08 砂漠の黒い死
北アフリカ。
アルジェリア砂漠地帯。
砂丘を越えて砂漠迷彩に塗装されたランドクルーザーが現れた。
ゆっくりと前進したランクルは、すぐに動きを止めた。
照りつける強烈な太陽に灼かれながら、息を潜めるように前方を窺う。
サングラスをかけた真樹は、助手席から後ろを振り返った。
「どうだ?」
双眼鏡を眼に当てた山本がうっそりと言った。
「どうだといわれても」
「気配は感じないか?」
「熱気がむんむん」
真樹は黙って助手席のシートに座り直した。
山本のふざけた返事に怒る気力も湧かないのは、真樹自身も限界近くまで疲弊しているからだ。
額の汗をぬぐい、砂まみれのフロントガラス越しに前方を見つめた。
百メートル程先に小さなコンクリートの建物が熱気でゆらめいている。
箱形の二階屋で、ガラスのない窓枠の内側は濃密な影に満たされている。
荒れ果てた様子で、長い間放置されているようだ。
「少尉」
真樹は耳にかけたインカムで呼び掛ける。
「少尉、聞こえるか?」
「聞こえている、オブザーバー」
ノイズまじりの男の声が答える。
「こちらは目標に到着した。偵察ドローンが遅れているぞ」
『問題ない。間もなく到着する』
気怠げに男は答える。
「仰せの通り」
山本が窓越しに双眼鏡を空に向けた。
「ファルコン様が接近中であります」
ドライバーのメイズ軍曹がダッシュボードのディスプレイを起動する。
捜索対象へのアプローチはまず高空からの偵察と定型化されていて、ファルコンを運用するトレーラー・ベースと、複数の車輛からなる実行部隊が連携して行動する。地域は変わってもフォーメーションとアプローチは変わらない。
真樹達はもう半年近く同じ作業を繰り返していた。
「映像来ました」
ディスプレイに接近中のファルコンからの映像が映る。
画面下半分の砂漠の中に建物とランクルが小さく映っている。
真樹はディスプレイにタッチしてコントローラーを表示し、カメラの俯角とズームアップのカーソルを動かした。
画面中央に建物が拡大される。
屋上には誰も潜んでいない。暗い窓の中の様子はつかめない。
映像のアングルはゆっくりと傾きを増し、ファルコンは建物の直上で静止した。
画面に建物の屋根が映っている。
水滴の波紋のような質量スキャナーの走査線が走り、比重の重い物質をスキャンしていく。
真樹は画面の表示を確認した。
「半径1キロメートル内に地雷の金属反応なし。スナイパーもいないな」
『オブザーバー』
少尉の声が言う。
『捜索を開始しろ』
メイズ軍曹が口を曲げ、『くそ野郎』と声に出さずに言った。
「了解」
真樹は素っ気なくいった。
「監視バグを使用し、内部を調査する」
真樹は耳からインカムを外し、グローブボックスに放り込んだ。
「いい気なもんだぜ」
メイズは吐き捨てるように言った。
「自分は冷房の効いたトレーラーの中で画面を見ているだけだ。命令するならガキでもできる」
真樹は拳でドライバーの肩を突き、小さく首を振る。
メイズは大きく息を吐き、『すまん』と言った。
「気にするな、みんな疲れているんだ」
「ああ、そうだな」
「俺も疲れたあ」
後部座席の山本が呻いた。
「シャワー浴びたい。ビール飲みたい」
「殴るぞ」
真樹は低く言った。
山本はしゃっきりと座り直した。
「飽きないもんだな」
メイズは呆れて言うと、ハンディトーキーを口に当てた。
「ミゲル!」
『わお!』
トーキーが答える。
『大声を出すな、メイズ!』
「ぶんぶん丸のお散歩だ!」
ランクルの後方から、砂の斜面を登って塗装のはげたピックアップトラックと、平べったい砂漠迷彩のハマーが現れた。
トラックのドライバーが素早く降りて荷台にかけたシートを巻き上げる。
荷台には銀色の太い円筒形ポッドがワイヤーで垂直に固定されている。
ポッド上部が左右に割れると、中から黒く小さな物体が空中に飛び上がった。
監視バグは前方の建物に一直線に飛んで行く。
真樹と山本、メイズ軍曹は切り替わったディスプレイの映像を注視した。
