時が流れても
5年が経つのは早かった。
時の流れる早さが変わる訳はないので、これはわたしの感じ方のせいだろう。楽しい時間があっという間に過ぎるというのは、時間の経過を感じずに過ごせているから。それが積み重なれば、5年という若いわたしの人生の中でも大きな割合を占める年月さえ、あっという間に感じてしまうのだ。
その癖、楽しかった日々を具に思い出すことができるので、あの日々から今日までの時間を加速も跳躍もしていないのがよくわかるけれど。
大学を卒業したわたしは普通に就職して、普通に会社員になった。いわゆるOLというやつだ。
人生を川に例えるのならば、大抵の人はその川に流されているだろう。
わたしもそう。
「誰もが大人になろうとして大人になった訳じゃないんだよ。ただ、子どもで居られなくなっただけでね」
昔、子どもの頃にどこかで大人から聞いた言葉だ。聞いた当初はなんて夢のないことを言うんだろうと思ったけれど、現在のわたしはその言葉を身をもって実感している。
大人になれば急に大人になれる訳もなく、あくまで自分からの延長線上の自分でしかない。
年月を経て肉体が成長して経験を積めば勝手に成人扱いされる。一人前と見なされ、社会へ放逐される。
大抵の大人はそんな風に感じていて、けれどそれでは本当は良くないのだと思う。
受け身は良くない。
要は、選択と覚悟の持ちようなのだ。
幼少期に至る所で書かされる将来の夢。各人ごとに自由な夢を思い描くことができて、その選択の自由はとてもありがたいことだと思う。
でも、選択した夢への覚悟を持つことは難しい。
例えば、プロサッカー選手になりたいと夢見たならば、並々ならぬ努力が必要になる。厳しい練習と自己管理、それらを徹底したとしても才能の差で埋もれてしまうこともある。それでもプロサッカー選手になるならば夢を全うする覚悟が必要だ。
選択と覚悟さえあれば誰でも夢を叶えられる、とまではいかないまでも、一角の人物になれることには間違いない。
しかし、わたしはそうはなれなかった。明確な将来のビジョンを見据えた努力もせず、選択も覚悟の薄い大したことのない大人になった。
子どもの頃に書いた将来の夢なんてまるで思い出せない。
子どもの頃のわたしが今のわたしを見たらどう思うだろう。もっと立派な大人になれないものかと落胆するに違いない。まあ、過去も現在も、そして因果も繋がっている自分の話だから思い煩うだけ無駄だけれど。
これが今のわたし。大したことのない大人になってしまったわたしだけれど、しかし後悔はしていなかった。
こんなわたしにも誇れるものがある。
誇れる人が居るーーわたしの恋人だ。
後にも先にも、わたしはあんな美人と出会ったことがない。
しっかり者のようで抜けているところもあり。面倒見の良い包容力と面倒を見たくなる少女性が共存していて。ぶっきら棒なようでいて人一倍繊細で優しくて。誰よりも深い愛情を持っていて。
そんな人と恋人になれた自分も誇らしい。たったそれだけのことでも、自分のことをよくやったと褒めてあげられる。
彼女との日々を振り返って、もっと上手く立ち回ることができたのではないかと反省したり後悔したりすることも結構あるけれど、次の機会に活かすことができるのが嬉しい。
次があるーー今でも彼女がわたしの隣に居てくれることが本当に嬉しい。
先ほど会社帰りの電車の中で見たスマホのメッセージによれば、早く帰れたので先に帰ってご飯を用意しておいてくれるとのこと。
心が弾む。気分が明るい。
夜道を照らす街灯の明るさすら三割増しに感じられるくらいに。
二人で住むマンションまで戻って来て手早くロックを解除してエレベーターに乗り込む。ひと気を感じさせない夜のマンションの廊下を歩き、鍵を開けて扉を開く。
「ただいま、巴さん」
靴を脱いでスタスタと歩いて、真っ先に見つけるのはワイシャツ姿のままでお鍋の前に立つ彼女の姿。
「おう、おかえり」
大好きな人から「おかえり」と言ってもらえる喜びとありがたみを噛み締めながら。
大人になったわたしは今を生きている。
気分的には今回が最終話です。




