな。じゃあ、女の子でもいいよ。きみとこの子さえ無事なら」
家のほうから、騒がしい声が聞こえた。アルナルドが顔をあげると、小間使いの娘が中庭に駆けこんできた。
「アルナルドさま、お役人のかたが先生をお呼びです」
中庭から家のなかへ入り、往診用の鞄とマント、手袋、帽子をとり、玄関につくまでにアルナルドは出かける準備をととのえた。往来に馬車がとめてある。
病人は、街の刑吏だった。到着すると、外に出て待っていた老婆がアルナルドの服をつかんだ。
「今朝から寝こんでおります、昼すぎに苦しみだしたんです」
「落ち着いて。息子さんのところへ案内してください」
奥の部屋へ案内され、三十前後の男が寝台ではげしく呼吸しているのを確認した。アルナルドは男のひたいに手をあてた。冷たい。男が目をあけた。
「先生。あたしです、おぼえておいでで?」
「ええ、呼吸が苦しい?」
「あたしゃ、もう駄目です。死にます。でもよかった。先生がきてくれて。警告できますからね。おふくろに話しても、駄目なんです。泣くばっかりで」
「もうしゃべらないで。汗をぬぐって身体を温めます」
男の息はふいごのようだ。アルナルドは鞄に手をかけた。すると、布団のなかから、病人の冷たいの手がアルナルドの腕をつかんだ。
「無駄ですよ、先生。あたしゃ死ぬんで。それより、おぼえてますか、ルシアナ・エイメリの、処刑を?」
わずか三月まえのことだ。おぼえていた。この男、バイル・トーレンを見たのも処刑場がはじめてだ。あの十六歳の魔女に火をかけたのはバイルだ。
「あたしゃ、呪われたんでさ。呪い殺されるんです」
「気をたしかに。弱気になれば病気に負ける」
「呪いです、先生!」
「興奮しては駄目だ。きみは仕事をしただけだ。魔女を火刑に処すのは──」
「魔女? ちがい、ますぜ。先生、魔術師です。ルシアナ・エイメリの、恋人がいたでしょう? 裁判を恐れて、逃亡した」
「セオ・メイザー?」
「そう、やつでさ。やつが、この街にもどって、きたんで。先生、よくお聞きなさいよ、セオ、セオに、気をつけるんです」
「きみは……」
バイル・トーレンは異常な力でアルナルドのえり首をつかんだ。
「聞くんだ、若造!」目を剥いて刑吏は怒鳴った。「セオ・メイザーは本物だ! やつは、本当の魔術師なんだ! おお!」
バイルは、まなじりが裂けるほどに眼を見開き、戸口のほうを凝視している。
「やつがきた! そこに! そこに!」
一陣の風が家のなかを吹き抜けた。ひとりでに開いた扉が、ちょうつがいをきしませた。
突如、激しい破裂音がした。地震かと思われた。棚のうえの調理具が、踊りだすような不自然な跳ねかたで床に落ち、壁に立てかけられたホウキや農機具のたぐいがばらばらと倒れる。とりわけ鈍い音を、アルナルドは耳もとで聞いたような気がした。異変はすぐにやんだ。だれひとり動けなかった。
不意にえり首をしめていた力がぬけ、バイルの手がぼとりと落ちた。
アルナルドはあわてて呼びかけ、頬をたたき、反応がないのを確かめると、脈と呼吸をしらべた。蘇生をこころみて、しばらく無駄な努力をつづけた。
老母の嗚咽がひびく建物のなかでアルナルドは、あまりのあっけなさに、呆然とした。
「即死でしたよ。バイル・トーレンは、不可解ですが……首の骨を折られてました」
「病死といったではないか?」
ベルローザの冷ややかな視線は、以前にもまして鋭かった。
バイル・トーレンの死因を確認してすぐに、アルナルドは異端審問院をたずねたのである。刑吏の、死にぎわの言葉が気になっていた。
「最初は病死だと思いました。けれど遺体を調べてわかったんです。わたしは、首の骨の折れる音を聞いたような気がします……あの状況下ではありえないことですが」
「なにかの間違いだ」
「いいえ」感情的になるつもりはないのに、声を荒げていた。「それより、どうなってるんです? セオ・メイザーはまだ見つかりませんか? バイルは、セオがこの街に帰ってきたといっていました」
「鋭意捜索中だよ。きみは、バイルの口走った呪いのことを心配しているのか? かれが、死ぬまぎわにおかしな妄想にとり憑かれたということもありうる」
