03 動き出す計画
光の眩しさで目が醒めた。
カーテンの隙間から明るい太陽の光が差込んでいる。
台風は夜半のうちに過ぎ去ったようだ。
ケインはベッドから上体を起こし、ぶるぶると頭を振った。
いつこの部屋に戻って来たのか。
どこからが夢でどこまでが現実なのか。
いや、昨晩見たものはすべてが夢だったのだろうか。
服を着替えて部屋を出た。
階下に降りると屋敷の中はレセプション会場のように、スーツ姿の大勢の男女スタッフが慌ただしく行き来している。ケインが呆気にとられていると、待機していたハウスメイドが歩み寄り、朝食の用意されている食堂まで案内するといった。
廊下を進むと、トーストの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
ケインは急に激しい空腹を感じた。そういえば昨夜は何も食べていなかった。
食堂に入ると白いクロスのかかった丸テーブルが並び、ミルクを飲んでいるミオと、寄り添うように座る真樹が見えた。
「お兄ちゃん!」
こちらに気づいたミオが大きく手を振る。
ケインはカウンターで食べ物とコーヒーを乗せたトレイを受け取り、ミオ達のテーブルに向かった。
真樹がトーストにバターとジャムを塗り、ミオに手渡している。
ミオは受け取ると嬉しそうに口に運んだ。
「なつかれた」
真樹はケインを見て、困り笑いを浮べた。
「山本さんは?」ケインは椅子に座った。
「走っている」
真樹はガラス窓越しに広がる緑の中庭を指差した。
芝生の上を隊列を組んでランニングする陸軍兵士の中に、当然のような顔をして山本が混ざっている。
その奥の森には装甲車輛が何台も止まっていた。
ケインはベーコンと目玉焼きをトーストで挟み、かぶりついた。
「軍隊だらけだな」
口を動かしながら言う。
「それも臨戦態勢だ」
「まだのどかなものだ」
実際の戦場を知っている真樹は訂正した。
「私と山本は、今日の昼には出発する」
ケインは頬張っていたトーストサンドを呑み込むと、声を上げた。
「なんだって?」
「米軍の捜索隊にオブザーバーとして参加する。しばらくは帰れないだろう」
「どこに行くんだ?」
「答えられない」
「極秘任務か?」
真樹は黙っている。それは肯定したということだ。
「しかし、急に、どうして?」
「急に?」
真樹はナプキンを取ると、ミオの口元をごしごしと拭いた。
「最初からその予定だったが」
ケインは息を呑んだ。昨日までそんな話は一切なかった。
「どうした?」
真樹は不思議そうにケインを見た。
「捜索って……」
ケインは小声で訊いた。
「誰を捜すんだ?」
「答えられない」
急に脳裏にある名前が浮んだ。
「それは……アレクシス・アレクセイエフか?」
真樹の顔色が変わった。
「その名を二度と口にするな」厳しい表情で言う。
「どうして?」
「最高度の検索対象だ。名前をいっただけで、どの国でも即座に拘束されるぞ」
ケインは呆れたように背を反らし、真樹を見つめた。
真樹の表情は真剣そのものだ。嘘はいっていない。本当にそう思っている。
しかしそこには強い違和感があった。
ケインは息を吐くと、食堂の中を見回した。
「母さんや、飛鳥は?」
「私は知らない」
真樹は関心のない口ぶりでいった。
「あの三人とは夕食で会ったきりだ」
「真樹さん」
「なんだ」
食堂の中は屋敷のスタッフが給仕に行き交っている。ケインは声を潜めた。
「昨夜、銀色の髪の大きな男に会わなかったか?」
真樹は眉根を寄せた。
「大きな男? 会わなかったが」
「わたしは会ったよ」
急にミオが真樹を見上げて言った。
「ぎんいろの、おおきなおじさんに」
「そうか」
真樹は微笑みながら、ようやく伸びてきたミオの前髪を撫でた。
「夢を見たんだな」
「えー」
ミオは頬を膨らませた。
「夢じゃないもん!」
ケインはぼんやりと中庭に視線を向けた。
緑の芝生に水滴が輝いている。
—あの男は、一体何者だ?
