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15 ワールドバトル開会式


 リビングで電話が鳴っている。

 おまけにベッドのジャニスがきゃあきゃあ声を上げて着信を知らせている。

 ミオは溜息をついて勉強机から立ち上がった。

 レスリーはどこへ行ったのか。


「電話《telefoon》、電話《telefonas》、電話《телефон》」


 各国語で呟きながらリビングに急ぐ。

 三十七番目の言語で受話器を取り上げた。


「もしもし?」

 うっかり最後の単語のラトビア語で言ってしまう。


「誰?」

 サラの叫ぶ声が聞こえた。


「わたしはミオです!」

 ミオは英語で明るく言った。

「サラ、お元気?」


「ケインはどこ?」


「たぶん」


「また?」


「ええ」


「ああ!」

 サラは嘆いた。

「ありがとう、ミオ」


 ミオは受話器を置くとキッチンを覗いた。

 ヘッドフォンをしたレスリーが踊りながら抱えたボウルのクリームをかき回している。今日のおやつは美味しいケーキがいただけそうだ。


 リビングに戻るとジャニスを抱え上げ、ベランダに出る。

 すっかり芝の荒れた中庭には、黒いビッグ・オウルが数機待機している。

 間もなく屋敷に滞在しているバトラーやスタッフ全員が、LA(ロサンゼルス)に向かって飛び立つ時間だ。

 それなのに。


「まったく、こんな時に何をしているのかしら」

 ミオは憮然として頬を膨らませた。

「私の兄は!」


 ジャニスが笑いながらミオの頬に手を伸ばす。


「ああ、男って馬鹿ね」

 ミオはリビングに戻ると、急に真顔になって黒い翼を振り返った。

「わたしが戦えればいいのに」


 黒衣の修道僧の顔が浮んだ。

 アンダーグラウンドでのアカツキとのバトルの映像記録も見ている。

 自分がどう訓練してもあの超常的な能力に太刀打ちできるとは思えない。

 何よりミオには『戦う』というイメージがどうしても湧いて来なかった。


「違う」

 ミオはぽつりと言った。

「わたしには、わたしがやるべきことがある」


 視線を更に遠くに向けた。

 針葉樹の木立の向こうに、別邸の白い屋根が僅かに見える。


「しっかりしてよ……お兄ちゃん!」




 ケインはベッド脇の椅子に座り、シンシアを見つめていた。

 シンシアは傾斜したベッドに上半身を起こし、頭部と首をヘッドレストで支えられている。


「ずっと、夢の中にいるようだった」

 シンシアは言った。

「苦痛に満ちた悪夢の中に」


「訓練を、覚えていないのか?」

 ケインは声を落とした。


「水を」

 シンシアは小さく言った。


 ケインは手にしたグラスのストローを薄い唇に差し込んだ。

 顎に手を添えて上向かせ、嚥下しやすくする。

 ぎこちない手つきだったが、すぐ隣に座るセリーヌは『OK』と眼で合図してくれた。


「ありがとう、ケイン」


「あの、仮想装置は」

 ケインは詰まるようにいった。

「やはり、どうしても、使わなくてはならないのか?」


「ケイン……」


「すまない」

 ケインは呟いた。

「もう、何度も聞いたよな」


「悪夢の中で、一番怖かったのは」

 少女は見えない眼を宙に向けた。

「自分の中で巨大な力が膨れ上がってくる感覚だった。洪水のように溢れ出て止まらない、とてつもなく凶暴で破壊的な力が」


「あの装置が増幅させたものだ」

 ケインは声に力を込めた。

「破壊衝動は誰でも持っている。気にしなくていい」


「否定はしない。あのパワーは私のものだ」

 シンシアは言った。

「そして今は、それに賭けるしかない。相手を上回るために、私はすべてのパワーを解放する」


