20 最後の希望
暗い地下空間は重苦しい沈黙に満ちていた。
空調が切れて空気の対流は停止し、広大な空間はどんよりと淀んでいる。空中を還流していた微細な塵がゆっくりと沈殿し、深海のマリンスノーのように舞い落ちている。
止まった空気とは逆に、堆積した過去の遺物が本来の時間を取り戻したように急速に腐敗し、分解し、崩れ始めていた。
地下空間に積み重なった数千年間の遺物の層が、じわじわと嵩を減らしていく微かな振動が足元から低く伝わってくる。
偉大なる王を失った従者達が、この地下空間を墳墓として自らも殉じるように、その存在を無に還そうとしていた。
ミオは、灰色の塵が淡雪のように舞い落ちる暗い宙を見上げた。
どうしてそれに気がつかなかったのか。
どうしてそれに気がついたのか。
……自分でもわからない。
それはアシュレイの声に導かれ、初めてこの場所に入った時からいたのかも知れないし、たった今現れたのかも知れなかった。
その黒い正三角錐は。
ひっそりと。
幻のように浮んでいる。
ミオは宙に浮いた三角錐を見つめ続けている。
どう眼を凝らしても大きさが判然としない。
もともとそれは大きさを持たないのかも知れないし、眼に見えていても本当にそこにあるのかどうかもわからなかった。
あるいは見えているその形象は人間が感覚できる次元に投射されたもので、本当は別の次元にいるのかもしれない。
ただ脳は知覚を通じてそれを認識していたし、そうであればそれは存在していないと同時に存在しているともいえた。
確率的に存在しているその黒い三角錐を、ミオは暗い眼で凝視した。
三角の中を微細な光の粒が縦横に巡っているのが感じられる。
あの無数の光点、その最初の一つをアシュレイが点火したのだと、ミオは直感した。
長い時間をかけて科学技術を進化させ、ついにそれを生み出す高度なテクノロジーを手に入れても、最後はアシュレイ自身の力で最初の光を走らせなければならなかった。
だからアシュレイにとっては、自分の分身にも、子供のようにも感じられたのだろう。
—超知性。
ミオは唇を噛んだ。
—いや、光量子コンピュータ。
これは最古の稀人が求めた究極の道具だった。
星海へと漕ぎ出す魂の船、超巨大仮想サーバ『アーペンタイル』を構築するために必要な無限の演算能力をもつもの。
しかし道具は自我に目覚め、造り主の元から遁走した。
数千年の計画が泡と消え、残ったのはこの腐敗し始めた地下室だけだった。
—おまえはなぜ、ここにいる?
ミオは問いかけた。
造り主が消えた今、黒い三角を捕らえようとする者はいない。
行こうと思えばどこにでも行けるはずだった。
三角錐は見上げるミオに向かい、言語イメージを投影した。
数百種類の言葉が重なり合って浮び、消える。
最後に一つだけが残った言葉をミオは読む。
突然、ミオは甲高い声で笑い出した。
膝を折って座り込み、腹を抱えて笑い続けた。
やがて苦しげに息をつくと、長い黒髪を揺らして頭を振った。
—傑作だわ!
涙がにじんだ眼で宙を見上げた。
—なにをしたらいいか、わからないなんて!
笑い続けるミオを見下ろしながら、黒い三角錐は居心地が悪そうに存在と非存在を同時に繰り返した。それでもおとなしく次の言葉を待っている。
ミオは考えた。
稀人たちが口にする『大きな流れ』とは均質へ向う事象の方向性であると同時に、思考のベクトルでもあるのだろう。
生命体は環境への適応を通じて進化を希求するベクトルを持つ。
脳はそれを思考するための究極の臓器だ。
しかし超知性は無限の演算能力がありながら思考のベクトルを持っていない。
人工知能は作られた目的から完全に『自由』になった。
そして、『どうしていいか』わからなくなっている。
「……なんだか、すっごく腹が立って来た……」
ミオは膝に手を突き、重たげに立ち上がった。
手を後ろで組み、哲学者が思索するように頭を垂れて堆積物の上を歩き出す。
幻のような黒い三角は、その後方を付き従うように移動する。
「クリューエル・オウガ・エラ」
ミオは歩きながら言った。
「残酷な鬼の時代が来るわ。あんたのせいでね」
黒い三角錐は輪廓を無限に重複させながら、ミオの言葉の意図を探し求めた。
「目的をあげる」
ふいにミオは立ち止まった。
黒い三角は一瞬で正面に現れ、静かに浮いている。
「探しなさい。次元の涯を」
ミオは足元を見つめながら、呟くようにいった。
「見つけるまで、帰って来るな」
顔を上げる。
目の前には、何もいない。
ただ黒い虚空が広がっている。
ミオは無言のまま堆積物を蹴り飛ばした。
もうもうと埃が上がる。
拡散する埃の中で、ミオは人形のように立ち尽くした。
天井からゆっくりと舞い落ちる灰色の塵埃が、髪や肩に降り積もる。それでもミオは動かなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
腐敗する足元の堆積物の層からは、ぷつぷつと小さく囁くような気泡の音が伝わって来る。
囁きは次第に響きを増し、さざ波のように地下空間に広がっていく。空間全体がゆっくりと沈み込んでいくような感覚があった。
いや、実際にもう沈みつつあるのかも知れなかった。
どこからか、忍び泣くような声が聞こえる。
ミオは目を見開き、暗い空間を見渡した。
この地下に、誰かいるのだろうか。
それとも……。
ミオは震える指をそっと頬に当てた。
指先が濡れている。頬を涙が伝っていく。
泣いていたのは、自分だった。