監視バグは建物の周囲を旋回してから、何のためらいもなく窓から室内に飛び込んだ。部屋の真ん中でホバリングすると、カメラをゆっくりとパンする。
半自律型のバグは超音波スキャンで部屋のレイアウトを認識すると、空中を滑るように移動して隣室に入った。
二階から一階に降り、すべての部屋をくまなく調べ回る。
「何もないな、マキ」
シートに置いたトーキーから野太い男の声がいった。ハマーに乗っている武装兵士からだ。各車輛で映像は確認されている。
「やはり目撃情報はガセだったか」
山本が再びシートに沈み込んだ。
「まぁ、もう慣れっこだけどな」
「こんな砂漠で、フードを被ったベンチコート男の幻覚を見るか?」
真樹は指で目頭をもんだ。
「ビキニの美女だって見るだろうよ」
山本はうっそりと言った。
「いや」
真樹は真剣な顔でいった。
「あいつは確かに姿を見られている」
「ミゲル!」
メイズ軍曹がトーキーに叫ぶ。
「ぶんぶん丸に帰還コード!」
「あいつの最近の動きは慌ただしい」
真樹は独語するように言った。
「我々も奴を追い詰めているが、あいつも何かを追い詰めようとしている」
「アフリカに来てもう半年だ。こんなに長引くとは思わなかった」
山本はぼさぼさに伸びた髪の毛を乱暴にかいた。
「全くいつまで追いかけっこは続くんだ?」
「イエメン、スーダン、エジプト、モロッコ」
マキは数を数えるように、ゆっくりと言った。
「今までに黒い死体を十体、発見した」
「うああああ」
山本は奇妙な声を上げ、頭を抱えた。
「やめてくれ、もう思い出したくない」
「見つける度に数が増えている。何かが起きているのは間違いない」
「マキ、どうする?」
メイズ軍曹が訊いた。
真樹はサングラスをかけ、砂よけのマフラーを口元に引き揚げると、当然のように言った。
「行くぞ」
無人であることは確認できたが、どこかに敵が潜んでいる可能性はある。
ランドクルーザーは低速で接近し、十分な距離を取って停止した。
真樹、山本、メイズ軍曹の三人はカービン銃を持ってドアを開けた。ハマーからも四人の武装兵士が降車して合流する。
強烈な直射日光が額を灼く。
七人は射撃姿勢のまま建物に接近した。
武装兵士のリーダーが素早くハンドサインを出す。兵士に続いて真樹達も暗い室内に踏み込んだ。
眩しすぎる屋外からの変化に網膜の調整が追いつかない。
ようやく絞りが合うと、砂にまみれた椅子とテーブルが見えた。
床にカメラの三脚が倒れている。石の壁には鉄の鎖がかかり、茶色い染みが広がっていた。武装集団が拷問に使っていたようだ。
手分けして各部屋を調べたが、これといった遺留品は見当たらない。
ダーク・モンクは半年前から北アフリカの広い範囲に現れている。
僅かな目撃情報を得ては追跡し、踏み込み、ようやく見つけたのは、ミイラのように干涸びた凄惨な黒い死体だった。
どの死体も飛びさんばかりに眼を剥き、舌を極限まで突き出し、両手は空を掻きむしっている。
突然に、信じがたいほどの恐怖と苦痛に襲いかかられたのだ。
歪んだ顔は粘土の塑像を力任せに捻ったようで、とても人間の造る表情とは思えなかった。
正視できないほどのおぞましさにショックを受け、精神失調を起こして本国に送還された兵士もいた。
この殺人はダーク・モンクの犯行と思われたが、軍司令部からは『ダーク・モンク自身がその発生を予知して探索している』という連絡を受けた。
理由は判らないが、黒いミイラの発生には超常的な力が関係しており、それが彼を引きつけるのだと。
真樹達の任務はダーク・モンクをアシュレイの屋敷まで連行することだ。
しかし追跡する先々で遭遇する黒い死体は、アシュレイがダーク・モンクを呼び寄せようとしている理由に深く関与している気がしてならなかった。
真樹は一階の通路を抜けて建物の裏手に出た。
裏手は日影になっていて、空気がひやりと冷たい。
真樹はコンクリートの壁に背を持たせかけた。
口から長い溜息が漏れ、カービン銃がずしりと重くなる。