 ケインは息を呑んだ。

 シンシアの『覚悟』は微動だにしない。

 健康状態を取り戻したことで、それはより強固になっている。


「そんなに、喋るな」

 ケインは苦し気に言った。

「俺は、ただ……」


「……わかっている」

 少女はぼそりと言った。


 アラスカの研究施設から戻ってから、ケインは毎日シンシアの元を訪れていた。

 自由に動ける時間は入り浸っていたといってもいい。

 発声できるようになっても、長い会話は介護スタッフから許可されなかった。

 それでも室内をうろうろし、セリーヌから追い出されたこともあった。

 だが、シンシアに会いたいという気持ちを抑えることはできなかった。


「サムライ」

 急にシンシアは声を高くした。

「今だけだ」


「……」


「すぐに、終わる」


「ああ」

 ケインは掠れた声で応えた。

「そうだな」


「勝てばいいのだ」


「ああ」

 ケインはうなずいた。

「勝てばいい」


「私達は、勝つ」


 沈黙が流れた。

 その意味の重さと、言葉の軽さに、強い断絶感を感じる。

 ケインは息を吐くと、顔を上げた。


「そろそろ出発だ。LAに行く」


「ケイン……」


「心配するな。明後日には戻ってくる」


「別に心配はしていない」


 ケインはがくりと肩を落とした。


「そして」

 シンシアはいった。

「開会式」


「ああ……ついに、来たな」


 再び沈黙が流れた。

 会話が途切れる度に、息苦しくなってくる。

 ケインは椅子から腰を浮かせた。


「じゃぁ、ケインは」


「ケイン」


 動きを止めた。シンシアの声が震えている。


「シンシア?」


「ケイン」

 少女は唇を震わせ、繰り返した。

「ケイン」


 ケインは少女の顔を覗き込んだ。

 閉じたまぶたの端から細い涙が流れ出している。

「どうした?」


「私、怖い」

 シンシアは嗚咽を漏らした。


「シンシア……」


「いやだ」

 涙が頬を流れ落ちる。

「逃げ出したい」


 ケインは身を乗り出し、細い肩を掴んだ。

「みんな怖いんだ。でもやるしかない。わかっているだろう?」


「わかっている。でも、怖い」


「泣いていいぞ。今だけは」

 ケインは額を少女の額に押し当てた。

「怖いのは当たり前だ。隠す必要なんてない」


 セリーヌが席を立ち、静かに部屋を出た。


「どうして、こんなことを」

 少女は声を詰まらせた。

「私達がしなくてはならないの?」


「俺達しかいないんだ!」

 ケインは小さく叫んだ。

「これができるのは!」


 シンシアの喉から笛のような声が洩れる。

 どんなに悲しくて辛くても、少女には泣き叫ぶ力もないのだった。


「ケイン」

 少女は震え声で言った。

「私を触って」


 ケインは額を押し当てたまま、両手で金色の髪をまさぐった。


「もっと」


「シンシア!」


「唇を」


 ケインは薄紅色の唇に指を当て、形をなぞった。


「キスして」

 シンシアは囁いた。

「お願い」


 ケインは腰を浮かし、少女の唇に自分の口を重ね、離した。


「離さないで」


「シンシア……」


「もっと」

 ケインは少女の頭を支え、長いキスをした。



 ビッグ・オウルの搭乗口に乗務員とサラが立っている。

 サラは腕を組み、遠目からでも立腹しているのがわかった。

 着替えの詰まった小さなバッグを肩にしたケインは芝生を全速力で駆け、サラの前に急停止した。


「遅れてすまない!」

 息を荒くして、ケインは言った。


「何をしていたの?」

 サラは美しい眉を吊り上げた。


「何も」


「アッシュの所ね?」

