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05 うつろう関係


 コクーンの蓋がゆっくりと上がる。

 ケインはすぐに身体を起こし、頭部に装着したブレイン・デバイスを自分で外した。メディカルスタッフがボディスーツのバイタルデータをチェックする。


「問題ない」

 ケインは両手を上げながらいった。

「酸素を! 早く!」 


 手渡されたボンベから酸素を深々と吸い込む。頭の中の霧が晴れて、意識がはっきりしてくる。


「サラ!」


 ケインはフロアに降りると裸足のままコクーン室から廊下に飛び出した。隣接するコントロール・ルームのドアを開ける。


「サラ!」


 電子機器が並ぶフロアの壁際のソファに、サラの姿があった。ケインは飛びかからんばかりの勢いでサラに近づき、声をかけた。


「サラ!」


「充分聞こえているわ、レイ」

 サラは疲れた様子でソファに身を沈め、指先で眉間を抑えている。


「アッシュだ! アッシュが現れた!」


「私も驚いたわ」

 サラは首を振り、大きく溜息をついた。

「まさか、勝手にエントリーしてくるなんて」


 ケインは拳を握り締めた。

「アッシュはどこにいる? 教えてくれ、サラ!」


「ここにはいない」


 ケインは出掛かった言葉を呑み込んだ。サラを疑うことはしたくない。


「嘘じゃない」

 サラはゆっくりと繰り返した。

「嘘じゃ、ない」


「わかった」

 ケインはサラの前に跪いた。

「じゃあ、どこに?」


 サラは薄く眼を開けた。

 問いつめるケインの眼差しを逸らし、小さく言う。


「アラスカよ」


 ケインは息を呑んだ。

「なんだって?」


「アンカレッジにある連盟の研究施設。世界最大のスーパーコンピュータがあるわ。アッシュは、そこにいる」


「どうしてそんなところに?」


「極秘」

 サラはケインをちらりと見て、また溜息をついた。

「というわけには、いかないわね」


「サラ、教えてくれ!」

 ケインはサラの手を取った。冷たい手だった。


「アッシュもアーペンタイルへの攻撃に参加する」サラは小声で言った。


「本当に?」


 サラは目を逸らしたまま、うなずいた。

「そのために、ある仮想装置の開発を始めたわ」


「仮想装置?」


「アッシュは開発のためのテストパイロットよ。開発実験はアラスカの研究施設で行われるわ。そして、開発チームを指揮するのは」

 サラはケインに視線を向けた。

「あなたのお父様、カイル・ローゼンタール」


 ケインは眼を見開いた。

「……なん、だと?」


「お父様は今朝早くアンカレッジに出発したわ。お母様ともう一人の女性も一緒に」


 ケインは絶句した。そんなことは一言も聞いていない。


「メッセージを預かっているわ。後で見てちょうだい」


「なぜ、あいつが」

 ケインは口ごもった。

「カイル・ローゼンタールが、開発の指揮を?」


「ケイン、あなたも見たわよね? 記憶の深々層で異世界の情報を捕獲したDCを」


「ああ、俺も見た」


 障壁の真上に出現した、循環する四次元超立方体の巨大な仮想装置だ。


「あれを設計し構築したのはカイルよ。信じられないほどの短期間のうちにね。やはり、彼は天才だわ」

 サラはケインに言い聞かせるように続けた。

「ケイン、あなたのお父様は天才なのよ」


 ケインは顔を歪め、吐き捨てるように言った。


「俺には関係ない」


 サラは唐突に話題を変えた。

「私は、アッシュこそが人類の切り札だと考えているわ」


「アッシュ・ガールが、人類の切り札だって?」


「そうよ」


 平然と言うサラを、ケインは険しい眼で見つめた。

「どうして? 理由は?」


 サラは答えずにじっとケインの顔を見つめる。


「なぜだ?」

 ケインは声を尖らせた。