緊張感が緩み、それを待ち構えていたように重い徒労感が襲ってくる。
確かに肉体も精神も限界まで疲れ切っている。それなのにどうしてまだ立っていられるのか、自分でもわからなかった。
真樹は眼前に広がる砂漠を見つめた。
緩やかな起伏の砂丘が地平線まで続いている。
乾燥し切った風景に真樹はじっと眼を向け、小さく呟いた。
「……帰りたい」
しかし、どこに帰りたいのか、具体的な場所のイメージが浮んで来ない。
真樹は思わず苦笑した。いつの間にか自分は本当に根無し草になってしまったらしい。
なぜか御門ケインと妹のミオの顔が脳裏をよぎる。
—心配をかけさせる兄妹だ。
真樹はぼんやりと思った。
—とりあえず、あの二人には、また会わなければいけないな。
それは帰るためには充分な理由になる筈だった。
前方の砂の表面に何かが見えた。
真樹は建物の影の中を歩き、影の途切れる手前で膝を折った。視線の先には、砂地にうっすらと残った足跡があった。
真樹は顔を上げた。
消えかけた足跡は、陽炎に揺らぐ砂漠の中に真っ直ぐ進んでいる。
真樹は鋭く指笛を三度吹いた。
車輛に戻れという緊急時のサインだ。
建物の中を駆け抜け、反対側から砂漠に飛び出す。
既に全員が前方を走っている。
「どうした!」
山本が振り返った。
「痕跡を発見!」
真樹はランクルに飛び乗ると、ドアを閉めて口元のマフラーを引き下ろした。
「ダーク・モンクか?」山本が訊く。
真樹はうなずくと、ディスプレイをタッチして上空のファルコンを回転させる。
足跡が進んだ方角にカメラを向け、ズームする。
遠くの砂丘の間に小さく隆起物のような影が見えた。
地表からの輻射熱で画像はゆらゆらと揺れる。
ディスプレイを覗いていたメイズ軍曹が言った。
「岩の影では?」
「ずいぶん四角い岩だな」山本が言った。
更にズームすると画像はより乱れ、かえって判別できなくなる。
「建造物だ」
真樹はきっぱりと言った。
「足跡が砂漠の中に続いていた。向かっているのはここだ」
山本はごくりと唾を飲んだ。
「本当に、あいつなのか?」
「少なくとも、この砂漠を徒歩で移動している人間がいる」
「そんなことができるのは」
メイズ軍曹がエンジンをかけた。
「夏でもベンチコートを着ていられる奴だけだ」
「そうだ」
真樹はサングラスをかける。
「行こう、軍曹」
メイズはアクセルを踏み込んだ。
ランクルは砂塵を巻き上げて身を躍らせる。
「どうやらビンゴだ!」
軍曹はトーキーに叫んだ。
「ベンチコートを追い詰めたぞ!」
ランドクルーザー、ピックアップトラック、ハマーの混成部隊は南に進路を取り、もうもうと砂煙を巻き上げながら疾駆する。
真樹はインカムを耳に装着すると、ベースを呼び出した。
「新しい捜索目標を発見。ファルコンを先行させてくれ」
『了解。だが』
少尉は緊張した声で訊いた。
『何があった? 応援は?』
「応援は間に合わない。それより連盟の委員を回線に呼び出しておいてくれ」
『まさか?』
少尉は息を呑んだ。
『見つけたのか?』
「確率は高い。だが、確定ではない」
『そ、それでは』
少尉は逡巡した。
『連盟には連絡できない』
「あんた次第だ」
真樹は通話を切った。
平屋の建造物は予想よりも大きく、数十人は収容できそうなプレハブの宿泊所のようだった。外観は比較的新しい。
現地の武装組織の拠点かとも考えられたが、先行したファルコンの映像では人の出入りは見られなかった。
三台の車輛は減速し、建物から死角に入るように手前の砂丘の麓を巻きながら進んだ。
監視バグは視界が確保できるポイントからでないと手動操縦は難しい。真樹は車輛の進行を止め、山本と共にピックアップトラックに乗り移った。
微速で建造物が見えるぎりぎりまで接近する。
「歩こう」
ミゲルはトラックを止めた。
「この砂丘の上に出る」
ヘルメットをかぶり、もう一つを真樹に投げる。
荷台の山本はシートをめくって監視バグのポッドを露出させた。
望遠スコープを着けた狙撃銃を構え、警戒に当たる。