 サラは詰問した。

「毎日入り浸って。しっかりしなさい!」


「ケインは、大丈夫だ」


「何か嬉しそうね?」


 サラは目を細めると、あっと声を上げた。


「アッシュに何かした?」


「何も」


「したでょ?」


「別に」


「したのね!」

 急に回し蹴りが飛んできた。ケインは飛び退って躱す。


「まだ甘いな」

 搭乗口から真樹が顔を出した。

「早く乗れ。皆待っている」


 ケインは素早く機内に駆け込んだ。


「真樹さん、サラに教えたのか?」


「キック・エクササイズ」

 真樹は真顔で答えた。


「これ以上サラにスペックを増やさないでくれ!」


 乗務員が肩をすくめた。

「離陸します」


 座席には山本の姿もある。

 ケインの個人警護の契約は継続されることになっていた。


 J・F・K国際空港で国内線に乗り換える。

 貸し切りのファーストクラスのシートに座ったブレイン・バトラー達に、スタッフがデータパッドを手渡して回る。


「LAでのスケジュールよ」

 サラは片手を腰に当てて言った。

「公式記者会見からエントリーのダミー撮影、スタンドインとすり替わってホテルを抜け出し、空軍基地まで」


「よく考えたな」

 アントニオが鼻で笑った。

「昔のハリウッド映画だ」


「必ず読んでおいて」

 サラはきっぱりと言った。

「全ページを!」


 じろりとケインに視線を送る。まだ怒っているようだ。


「スケジュールは分刻みで決められているわ。絶対に遅れないように」


「まだ詰められるな」

 ランディが表をチェックしながら、しかつめらしく言った。

「ここは五分短縮できる」


「ねぇサラ、朝食には二時間欲しいわ」

 シェリルが手を挙げた。

「あと友人のエステティシャンをホテルに呼びたいのだけれど」


「サラ、とりあえずシャンパンを頼む」


「俺はステーキとビールだ」


「ここ、マンガの配信ないの?」


 サラはよろよろと歩くと、ジェネラルの隣のシートに身を沈めた。


「気にするな」

 老紳士は垂れたまぶたでウインクした。

「奴らはこれが普通だ。わかっているだろう」


「これが私の仕事なの」

 サラは眉根を指でもんだ。

「でも、譲歩するわ」


「ほう?」


「戦うのは、彼等ですからね」


「その通りだ」

 バーンスタインはコーヒーを口に運んだ。


「私は、祈るだけよ」


「君はよくやった」

 老紳士はサラの手を軽く叩いた。

「たいしたものだ」


「ありがとう」

 サラは微笑んだ。

「でも、まだこれからよ」


「……そうだな」


 ジェネラルはパッドをスクロールした。


「確かに分単位だ。それに連盟だけでなく各メディア、米空軍、LAPDから民間警備会社まで関わり、連携して動く」


 サラは黙ってうなずいた。


「どんなに極秘で進めていても、どこからか情報が漏れるのはやむをえないな」


「何かがおかしいと、誰かが気づくでしょうね」

 サラは肯定した。

「そのタイミングが問題」


「重要なのは作戦の遂行だ」

 指揮官は言った。

「失敗すれば責任を問うどころではない。人類がいなくなるのだからな」


「誰もがそう理解してくれれば良いのだけれど」


「サラ」

 通路を挟んだ席からハンコックが声をかけた。

「質問がある」


「どうぞ」


「スタジアムに、アーペンタイルはどうやって現れるんだ?」


「おそらくどこかの映像回線にアクセスして来る筈よ」


「では、対策は?」


「スタジアムの運営スタッフ、放送中継班、警備の警官、その他スタジアム内の全スタッフは視覚デバイスを装着する。スタジアムだけでなく、視認する可能性のある部署にはすべて視覚デバイスを配布するわ」