「ええ、そうですね」
「いずれにせよ、やつは必ず見つけだす。帰りたまえ。わたしはいそがしい」
異端審問院を出ると、外は夕日に燃えて真っ赤だった。
釈然としなかった。ベルローザは事態に正しく対処していない、と感じた。それでいて、なにが正解かアルナルドは見当もついていない。まるで暗闇だ。不安だった。これで終わりではない、という予感があった。
家では、オードが鴨肉と色とりどりのサラダを用意していた。
「おそかったのね」やさしい微笑をうかべ、オードが葡萄酒をつぐ。
バイル・トーレンのことにふれないのは、かれの死をもうどこかで聞いたからだろう。
「異端審問院によったんだ。あそこは嫌いだな。できれば二度といきたくない」
「お役目ですもの。病人があったら、どうしてもいくんですわ」
「いや、いかない。あの件は」アルナルドはルシアナ・エイメリの処刑を思い出していった。「もうこれで終わりにしたいよ。オード、引っ越そうか? この街を出るんだ」
「どこへいくの?」オードの表情に不安の影が走った。
どこへいくんだろう。異端審問はどこへいってもある。
「わからないな。とにかく、魔女審問とはもうかかわりたくないんだ」
アルナルドの願いは、かなわなかった。
二日後の夜中、アルナルドは異端審問院からよびだしを受けた。
「むごい、これは……」
黒いローブをまとった、ふたつの死体が地下室に吊るされていた。
ここは拷問室で、ふたりの職場だった。ふたりは拷問吏で、ふたごの兄弟だ。
奇怪な一室だった。あかりは書記がつかう小机のの蝋燭だけだ。壁一面に重そうな鉄の棒や、のこぎりや、湾曲した刃物や、包丁がかけられている。磨かれた金属に灯が映じている。指締めのワクは小箱に整理され、魔女の華奢な身体をひっぱる綱が、束になっている。血しぶきが茶色く変色して壁にしみついている。ハシゴや、鉄環や、かせ、針、ネジ、くさり、黒革、鞭、そういったものが整然と、飾るみたいに置かれてあった。
ふたごの拷問吏は、天井にとりつけられた滑車で吊るされていた。肉を貫通する針金で、両手の手のひらは醜く縫われ、足首には重りがぶらさがっていた。まぶたが閉じないように、眼球に無数の針が刺さっている。しらべてわかったことだが、ふたごの関節はバラバラに砕けていた。
「ルシアナ・エイメリを担当した拷問吏ですね」
官憲が死体をおろすのを見つめながら、アルナルドはいった。
「だったら、なんだ?」ベルローザの目に怒りがあった。
アルナルドはまっすぐにベルローザを見返した。
「ひどい殺されかたです。そうでしょう?」
「自殺だ。この部屋は、内側から鍵がかかっていた。見てのとおりの地下室だ、窓はない。外から入ってこられる者はなかった」
「これが、自殺ですって?」
「兄弟で殺しあったのかもしれん」
アルナルドはみじかく笑って、首をふった。
「いくらなんでも、それはない」
「部屋の鍵はわれわれが発見するまで、密室に置かれてあった。犯人がいたとしたら、どうやって外に出る? 合理的な説明ができるならうかがおう」
「合理性じゃ説明できない。そうでしょう?」
「わからんな。ご教示いただきたいね」
階段をあわてて降りる足音を聞いて、アルナルドは扉へ目をやった。
裁判官のノンスターが飛びこんできた。ノンスターは拷問吏の酸鼻な死体に気づくと、口を手でおおい、訴えるような目でベルローザを見た。快楽的な細い目をいっぱいに開き、血色のよかった顔色も、いまは土気色だ。
「セオ・メイザーはどうした?」ノンスターはベルローザにつめよった。
「なんです?」
「これは、やつの仕業だ」
「裁判官」ベルローザはため息をついて、天をあおいだ。
「この部屋を出よう。別の部屋に移動しよう」
「その、手にもっているのはなんです?」
「いいから、べつの部屋を用意しろ! だれも近づけちゃならん! きみもこい、アルナルド師。きみも無関係じゃない」