「こっちは、いつでもいいぜ」
ミゲルは『歩こう』といったが、実際は『這って登ろう』だった。
火傷するほど熱く焼けた砂の斜面を腹這いになって進む。
湧き上がる熱気に包まれ、真樹は全身から汗を噴き出した。
緩やかな砂丘の頂きに達すると、下り斜面の先に建造物が見えた。
ミゲルが真樹に操縦ユニットの入ったバッグを渡す。
真樹は操縦用のアイウエアをかけ、腹這いになってコントローラーを両手で構えた。
誤動作カバーを外して監視バグの射出ボタンを押す。
途端に右眼のシェルスクリーンの中で、視界が猛烈な速さで流れ始めた。
「くっ」
真樹とミゲルの頭上を越えて高く舞い上がった監視バグを、いったん高度を取ったまま姿勢を安定させる。
視野の中に建造物を捉え、スティックを軽く倒した。
監視バグは建造物に向かってゆっくりと降下していく。
「いいぞ」
真樹は呟く。
「そのまま、真っ直ぐだ」
アイウエアの小さな視野で操縦するのは難しい。
それでも監視バグを建物の開いた窓から内部に滑り込ませる事ができた。
建物内に入ると、監視バグは室内の空間レイアウトをスキャンし、自動的に自律飛行モードにシフトした。
「ここには、いない」
部屋の中央でホバリングしたバグは水平にカメラを一回転させると自動的に次の部屋に移動する。
小さな視野の中に、無人の室内や廊下が流れていく。
「ここもいない」
そういった途端、真樹はすさまじい叫びを上げた。
「きゃあああああああ!」
声を聞いた瞬間、反射的に山本はトラックから飛び降りた。
振り仰ぐと、砂の上を転げ回る真樹を小柄なミゲルが懸命に押さえ込もうとしている。
山本は砂を蹴って斜面を駆け上がった。
狙撃銃を砂の上に置き、身悶えする真樹の身体を抱きかかえた。
「落ち着け!」
真樹は叫んでいた。叫びながら、泣いていた。
「ひどい!」
拳で山本の胸を叩く。
「なんて、ひどいことを!」
「大丈夫だ」
山本は太い腕に力を込め、硬直した真樹を抱きしめた。
「落ち着け。もう、大丈夫だ」
山本は真樹の顔からアイウエアを毟り取り、自分の眼に当てた。
スクリーンにホバリングしたバグからの映像が送られている。
正視しないように薄眼で見ると、椅子に並んで座った数十人の人間のシルエットが浮かんだ。
その姿の異様さに山本は息を呑んだ。
全員が空間を掻きむしるように両手を上げ、彫像のように静止している。
何かが突然現れ、その瞬間に絶命したのだ。
アイウエアを外し、山本は大きく息を吸った。
「出やがったか」
背を伸ばして建物を見下ろす。周囲に黒いコートを着た男の姿は見えない。
山本はミゲルを振り返った。
「踏み込もう」
ミゲルはコントローラーを操作しながら『行っても大丈夫か?』という顔をする。
山本はぐったりとした真樹を強引に抱え起こした。
「大丈夫だ」
山本は言った。
「あそこに、生きているものはいない」
前方に停車したハマーからカービン銃を構えた兵士達が飛び出し、ドアを蹴破って建物に踏み込んで行く。
ランクルのシートに沈んだ真樹は、ぼんやりとそれを眺めていた。
まだ心臓が早鐘のように鳴っている。
あの光景を、あの表情をいきなり目にしてしまった。予想すべきだったし、しなかったのは明らかに自分のミスだ。
真樹はきつく唇を噛んだ。
建物のドアから兵士の一人が姿を見せた。
つまずきながら数歩歩くと、噴き出すように激しく嘔吐した。真樹は重い溜息をつき、ドアを開けた。
声を上げて吐瀉し続ける兵士を背に、ふらつく足を踏みしめて建物の中に入る。
廊下の先で兵士達が慌ただしく出入りしていた。
真樹は壁に手を突きながら廊下を進んだ。
気配を感じたように山本がぬっと現れ、大きな身体で前に立ち塞がった。
「どけ」
真樹はかすれた声で言った。
「だめだ」
山本の背後に兵士のリーダーが現れ、顎をしゃくった。
「マキ、現場の検証を」
「やめてくれ!」
山本は険しい声で叫ぶ。
「今のこいつには無理だ!」
「オブザーバーに検証してもらう必要がある」
兵士は重々しく言った。