「それは徹底しているな」

 ハンコックは重々しく言った。

「しかし、観客は?」


 サラは黙った。ジェネラルも険しい顔で口を結んでいる。

「……なんてことだ!」

 ハンコックは唸り声を上げた。

「観客は、《《直視》》するんだな?」


 周囲のバトラー達が会話を聞いている。しかし、答えない訳にはいかない。


 サラは苦し気に言った。

「スタジアム内の映像がネットに流出しないように来場者の対策はとってあるわ。少なくとも、効果は」


「スタジアムは全滅じゃないか」

 ハンコックは声を上げた。

「一体何人が」


「二十万人、だったかな」

 離れた席でパティがぼそっと答えた。


「ハンコック、皆の士気が下がる」

 バーンスタインは小声で言った。


「ジェネラル」

 黒人は決意に満ちた眼で、老人を見据えた。

「犠牲は最小限に食い止めてくれ。お願いだ」


「わかった」

 バーンスタインは深く首肯した。


「今になって、身体が震えてきたよ」

 ハンコックは自分の手に目を落とした。

「ケイン達の戦いが、本当に人類の命運を分けるんだな」


 ファーストクラスが、しんと静まり返った。


 ケインはシートをリクライニングし、眼を閉じた。

 数時間前にこの手の中にあった少女の感触を思い出す。金髪の香り、切ない声、そして柔らかな唇。自分はあの瞬間を決して忘れはしない。


 —シンシア。


 眼を瞑ったケインは、暗闇の彼方を見透かすように意識を絞り込んだ。

 だがそこには何のイメージも浮かび上がって来ない。勝利も敗北も見えない。

 未来はどちらかが重なり合った確率で存在している。しかし。


 —俺は希望を得た。


 暗闇に赤い小さな炎がぽつりと灯った。

 これは強いられた戦いではない。自らの意志で決めた、大切な者を護るための戦いだ。そして戦いに負ければ、明日を失うことになる。


 —俺は、未来を得る。


 未知の相手に勝算などない。しかし、どんな相手であろうとも、攻撃し続ける。破壊し続ける。それしかない。

 それだけが生き残る唯一つの方法なのだ。


 ケインは自分にすっぽりと重なったアカツキをイメージした。アカツキの蓬髪が深紅に染まり、めらめらと燃える松カイルのように頭上に逆立つ。アカツキは裂けた口から、毒のような赤霧を噴き出した。


 —破壊する。


 アカツキは暗闇を見上げた。その眼が赤く光る。


 —破壊し尽くしてやる。


 小さな炎が爆発するように膨張し、暗黒の世界を紅蓮の炎で覆い尽くした。


 —アーペンタイル!




 ◇     ◇     ◇     ◇     ◇



 二日後。

 LAスーパースタジアム。

 世界最大の規模と最新設備を誇る巨大スタジアムの観客席は、二十万人という満員の観客で埋め尽くされようとしていた。

 すべての入場口で受付が行われていたが、入場するだけで既に数時間かかっている。特に混雑に拍車をかけていたのは、今までにない手荷物検査の厳しさだった。

 すべての電子デバイス、撮影機器の持ち込みが禁止された。

 来場者は電子チケットの照合とID認証、手荷物検査を受ける。そして撮影可能な機器類はすべて特殊素材の袋に封入された。退場時のチェックで開封が確認された場合、高額の違反金を支払わなければならない。


 事前に告知されていたとはいえ、来場者からは不満と抗議の声しか上がらなかった。それでもスタジアムの観客席に出た人々は、巨大なドームを埋め尽くす見渡す限りの大観衆に圧倒され、間もなく始まるワールドバトル開会式の興奮と期待に我を忘れるのだった。




 LAスーパースタジアム、統合管理室。

 カーブした長大な窓からは、楕円形の観客席の全景が見渡せる。しかしすべてのスタッフは窓に背を向け、反対側の広大な壁面に表示される画像と文字情報を緊迫した表情で監視している。