「なぜアッシュがそんな責任を負わなければならないんだ? おかしいじゃないか?」


「おかしくはないわ」


「だから、なぜ?」


「あの子は存在理由を見つけたの」

 サラはケインに諭すように、静かに言った。

「あの子は、このために生まれて来たのよ」


「……サラ」

 ケインは昂った気を鎮めようと、肩を上げて大きく息を吸った。

「いったい、何の話をしているんだ?」


「ケイン、あなたは」

 サラはケインの眼を覗き込むように顔を寄せた。

「あの子を心配してくれているの?」


「ああ心配だ。なぜなら彼女は」


 言葉を遮り、サラは言った。

「それは同情から? それとも愛情から?」


「な?」

 ケインは狼狽して叫んだ。

「何を、急に?」


「あなたは、あの子を大切に思ってくれているの?」


「お」

 ケインは言葉に詰まった。

「俺は……」


 サラはケインの手を強く握り返した。


「私は、アッシュと共に歩む」

 サラはきっぱりと言った。

「あの子は確信したの。自分が生きている意味を。そして今、命懸けでそれを果たそうとしている。それは私も同じ。私が生きてきたことも、アッシュとアシュレイに出会ったことも、すべてがこのために繋がっていたのだと、理解したわ」


 サラは深く息を吐いた。

「それは責任ではなく『使命』。アッシュと私の『使命』なのよ」


 ケインは混乱した。

 サラの言っている意味が分からない。しかし、アッシュの置かれた状況が大きく変化していることは確かだった。


 ケインは声を震わせた。

「サラ、命懸けって、なんだ?」


「私は言ったわね、イメージは相対的だと」


「ああ」


「勝つためには相手を上回らなければならない。人工知能は人間の造り出したものだけど、ブレイク・スルーした今は人間を超えた超知性よ。そのアーペンタイルを破壊するには、人間が持つイメージの限界を超えなければならないの」


「人間のイメージを越える?」

 ケインは当惑した。

「そんな、どうやって?」


 サラは一瞬ためらい、苦しそうに答えた。


「そのための……仮想装置よ」


 ケインは黙った。嫌な予感が走る。

 昨晩会った父親の顔が脳裏に浮かぶ。気まずそうな他人のような顔を。


「サラ」

 ケインは声を落とした。

「アラスカで、アッシュは何をしている?」


 サラは答えない。


「危険なのか?」

 ケインはこみ上げる疑念に突き動かされ、思わず声を荒げた。

「それは、危険なんだな?」


「私はカイル・ローゼンタールを信頼している」

 サラはゆっくりと答えた。

「アッシュは、大丈夫よ」


「そうだという確証はない」

 ケインはサラの手を振り払った。

「教えてくれ。いったい何が起きているんだ?」


「アッシュには屋敷の介護チームが同行している。問題はないわ」


「違う!」

 ケインは苛立った。

「そんなことじゃないだろう?」


 サラは苦しげに視線を逸らした。


「今は……話せない」


 ケインは逡巡した。

 サラにはケイン伝えられない何かの理由がある。

 しかし、それを受け入れることは到底できない。


「会わせてくれ」

 ケインは声を押し出した。

「シンシアに……!」


 その言葉を恐れていたように、サラはびくっと横顔を強張らせた。


「頼む。シンシアに会わせてくれ!」


 サラは小さく首を振った。

「許可、できない」


「え?」

 ケインは耳を疑った。


「許可できない」


「どうして!」

 ケインは思わず叫んでいた。

「どうしてシンシアに会うのに許可がいるんだ!」


「許可できないわ」

 サラはきっぱりと言うと顔を上げ、ケインを真正面から見つめた。

「あなたもアッシュも、アーペンタイルを破壊するために招集されたブレイン・バトラーよ。スケジュールは綿密に組まれ、既に動き出している。この計画の重要性をしっかりと認識してちょうだい」


