下心について
今朝の目覚めは実に爽やかだ。
昨夜、らしくもなく泣き過ぎてしまったからだろうか。泣き疲れか、そういえば、泣いた時にストレスを軽減する何ちゃらとかいう成分が出るらしいと前にテレビでやっていたような、どうだったかな、まあ良い。
両手を上に伸びをして、ふと隣を見ると、
「……おはようございます」
「うわぉ⁉︎」
椎菜が充血した目でこちらを見つめていた。前髪の垂れ具合もあって、何かもうホラーな感じだった。
「え、何、どうしたの?」
「どうしたの、じゃありませんよ。昨夜の所業を忘れましたか?」
所業って。
「私、何か変なことしたか? 昨夜は落ち着いた後、さっさと寝ただろ」
昨夜は話し込んでしまったせいで、何時に寝たかは定かでないけれど、結構遅くまで起きていた。
「今朝」とさっきは言ったが、窓から差す日差しはもう朝方ではなく昼間のものであるかもしれない。
「巴先輩に全く思い入れがなかったようで、わたし結構驚愕してるんですけど、あなた、わたしの額にキスしたじゃないですか!」
「あ、うん。したね。そういえば」
「不意打ち気味に喰らって、ときめいちゃったせいで、わたし昨夜はろくに眠れなかったんですよ!」
「へえ、そうなんだ。ごめんね」
怒られてしまったので、私は素直に謝る。
「私としては悪戯半分お礼半分のスキンシップのつもりだったんだけど、そんなに嫌だったのか。悪いことをしたな」
「謝って欲しいんじゃないんです! というか、巴先輩、リアクションがさっきから軽過ぎませんか。キスですよ。キッスですよ」
「えー、でも、あのくらいは軽いスキンシップだろ。マウストゥーマウスじゃあるまいし」
「場所が問題じゃないんです。スキンシップだからといって、先輩は誰にでもキスするんですか。その美貌と唇でハートを奪いまくってるんですか」
「何、その言い方。誰にでもはしないし、というか、キスの場所は種類として重要なんだぞ」
オーストラリアの劇作家のフランツ・グリルパルツァーが、キスについての格言を作中のセリフに遺している。
『手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら満足感のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてそのほかは、みな狂気の沙汰 』
上にないものが狂気の沙汰かどうかはさて置き、それだけ挙げて他のどこにキスするんだ、という話だ。
いや、そんな話をしたいんじゃない。
「グリルパルツァーさんが絶対原則って訳でもないけど、これが一般にキスの場所の意味として通ってるんだよ。わたしがしたのは友情のキス。それに、年上から年下にすることに意味があるらしい」
「何となく聞いたことはありましたが、そこまでは知りませんでした。詳しいですね」
「前に、妹の環から屁理屈を捏ねられて唇を奪われそうになったから、調べて覚えた」
「あの子のシスコンは揺らぎないですね」
シスコン? ただの甘えたがりだと思うけれど。
「でも、巴先輩。普通に断るんじゃダメだったんですか」
「うーん。でも、あの子に一生懸命にお願いされたら、妥協点を見つけてあげたくなって」
「シスコンの温床を見つけた気がします」
椎菜は呆れたような口調でそういうと、大きく欠伸をした。
「なーんだ。てっきり、わたしは巴先輩の攻略に成功したものとはしゃいでしまいましたが、まだまだ道半ばでしたね。下心は無駄でした。脱力したら、何だか眠くなってきちゃいましたよ」
「今日は授業ないんだっけ? なら、寝てて良いよ。昨夜は長話に付き合わせたし」
「お言葉に甘えます……おやすみなさい」
そう言って、椎菜は布団を被って目を閉じると、たちまち寝息を立て始めた。本当に昨夜は睡眠不足だったようだ。寝かせておいてあげよう。
こうして眠っている姿を見ると、少しだけまだ幼さが見えて年下の女の子だと感じる。日頃は、頭の回転が早く、丁寧口調で会話のイニシアチブを取られっぱなしだからな。
下心なんて冗談めかしたところで、人心が見え見えだ。
「私は今だって、誰にでも心を開ける訳じゃないんだぞ、椎菜」
ちょっと恥ずかしい核心は独り言でも漏らさず、心中で呟く。
いつまでもボーナスタイムが続くと思うな。
モゾモゾと動く布団の音を聞きながら、私は顔を洗うべく洗面所に向かった。
タイトルについて「キスについて」にしようかどうか迷ったのですが、この方が通常運転に戻ったのがわかりやすいと思いまして(笑)
次回からもよろしくお願いします。