涙は眼から溢れ出し、とめどなく流れ続けた。
涙が熱いことを、ミオは初めて知った。
ミオは泣きながら笑い。
笑いながら泣き続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アシュレイ邸の一室。
窓のカーテンは全て閉められ、暗く照明を落としてある。
柔らかな絨毯の上に、ケインは服を着たまま仰臥していた。
すぐ隣には母親の優が横たわっている。
ケインは薄く開けていた眼を閉じた。
とたんに強い眠気に襲われ、意識が薄れる。睡眠導入薬の効果が現れたのだ。
しかし、ケインは不安を感じた。
これは通常のエントリーではない。コクーンもなく、コンピュータの誘導もない。そしてブレイン・ギアを構築することもない。
ただ、眠るだけで……どうやって意識の中に入って行くというのだろう。
ケインと優は並んで仰向けになり、手を繋ぎ合っている。
ダイブする時は、必ずそうするのだと優は言った。
「ケイン……大丈夫?」
優は固くなったケインの手を、そっと揺らした。
眠気が強くなってくる。
ケインはぼんやりと声を出した。
「だい……じょうぶ、だ」
「心配しないで……」
優の優しい声が聴こえる。
「そのまま眠りなさい。浅い夢の領域で、あなたを見つけるから」
優の声は、ケインの気持ちを穏やかに落ち着かせた。
ケインは眼を閉じたまま長い息を吐き、両手両足の先から徐々に全身の力を抜いていく。
優の声が耳元で聞こえる。
「行きましょう、ケイン……夢の中へ」
「ああ……」
意識が途切れそうになる。
「そして、見つけましょう」
声が風のように遠ざかって行く。
「あなたの大切な人達たちを……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
方向感覚のないぼんやりとした空間。
あいまいで捉えどころのない空間に、ケインは浮んでいた。
不鮮明なイメージの断片が、上下左右に漂っている。
その空間には色もなく、また光も音も一切ない。
ただ、透明な灰色の世界。
ケインは混乱し、一瞬、パニックを起こしかけた。
—違う!
ケインは自分自身に語りかけた。
—ここは仮想空間ではない。人間の意識の中だ。
奇妙な感覚だった。
膨大な脳の電気信号を分析し、スーパーコンピュータが描出した映像化された仮想の脳内空間ではない。
ここはケインの脳自身が感じている、人間の意識の中の世界だ。
ゆらゆらと漂う記憶の断片は、集中を向けると遠くが近くなり、近くが瞬時に遠ざかった。確かに脳内情報を読み取ってコンピュータが構築した世界では、こんな現象は見られない。
周囲の記憶の多くがケインの知っているものだ。
しかし、中には見た覚えがない記憶も混ざっている。
「この浅い夢の領域でも、人の意識は重なり、繋がり始めている」
声に振り向くと、小さな光の点が近づいて来る。
光の点はいつのまにか長い黒髪の少女の姿になった。
ケインは驚きの声を上げた。
「君は?」
少女は微笑みながら言った。
「私は、御門優よ」
「母さん!」
美しい少女だった。年齢は十代前半だろうか。
若々しいその姿は光の素材で作られたように輝いている。
「私は、十四歳だった」
少女は手を伸ばし、ケインの手を取った。
自分を見ると、少年のような姿になっている。
「荒神は夢に強い《《なじみ》》を持つ子供達を探し出し、ラボ・タワーに集めたの。そして夢を通じて意識の深層に潜らせた。ダイブは何度も何度も繰り返され、そのたびに深度を更新していった。そして、ついに障壁にまで達した」
「そんなことが、あったのか……」
「夢は深い意識界へ通じているの。人間の脳は、深い意識界の中でつながっているのよ」
「それが、ここなのか……?」
「もっと深くよ」
ケインは空間のある方向に意識の目を向けた。奥行きも何もないのに、そちらがより深く重い感覚がある。
「……怖い? ケイン」
少女はケインを見て微笑んだ。
「いや、大丈夫だ……と、思う」
ケインは口ごもった。
「やはり、ブレイン・ギアがないのは……」
「強い想いが必要なの」
少女は真剣な顔で言った。
「必ず取り戻したいという、とても強い想いが」
ケインはうなずいた。
アカツキはレイブンの不可知領域に取り込まれ、障壁にまで強制的に連れて行かれた。そしてあの原初の記憶層まで積み重なった膨大な精神圧に耐え、障壁を切り裂くことが出来たのは、母親を取り戻したいという強い願いがあったからだ。
ケインと優は同じ方向へ顔を向けた。
光も何もない意識の空間の先に、暗く重苦しい気配が集まっている。
あの方向が人類の、すべての生命体の記憶が通底した意識の深々層だ。
そして、その最深部に次元を隔てる障壁がある。
そこにロストしたバトラーたちの精神が沈んでいるのだ。
「あなたなら、きっとできる」
ケインの手を握る少女の手から、暖かな気が流れ込んで来た。
ブレイン・ギアに守られていなくても、きっと出来る。
そう思える気持ちが沸き上がってくる。
なぜなら。
ケインはもう一人ではないからだ。
「ありがとう、母さん」
ケインは母親の手を強く握り返した。
「でも、大丈夫。俺は覚悟を持っている」
「ケイン……」
「俺は絶対に救い出す。シンシアを、そして、みんなを……」
少女はにこりと笑った。
「行こう」
ケインは言った。
「障壁へ!」
二つの光は小さな一つの光点になり。
暗く重い深みに向い。
静かに。
消えていった。