 統合管理室の中央には、NBAヘッドコーチのような長身の男が仁王立ちになり、腕組みをしてスクリーンを見つめている。


「その馬鹿共をつまみだせ」

 スーツを着た長身の男は、うんざりした口調でヘッドセットマイクに言った。


 いくつかのモニター画面の中で、観客席に向かって赤いレーザー光線が照射されている。監視バグが撮影機器を発見して警告を発しているのだ。


「どうして規則を守らない? プラチナチケットが無駄になるというのに」


「チーフ」

 若いスタッフが歩み寄った。

「視覚デバイスを装着して下さい」


 男は手渡された銀色のバイザーを見て、唇をへの字に曲げた。


「頭が痛くなるんだが」


「死ぬよりはましでしょう」

 若いスタッフは自分の席に戻った。


 スーツの男は両目を覆うバイザーをかけた。

 柔らかなパッドが密着して目隠しをしたように何も見えなくなる。手探りで後頭部に当たるセンサープレートの位置を調節した。


「統合管理室チーフのデイビスだ」

 男はマイクに重々しい口調で言った。

「すべてのスタッフは一分以内に視覚デバイスを装着せよ」


 室内の全スタッフ、そしてモニター画面に映る警官や警備員、放送技術者等が一斉にバイザーを装着した。


「これ以降は作戦終了時までデバイスを外すことを禁じる」

 デイビスは繰り返した。

「いいか、これから何が起きても、絶対に外すなよ!」


 統合管理室に緊張が走る。

 オペレーターのアナウンスが流れた。

「視覚デバイス起動します。ブレイン・ビュー・システム、同調開始」


 後頭部にちくちくとした痛みが走り、デイビスは思わず口の中で罵った。

 暗黒になった視界に光のノイズが走り、統合管理室の風景が浮かび上がった。ざらざらと画面が荒れるが、すぐに肉眼と同じ鮮明な画像になる。

 これはデバイス前面のカメラ映像情報をコンピュータ経由で脳の視覚野に電気信号として送り込んだもの、つまり脳が直に見ている映像だ。

 意識の視界は肉眼よりも広く、真横にある物までしっかりと認識できる。

 慣れない奇妙な感覚にデイビスはよろけそうになり、足を踏みしめた。


「登録された視覚デバイスの起動を全て確認。ディレイ・システム開始します」


 デイビスの眼の前に赤い数字が現れ、カウントダウンが始まった。

 これは数人の限られたスタッフだけに送られている情報だ。

 短いカウントダウンは、すぐに0になった。


 突然、スーパーパースタジアム内に設置されたすべてのディスプレイが赤く染まった。統合管理室のスクリーン、中継ルームやセキュリティコントロールのモニターも同様だ。

 しかし視覚デバイスを装着した人間には見えていない。

 システムが赤い画像を瞬時に『危険』と判断し、数コンマ秒だけディレイをかけた視覚情報の中で『覆い』をかけたためだ。


「今、画面が赤く見える奴はいるか?」

 デイビスが怒鳴る。

「いないかっ!」


 赤い画面はすぐに復旧した。

 誰からも連絡はない。


 デイビスは背後を振り返った。並べたデータパッド群を確認している連盟技術者の一人が、緊張した面持ちのままデイビスに向って親指を立てた。


「ディレイ・システムは大丈夫だな」

 大きく吐息をつく。

「本当は、これが無駄であって欲しいが」


 アリーナ席にいたワッツは眼をごしごしと擦った。

 今、スタジアムの天井から吊り下がった巨大な布スクリーンが真っ赤に変わったのだ。隣席のアニタを小突く。


「なによ?」


「垂れ幕が一瞬、真っ赤になったんだが?」

 頭上を指差す。


「故障じゃないの?」

 アニタは吊りスクリーンを見上げた。

「ほら、何ともないし」


「本当だ」

 ワッツはぽかんと口を開けた。


「マミー、これ」

 まだ小さいウィントンがポケットからスマートデバイスを取り出した。

「あら、持ってきちゃったの? 困ったわね」

 アニタは顔をしかめた。

「でも誰の?」


「ハリーおじさんの」


「あいつか」

 ワッツは弟の顔を思い浮かべた。

「そういえばネットで実況映像を流すっていっていたな」


「僕、頼まれた」

 ウィントンは誇らし気に小さな胸を張った。


「よしよし、わかった」

 ワッツは手を伸ばして息子の頭を撫でた。

「ケインが撮ってやる」


「ちょっと、見つかったらどうするのよ?」

 アニタは剣呑な顔をした。


「わかるもんか」

 ワッツはデバイスを胸ポケットに入れた。


「罰金なんて嫌よ」


「開会式が始まったら監視バグも飛ばなくなる」

 ワッツはニヤリと笑った。

「絶対に見つからねえよ」