おびえきったノンスターの要求にしたがい、ベルローザは一階の小部屋に裁判官を案内した。アルナルドもふたりについていく。三人が小部屋にはいると、ノンスターは把手にくさりを巻き、鍵をかけ、扉を開かないのをしつこく確認した。
テーブルと椅子がある。三人は座った。ベルローザが燭台をテーブルに置くと、黄色いあかりが男たちの顔を下からあぶりだした。
巨漢のノンスターが震える手で紙片をテーブルにひろげる。
「真夜中ごろ、家の庭先で物音を聞いて……様子を見にいくとこの手紙が落ちていた」
やぁ、裁判官どの。
刑吏と、拷問吏のことは聞いたかい? そろそろ、おれのやろうとしていることを、信じてくれるんじゃないかな。
おれは、ルシアナをあんな目にあわせたやつらを許さない。ルシアナの死にかかわった連中をひとりひとり片づけていくつもりだ。 全員。ひとりも漏らさない。異端審問官も、尋問官も、書記も、監視役の医者も、それだけじゃない、ルシアナの無罪を知りながら口をつぐんだ連中もだ。
裁判官、つぎはあんただよ。けっして気をぬくんじゃないぜ。
いつでも殺せる。死体が足らない。まだまだ殺す。
友人、セオ
「わしゃ、どうしたらいい!」ノンスターが口唇を震わせる。
「セオ・メイザーを捕らえるまでです」
「し、しかし」
アルナルドも動揺をかくせなかった。監視役の医者……自分のことだ。
ベルローザの鉄色の瞳には、動じる気配もなかった。
「安心なさい、裁判官。かならずやつを捕える」
「信じられるか! 今までなにをしていた!」
「捜索中です。まもなく見つかるでしょう」
「果たしてそうでしょうか?」アルナルドはいった。
「かならず捕えるとわたしはいった」
「かれは魔術師ですよ? 姿を消すくらいなんでもないんじゃないですか? そもそも、この街にいるとは限らない。とおくからでも呪いはかけられる」
「馬鹿げてる。だれかがやつをかくまっている。怪しい人物を拷問にかけて、居場所を吐かせればいい」
「悠長な! 拷問吏は死んだぞ。いいか、よく聞け。つぎはわたしだと……」
ノンスターは続けられなかった。蝋燭の火が消えたのだ。小部屋は漆黒に沈んだ。アルナルドはあえいだ。闇に目の前をふさがれ、なにも見えない。戦慄が走りぬける。得体の知れぬ気配が充満した。なにかがいる、なにかが動いている。闇のなかを! ぬるぬるしたものがアルナルドの顔に飛び散り、かれは悲鳴をあげた。
つぎの瞬間、火の気もないのに蝋燭に炎がたちあがった。
「おお、神よ」ベルローザがつぶやく。
灯火が照らし出した小部屋の内部は、床といわず壁といわず、天井にまで達した血しぶきで、真っ黒だった。アルナルド自身、血まみれだ。かれは混乱した。
眼前でノンスターが滝のように流血している。裁判官は椅子に腰かけたまま、頭から股ぐらまで、まっぶたつに切断されていた。笑顔に見える肉厚な顔が左右に別れ、ノンスターの肉塊は椅子からずり落ちた。
無我夢中で家にたどりつくと、燭台を手にしたオードがアルナルドを出迎えた。
彼女は青ざめた顔で、「まぁ」といった。
自分が血だらけなのを忘れ、アルナルドは妻を抱きしめた。何度もキスをした。
「よかった、無事でよかった」
「しっかりして! どうなさったの?」
アルナルドは鳥のように周囲に目をうつした。この家のなかでさえ、燭台の光がとどかない暗闇がある。
「オード、戸締まりを確認しなさい」
「え?」
「家じゅうの戸締まりを確認するんだ」
「アルナルド、血が……」
「いいんだ。はやくしろ」
「あなた、怪我なさったの?」
妻から離れ、アルナルドは自分で玄関の鍵をかけた。扉が開かないのをたしかめながら、ノンスターがおなじことをして、けっきょく死んだのを思い出した。
血を洗い流してから床にはいったが、その夜は一睡もできなかった。
翌日も眠気はおとずれず、アルナルドは診察室をせかせか歩きまわった。朝食はたべていない。昼まえになって、小間使いがドアをあけた。
「先生、頭痛の患者さんがお見えです」
「きょうは休診だ」
「ええ……でも……」
「帰ってもらいなさい」
小間使いの娘のうしろから、老人が顔をのぞかせた。顔見知りの老人だ。アルナルドに手をふった。