「しかし」


「私情を挟まないで」


 ケインは、よろめきながら立ち上がった。


「私情、だって?」

 声が震える。

「そんないい方は、やめてくれ」


 サラはじっとケインを見上げた。


「どうしたんだ、サラ?」


 ゆっくりと頭を振り、サラは溜息をついた。


「では、教えましょう」


「え?」


「あの子は、私に言ったわ」

 サラは急に冷たい口調になっていった。

「もう、サムライには会わないと」


「……そんな」

 ケインは声を絞り出した。

「そんな、はずはない……」


「そう伝えてくれと、言われているのよ」


 ケインは自分の視界が狭まるのを感じた。

 強い感情が噴火するように衝き上げてくる。

 ケインは拳を握りしめ、がくがくと震わせた。


「嘘だ!」

 ケインは怒声を放った。

「嘘をいうな!」


 大声に驚いて研究者たちが駆け寄る。

 ケインは腕や肩を掴まれ、動きを拘束された。


「やめろ!」


 ケインは身悶えし、激しく抵抗した。


 その時、自分の手がサラのスーツの襟を握り締めていることに気がついた。

 ケインは力ずくで引き離され、床の上に俯せに押さえつけられた。


「早く、セキュリティを!」

 女性研究員が高く叫ぶ。


「私は大丈夫」

 サラの冷たい声が響いた。

「彼を離しなさい」


「しかし……」


 サラはソファから立ち上がると、周囲に並んだ研究員を見回した。


「攻撃データの解析を進めて。報告書は今日中に提出を」


「そ、そんな!」

 全員が驚愕し、口々に叫んだ。

「無理です!」

「急すぎる!」


 サラは責任者らしい年輩の白人に向かって言った。

「0時まで待つわ」


「わかり、ました」

 主任研究員は姿勢を正した。

「必ず提出します」


「……ケイン」

 サラは床の上でもがいているケインに視線を向けた。

「戦うのはあなた達バトラーだけじゃない。この計画に関わっているすべての人間が戦っているのよ。皆が『使命』を持っているわ」


 俯せにされたケインは顔をねじってサラを睨んだ。

「そのために、みんなに犠牲になれというのか?」


 サラは表情を引き締め、強い口調で言った。

「違う」


「違わない!」

 ケインは叫んだ。

「もう、あんなことはしたくない!」


「乗り越えなさい」サラは平然と言った。


「な!」


「人類が消し去られてもいいの?」


「どうして、俺がやらなくちゃいけないんだ!」


「……」


「なんで俺なんだ!」


「あなたには」

 サラは淡々と言い切った。

「その力があるから」


ケインは呆然として、美しい金髪の女性を見上げた。


「誰も死なせはしない」

 サラは静かに言葉を落とした。

「それが、私の『使命』よ」



 ドアから出て行くサラの後ろ姿を、ケインは睨み続けた。


 サラの言葉は厳しさを通り越している。

 『乗り越えろ』とは聞こえが良いが、それは人間性を棄てることだ。

 だが、大きな危機を回避するためとはいえ、サラにそこまでの冷酷さを強いているものは何なのか。


 駆けつけた大男のセキュリティはケインを乱暴に引き起こし、床に座らせた。


「離してくれ。手を離せ!」


「動かないで」

 電撃警棒をケインの肩に置く。

「精神安定剤を吸ってもらいます。それからもう一度バイタルチェックを」


「……わかった」

 ケインはがくりと首を垂れた。


 脳の中にもやもやと疑念が湧く。

 崩れた形象が逆回転して復元されるように、あるイメージが浮かび上がる。

 無数のセルが組み合わさり、全体が連動しながら巨大な造形物が構成されて行くイメージ。それは最も効率の良い適応を遂げ進化していく姿だ。

 そして、すべてのセル同士の動きを律しているは、完全な合理性だった。


 ケインは視線を宙に彷徨わせた。


 —銀髪の男だ。


 サラも、あの男に動かされている。

 連盟委員の一人に過ぎないサラが極秘計画全体の進行を担っている。その重要な立場はあの男が与えたものだ。


 ケインは暗然とした。

