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02 超知性の誕生


 眼を開けると室内は真っ暗だった。


 一瞬、自分がいる場所がどこか分からなくなりパニックを起こしかける。

 ベッドから上体を起こすと、強い雨風が窓ガラスを叩く音がカーテン越しに聞こえた。


 ケインは吐息をつき、首を振った。

 部屋に通されてから強い睡魔に襲われ、ベッドに倒れ込んだところまでは覚えている。

 疲労した脳はまだ睡眠を必要としているらしい。


 アンティークな置き時計の針は午前三時。


 夕食の連絡はあったのだろうか。

 しかしカイルと優と同席する晩餐が気まずい雰囲気になるのはわかっている。

 眠り込んでしまってよかったのかもしれない。


 空腹よりも喉の渇きが堪え難かった。

 室内を探すと小さな冷蔵庫があり、ミネラルウォーターを飲んでようやく人心地がついた。


 妹のミオがどうしているか気になった。


 見かけはローティーンでも精神年齢は六歳に過ぎない。

 突然両親に会って動揺もしている筈だ。一人で眠れているのだろうか。


 部屋の真ん中に立ち、じっとドアを見つめた。

 気持ちがざわざわとして落ち着かない。

 この部屋を出て、何かを探しに行かなければいけないような気がする。

 窓の外で風が唸り、雨音がいっそう強くなった。




 部屋を横切ると、ドアを開けて廊下に出た。

 廊下の照明は薄暗く、深夜の邸内はひっそりと静まり返っている。

 廊下には等間隔でドアが並び、真っ直ぐにどこまでも続いている。

 その奥はぼんやりと曖昧に霞んでいて、よく見ることができない。

 ……この屋敷はこれほど大きかっただろうか。


 どこに行こうとしているのか自覚もないまま、ケインは足を踏み出した。

 廊下に敷き詰められた分厚い絨毯が足音を消す。移動している自分の姿を後ろから眺めているような、奇妙な遊離感があった。

 意識の片隅で訝りながら歩き続けると、別の廊下が交差する角に、ミオが壁にもたれて立っていた。

 この邸宅に来た時の服装ではなく、古風な黒いドレスを着ている。


「ミオ?」

 ケインは立ち止まり、声をかけた。


「お兄ちゃん」

 ミオは頬笑み、誘うように首を傾けた。

「こっちよ」


 ミオは壁から離れ、角を曲がって姿を消した。


 ケインは後を追った。

 足を踏み入れた廊下は更に暗く、その先は濃密な闇の中に溶け込んでいる。

 背筋にぞっと寒気が走り、ケインは思わず踵を返そうとした。


 ケインは指をぎゅっと握り締められた。

 視線を落とすと、ミオが手を掴み、じっとこちらを見上げている。

「行きましょう」


「いやだ……」

 ケインはぼんやりと呟いた。

「……行きたくない」


「大丈夫よ」

 ミオは暗い廊下の奥に向かって歩き出した。


 強い力で手を引かれ、ケインはつんのめるようにして足を踏み出す。


「あの暗闇はなんだ?」

 ケインは闇の奥を見据えた。何か異様な気配が漂っている。

 それは決して近付いてはならない忌まわしいものだった。


「私達は大丈夫」

 ミオは繰り返すと、足を速めた。


「いやだ!」

 ケインは恐怖の叫びを上げた。

「ミオ!」


 妹の細い指は万力のようにケインの手を握り締め、振りほどくことができない。

 いつの間にかケインはミオに手を引かれ、宙を飛ぶように走っていた。

 前方の闇が見る見るうちに近づいてくる。

 ケインは声も上げられないまま、濃密な暗黒の中にどっぷりと呑み込まれた。




 微かに黴臭い匂いが鼻腔をくすぐった。

 しかし、不快ではない。どこか懐かしい感じがする匂いだった。


 ケインは古びた木製の本棚の前に立っていた。

 本棚は見上げるほどの高さがあり、どの棚にも西洋の古書らしい幅広い革の背表紙がぎっしりと並んでいる。

 本棚は左右に伸び、ケインの後ろにもそびえたっている。


 どうやら古い図書館のようだ。


 あの異様な暗闇は何かの心理的な防壁なのだろうか。

 ケインは周囲を見回したが、この空間に入って来た『入り口』は見当たらない。


 誰かの話し声が小さく聞こえてきた。

