回想・少女と思い出の犬(3)
この日の朝は暖かかった。窓からは眩しい日光が差し、灯りを点けなくても家中が明るかった。
朝の人間たちは慌ただしい。
この家の人たちもそう。
父はすでに仕事で家を出ていて、母は洗った洗濯物を干している。妹はランドセルの中を確認していて、姉である少女は今まさに家を出ようとしているところだった。
一匹の犬は専用のクッションの上で横になりながら、飼い主たちの様子を見届けていた。
時間の余裕もあまりないというのに、少女が犬の元へ駆け寄ってくる。
「モカ、今日は元気?」
モカ、と呼び掛けられた犬は、「アゥ」と返事をする。昔のような声の張りがない。もうほとんど動けなくなってしまったにもかかわらず、健気に振る舞うモカの姿が切なかった。
少女はモカの首の後ろを優しく撫でる。
「モカ、今日はよく晴れてるよ。良いお昼寝日和だ」
「ウウ」
「私はそろそろ学校へ行ってくるね。モカはのんびりしてて」
「アゥ」
頷いて、少女はモカの元を離れて行った。「行ってきまーす」という少女の声と玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえた。
モカは重い瞼を閉じるのを必死に堪えていた。胸の中の鼓動が今にも止まってしまいそうだ。命の終わりを感じる。
少女との数多くの思い出が脳裏に浮かぶ。散歩に連れて行ってくれたこと。ご飯をくれたこと。優しい言葉をかけてくれたこと。赤ん坊から大きくなっていっても、モカに向ける笑顔の優しさはずっと変わらなかったこと。
幸せな日々だった。自分はこんなにも満ち足りていた。
ただ、自分が逝って残された少女のことを思うと、モカは辛かった。
少女は深い悲しみに襲われるだろう。
少女が優しく大きな愛情を持つと同時に、繊細であることをモカは知っていた。自分と居る時は笑顔を見せてくれた少女だけれど、自分が居なくなった後、彼女は誰かに心から笑いかけることができるようになるのだろうか。
不安に思いながらも、願うしかなかった。
自分を愛してくれた少女が他の誰かのことも愛してくれることを。
少女の幸せを願う。
モカの瞼が閉じられる。鼓動が止まるその瞬間まで祈り続けた犬の表情は、ポカポカの陽気の中で眠るように穏やかだった。
母からモカが死んだことを聞かされた時、少女は言葉が出なかった。今日も家で少女の帰りを出迎えてくれると思っていたからだ。
フラフラとした足取りで、少女はモカに近づく。モカの身体はうつ伏せの状態で寝かされていた。気持ち良く眠っているようにも見えて、その実そこにはもう命の気配がなかった。
「モカ、起きて。私だよ。巴だよ。学校から帰ってきたよ。ねえ、ただいまって言わせてよ。起きて、モカ」
少女がいつものように首の後ろを撫でても、むしろ、モカがもう居ないという実感を強めるだけだった。
犬が人よりも早く歳をとることは知っていた。ほとんど同じ時期に生まれても、一緒に大人になれないことも知っていた。
ただ、知っていても受け入れられるかどうかは別問題だ。モカを喪うことなんて到底受け入れられなかった。
モカは天国へ旅立ってしまった。人に本音を打ち明けられない、人を心から信用することができない少女にとって、唯一心を開くことができた相手がこの世から居なくなってしまった。
胸が痛い。心が引き裂かれる。
少女の涙が頬を伝う。自分が泣いていると気づいた時には、もう涙が止まらなくなっていた。嗚咽と悲鳴が喉の奥から勝手に出てくる。泣いても泣いても、悲しみと寂しさが止まらない。
モカの遺体は両親の手によって丁重に葬られた。庭に埋められ、モカの墓である印が立てられた。
一方で、少女は数日にわたって部屋の中に篭っていた。ベッドの中で蹲り、涙で枕を濡らした。両親や妹が心配してどんなに声をかけても、少女の心には届かなかった。
時間が経っても、悲しみは治らない。モカと一緒に死んでしまいたいと思った。けれど、それ以上にモカがそれを望んでいないようにも思った。
でも、どうすれば良いのだろう。身体が動かない。外に出ようと思えない。
感情がモカへの愛情と悲しみに占められていて、他の何かが入る余地がない。
今日を生きようとする活力も。
モカ以外へ向ける深い愛情も。
泣き続けた少女の心は、やがて少女自身の内で治療されることになる。
部屋から出てきた少女は、両親や妹に心配をかけたことを謝り、日常へと帰っていった。
日常の中で元のように喜怒哀楽し、少女は愛犬を喪った悲しみを乗り越えたかに見えた。
しかし、ごく僅かな人物ーー例えば姉のことが大好きな妹は気づいていた。
姉の感情が以前よりも希薄になっていることに。
深く喜ぶこともなければ、深く絶望することもない。
少女の深い悲しみは、それを乗り越えるために、少女の心を歪に作り変えていた。