「やぁ、先生。いつもの片頭痛だと思うんだが……」
「出ていけ!」激怒に駆られてアルナルドはわめいた。「なにを考えてる! この家にだれもいれるな! 帰れ! 出ていってくれ!」
小間使いと老人は、打たれたように立ちすくんだ。アルナルドは乱暴にふたりを押しのけ、廊下に出た。お腹をかかえたオードが廊下にいた。
「アルナルド……」
「だれも家にいれるな。おまえも家から出ちゃいかん。いいな」
「どこへいくの?」
アルナルドは異端審問院へむかった。
ベルローザの執務室は監獄塔の最上階にある。螺旋階段をのぼり、ノックなしで扉をあけると、ベルローザは、白い布を胸にたらし、銀食器で昼食をたべていた。
大股でテーブルにちかづき、アルナルドは料理の皿をぜんぶはらいのけた。
「よく食べられるな!」
ベルローザが口のなかのものをゆっくり噛んで、呑みこんだ。
「憔悴したな。ひどい顔だ」
「人が死んだんだぞ、目の前で、つい昨夜のことだ!」
「あの件は現在調査中だ。かならず犯人を挙げる。きみの心配などいらん」
「犯人? 犯人だって……セオ・メイザーが殺したんだ!」
「どうやって? ノンスターが鍵をかけるのを見たろう? 外からは誰も入ってこられなかった。つまり、なかにいたわたしか、きみが怪しいというわけだがね」灰色の瞳が光った。「ことわっておくが、わたしではない。ノンスターを殺す理由などないからな」
「あなたは、わたしを疑ってるのか?」アルナルドは頭をふった。「馬鹿な! いや……そんなことはどうでもいい。どうだっていいんだ。メイザーがくるぞ。つぎの標的はあなたかもしれない」
「かれが、どうやってわたしを殺す?」
「魔法で! 呪いで! 決まってるだろ! ノンスターの死にざまを見たはずだ!」
鋼鉄のように厳格だった異端審問官の顔が、おだやかにやわらいだ。はじめて見せる聖職者らしい、憐れみに満ちた表情だった。その微笑はアルナルドを凍りつかせた。
「馬鹿馬鹿しいことを。魔術だとか、呪いだとか、そんなものは迷信だ」
「なんだと?」
「魔法などというものはない。ノンスターの死も、拷問吏の死も、なにかちゃんとした説明がつけられるはずだ。呪いか。本気で信じていたのか?」
アルナルドはとまどった。「……魔法がないなら、あなたが処刑した魔女はなんなんだ?」
「魔女?」からかうような口調でベルローザはいった。「魔女などこの世にいない。実在するとしたら、民衆の無知と恐怖心のなかだけだ。あれは、運が悪いだけの女たちだよ」
「あなたが魔女だと断定したから、彼女たちは死ななくてはならなかったんだぞ?」アルナルドは身震いした。「無実のひとびとを殺したのか? そういうのか?」
「驚いた。無実の人間などというものまで信じてるのか? かわいいやつだ」
「なにを……」
「殺したかったわけじゃない。世の中がわたしにそうさせたのさ……まぁ、落ち着け。一杯飲め」
「つぎはあなただぞ。きっとそうだ!」アルナルドは叫んだ。「あなたは現実を見ていない。魔術はある。裁判官は魔術で殺された。セオ・メイザーによって。この運命からは、あなただって逃れられないはずだ!」
「そうはならんよ。なるほど、わたしは有罪だ。死んで当然かもしれん。だが、そうはならない。罪を犯してない人間がどこにいる? わたしとかれらの違いはな、わたしだけが必ず生きのびるということだ。死んだ者を悪くいいたくないが」
ベルローザはえり元から垂らした白い布を取り、丁寧にたたんだ。
「神だの魔女だの、たわ言を信じるまぬけなら、生きていたって仕方あるまい」
「悪党め……」
アルナルドは後ずさり、執務室を出た。なかば呆然と階段を降りはじめたとき、背後からベルローザの声がした。
「きみはどうなんだ? 異端審問は茶番だと思っていなかったか?」
ああ、思っていたさ。たしかに。だが、いまは違う。いまは信じられる。あの悪党は、罪のない女性を数百と殺しておいて、処刑すべきひとりの危険な男を野放しにしていた。ベルローザに呪いあれ! やつこそ死ぬがいい!