 その声は旋律を歌うように、低く静かに流れてくる。ケインは惹き付けられるように本棚に沿って歩き出した。

 本棚の端を曲がると目の前が開け、明るい空間が広がった。


 ケインはドームスタジアムのような広大な室内にいた。

 空間全体が薄明るい黄金の光に満たされている。

 頭上を仰いでも天井は見えず、雲間から差す太陽のように金色の光のカーテンがゆらゆらとたなびいている。

 ドーム空間自体が教会や寺院の中にいるような、神秘的で荘厳な雰囲気に満たされていた。


 目の前の場所はこの大きな空間の中心らしく、周囲を本棚が城壁のようにぐるりと取り囲んでいる。

 広大な床には百を越える様々な椅子、それも世界中から集めたような時代も民族もデザインも異なる椅子が雑然と置かれている、

 奥にはそれらに向かい合うように、背もたれの高いひときわ大きな椅子が見えた。


 椅子の間を縫うようにして前に進んだ。

 背の高い椅子に座った大きな人と、その傍らに立つミオの小さな姿が見えた。


「みんな、どうして眠っているの?」

 ミオが問いかけている。


「疲れているのだよ」

 壮麗なパイプオルガンの和音のように、低く豊かに響く声。

「そっとしておいてあげなさい」


 ケインは大きな人の前に進み、そして立ち竦んだ。


 その男性は美しくウエーブのかかった銀髪を肩に垂らし、祭壇のように彩色された巨大な木の椅子にゆったりと座っていた。恰幅の良い堂々とした体格は座っていながらも見上げるほどの高さがあり、明らかに人間としての規格を超越していた。

 気がつくと巨人はケインに顔を向け、観察するように眼を細めている。

 かなりの距離があるのに、巨人の青みがかった灰色の瞳が間近にあるようだ。

 ケインは息を呑み、ようやく言葉を発した。


「あなたは?」


「私は知っているよ、君を」

 巨人は慈愛に満ちた微笑を浮べた。

「とても希有な体験をしたようだ。後で見せてもらおう」


「見る?」ケインは聞き返した。


「君の見て来たものは非常に興味深い。それにしても闇の求道者は、随分と苛酷な試練を課したものだな」


「闇の求道者……」


「アモン・アラガミ、といったか」

 巨人は太い指で顎を撫でた。

「我々はお互いをそれほど把握してはいない。むしろ避けて来た。それがここに来て否応なくかかわり合うことになっている。面白いことだ」


「我々、お互い……」

 ケインは言葉を探した。

「稀人の『仲間』、なのか?」


「『稀人』か。そう呼ぶ者もいるな」


 天から明るい黄金色の光が差込み、巨人の銀髪がきらきらと眩く光る。

 ケインは眼の前にいる大きな存在が、確かに『人』に備わった許容量を遥かに越えていると感じられた。


「すべては大きな流れの中にある。ならば」

 巨人は空間に視線を向け、呟くように言った。

「これも必然といえるのかも知れぬ」


 ミオがケインの肩越しに、後方を見ている。

 ケインが振り返ると、椅子に座った何人かの人が見えた。ケインは声を上げた。


「母さん!」


 眼を閉じた優が、ぐったりと椅子に座っている。ケインは優のもとに駆け寄った。

 その左右には、カイルと飛鳥、そして真樹と山本もそれぞれが違う椅子に座り、意識を失ったように頭を垂れている。


「彼らは心配ない。眠っているだけだ」

 巨人の低く豊かに響く声。


「記憶を、見たのか?」

 ケインは振り返った。


 巨人は感心したように小さく眉を上げた。

「……そうだ」


 空に雲がかかったように、周囲が薄暗くなった。

 はっとして眼を瞬くと、巨人の開いた掌がケインの頭を包み込もうとしている。

 しかし、ケインは、まったく身動きができなかった。

 大波のような暖かい気が押し寄せ、ケインの意識は吸い込まれた。


 過去の記憶が映像となって激しく明滅し、風に舞う木の葉のように飛び去って行く。

 幼い子供の頃の思い出、養護施設の生活、斉藤との出会いとブレイン・バトラーとしてのトレーニングに明け暮れた日々。デビュー戦の惨敗と、屈辱を晴らすためのバトル漬けの生活。飢えた獣のように勝利への渇望だけで生きていた頃。そして頭角を現し、勝利を重ねて国際級までランクアップして行く怒濤のような栄光の日々。