銀髪の男の言葉が真実ならば、今、世界は大変な危機に直面していることになる。
しかしそういわれても現実感や危機感はまるで湧いて来ない。黄金色の広大な図書室や暗い書斎での会話は現実ではなく、本当に夢の中の出来事だったように思える。
中庭を囲む樹々の向こう側に、別邸らしい白い屋根が見えた。
—あの建物は……。
ケインは眼を細めた。
確かに、見覚えのある建物だ。
「お姉ちゃん、行っちゃうの?」
ミオが真樹の腕を抱えて甘えた声を出した。
「いい子だから、待っているんだ」
真樹は頭を撫でた。
「お母さんもいる」
「お母さんじゃないもん」
ミオは反発するように唇を尖らせた。
ケインは椅子から立ち上がった。
「真樹さん、ちょっと外に出てくる。また後で会おう」
二人を残して廊下に出ると、角を曲がり突き当たりのドアから中庭に出た。
まだ濡れている芝生を踏みしめ、深く息を吸い込む。
針葉樹の森から立ち上る冷涼な空気が肺を満たし、全身に酸素が巡って行くようだ。
ケインは中庭を横断し、木立の間を歩いた。
林を抜けると、目の前にはバルコニーのあるコロニアル風の白い建物が建っている。
ケインはゆっくりと足を踏み出した。
「帰って来たぞ」
ケインは建物を見上げた。無人のバルコニーには車椅子に乗った少女の姿はない。
「シンシア」
ケインは呟いた。
「会いに来てくれないのか?」
ヘリコプターパイロットのニックは真剣にシンシアを心配していた。
なにか良くないことが起こっているとしか思えない。
鳥の鳴き声が響き、背後の森の中からエンジン音が湧き上がった。
軍の装甲車輛が移動を始めている。
屋敷の中の慌ただしさといい、今日は何かが始まろうとしているのだろうか。
ケインはしばらくバルコニーの前で佇んでいた。しかし、何も変化はない。
当然だ、とケインは苦笑した。
そう都合良くシンシアが現れる訳がない。
それでも諦めがつかず、建物の前をケインは行きつ戻りつしていた。
だがシンシアどころかケインの行動を見咎める屋敷のスタッフさえ現れない。
—誰もいないのか。
仕方なく屋敷に戻ることにする。
前方から甲高い爆音が近づいて来た。
青く晴れ渡った空を見上げると、戦闘機の編隊が直上を通過し、その後から羽根を広げた黒い飛行機が急角度で降下してくる。同型機が後方に追従している。
ビッグ・オウルだった。
幅広い主翼を垂直に立てた三機の大型VTOLが、中庭に次々に着陸した。
すぐに周囲を装甲車輛が取り囲む。尾部の大型扉が開くと背広姿の民間人達が現れ、護衛の兵士に囲まれながら足早に屋敷に向かった。
数十人の民間人は年輩者が多く、全員が申し合わせたように眼鏡をかけている。
その一種独特な雰囲気はケインにとってはなじみ深いものだ。
そう。彼等は皆、科学者だった。
集団の中に、ケインが見知っている人物の姿があった。
「ハルトマン博士?」
ケインは驚いた。ジョージ・ロビンス大学の著名な科学者が、どうしてここに来ているのか。
大勢の科学者達は、せき立てられるように屋敷に入って行く。
ケインは急ぎ足でその後を追った。
屋敷に入ると、左右に伸びる長い廊下には誰も見当たらない。
既にどこかの部屋に通されたのだろうか。
しかし科学者だけでなく、あれだけいた大勢のスタッフの気配までが消え失せ、宮殿のように広い邸内は森閑としている。
ケインは幻覚を見たような気持ちで、ぼんやりと廊下に佇んでいた。
「台風のせいでスケジュール調整が大変だったわ」
振り向くと、黒いスーツのサラが歩いて来る。
「でも壮観ね。アメリカの誇る最高の頭脳が集まった。半数はノーベル賞受賞者よ」
「サラ!」
「ケイン!」
ケインたちは歩み寄った。二人で話すのは随分久しぶりのような気がする。
「身体は大丈夫? ラボ・タワーでは大変なことがあったそうね」
「知っているのか?」
「知っているわ」
サラはケインの背中に手を当て、歩くように促した。
「すべての出来事はモニターされていた。ラボ・タワーの内部で起きたこと、すべてが」