 サラには過大な責務が課せられていた。それを『使命』といったサラ自身が、その責任感の重さに耐えられるのか。


 —最古の稀人。


 もしすべての中心にあの銀髪の男がいるとしたら、これまでに起きた事の多くが整理される気がする。それらは確かにあの男を座標点とした関係性で繋がっているように思えた。




 コクーン室に連れ戻されたケインは、セキュリティの監視付きで改めてバイタルチェックを受けた。

 後ろから肩を叩かれる。振り返るとボディスーツを着た三人が立っていた。


「じゃあな、サムライ」

 タオルを羽織ったシルバーが疲れた声で言った。汗で髪型が崩れている。

「来週から北米リーグが始まる。ちゃんと回復しとけよ」


「わかった」ケインは答えた。


 シルバーの後ろで、ニーナがぼそりと言う。

「じゃぁ、またね」


 少女のやつれた顔を見て、ケインは思わず声をかけた。

「大丈夫か、ニーナ?」


「え?」

 ニーナは少し驚いて答えた。

「あ、ありがとう……」


「ケイン、新しいフォーメーションを考えておくよ」

 黒人の少年が眼を輝かせた。

「ぶっつけ本番になるけど、ケインなら問題なさそうだね」


「ふん」

 シルバーは鼻を鳴らし、くるりと踵を返した。

「俺達の足を引っ張るなよ、サムライ!」


 ニーナとダービーはくすくす笑いながら後を追った。





◇     ◇     ◇     ◇     ◇  





 広大な針葉樹の森の上を、ジェット・ヘリコは一直線に飛んでいる。

 森は夏の強い日差しを浴びて緑の海原のように輝き、前方には広壮なアシュクロフト家の屋敷が島のように浮んでいる。


 ヘリコは敷地の外れにあるヘリポートに軽やかに舞い降りた。


 ドアが開き、ケインと若いパイロットは地面に降り立った。隠れるように機体の後部に廻り込む。


「ニックから連絡は?」

 機体にもたれ、ケインは小声で訊いた。


「あったけど」

 若いパイロットは肩をすくめた。

「まだ寒いとかサーモンが旨いとか、ありきたりのことだよ」


「シンシアのことは?」


 パイロットは首を振った。

「なにも」


「やはり通信は全部検閲されているのか」ケインは訊いた。


「ニックはアンカレッジ郊外の空軍基地宿舎にいる。当然、監視されている」


「ニックは知らなかった。ケインがここに来た時には、シンシアはもうアラスカに移動していたのに」


 ケインはニックとの会話を思い出した。あれからもう三ヶ月が経っている。


「多分、ビッグ・オウルで極秘に移されたんだ」


 若いパイロットはスマートデバイスにアンカレッジ市の航空写真を表示した。市の北部に大きな空軍基地が見える。


「ニックはこの基地から」

 表示をスクロールした。

「お嬢さんのいる市内の病院を経由して、山岳地帯にある研究施設まで往復している。ほぼ毎日だ」


「飛行時間は?」


「約四十五分。だけど」

 パイロットは表情を曇らせた。

「山は気流も乱れる。ニックの腕でも快適な飛行ではない。お嬢さんの身体には相当な負担だろう」


「それと、精神的な疲労だな」

 ケインは声を落とした。


 シンシアの性格からすれば、成果を上げるために、仮想装置の開発実験にのめり込んでいるような気がしてならない。それは彼女の肉体に過酷な負担を強いることに他ならない。


 ケインは真っ白い積乱雲の浮ぶ夏の空を見上げた。

「無理をしていなければいいが」


 カイル・ローゼンタールと優、そして金城飛鳥の三人は、ケインに知らせもせず慌ただしくアラスカに行ってしまった。

 三人は連盟の研究施設で対アーペンタイル用仮想装置の開発を進めている。開発計画は国家機密レベルであり、サラでさえ情報を持っていない。


「《《あいつ》》は一体、何を造っているんだ?」


 カイルに対しては、どうしても自分の父親という感情を抱けない。

 それどころか、幼いケインにナノマシンによる脳外科手術を施した痕跡をアシュレイが発見している。極限状態に追い込まれた時、破壊衝動のリミッターが外れて爆発的なイメージ想起が起きるのはそのためだ。