「死体にはアルミ・フィルムをかけた。マキ?」
真樹は山本の横をすり抜け、リーダーと並んで奥に向かった。
ドアの前で立ち止まり、拳を強く握りしめた。
眼を見開き、足を踏み出す。
食堂のような広い部屋だった。
入り口近くに大きな作業テーブルがあり、石油採掘施設の模型が置かれている。その周囲に書類やファイルが積み重なり、丸めた図面が散乱していた。
テーブル中央には大型ディスプレイが置かれ、室内に向けられている。その画面の前に、講義を受けるように二十人ほどの人間が椅子に座っていた。
全員が椅子に座ったまま両手を上げ、彫像のように硬直している。
頭から胸元にかけて薄い銀色のアルミ・フイルムをかけられているが、揃いの作業服を着た服装から判断すると、資源採掘会社の建設スタッフと思われた。この国の会社か、委託された外国企業なのかは判らない。
兵士のリーダーは警戒を解かずにカービン銃を構えたまま言った。
「ヴィチェンツァ基地から六時間以内に処理部隊が来る。それまでこの現場を保持する」
「少尉は?」
真樹は訊いた。
「ここには来ない」
リーダーはうんざりした口調でいった。
「連盟と連絡を取るのに忙しいそうだ」
ドアから兵士が顔を出し、リーダーを呼んだ。
「物音がします!」
「いるのか?」
山本は銃を構え直した。
「……ダーク・モンク」
「行くぞ、ヤマモト」
リーダーが歩き出す。山本は振り返り、声を低めた。
「真樹、ここにいろ。動くなよ」
兵士達は廊下に出て行った。
足音が遠ざかり、すぐに聞こえなくなった。
静かな室内に、真樹は取り残された。
自分で椅子を引き、どさりと腰をかける。
窓から差込む明るい光のカーテンに、室内を漂う砂塵がうっすらと浮かび上がる。真樹は虚脱したように足を投げ出し、銀色の薄布がかけられた黒い死体の集団に向き合った。
昔、どこかの都市の美術館で、実際の人間から型を取った等身大の彫刻を見た事がある。芸術作品として意味が込められているのだろうが、今、眼の前に並んでいるのは彫像などではなく、おそらく数時間前までは生きて動いていた生身の人間達だ。
窓からの光の中を、塵のような細かい砂埃がゆっくりと流れている。
微細な粒子は淡い模様を造り、緩やかに形を変えながら光の帯の中をたゆたってゆく。
始まりも終わりもないその無限の運動。
時間の流れが一方向にしか進まないのは、何かずいぶんと不公平のような気がすると、真樹はぼんやり考えていた。
薄いアルミ・フィルムの端が、ふわりと動いた。
真樹は眼の動きだけで空気の流れを追った。
また別のアルミ・フィルムが僅かに揺れる。
「……おい」
真樹は、囁くように言った。
「……いるんだろう?」
室内は静まり返っている。
「答えろ……アレクシス・アレクセイエフ」
ごとり、と音がして、ホバリングしていた監視バグが床に転がった。
「高いんだぞ、それは」
真樹は小さく肩を落とした。
「まぁ、別にいいけど」
突然、ディストーションギターのような激しい金属音が鳴り響いた。
真樹は反射的に両耳を手で塞いだ。
金属音はテーブルに置かれたディスプレイのスピーカーから迸っている。
激しく歪んだ不協和音が幾重にも重なりあい、爆音となって炸裂する。
その音の塊は暴力的な激しさで鼓膜から脳に押し入り、堪え難い苦痛に真樹は唸り声を上げた。
その鳴り響くノイズの中に、かろうじて言葉が聞き取れた。
「な・な・な」
ノイズの中に言葉の断片が飛ぶ。
「な・な・ぜ・な・ぜ」
「わからない!」
真樹は耳を抑えたまま叫んだ。
ざらざらと音が乱れ、耳障りな爆音の音量が少し下がった。
「なぜし・ってい・る?」
声は叫ぶように言った。
「わた・しのな・まえを!」
「アシュレイだ!」
真樹は耳を抑えたまま答えた。
「アシュレイから聞いた!」
「いだ・い・なるちち!」
ノイズは金切り声を上げた。
「な・ぜ・だ!」
「アシュレイは!」
真樹は轟音を跳ね返すように叫んだ。
「お前を呼んでいる!」