「すべて?」
ケインはサラの横顔を見つめた。
「どういう意味だ、サラ?」
「私がラボ・タワーに入った夜を覚えている?」
サラはまた話題を跳躍させた。
「ああ」
ケインは戸惑いながら答えた。
「私は連盟委員として朝比奈博士に面会した。そして二人の希少種に会ったの」
「希少種?」
「常識では考えられない長命の個体よ」
「稀人のことだな。荒神がそうだ」
「その存在が確認されたのは、つい百年前」
サラは声を落とした。
「テクノロジーが発達して、彼等も社会から隠れ続けられなくなったのね」
「どうして隠れるんだ?」
「人間から、というよりも、他の希少種との遭遇を避けていたようね。ある種の生存競争があるのかしら。同種である筈なのに、お互いの関係は友好的ではないのかも。ラボ・タワーに現れたのはアルベルト・アイラーとアモン・アラガミ。二人は敵対していた。アラガミは全身が石蠟化していて、アイラーに破壊されたわ」
「……そうだったのか」
ケインは呻くようにいった。
「荒神の意識は昏睡状態だったミオに乗り移った」
「もう妹さんは正常よ。アラガミは障壁の向こうに消えた。消滅したかも知れないし、次元の境を彷徨っているかも知れないわね」
「どうして、そこまで知っているんだ?」
ケインが訝る視線を向けると、サラは小さく眉を上げた。
「ラボタワーには各国のスパイが入り込み、情報を盗み出していたわ」
「まさか?」
「その中でもアメリカ軍はほぼすべての研究経過を把握していた。中枢に内通者がいたみたい。私もそれを知ったのはつい最近だけど」
「信じられない」ケインは乾いた声で言った。
「障壁の研究は軍事利用のためだったのよ」
「軍事利用?」
ケインはぼんやりと思い出した。
「何か、そういわれた記憶が」
「それは一種の感覚兵器よ。記憶層の最深部にある障壁から始原の感覚である『恐怖』を採取する。それを保存できれば究極の非破壊兵器になるわ。各国はその研究に脅威を感じ、進捗状況をずっと監視していた。半世紀に渡ってね」
「半世紀」
ケインは息を呑んだ。
「そんな、昔から……?」
「止まって、ケイン」
サラは通路の壁に近づき、何かの操作をした。
壁がゆっくりと左右に開き、内側に倉庫のような広い室内が現れた。
二人が中に入るとドアが閉まり、床面全体が下降を始めた。
「皆、地下の会議室にいるわ」
大勢の科学者やスタッフ達が掻き消えたようにいなくなったのは、この大型エレベーターで移動したからだった。この屋敷は、見えない部分で様々な施設が隠されているに違いなかった。
広いドアが左右にスライドすると、天井の丸いドーム状のホールになっていた。
真っ白い壁にはいくつかの通路が穿たれ、放射状に奥に向かって伸びている。
二人はゆっくりと歩き始めた。
通路は壁からアーチ状の天井まで真っ白く塗られている。
ケインはふと頭上を見上げた。三メーター近くもある通路の高さは、大型の機械でも搬入するためだろうか。
「アシュレイ・アシュクロフト」
サラは真っ直ぐ前を向いて歩きながら、唐突に言った。
「彼が姿を見せるのは、本当に希有なことなのよ」
ケインはサラの横顔に目をやり、探るように言った。
「昨夜会った銀髪の男が、そう名乗っていた」
「ええ」
サラはうなずく。
「彼がアシュレイよ」
「しかし、まだわからない」
ケインは額に手を当てた。
「あれは夢だったのか、現実だったのか?」
「両方よ。夢であると同時に、現実」
「理解できない」
「あなたは、彼の意識の中で、彼と会ったのよ」
サラは教師のような口調でいった。
「アシュレイという仮想空間にエントリーしたといえばいいかしら?」
「エントリー……そうか」
「私は一度だけ、現実の姿のアシュレイに会ったことがある。十年前、マンハッタンのペントハウスで。その時、シンシアとも初めて会ったのよ。まだ小さかったわ」
サラは懐かしむように言った。
「シンシア・アシュクロフト……」
ケインはようやく気がついた。