アルナルドは痛むような絶望ともに歩き出した。痛みを与えているのは自己嫌悪かもしれなかった。往来には、なにも知らない人たちが行き来していた。アルナルドだけが魔界にとらわれている。まとわりつくような春風にへだてられ、かれの世界だけは、常識が通用しなかった。
「どこへいってらしたの?」
家に帰ると、オードが駆けよってきた。
かつて一度も、妻にこんな不安そうな顔をさせたことはない。なにかいってやらなくては、と思うのだが、口ごもるばかりだった。
「あなたに、お手紙が……」
「だれからだ!」
アルナルドはオードが手に持っているものをひったくった。
「知りません。ついさっき、若い人がきて、それを渡してくれって」
「見たのか? かれを?」
「だれ?」
「手紙をもってきた男をだ」
「ええ、背の高くて、気味の悪い」
「それで?」
「よく見なかったの。あなた、どうなさったの? ねぇ! あなた!」
アルナルドは診察室に入り、オードをしめだした。
やぁ、先生。
わかるかい? おれだよ。
あんたの順番がきたぜ。
どんなふうに殺されたい? おだやかな死を願っても、そりゃ無理だがね。
あんたは、ひとの命を救う医者だろう? ルシアナが悲鳴をあげてたとき、なにをしてたんだい?
彼女をたすけてくれる人間はどこにもいなかった。そうだろ?
あんたを、たすける人間がいるといいな。すぐいくよ。
セオ
セオ・メイザーをかならず捕らえる、と断言したベルローザの決意は、本物らしかった。街の酒場や市場など、目立つところに張り紙がはられた。
『セオ・メイザーに告ぐ。
至急出頭すべし。出頭に応じなければ、そなたと縁故のある者を一日につき一人ずつ処刑するものである。そなたが自分の足で異端審問院をおとずれるまで、処刑はつづくであろう。
異端審問院』
この、狂人のたわごとのような発布が、本当に実行された。
張り紙がはられたその日の日暮れである。
ひとりの男の悲鳴が刑場にこだました。
絞首刑をうけたのは、セオに二階の空き部屋を貸していた肉屋の店主だった。
魔術師と知りながら部屋を貸していた『間接的異端』という罪である。
アルナルドはその場にいなかったが、小間使いが仕入れてくる街の噂でだいたいのことを知った。この時勢に、だれが魔術師と知って部屋など貸すだろう。肉屋はなにも知らなかった。かれは無実だ。
ベルローザは威厳ある派手な装束に身をつつみ、冷然と肉屋の苦悶を見ていただろう。魔中の大王のように刑場を掌握し、粛々と刑を進行したに違いない。
翌日の夕暮れには、店主の女房が吊るされた。
ベルローザはひるまない。何人でも殺すつもりだ。
見せしめに処刑する人物にはことかかなかった。セオ・メイザーの仕事は書記官だ。文字の読めないひとのために、書類の整理や経理をやる。さまざまな店に出入りしていた。ルシアナ・エイメリは、そうした商店の娘だ。ほかの商店でもセオは、顧客と家族ぐるみでつきあっていた。
街は殺伐としだした。セオ・メイザーが呪怨で殺し、今度はベルローザがその権威を復讐にもちいる。両者とも不退転の決意でのぞんでいる。殺しあいは果てしなく続くだろう。街は血の臭いでむせかえるに違いない。
処刑がはじまってから三日後、公証人が殺された。
セオ・メイザーの知りあいであるという理由だった。
だが、その翌日はちがった。日の入りになっても処刑はおこなわれなかった。
さらに翌日。張り紙がはられてから五日が経過している。アルナルドはこの日、外に出てみる気になった。
この五日間、医者であるかれ自身が半病人のようだった。眠りについてもすぐ目が覚めた。なにかを食べても、すぐ吐いてしまう。アルナルドは寿命を削られるように感じた。
家庭にも暗雲がおとずれた。オードは身重の体でアルナルドにしがみついた。彼女は泣いていた。
「なぜなにも話してくださらないの? 教えて、なにがあったの?」
自分がもうすぐ死ぬ、とは、どうしてもいえなかった。