 スタジアムの空間を揺らし、重低音のビートが鳴り響いた。

 レーザーが飛び交い、巨大なブレイン・ギアの立体映像が浮かび上がる。

 激しい音楽と共に、様々なデザインのギアが観客席を取り巻くように次々と現れた。

 過去のワールドバトルのハイライトシーンを構成したショートプログラムだ。懐かしいギアを見つけて客席から歓声が上がった。

 まだ入場は続いているが、開会式の進行はすでに始まっている。




 アシュクロフト邸地下、コントロール・ルーム。

 機器類を操作するスタッフが並ぶ後方で、アームチェアに座ったサラは壁面の大型スクリーンを見つめていた。

 会場である巨大なオーバルスタジアムの様子が映されている。


「ディレイ・システム問題ありません。全スタッフのデバイスも正常に稼働中」

 インカムにスタッフの報告が流れる。

「誰も、『赤い画面』は見ませんでした」


 サラは銀色のバイザーをかけた顔をコクーン室の細い窓に向けた。


 暗い室内には、白い繭型のコクーンが古代の遺跡のように輪を描いて置かれている。ここからエントリーするのは、攻撃部隊の中枢にあたる精鋭のベテラン・バトラー達だ。

 その多くがワールドバトルのアメリカ代表であり、つい数時間前にLAから極秘に帰って来たばかりだった。

 開会式の会場で、本物に変装した代役達はうまくやっているだろうか。

 集合した各国のバトラーの中にはチームメイトや友人もいるはずだ。相手に見破られないように、連盟のスタッフはちゃんとガードできているだろうか。


「ああ、そんなことはどうでもいい!」


 細かな心配事が湧き上がって今直面している状況に集中できない。

 サラは明るい金髪を揺らし、ぶるぶると頭を振った。


「ついに始まった。開会式が。ついに……」


 ぶつぶつと呟き続けるサラを、誰も気にはしていない。

 スタッフ全員が自分の作業に没頭している。開会式のプレイベントは予定通り進行しており、この後いつアーペンタイルが現れるかわからない。

 一瞬の判断の遅れも許されないのだ。


 この状況のプレッシャーは想像していた以上だった。今、この瞬間にも《《あれ》》は現れるかも知れない。そうなればスタジアムの二十万人が命を落とすのだ。

 それにもし情報がインターネットに洩れ出せば、それを見た人間も同様だ。ネットに拡散した情報がどれだけの人間の命を奪うかわからない。

 しかしスタジアムの観客を見殺しにするという前提に罪悪感を感じるよりも、今は心を閉ざすしかなかった。

 万難を排してこの危機を回避しなくては、人類の未来そのものが消えてしまうのだ。


「アシュレイ……」

 サラはすがるような思いで、空間に呼びかけた。

「ここにいないの? どこにいるの?」


 確実に現れるといったアシュレイの予測が間違いであって欲しいと、今になって切実に願う。それが百万分の一に満たない確率であっても。


 室内の動きが慌ただしくなった。

 攻撃参加するバトラーたちの待機空間へのエントリーが終わったのだ。

 インカムにスタッフの交信が重なる。


「グループA、コンディション?」


「一名、オレンジ。代謝系。投薬」


「転送リング励起しました」


「合流ポイント?」


「グループBのワイズ・ワンが指示する」


「グループA、コンディション・オール・グリーン」


「グループB、コンディション・オール・グリーン」


「グループC、エントリーエラー一名。コンディション確認中」


「オール・グリーンを維持せよ」


「全機、現状のまま待機」



 サラは金髪をかきあげると、アームチェアの上で背筋を伸ばした。

 今こそ、一番集中しなければいけないときだ。

 アシュレイに助けを求めてはいけない。


 サラはスクリーンの分割画面を見た。訓練用のコクーン室が映っている。

 イヤホンマイクに囁く。

「アッシュ・ガール?」

「コンディション・グリーン。レプリカ・ギア四機と共に第二座標点で待機中」


「ダーク・モンク、いえ」

 サラは言い直した。

「アレクシス・アレクセイエフは?」


「未だ、反応ありません」

 途方に暮れた声が返ってきた。

「コクーンは空のままです」


 サラは別の画面に眼をやった。

 黒く塗られた異形のコクーンの周りを技術者達が動き回っている。

 アレクシス専用のコクーンは、電子世界に越境したアレクシスを迎え入れるために様々な外部機器が取り付けられ、原型を留めない状態になっていた。


「なにをやっているの?」

 サラは画面を上目遣いに見つめ、苛々と爪を噛んだ。

「あなたの豪語する能力を見せてちょうだい」




 LAスーパースタジアム。