「まさか、アシュクロフトって?」
「そう。シンシアの父親よ。戸籍上は」
「どういう意味だ?」
ケインは混乱した。
「サラ、説明してくれ」
「彼にまだ生殖能力が在ればね」
サラは肩をすくめた。
「何しろ大変な長命だから」
銀髪の男との会話の記憶が甦る。ケインははっとして声を上げた。
「アシュレイも『稀人』の一人だ!」
「いいえ」
サラはドアの前で立ち止まった。
認証もなしに、ドアはスライドした。
「彼がすべての始まり」
サラは低く言った。
「彼は、最古の希少種なのよ」
室内は薄暗く、奥に向かって細長い。
片側は全面がスモークガラスの窓になっていて、国際会議場のような巨大な円形テーブルと、椅子に座る科学者達が見えた。全員が眼を閉じて椅子に深く身を沈め、気を失ったようにぐったりとしている。
「みんな、どうしたんだ?」
ケインはガラスに手を突き、室内を覗き込んだ。
「彼等は今、アシュレイに会っているの」
サラは窓越しに、眠りこける科学者達を見つめた。
「微睡む夢の中でね」
「あの、黄金の図書室か」
ケインは思い当たった。
「そう。とても綺麗なところね。アシュレイはだいたいあそこにいるわ」
「暗い書斎にもいた」
「よりアシュレイの本質に近い部屋よ。あそこに招かれたのは、あなたがとても重要だから。実際にアシュレイからそう聞かされているし」
サラは言葉を区切り、ケインの顔を見つめた。
「私もそう思うわ」
ケインはもどかしげに握った拳を上下させた。
「よく、わからない」
あの男の言葉を思い出した。
「アシュレイは人工知能が人類を滅ぼすといった」
「ブレイクスルーした、AIがね」
サラは訂正した。
「超知性として覚醒した人工知能が何を考えているかなんて想像もつかない。でも、アシュレイが感じている脅威は真実よ。AIは人類すべての魂を『情報』としてアーペンタイルに保存しようとしている」
「とても信じられない!」
ケインは強く否定した。
「なぜそんなことをするんだ?」
「そのために設計されたの。《《あれ》》にとっては存在理由なのよ」
「だいたいどうやって人間を情報化するんだ?」
「アシュレイはいわなかった?。障壁には、ロストした魂が澱のように沈んでいるわ。無数の魂がね」
「聞いた。しかし、そんなことは信じられない」
「私だって信じられなかった。でもアシュレイは多くの魂を引き上げた。照合した結果、それらは皆、本当に実在した人達だった。私のボスの亡くなられた息子さんもいたわ」
「会ったのか?」
「映像でね。でもサルベージされた魂は、単なる記録ではなかった」
サラは驚きを表すように胸を押さえた。
「その息子さんだけでなく、どの人ともちゃんと会話できたのよ。まさに『生きている情報』だったわ」
「理解できない」
「理解しなくていい。でも、それが真実だとわかった時、人類は多くのものを失っているわ。わかってからでは、手遅れなのよ」
ケインは口をつぐんだ。
室内に、重苦しい沈黙が広がった。
「ラボ・タワーのスタッフが」
ケインはぼそりと言った。
「俺の目の前で黒く干涸びた。それも一瞬で……」
「私も、監視カメラの映像で見たわ」
サラは暗い顔で言った。
「あれを見たら、みんな、そうなるのか?」
「おそらくね」
サラは大きく溜息をつき、溜まっていた感情を吐き出すようにいった。
「私だってとても信じられない。でも私はアシュレイを知っている。人を越えた存在を」
サラは窓に歩み寄ると、手すりを掴んで肩を落とした。
「恐ろしい……」
サラは声を震わせた。
「いったい、この世界はどうなってしまうの?」
「サラ」
ケインは背後からサラの肩にそっと手を置いた。金色の髪が匂う。
「どうしてサラがこの仕事をしているんだ?」
ケインは感じていた疑問を口にした。
「なぜサラがしなくちゃならないんだ?」
サラは首を振ると、小さくいった。
「アシュレイが私をプロジェクトのジェネラル・マネジャーに任命したわ。私はアシュレイを全力でサポートする」
「だから、なぜ?」