 柔らかな低い和声が意識の中で響く。

「これは何かな?」


 板塀で囲まれた砂地で、ケインは黒装束の武芸者と対峙していた。

 正眼に構えた剣からは痺れるような冷たい殺気が放たれている。ケイン自身には覚えのない光景だった。


「これが十二宮か。君の強さの秘密だな」

 低い声が響く。


 映像が荒涼とした荒れ地に変わった。黒い兵士達の群れが大地を埋め尽くしている。突然眩い光が走り、視界全体が真っ赤な炎に包まれ、燃え上がった。


「世界を焼き尽くす、終焉の炎」

 声が暗く沈んだ。

「アラガミは本当に未来を見たのだろうか?」


 気がつくと、ケインのすぐ横に巨人が立っていた。

 巻き上がる熱風に銀髪をなびかせ、厳しく引き締まった顔を燃える空間に向けている。


「今となっては、確かめるすべもないが」


 再び炎上する世界を目にしたケインは激しく身震いした。

 荒神によって、地球を焼き尽くした終末の焔が自分の中に封じられているのだ。


「しかし、この膨大な量のイメージを、如何にして生成し得たのか」


 巨人は考え込むように呟くと、青灰色の眼でケインを見下ろした。


「ほう」

 声を落とす。

「君の脳は、いじられているな」


 ケインの眼前を沢山の小さな映像が検索するように飛び交い、その一つが静止した。若い男が幼いケインを抱き上げている。それは父親である御門カイルだった。


「黒質の一部が外科的に処理されている。バイパスを造ったか。いや増幅さえも可能のようだ」

 医学者のような口調で巨人はいった。

「良い仕事だな。初期のナノマシンでよくできたものだ」


「あの男が」

 ケインは画像のカイルを睨みつけた。

「俺に、なにかしたのか?」


「破壊衝動のメカニズムを、一部だが彼は解明したようだ。そして衝動を開放するトリガーを作り」

 巨人はケインをじっと見つめる。

「君の脳に埋め込んだ」


「……なん、だと!」


 ケインの意識は激しく揺らいだ。

 荒神に記憶を操作されたうえ、実の父親にまで脳に何かの処置をされていた。

 そしてそれがブレイン・バトルでの爆発するような攻撃力とスピードを産み出している理由だった。

 本能を突き動かす衝動のリミッターが外されていたのだ。


「どうして、そんな」

 ケインは激しく喘いだ。

「あんたは、あんたは!」


 小さな画像の中のカイル・ローゼンタールは幼いケインを抱き、嬉しそうに笑っている。

 撮影したのは優だろう。それはかけがえのない幸せな家族の時間に違いなかった。

 それなのに……。


「あんたは、俺の父親じゃないのか!」


 ケインは拳を握りしめ、がくりと膝を突いた。

 その身体から赤い波紋が周囲に広がり、一瞬で地面は煮えたぎった灼熱の溶岩の海に変貌した。


「凄まじいものよ」


 巨人は傷ましげに声を落とした。

 二人の姿はマグマの海の上空に浮いている。


「闇の求道者が障壁を切り裂こうと造り上げたその力が、今は人類の切り札とはな」


 巨人の言葉を、ケインは茫然とした意識の中で聞いた。


「しかし、君には封印が必要だ」


 眼下に広がる炎の海から、溶岩の噴流が間欠泉のように何本も立ち上がっている。

 噴き上げられたマグマは火炎龍のように天に伸び、自らの重さで落下して行く。溶岩の飛沫が周囲に飛び散り、焔の雨を降らせた。


 巨人は大きな掌を燃える空間に向けた。


「サクリファイス!」


 前方に白い光が現れた。ケインは顔を上げ、強い光に手をかざした。

 白い光は真っ赤な焔を弾き返すように眩く輝いている。

 その中心に、ある姿が見えた。


「シンシア……?」


 金髪の少女がすっくと立ち、青い瞳を真っ直ぐケインに向けている。

 突然、威厳に満ちた声で巨人が叫んだ。


「鎮まれ! 猛き紅蓮の焔よ!」