 立体映像のショートプログラムが終わり、短いインターバルに入っている。

 入場も完了し、二十万人を収容するスタジアムは人で埋め尽くされた。

 アリーナに張り出したゴンドラの中では、セレブリティ達が早くもシャンパンで乾杯を始めている。

 観客席では期待と興奮に耐え切れなくなった若者達が奇声を上げて騒ぎ、セキュリティと揉める者も出始めた。


 突然、ドームの天井を突き破って巨大なブレイン・ギアが現れた。

 破片と共にアリーナ席に落下し、直下の観客から悲鳴が湧き上がった。

 ギアは観客に激突する寸前で急停止し、即座に上昇する。

 同時に天井の数カ所から新たなブレイン・ギアが突入し、空中でぶつかり合いながら四方の観客席に飛び込んだ。


 正面から突っ込んでくるギアに悲鳴を上げ顔を覆った観客達は、次の瞬間茫然とし、そして歓声を上げた。

 ドーム・スタジアムの空間を埋め尽くさんばかりに十数機のブレイン・ギアが猛スピードで飛び交い、武器で激しく打ち合い、機銃とミサイルを発射している。観客席でミサイルが爆発しても誰も怪我はしない。

 すべては立体映像のショーなのだ。


 乱戦していたギア達が周囲に散開し、急反転するとスタジアムの中央に向かって突進した。

 全機が一瞬で激突し、大爆発が起きる。

 すべての観客が頭を抱えて身を伏せる程の迫力だ。

 スタジアムが真っ白い光に包まれ、きらきらと輝く星が空中に舞い散った。


 轟々と鳴り響く爆発音の残響がスタジアムに木霊する。


 照明が暗くなり、ドームの西側の天井から太い光の柱が降りてきた。

 光の中にブレイン・ギアのシルエットが浮ぶ。


 低く荘厳な声が、スタジアムに響き渡った。


「ブラジル!」


 反対の東側から光の柱が降りてくる。


「チャイナ!」


 観客達は大歓声を上げた。ついにワールドバトルが始まったのだ。


「フランス!」


「ジャーマニィ!」


 光の柱は次々に現れ、参加各国の国名が名乗られる。

 最後の光は、アメリカだった。


「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ!」


 光の柱の中のギアはジェット・ストライカーだ。


 観客の熱狂は頂点に達した。


 光の柱から各国代表のギアが中央に集結する。

 それぞれの武器を差し延べ、重なり合った先端から、虹色の光が迸った。


「ワールド・バトル!」


 高らかな宣告と共に、スタジアムの中は七彩に煌めく雲と光に満たされた。

 魔法のような一瞬の変幻に歓声を上げる事も忘れ、観客達は空を見上げた。


「す、すげえ!」

 ワッツは驚嘆の声を上げた。

「天国にいるみてぇだ!」


「ダディ!」

 ウィントンがシャツを引っ張る。

「ちゃんと撮って!」


「わかった、わかった」

 ワッツは慌ててデバイスを構え直した。

「へへへ、みんな、見てるかぁ?」




「送信中のデバイスを特定しました!」

 統合管理室のスタッフが叫んだ。


「どこだ!」

 デイビスが怒鳴る。


「アリーナ席、FからH付近!」


「くそったれ! そいつを捕まえろ!」


「あそこだ!」

 アリーナのセキュリティがインカムを押さえ、片手で前方を指差す。

「どこだ!」

 別のセキュリティが通路を突っ走ってくる。

「腕を上げている!」


「畜生!」

 セキュリティが叫ぶ。

「ここからじゃ見えない!」


 虹色の雲の中にひときわ強く輝く白い光が浮かび上がる。

 その中から参加するギアが次々に現れ、各国代表ギアの背後に列を作る。

 ギア達はゆっくりと降下し、誇らし気にその偉容を大観衆の前に並べた。

 同時にアリーナ中央のステージでは、現実のブレイン・バトラー達が観客席に手を振りながら入場を始めている。


「何だ、あれは?」

 ワッツはぽかんと頭上を見上げた。


 ブレイン・ギアたちが輪になった中心に、小さな黒い点が浮んでいる。


「どうしたの?」

 アニタが怪訝そうに訊いた。


「あれだよ」

 ワッツは上空の黒い点を指差した。

「あれ、なんか気持ちわりいな」


「ああ、あれ?」

 アニタは顔をしかめた。

「立体映像のバグよ、きっと」


「撮って! ダディ!」

 ウィントンがシャツを引っ張る。

「おお」


 ワッツはデバイスのレンズを黒い点に向けた。


「この!」

「馬鹿野郎!」


 セキュリティが左右から飛びかかってきた。

 ワッツは身体を掴まれ引き倒された。デバイスを上に向けながら。


 黒い点が、炸裂した。

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