ノイズが掻き消えた。残響が遠ざかり、室内に静寂が戻った。
廊下に慌ただしく足音が重なり、兵士達が駆け戻って来た。
室内に飛び込むと散開して四方に銃口を向ける。
一人の肩に猫がしがみついていた。
「真樹! 大丈夫か?」
山本が叫ぶ。
真樹は黙って手を上げ、『静かに』とサインを出した。
兵士達は戸惑いながらも、動きを止める。
真樹は椅子から立ち上がり、空間に向かって声を上げた。
「アシュレイがすべてを説明する!」
真樹は叫んだ。
「なぜこれが起きたのかを。何がこれを起こしているのかを!」
再び歪んだ爆音が炸裂した。兵士達が片手で耳を抑える。
真樹は耳を塞がず、眼をきつく瞑って轟音の中に何かを聞き取ろうとした。
形容しがたい狂ったような騒音の音塊は混乱と怒りを撒き散らしている。そして灼けるような焦燥と孤絶感を滲ませている。
この見えない相手は答えを見いだせないまま、長く惑乱の中に彷徨っているのだと、真樹は感じた。
突然、真樹は宣言するように声を上げた。
「アーペンタイル!」
真樹は驚いた。口をついて出たのは意味の分からない言葉だ。しかしその言葉はスイッチが入ったような強い衝動で、もう一度喉を震わせた。
「アーペンタイル!」
轟音が低まり、ざらついた声が叫んだ。
「なぜ・し・ってい・る?」
「なん、だと?」
真樹は顔をしかめた。
「いにし・えのこ・とば」
声は疑念を滲ませる。
「な・ぜお・まえが」
真樹は問い返した。
「お前は知っているのか?」
「ち・えのう・つわ」
ノイズは叫んだ。
「た・まし・い・のふね」
「智慧の器?」
「おおおおおおおお!」
再び不協和音が強まる。
「つい・に・できた・のか?」
「お前はどこにいる?」
真樹は埃の舞う空間を睨んだ。
「姿を見せろ!」
「そんざ・いを・か・んじる・か?」
「存在?」
「わた・しのそ・んざい・を!」
「馬鹿なことを」
真樹は背筋を伸ばし、きっと空間を睨みつけた。
「お前は自分の存在を疑うのか?」
声は叫んだ。
「こ・た・え・ろ!」
「目撃もされているし、砂漠に足跡もあった。お前は、確かに」
真樹は顎を上げ、はっきりと言った。
「存在している!」
手を打つようなラップ音が反響した。
煙が拡散していく様子を逆再生したように、漂っていた細かい塵が一カ所に集まり始める。塵の塊は灰色から黒に色を変え、床の上に細長い渦を立ち上げていく。渦は人の背丈になり、黒いケープを被った中世の修道僧の姿に収束した。
兵士達が一斉にカービン銃の照準を頭部に合わせる。
「撃つな!」
山本が素早く静止した。
「奴は超常能力者だ! 勝ち目はない!」
黒い修道僧は何の気配も見せずに立っている。
その姿は床から影がそのまま立ち上がったようだった。
深く被った頭巾の中は暗い影に満たされ、顔貌は輪廓さえも窺い知れない。
しかし真樹は、暗く虚ろな闇の中から、自分を見つめる射るような視線を感じ取った。
「山本」
真樹は傍らの大男に問いかけた。
「こいつが、そうか?」
「そうだ」
山本は深くうなずいた。
「こいつが、ダーク・モンクだ」
「女、答えろ」
黒衣の修道僧は耳障りな掠れ声でいった。
「偉大なる父は、なぜ私を捜す?」
「それは」
真樹はいいかけて、突然頭をぐらぐらと揺らした。そのまま前のめりに倒れ掛かる。
「危ない!」
山本が腕を伸ばして真樹を支えようとした。
その時、真樹の身体がふわりと空中に浮き上がった。
見えない十字架に磔刑にされたように両手を広げ、がくりと頭を垂れている。
「なんだ、これは?」
山本は茫然として真樹を見上げた。
「アレクシス・アレクセイエフ」
チェロの音色のように、深くよく響く声が言った。
「我が同胞よ」
その声は真樹の口から流れ出ている。
黒衣の男はたじろぐように、僅かに後ずさった。
「祝福あれ」
小さく頭を下げる。
「偉大なる父」
その声はまだ金属的な軋みを帯びていたが、聞き取れないほどではなかった。
「私は星の旅に出る」
低い声は歌うように言った。
「しかし智慧の器を見失った」