 同じような施術をシンシアにするとは考えられないが、不安は拭い去れない。


「もっと情報がほしい」ケインは言った。


「ニックと連絡は取り続けるよ」

 パイロットは言った。

「でも、ずっとアラスカにいるとは思えないな」


 ケインのポケットで振動が起こった。

 小さな旧式リモコンのような装置を取り出すと、ケインはヘリポートを取り囲む森に向けた。赤いアラートが点滅する。


「軍の監視バグが来た。ここまでだ」


「わかった。じゃぁ、また」


 パイロットは機体のトランクを開き、キャリーケースを降ろした。

 ヘリポートに迎えのベントレーが滑り込んでくる。ケインはキャリーケースを曵きながら、車に向かった。




 ジョージ・ハモンドの部屋のドアを開け、リビングに入る。

 キッチンから料理をする音と良い匂いがした。


「レスリー! ただいま!」

 ケインは声を上げた。

「ミオ!」


 ベビーベッドを覗き込むと、座り込んだジャニスがきょとんとした目でケインを見上げている。ちょっと見ない間にどんどん成長しているのがわかる。ケインは顔の前で指をひらひらさせた。


「後でお土産をあげるよ」



 荷物をリビングに置いてキッチンに顔を出すと、鍋をかき回しているレスリーと眼があった。


「まぁ、ケイン! お帰りなさい!」

 大きな笑顔でレスリーは言った。

「ツアーはどうだった? 勝てた?」


「もちろん全勝だよ」

 ケインは親指を立てると、鼻をひくつかせた。

「トマトソースか」


「すぐにお昼にするわ。ミオは勉強中よ。見に行って! 驚くわよ!」


 ミオの部屋のドアは開いていた。

 窓に面した机に向かっている後ろ姿が見える。

 短かった黒髪はもう肩まで伸びていた。癖のないストレートな髪質は母親の優にそっくりだった。

 パソコンのディスプレイに向かっているミオはケインに気がつかないようだった。ケインはドアをノックした。

 振り返ったミオは眼を丸くしてケインを見つめ、ヘッドフォンを外した。


「お兄ちゃん!」


「ただいま」


「辞書は?」


 ケインはがくりと膝を折りそうになった。

 数週間ぶりに会ったのに、一番の関心事が辞書とは。


「買って来たよ。NY中の古書店を探し廻った」

 ケインは肩をすくめた。

「まぁ、それはジェイミーがやってくれたんだけど」


「ジェイミーに感謝!」

 ミオは椅子から立ち上がると、ケインに抱きついた。


「おかえりなさい、お兄ちゃん」

 甘えた声を出した。

「大丈夫だった?」


 ケインは妹の黒髪を撫でた。

「ブレイン・バトルなら全勝だよ。でも、バトルは大きく変わった。皆が」


「そうじゃなくて」

 ミオは言葉を遮り、ケインを見上げた。

「脳のメンテナンス」


 ケインは遠征ツアーの帰りに、NYのセント・トーマス病院で脳内に注入しているナノマシンの定期検査を受けて来たのだ。


「問題ない。大丈夫だ」

 ケインは抱えて来た荷物をミオに手渡した。ミオはその重さに『おお』と声を上げ、紙包みを持ったまま床に座り込んだ。


「開けていい?」


「もちろん」


 ケインは机に近づいた。ディスプレイの中で白人女性が口を開けて喋っている。

「何を聞いていたんだ?」


「基礎フランス語」

 背中を向けたミオは、不器用そうに紙を破いている。

「録画だけど」


「録画?」


「ここはネットに繋がらないから、ダウンロードした動画を見ているの」


 ケインは首を傾げた。

「インターネットが、見られない?」


「もちろん専用回線はあるけど」

 ミオは振り返り、呆れた顔をした。

「知らなかったの?」


「ああ」


ミオは苦笑して言った。

「まったく。お兄ちゃんは自分のことしか関心ないんだから」


「なんだ、自分のことしかって」

 ケインは憮然とした。


 ミオは分厚い辞書を膝の上に乗せ、黒革の表紙を愛おしげに撫でた。


「ここは絶海の孤島と同じ。静かでいいわ」

 ミオはページを開き、嘆声をあげた。

「わお」