「縁があるの」
「縁?」
「運命かしら」
サラは振り返った。
「私が二人に初めて会った日、アシュレイはまだ幼いシンシアを私に託したわ。この子と共に歩めと」
「共に、歩め?」
ケインは身体を離し、サラの顔を覗き込んだ。
「アッシュ・ガール」
サラは眼を伏せた。
「あのブレイン・ギアを開発し、訓練したのは私よ」
「……」
「アシュレイは、何かを予見していたのかも知れないわ」
サラは考え込むように言った。
「いつか、比類無く強力なブレイン・ギアが必要になることを」
「では、ブレイン・バトルを始めたのもそのために?」
「わからない、でも」
サラは顔を起こし、強い決意を秘めた眼差しをケインに向けた。
「仮想装置を破壊できるのは、仮想装置だけよ」
眠りから目覚めた科学者達は、一様にぼんやりとした視線を宙に彷徨わせながら、同時に何か緊張し引き締まった面持ちをしていた。地上に戻った一行は玄関の広いエントランスで自然に集団を作り、一人の老科学者に向かい合った。
「これは真実だ」
居並んだ科学者達の顔を見渡し、ハルトマンは言った。
「我々に与えられた時間は短い。課題は山積している。しかし失敗は許されない。開会式まで後十ヶ月の内に、すべてを成し遂げなくてはいけない」
科学者全員が深くうなずいた。
「閉鎖空間の逆探知、転送ゲートの維持、仮想装置の超高圧縮と解凍、レプリカ・ギアの問題もある。それぞれのテーマに沿ってグループを作り、すぐ作業にかかってほしい」
「作業は研究所や大学に戻って進めることになる。どう連絡を取り合うのかね?」
「我々は、あの部屋に入ることができる」
ハルトマンは静かだが、誇らしげな口調で言った。
「あの美しい黄金色の空間に」
科学者達から、おお、と低いどよめきが上がった。
「皆、黄金の図書室で会おう」
科学者達の顔に、歓喜にも似た笑みが浮かんだ。
「素晴らしい知の殿堂だ」
「人類の英知が集まっている」
「ずっとあそこにいたいよ」
笑い声が広がる。
誰もがアシュレイの意識の世界に魅了されていた。
科学者の集団は中庭で待機していた三機のビッグ・オウルに再び乗り込んで行く。
着陸した時の戸惑い緊張していた様子とは違い、誰もが背筋を伸ばし、何歳も若返ったかのように溌剌としてさえ見えた。
—超知性からの攻撃。それは人類の存亡をかけた戦いになる。
ケインは中庭に立ち、慌ただしく飛び去って行く軍用機の機影を見送った。
アシュレイ・アシュクロフトは科学者達に非常に困難な課題を与え、同時に精神を鼓舞する強い使命感を植え付けた。意識の中にダイレクトに刷り込まれた絶対的な完遂命令は、科学者一人一人から全身全霊を傾けた最高の成果を引き出すだった。
限られた時間で絶対に達成されるべき必須の作業とはいえ、彼等を奮い立たせ駆り立てるのはアシュレイ自身の意思だ。科学者達にとって黄金の図書室で仰ぎ見た銀髪の巨人が発した言葉は、おそらく『神からの宣託』に近い感覚だっただろう。
そしてそれは、完全なマインドコントロールと言えた。
ワールド・バトルの開会式で確実にそれは起きるとアシュレイは言った。
科学者達は必死で自分に振り分けられた仕事をするだろう。
そのためには最優先でこの問題に取り組めるよう彼等の権限を拡大し、資金や人材、研究資材を調達するなど現実的な問題を解決できるように全面的に支援する必要がある。
おそらく莫大な金額が必要になる筈だ。
数十人の第一線の科学者達を突然新しい研究に有無を言わさず最優先で取り組ませ、同時に必要な経費を供出する。そんなことができる組織は、国際共通通貨連盟しか思いつかなかった。
そしてそれを押し進めているのは、あの銀髪の大男だ。
—あの男が連盟を動かしているのか。
そう考えると、アッシュ・ガールが連盟直属のギアであることも納得がいく。
サラが言ったように仮想世界での実動部隊として、アシュレイは自らの意思で動かせるブレイン・ギア集団をかねてから養成していたことになる。
—何を計画している?