黒衣の男は黙っている。
「私でさえ、予期しなかったことだ」
深く響く声は、当然のような調子で言葉を続けた。
「お前の力で取り戻して欲しい」
「星の旅……」
黒衣の修道僧は、掠れた声で呟いた。
「アーペンタイルはそのための?」
「アレクシス」
深い声は諭すように言った。
「お前は理解している。人がなぜこの星に生まれたかを」
「より高次の存在になるため。しかし」
修道僧は一転して非難を滲ませた口調で言った。
「早すぎる」
「時は来た」
声は答える。
「いや」
修道僧は頭巾を左右に振った。
「人はまだその段階に、進化の縁には達してはいない」
「アレクシス」
低い声は繰り返した。
「智慧の器を取り戻すのだ」
突然、黒衣の修道僧は聞いたこともない異様な言葉を発した。
くぐもりながら弾けるような発音とアクセントは、およそ人間が話す言語とは思えない。修道僧は強い口調で異様な言葉を連ねた。
低い声も同じ言語で返す。緊迫した口調で、二人は言葉を応酬させた。
やがて黒衣の修道僧はケープを伏せ、深い吐息を漏らした。
「あなたはすべてを導く者だと、そう思っていた」
黒衣の男は言った。
「しかし、あなたでも予測できない事態が起きようとは」
両腕を広げて浮んでいる真樹は、頭を垂れたまま答えた。
「どこかで流れが変わっていた。しかし今は修正が先決だ。進むべき未来へと」
「未来はどこにある?」
アレクシスは苛立ったように声を荒げ、黒い死体を指差した。
「この姿が我々の未来ではないのか?」
「未来は重なり合っている」
男の低い声が言う。
「私はそれを選ぶだけだ」
アレクシスは一瞬、逡巡を見せたが、すぐにはっきりといった。
「これはすべて、貴方が引き起こしたことだ」
室内が静謐に充たされた。
チェロの弦がスタッカートを刻むように鳴る。
山本は耳を澄ませた。
男の声が静かに笑っていた。
その笑い声の醒めた響きに、山本はぞっと総毛立った。
さざめくように響く笑いは、ここでどのような検証を重ねても、もはや無意味であると告げていた。
この事態は時間の流れを止められないように、引き返して修復できるようなものではないのだ。
黒衣の修道僧は、黒い死体を指差していた腕をゆっくりと降ろした。
「わかった」
低く答える。
「私の力を貸そう。しかし、貴方にも相応の責任はとってもらう」
深い声は笑いの余韻を残しながら、静かに言った。
「それさえも一つの宇宙」
眠りに落ちるように、真樹が深い吐息を漏らす。
アレクシスは突然、山本に見えない顔を向けた。
「私を連れて行け、アシュレイの元へ」
アレクシスは片手を僅かに上げると、指先を弾いた。
空中に磔になっていた真樹の身体が山本に向かって飛んだ。
「うわっ!」
山本は慌てて真樹の身体を抱きとめた。
真樹はぐったりと全身を弛緩させ、非常に重い。完全に気を失っていた。
砂漠の施設にビッグ・オウルが到着したのは三時間後だった。
着陸時に吹き上がった砂塵が収まるのを待ち、真樹と山本は黒衣の修道僧を両側から挟み、搭乗した。
当たり前のように乗り込んで来た異様な黒衣の僧侶を見て、乗務員の兵士は眼を吊り上げてハンドガンを引き抜こうとした。
「落ち着け!」
山本は兵士の手を押さえて叫んだ。
「勘違いするな、彼は国際共通通貨連盟の賓客だ!」
真樹は特別任命書を広げて差し出した。
「警護は私達がやる」
「……三軍司令官と大統領のサイン!」
乗務員は顔を強張らせた。
「こんな書類、初めて見た。偽物じゃないだろうな?」
「そう思うのはお前の自由だ」
兵士はじりじりと後退し、操縦室に飛び込んだ。
音を立ててドアがロックされる。
ビッグ・オウルは北アフリカの砂漠から海上に出て西進する。
洋上に浮かぶ孤島の米空軍基地に着陸し、真樹達は待機していた長距離輸送機のC-25に乗り換えた。
一分の無駄もない見事な連携作業で大型輸送機は基地から離陸した。
最高速度で大西洋を横断し、NYを目指す。
半年に渡った捜索の旅は、ようやくゴールを迎えようとしていた。