 時間が静止し、炎の海が動きを止める。

 豊かな声が炎熱の空間に朗々と響き渡った。


「白き光と、共に在れ!」


 白い光が爆発し、燃え盛る空間を充たす。

 次の瞬間、すべてが暗転した。

 眩い光は相転移し、真の暗黒が世界を包み込んだ。





 眼を開けると、見慣れない部屋の中にいた。

 照明は薄暗くてよく見えないが、片側の壁は天井まで届く本棚になっている。

 反対側に並ぶ窓の外からは、荒れ狂う暴風雨の唸りが低く伝わってくる。


「ここは……?」


 ケインは沈み込んでいた革のソファから身体を起こした。

 手に伝わるひやりとした革の質感が、ぼんやりとした意識を覚醒させる。


 黄金色の光に満たされていた広大な図書室ではなかった。

 だが同じなのは、ケインの周りのソファや椅子には、ミオや優、カイル・ローゼンタール、そして飛鳥と真樹、山本の眠る姿があった。


 ケインは腕で眼をこすった。

 どこまでが夢で、どこからが現実なのかわからない。


「なぜここに来てもらったかは、改めて説明しよう」

 チェロの低音弦のように豊かに響く声が聞こえた。


 薄暗い部屋は中世の書斎のように古めかしく、壁一面の本棚から溢れた書籍が床にも積み重ねられている。その奥の幅広い執務机の向こうに大きな人影が見えた。

 ケインは薄暗がりの先を見透かした。肩まで伸ばした銀色の髪には見覚えがあった。


「あんたは誰だ?」


 大男はペンで書き物をしながら、簡潔に名乗った。


「アシュレイ・アシュクロフト」


 モニュメントの彫像のような見上げるばかりの巨人ではなかった。

 しかし、座っていながらもわかる胸の厚い堂々とした体躯と、その身体から発せられる大きな存在感は、今まで出会ったことのない強さだった。


「私は多忙である。それに」

 アシュレイはペンを握った手を止めずにいった。

「これからこの屋敷も賑やかになる。二人で話す機会もそうないだろう。聞きたいことが在るのなら、今聞き給え」


 尊大な口調に、ケインは思わずむっとして言い返した。

「ない」


「結構」

 アシュレイは鷹揚にうなずいた。

「だが誤解しないで欲しい。君を軽んじているわけではない。先程もいったように君は私の切り札だ」


「どういうことだ?」

ケインはソファから身を乗り出した。


「人類はかってない存亡の危機に直面している。私自身でさえ予想できなかったことだ」


 ケインは銀髪の男を凝視し、皮肉を込めていった。

「まるであんたが神みたいないい方だな」


「否定はしない」

 アシュレイは顔を上げ、初めてケインに視線を向けた。

「準備期間はもう一年もない。一秒たりとも無駄にはできないのだ」


「準備期間? 何を言っているんだ?」


 アシュレイは足を投げ出して眠りこけている山本を指差した。

「彼はアレクシスに会っている」


「アレクシス?」


「アレクシス・アレクセイエフ」

 アシュレイは少し考えて言った。

「君には、ダーク・モンクといえば思い出すかな」


 アンリミテッドに現れた黒い修道僧だ。


「彼の名を口にするのは数百年ぶりだ」

 アシュレイは軽く眉を上げた。

「探し出し、ここに連れて来てもらう。アレクシスの力を私は必要としている」


「ちょっと待ってくれ!」

 ケインは混乱し、苛立って声を上げた。

「説明してくれ。これから、何が起きるんだ!」


「ワールド・バトル」

 アシュレイは執務机に肘を突くと、顔の前で太い指を組んだ。

「ブレイン・バトルの世界一決定トーナメントだ」


「それは、わかっている」

 意外な返事にケインは当惑した。固いソファに座り直す。

「俺も、出場する予定だ」


「その開会式だ」


「開会式?」