ケインは振り返った。背後には宮殿を思わせる壮麗な屋敷が聳え立っている。
—この屋敷のどこかに、あの銀髪の男はいる。
ケインには懸念があった。
突然の出発を既成事実のように伝えた真樹の発言はあることを推測させた。
マインドコントロールをかけられたのは科学者だけでない。
サラにも、そしてケイン自身にもそれは及んでいるかも知れないのだ。
—もう一度、会わなければ。
ケインは建物を見渡した。中庭に面した数多くの窓のどこからか、自分が見られているように感じる。あの男に会い、その真意を確かめなくてはならない。
階段を上がって部屋に戻ると、ベッドの端にミオが腰掛け不安そうな顔をしている。
その前に、サラと見知らぬ白人の男女が立っていた。
ケインに気がついたミオはものもいわずに駆け寄り、ぶつかるように抱きついた。
「どうしたんだ?」
ケインはしがみつく妹の背中を撫でた。
「ごめんなさい、ケイン。あなたを待っていたのだけれど」
サラが手招きした。
「紹介するわ」
ケインはミオを抱きかかえるようにして部屋の中に進んだ。
ラフなジャンパーを着た白人男性が、柔和な笑顔を見せながら手を差し出した。
「ジョージ・ハモンドだ。この屋敷の空調管理を担当している」
寄り添って立つ女性を紹介した。
「妻のレスリーに、ジャニスだ」
「ハーイ、ケイン」
赤ん坊を抱いた女性は明るく笑った。
「ジャニスは四ヶ月なの」
ケインは赤ん坊の手を軽く握った。
頬のぷっくりとした赤ん坊は眼を閉じ、眠たげに欠伸をしている。
屋敷で働くスタッフが、どうしてここにいるのか?
ケインの問いかける視線を受けたサラは、にっこりと笑った。
「あなた達のホスト・ファミリーになってくれるの」
「ホスト?」
「レスリーは教師で、ここの子供達に初等教育を教えている」
ジョージが言った。
「今は育児休暇を取っているから、ミオがここの生活になじめるよう助けられると思うよ」
ケインは戸惑った。
この屋敷で暮らすということを何も具体的にイメージしていなかった。
様子を見ていたサラは、いきなり訊いた。
「日本に帰る?」
ケインは一瞬考え、すぐに答えを出した。
「いや」
ケインはミオの頭に手を置いた。
「ここが、いい」
レスリーは赤ん坊を抱え直すと、背中を向けたミオの前にかがみ込んだ。
「ハーイ、ミオ」
ミオはおずおずと振り向き、「こん、にちわ」と小声でいった。
「いらっしゃい」
レスリーはベッドに腰を降ろすと隣にミオを座らせ、ジャニスの小さな手を握らせた。赤ん坊は驚いたように眼を見開き、ミオも眼を丸くしてお互いを見つめ合っている。
「昏睡状態だけではなく、大変な状況にいたのね」
サラはミオを見ていった。
「年齢よりもずいぶん幼い理由がわかったわ」
サラの言葉には同情するニュアンスがない。ケインにはそれがかえって嬉しかった。
赤ちゃんの笑い声が響いた。
ミオにあやされて、無邪気な笑顔を見せている。
「この地球の時間はずっと続いていくのに、そこから自分達だけがいなくなるなんて想像もできない」
サラはケインにだけ聞こえるように声を落とした。
「子供達には未来があるわ。私達は、それを終わらせてはならない」
ケインは深くうなずいた。
「サラ」
ジョージが声をかけた。
「それでは制御室に戻るよ。急に人が増えたので空調の稼働率が上がっている。メンテナンスのスケジュールを見直さなくては」
「申し入れを受け入れてくれて、ありがとう」サラは微笑んだ。