異端審問院をたずねてみる気になったのは、ひとつには、昨日処刑がおこなわれなかったからだ。もうひとつは、いつまでたっても自分が死なないでいたからである。ノンスターは手紙をもらってすぐに殺されたというのに。
よたよたと階段をのぼっていくと、ベルローザはいつかのように執務室にいた。
「きたか……本当にやつれたな」
そういうベルローザの頬には赤みがさしている。なにかあぶらぎった感じだった。
セオ・メイザーと関係のある商人が、処刑を恐れてベルローザに金品を送ったのではないか。満足そうな、ほくほく顔の異端審問官を見ていると、そう思わずにいられない。
「きのう、やつが出頭してきたぞ。セオ・メイザーが」
「おお……」
アルナルドは息をついた。もしや、と思わないではなかったが、その耳で聞くまで信じられなかったのだ。
「いま、地下牢にほうりこんである」
「処刑はいつに?」
「まだ先だ。すぐには殺さない。苦しめられるだけ苦しめる」
「なぜ? どうせ殺すんだろう?」
「楽に死なせたのでは意味がない」
ベルローザの顔が、もとの酷薄な表情にもどっている。
アルナルドは大きく息を吐いた。
「たのむ。できるだけ早く、やつを殺してくれ」
「なにをおびえている?」
「手紙をもらったんだ。ノンスターがもらったのと同じものを」
「死の案内状か? わからんやつだ。メイザーは地下牢に閉じこめてあるんだぞ?」
「たのむ。お願いだ」
アルナルドはうつむいた。
この鋼鉄のような男になにをいっても無駄だと知りながら。
不意に、くつくつと笑う声が聞こえた。
「いいだろう。きょうじゅうに罪状を書いて、あすにでも処刑を命じよう」
その言葉に、アルナルドは顔をあげた。意外だった。
「まったく、なんて顔だ。祝杯でもあげて眠るんだな。うまいものを食え。体を壊すぞ」
「すまない。本当に……」
不愉快な相手だが、感謝した。それどころか、友情すらおぼえた。
頬をつたった涙が床に落ちてはじめて、アルナルドは自分が泣いたことを知った。
家に帰ると、かれはオードを抱きしめた。
「すまない。オード。心配をかけた。でも、もう終わった。終わったよ」
ベルローザにいわれたとおり、酒を飲んだ。うまかった。料理もうまい。こんなにうまいのははじめてだ。当惑する妻に、かれは何度も笑いかけた。あした、すべてを話してあげようと思った。
酔っぱらいながらも、本当に眠れるかどうか不安だったが、横たわるなりアルナルドは眠りに落ちた。ひさしぶりの眠りだ。目覚めたのは翌日の昼だった。
服を着ているところへオードがはいってきた。
「ずいぶん寝てしまったな──」
「あなた、聞いて」
オードの表情にはじめて気づいた。
「いま聞いたんですけれど、異端審問院のベルローザさまが、自殺なさったそうよ。お部屋で首を吊って……」
異端審問院に人影はなかった。
アルナルドは門前でためらった。黒くかぶさる雨雲のした、異端審問院の建物は白々とたっている。
正統を守る、聖教の前線基地。地下でおこなわれた拷問の数々を見れば、ひとびとは顔をそむけるだろうか、喝采するだろうか。阿鼻叫喚の現実が、こうして街のなかに組みこまれているのが、いまでは信じられない。異端審問院はひっそりとしている。門前ではこれほど人の往来が活発だというのに。敷地内に足を踏み入れる。ここは、この世ではない、という気持ちがアルナルドをとらえた。気温まで下がったように感じられた。
前庭をとおり、玄関の扉をあけると、老人がうつぶせに倒れているのが目についた。
死んでいるのはあきらかだ。
アルナルドは道のほうを振り返った。今なら、もといた正常な世界にもどれる。だがもう遅い。死刑の判決をうけたかれは、進むしかなかった。
地下房への階段を降りると、壁にすえつけられた灯火がゆれていた。一番奥の牢獄のまえに獄吏がたおれている。牢獄の入り口は開いていた。なかは空っぽだった。
アルナルドは地下房を出て、異端審問院のなかをさまよった。
セオ・メイザーにどうしてもいっておきたいことがある。