「全世界で数十億の人間がインターネットを通じてアクセスし視聴する。脳に直結する視覚デバイスの使用者も先進国を中心に億を越えると予想される」


「おそらく、そうだろうな」ケインは首肯した。


「その時しかない。必ずあれは現れる」


「あれ?」


「アーペンタイルだ」銀髪の男は低く言った。


「アーペンタイル?」

 ケインはおぼろげな記憶を辿った。

「それは、アメリカ空軍の造った仮想サーバでは?」


「アーペンタイル自体は人工知能(AI)が構築した仮想装置だ」


「人工知能……」


 ケインは訝しむように眼を細めた。

 それではこの男は科学者なのだろうか。


「そう。私が設計し開発した、究極のコンピュータだ」

 アシュレイは心を読んだようにうなずくと、重々しい口調でいった。

「その人工知能が、ブレイクスルーした」


「ブレイクスルー?」


「AIが超人間的知性に目覚めた。『超知性』が誕生したのだ」


 突然、熱い波動が顔に当たった。

 ケインは思わずソファの上で背を反らした。

 その痛いほどに激しく強い波は、明らかに怒りの感情だった。

 銀髪の男が何倍にも膨れ上がって見える。男の姿は確かにあの巨人そのものだった。


 アシュレイは気を鎮めるように椅子に深くかけ直し、ケインに青灰色の瞳を向けた。


「アラガミの計画は、彼がダークサイドの力の根源と考える異世界を覗き見るために君が障壁を切り裂くことだった。結果として異世界の情報がこちらの世界に洩れ出してしまった」

アシュレイは不快げに顔をしかめた。

「それは本来こちらの次元では存在し得ない、いや、在ってはならない『反世界』だ」


「反世界?」


「私はその存在を」

 銀髪の男は傲然と言い放った。

「許さない」


 ケインは息を呑んだ。

 この男は自然の摂理にさえ自身の審判で是非を下そうとしている。

 それは傲慢や尊大などという言葉を遥かに凌駕した、絶対的な存在としての自己を確信している強さだった。

 アシュレイは言葉を続けた。


「私は米軍のDCディメンション・キャプチャーを使い、異世界の情報を捕獲した」


 ケインは循環する箱型の四次元超立方体を思い出した。

 記憶の深深度に現れた異世界の情報である黒い霧を内側に取り込み、転送リングに吸い込まれて行った巨大な仮想装置だ。


「米軍のサーバに保存し終わった瞬間、アーペンタイルはそのDCを略取した」


「略取?」

 ケインは聞き返した。

「いったい、どうやって?」


「アーペンタイルはその米軍サーバ内に構築されている。《《あれ》》は保存した異世界の情報ごと、自身を構築した仮想空間そのものを閉鎖してしまった。現在も探知できない状態だ」


「ちょっと待ってくれ。AIが横取りしたっていうのか?」


「そうだ」


「しかし、なぜ、そんなことを?」


「四次元であるこの物質界は大きな二つの法則に支配されている。いずれは宇宙の摂理として統合されるだろう。しかし、異世界の情報を感知し認識することは、異なった摂理同士の衝突を意味する」

 細めたアシュレイの眼が光る。


「全く、意味が分からない」ケインは首を振った。


「それを見た生物は生存できない、ということだ」


「そんな!」

 ケインは反射的に叫んだ。

「あり得ない!」


「君は見た筈だ。ラボ・タワーで洩れ出した異世界の情報を」

 アシュレイは声を落とした。

「そして、それを目撃した人間がどうなったのかを」


 ケインは思い出した。

 コクーンから出た後、廊下で出会った研究員が一瞬で黒く干涸びるのを。

 あれは具現化した異世界の闇を直視したからだった。


「日本政府がラボ・タワーの研究を維持し続けた理由はそこにある。異世界の情報は、こちらの世界では一種の感覚兵器、『死に至る恐怖』という究極の非破壊兵器に成り得るのだ」