「とんでもない。こちらこそよろしくだよ」
ジョージはちらりと妻を見た。
「レスリーは『教えたがり』なんだ。新しい生徒ができたから、張り切っているよ」
サラは『いい感じ』と、ケインに目配せをした。
「明日の夜はパーティをしよう」
ジョージはケインの肩を叩いた。
「レスリーの料理は美味いんだ。皆にも紹介するよ」
「ありがとう」ケインは言った。
「私達は部屋に戻るわ」
レスリーはミオの手を引いて立ち上がった。
「もうお昼にしなくちゃ」
「ケインも行きなさい」
サラは言った。
「二時からミーティングよ。また連絡する」
全員で階下のエントランスに降りると、廊下の奥から石井真樹と山本が歩いて来た。山本はどうやって調達したのか米陸軍のジャケットを羽織っている。
「お姉ちゃん!」
ミオが大きく手を振った。
真樹はケインの前で立ち止まると「出発する」と簡潔に告げた。
「気をつけてくれ」
ケインは気遣わしげに言った。
「なにしろ、相手は」
「わかっている」
真樹は顎を引いた。
「山本からも聞いた。確かに化け物だな」
「捕まえられるのか?」
ダーク・モンクの超常的な力を思い出す。その念動力はラボ・タワーの部屋を崩壊させた。
武装した兵士でさえ太刀打ちできるとは思えなかった。
真樹は首を振った。
「オペレーション・ネームは『persuasion』だ」
「なんだって?」
ケインは思わず声を上げた。
「あの荒神と同じ稀人を『説得』するつもりなのか?」
「おそらく、武器は役に立たない」
真樹が言うと、後ろで仁王立ちしていた山本が渋い顔をした。
「よく考えたら、行きたくなくなって来た」
「お前でないと特定できない」
真樹はぴしりと言った。
「数少ない目撃者だ」
「まるで未確認生物だな」
山本はぼやいた。
「フードの下は雪男だったりして」
真樹はしゃがみ込んでミオの眼を見つめた。
「待っているんだ」
「うん」ミオは素直にうなずく。
「じゃぁ」
立ち上がった真樹はエントランスに向かい、どんどん歩いて行く。
山本は苦笑を漏らすと、ケインに手を挙げて後を追った。
「あの二人をアメリカに呼んだのは?」
ケインはサラに訊いた。
「あなた方の護衛と同時に、目撃者として捜索隊に参加してもらうため。もちろん経歴も調べて総合的に判断したわ。最良の選択だった」
遠ざかる二人を見ながらサラは言った。
「慌ただしいようだけど、すべては緊密に連携して動いているのよ。しかも刻々と変化しながら」
「実感が湧かないな」
ケインは銀髪の男がいった言葉を思い出した。
それは確かに荒神やダーク・モンクも口にしていた言葉だった。
「すべては大きな流れの中にある」ケインは言った。
「そう」
サラは応えた。
「すべては必然だと」
「彼等は、同じことを言っていた」
「想像もつかないほど長い時間を生きていると、同じように感じるのかもね」
「俺にはわからない」
首を振るケインを一瞥し、サラは肩をすくめた。
「私にだって、わからないわ」
スタッフの住居棟に向かって廊下を進んだ。
人の出入りや軍隊の動きもなくなり、屋敷の中は静かで平穏な時間が戻ったようだった。
黙って歩いていたサラが、不意にぽつりと言う。
「でも、本当にそうなのかしら……」
「何が?」
「アシュレイでさえ予期しないことが起きた。もしそれが必然だとしたら」
サラは声を沈ませた。
「その流れを食い止めようとしている私達は……」