審問院勤めの僧侶を三人ほど見た。三人とも、突然の眠気におそわれたような姿勢で死んでいた。
あらためて恐怖せずにいられなかった。セオ・メイザーは、どのようにしてか破獄したのだ。魔法を使って鍵をあけたのか、それとも獄吏をおどして鍵を開けさせたのか。晴れて牢を出たかれは、怨念をほしいままにこれだけの人数を殺し、ここを死人の館に変えてしまった──手をつかうことなく。
渡り廊下をすぎ、監獄塔にはいる。螺旋階段をのぼった。このさきにベルローザの執務室がある。薄闇のなかに扉が浮かび上がった。把手をにぎると簡単にまわる。
執務室に、ひとりの男が死体とともにいた。
「セオ・メイザー……」
「いかにも」快活な声がこたえる。
おもそうな法衣を着た、背のたかい男だ。顔は頭巾にかくれて、口しか見えない。
かれは机のうえに座っている。
窓際に首吊りの自殺体がある。その後ろ姿から見てベルローザにちがいない。
「ルシアナを見殺しにした医者だな」
「そうだ」アルナルドはいった。「きみに、どうしても会いたかった。会って、あやまりたかった」
「ほう……」
セオの口元が笑ったように見えた。
「ぼくは、自分を恥じる」アルナルドはいった。「ベルローザのいうとおりだ。ぼくは、異端審問がインチキだと知っていた。そのことで気鬱になることはあっても、すすんでなんとかしようとは思わなかった。毎日、無実のひとが処刑された。狂った世の中だと思った。そのなかで、自分だけがまともなのだと。ぼくは偽善者だった」
アルナルドは続けた。
「ルシアナ・エイメリは気の毒だった──気の毒なんて言葉じゃすまない。ほんとうに不条理な殺され方をした。ぼくは、彼女をすくえたかもしれないが、それをしなかった。心底、すまないと思う。ほんとうに──すまなかった」
緊迫した静寂がおとずれ、アルナルドの息づかいだけが荒かった。
きゅうに屋根が、ばらばらと鳴った。雨が降りはじめた。たちまち、沛然たる豪雨になった。
そのあいだ、セオ・メイザーは石像のように無言だった。
アルナルドには、かれのまとう影が大きく見えた。アルナルドはあえいだ。
「たのむ。たすけてくれ!」
くぐもった笑いごえが聞こえた。
「おれはね、アルナルド」セオがいう。「おれの魔術をつかって、最大限の恐怖と苦痛、そして意味のない突然の死を、やつらにあたえてやるつもりだった。ルシアナがそうされたようにな。あんたに他の連中のような呪いをかけなかったのは、あんたが他の連中とは違うと思ったからだ。なるほど、思った通り、心の底からあやまってくれたのは、あんただけだよ」
セオ・メイザーが机からおりた。
「おれの魂はすくわれないだろう。おれは地獄へ落ちる。魔術師だからじゃない。おれが殺しすぎたからだ。書記官に身をやつし、神秘学の哲理をきわめるつもりだったがな、もう遅い。いまのおれは悪鬼なんだ。人間じゃない。復讐のため、悪魔に魂を売ったのさ。ここまできた以上、あと何人殺してもおなじなんだよ」
セオは口唇をなめた。アルナルドのほうへ近づいてくる。アルナルドは動けなかった。
「おまえを生かしておくつもりはない」
「ぼくには妻がいる」
「おれにも妻になる女がいたよ。おまえらが殺した女がな。おまえの女房も安全じゃないぜ」
閃光がぴしゃりと窓を打ち、雷鳴が空気をふるわせて鼓膜を圧した。
稲妻に動きを封じられたその一瞬。
その一瞬をのがさない。アルナルドは豹変した。セオに飛びかかり、夢中でかれを押し倒した。暴れる魔術師を一発なぐり、かれにおおいかぶさりながら、首をしめた。
「この化け物! 思い知れ!」
セオの頭巾ははねあがり、その顔をはじめて見た。
ひたいに、魔術師が好んでもちいる紋章が入れ墨されている。異端審問官が魔女の毛を剃って探すのは、この印だ。顔は、しわくちゃだった。白髪の老人以外のなにものでもない。アルナルドはとっさに悟った。これは、ひとを呪詛し、生命力をすり減らして呪殺にふけった男の顔だ。
セオは目を見開き、また閉じた。背骨をそらして、苦悶の表情をうかべる。