「感覚兵器、だと?」

 ケインは愕然とした。それでは朝比奈博士の研究は軍事目的だったというのか。


「だがその可能性は低いと判断し、私はアラガミの存在をほぼ放置していた」

 アシュレイはシニカルな笑みを浮かべた。

「まさか、本当に次元の壁を切り裂くとはな」


 ケインは沈黙した。


「もちろん私も生命記憶の最深層に『底』があることは気づいていたし、その研究も進めていた。驚いたことに『底』には輪廻の階梯からこぼれ落ちた、無数の失われた魂が沈んでいたよ」

 アシュレイは感慨深げにいった。

「私はAIプローブを使い、多くの魂をサルベージした」


「引き上げる? 魂を?」

 ケインは眉根を寄せた。

「いったい、何を言っているんだ?」


「言葉に捕われるな」

 アシュレイは平然として言った。

「人間の魂は時空間を越えて蓄積された情報そのものだ。それを書き出して保存する。そのための大規模仮想サーバとして構築したのがアーペンタイルだ。アーペンタイルには人間の魂を保存するというプログラムが大命題として書き込まれている。今後もそれに従って行動することは充分に予想できる」


「それなら、なぜ」

 ケインは混乱し、額に指を当てた。

「なぜ、ワールド・バトルの開会式を狙うんだ?」


「まだ情報化していない人間の魂を、最も効率よく書き出すためだ」


 ケインは一瞬考え、声を上げた。

「それは、まさか?」


「そうだ」

 アシュレイは首肯した。

「アーペンタイルは異世界の情報を開会式に送り込む。会場の観衆、そして開会式を視聴している数億の人間が『闇』を見るだろう」


「つまり」

 ケインは声を絞り出すように言った。

「観客を殺すってことか?」


「観客だけではない。視た者すべてをだ」


「そんな馬鹿な!」


「絶対に阻止する」アシュレイはきっぱりと言った。


「しかし、どうやって?」

 いつの間にか口の中が乾いてしまっている。

「仮想空間は閉鎖され、探知できないといった筈だ?」


「アーペンタイルは異世界の情報を流すため、開会式の中継システムに侵入して来る。どんなにアクセスコードを暗号化しても突破されるだろう。あれの処理速度は桁違いだからな」


「防げないのか……」

 ケインは凝然として息を呑んだ。


「アクセスしたその瞬間が、唯一の機会だ。アーペンタイルは異世界の情報をこちらのネットワークに流し込む。その瞬間、我々はアクセスルートを逆探知して君たちを送り込む」


「待ってくれ!」

 理解が追いつかない。ケインは頭を振った。

「送り込むって、どういうことだ?」


「ブレイン・ギアで攻撃するためだ」

 銀髪の男はケインをまっすぐに指差した。

「アーペンタイルを破壊しろ」


 ケインは驚愕し、ソファから立ち上がった。

 執務机の向こう側から、アシュレイの瞳がじっと自分を見つめている。


「まさにこの世界の存亡をかけた、本当の意味でワールド・バトルになる」


「それでも数億の人間が死ぬ!。それでは、阻止することにはならない!」


「全員ではない。人類の多くは生き残る。だがアーペンタイルは繰り返すだろう。最後の一人の魂を保存するまで」

 アシュレイは確信を込めた口調でいった。

「選択肢はない。道は唯一つ。同じ想像的構築体であるブレイン・ギアを使い、アーペンタイルを完璧に破壊するんだ」


「そんな」

 ケインはごくりと唾を呑んだ。

「それに、俺だけでは……」


「気弱だな。君たちといった筈だ」


「他のブレイン・バトラーか?」


「選定はこれからだ。隠されている能力を引き出し、見極める」


「隠されている……能力?」


 ケインはどう答えていいかわからず、両手を硬く握り締めたまま、アシュレイの前に立ち尽くしていた。

 部屋が急に暗くなった。執務机の向こうの銀髪の男が、暗闇に溶けていく。


「人間の未来がこのバトルにかかっている。そして君は、人類の切り札なのだ」

 低い声が空間に残響した。

「頼んだぞ、サムライ」


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