 ケインはミオの肩越しに辞書を覗き込んだ。

 細かい活字がびっしりと印刷されている。


「なんで、こんな古い辞書を?」


「必要なの」

 ミオは静かに呟き、薄いページをめくった。

「素晴らしいわ」


 ケインは背後から目隠しをするように、ミオの額に手を当てた。


「お兄ちゃんは」

 ミオは棒読みに言った。

「何をしているのでしょうか?」


「熱はないな」

 ケインは手を離し、気遣わしげに妹の顔を見た。

「知恵熱というのがあってだな」


「もう!」

 ミオは頬を膨らませた。


 ケインはミオの前の床に腰を降ろし、別の一冊を手にとった。

 ジェイミーが苦心して買い集めた中でも一番古そうな辞書だ。重厚な赤革の表紙に箔押しされた金文字が美しい。

 電子デバイスに慣れた手には、年代物の書物はとても重く感じる。

 ページを開くとフランス語でもドイツ語でもない単語が並んでいた。


「これは?」


「ラテン語よ」


 ケインはぽかんと口を開けた。


「高度に専門的な過去の書籍は電子化されずに消えて行く。とても、嘆かわしいことだわ」


「驚いた。ここに来て三ヶ月で、こんなに勉強が進むなんて!」


「リバウンドって奴?」

 ミオはおどけるように言った。

「なにしろわたし、ずっと《《ぼっち》》だったもんで」


 ケインは何もいえず、口をつぐんだ。


 記憶深層への中間到達点として沈められていた六年間、ミオは暗闇の中に置き去りにされ、想像もできないほどの孤独と精神圧の苦痛に耐え続けていた。

 眠っていた脳細胞が覚醒し、驚異的な速さで学習しているのは、確かに失われた時間を取り戻そうという反動なのかも知れなかった。

 しかし、飢えたように知識を求める意思の強さは、幼かった妹にはなかったものだ。その貪欲さは受け続けていた孤独と恐怖への復讐のようにさえ思える。


 ケインは妹の変化に、戸惑いと微かな恐れを感じた。


「本を読むのは楽しい」

 ミオはぽつりと言った。

「わたし、本が好きになったわ」


「そうか」


 ケインは部屋の中を見回した。そういう割には部屋には本棚がない。

 開けたドアからケインたちを呼ぶ声が響いた。

 昼食ができたらしい。


「レスリーは良い人よ」

 ミオは廊下に顔を向けた。

「わたしはここにいられて幸せだわ」


「ああ、サラはよく考えてくれている。配慮に感謝しよう」

 ケインもうなずいた。


「そうね」


「ミオ」


「なあに?」


「その……母さんには、会いに行かなくていいのか?」


 ミオは数秒間、ケインの顔を眺めた。


「アラスカだっけ?」

 ミオは小さく言った。

「遠いし、面倒。わたしはいいわ」


「しかし」


「あの二人も、自分のことしか考えていない」

 ミオは片頬で笑った。

「大人って、勝手よね」


「そんな言い方をするな」

 ケインは固い声で言った。

「俺達の……親だぞ」


「全然、実感ない」

 ミオは、はっきりと言った。

「幼すぎて母親の記憶もないし、父親には会ったこともない。だって、わたしは……」


 ケインは黙った。


 再びレスリーの声が呼ぶ。

 ミオは英語で『すぐ行くわ!』と叫んだ。


 ケインたちは急いで立ち上がった。部屋を出るとき、不意にミオはケインの手首を掴んだ。痛みを感じるほどの強さだ。


「ミオ?」


「お兄ちゃん」


 ミオは前を向いている。

 その表情は何かに立ち向かうかのように、厳しく引き締まっていた。


「二人で生きていくの」

 ミオはゆっくりと、自分に言い聞かせるようにいった。

「これからは、もう、わたしたちだけで生きていきましょう」


「ミオ……」


 手を掴んだままミオはじっとケインの顔を見上げた。

 その視線には、たじろぐほどの強い意志がこもっていた。


「いいわね、お兄ちゃん?」


 囁くような声に、ケインは小さくうなずいた。

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