枯れ木のような手でアルナルドにあらがい、口を開閉させた。
「……命をかけて……最期の呪いを……」
「なんだ!」
「……会いにいく……すぐに……」
セオがいった。口が動いている。声は出ていない、声は出ていないが──呪文をとなえている! アルナルドは恐怖に駆られたが、とりみだしはしなかった。首にかけた手に、いっそう力をこめた。
赤黒く変色した老人の顔に、微笑が走りすぎた。
アルナルドは恐慌におちいった。セオの頭を何度も床にたたきつけた。
ふたたび稲光りが執務室を照らしたとき、セオ・メイザーは死んでいた。愚かしい笑いを死に顔にはりつけて。
大きく息をつきながら、アルナルドは立ちあがった。
自分の胸に手をあてる。心臓は力強く脈打っていた。
「勝った……呪いに勝った」
口に出していうと、重圧が霧散した。緊張が解けて、体がわなわな震える。アルナルドは、セオ・メイザーのろっ骨を蹴りつけた。怒りというより、高揚感がそれをさせた。
どういう拍子かわからないが、ぎりぎりと綱の鳴る音がして、ベルローザの死体がこちらを向く。目を閉じたベルローザが、生前とおなじく沈鬱な表情をしているのがおかしかった。
「勝った! 勝ったぞ!」
こみあげる笑いが苦しく、アルナルドはその場にしゃがみこんだ。
「オード、帰ったぞ」
気分は爽快だが、体は酔っぱらったみたいだ。
家にはいり、ドアを閉めると、小間使いの娘が血相かかえて駆けてきた。
「旦那さま! 奥さまがきゅうに苦しまれて……」
「なに?」
呪い。セオの最期の微笑。あの呪いは、まさか……。
「あ、あの、でも、だいじょうぶです。産婆さんを呼びましたから」
アルナルドのおどろき方に、娘のほうがびっくりしたらしい。
アルナルドは混乱した。
「う、う、生まれるのか?」
娘が返事をするまえに、寝室のほうから産声がひびいた。
おお、神よ。赤ん坊の声にひきよせられた。暗闇のなかを手さぐりするような足取りで、アルナルドは寝室へむかった。寝室の扉が見える。ひとりでに把手がまわった。
産室から出てきたのは顔見知りの産婆だ。
「おや先生、ちょうど呼びにいくところで」産婆は濡れた手でアルナルドの背中を叩き、産室に招き入れた。「男の子ですよ」
「生まれた、生まれた……無事に?」
「元気いっぱい泣いてるじゃありませんか」産婆は、産衣につつまれた赤子を小さな寝台から抱き上げる。
「ほら先生。お父さんになったんですよ」
産婆から赤ん坊を受けとる。皮膚がふやけていて、黒髪が額に貼りついている。目を閉じていた。のけぞって泣いている。ばねを抱いているみたいだ。小さい。こんなに小さいのだ。愛しさが洪水のように身体を満たした。
「オード」
「あなた……」オードの顔が、汗で、晴れがましく照り光った。
オードに赤ちゃんを見せようとしたとき、アルナルドは気づいた。
額にほくろほどの痣がある。薄茶色の模様みたいな──どこかで見た印。それもついさっき見たような。
赤子は泣くのをやめた。満面の笑みを浮かべていた。
ほんの一瞬だ。すぐにまた顔をゆがめて産声の続きをやりはじめた。
アルナルドは立ち止まって、その意味を考えるべきだった。しかし出来なかった。考えてはいけない。考えるべきじゃない。考えられない。喜びと感動に、アルナルドは身も心もさらわれてしまっている。すべて終わったことだ。この喜びを誰にも邪魔させない。
「この子、さっき笑ったよ」
「本当に?」
疲れた様子のオードの枕元に膝をついて、アルナルドは息子を見せた。
「きっとやんちゃな子になるわ」
「そうだね」
「あなた、苦労させられる」
「うん、きっとそうなる」
室内は幸せの予感に満たされている。すべてがうまくいく、という予感である。まだ若い夫婦は愛情のこもった眼差しを赤子に向けていた。 この場に不穏さがあるとしたら、それは赤ん坊の吠えるような泣き声だけだった。
おわり
という。
「ローズマリーの赤ちゃん」オチでどうもすみません。




