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14 アッシュ救出


 両親のいる部屋を出て、再び白い通路を進む。

 データパッドの表示に従ってしばらく歩くと、サラが壁の前で立ち止まった。


「私はここが嫌いよ」

 サラは誰にともなく言うと、白い壁を睨みつけた。

「ここは、人間がいるところじゃないわ」


 手で触れると、白い壁が開く。

 ケインたちは中に踏み込んだ。


「アッシュ!」

 サラはマフラーをむしり取ると、声を上げた。

「どこにいるの!」


 ケインも被っていたフードを撥ね除けた。

「シンシア!」


 天井が高い資材倉庫のようなコンクリート壁面の殺風景な部屋だった。

 部屋の中央に白いビニールの大型エアテントが吊り下げられている。

 白い半透明素材のテントは中が見えない。

 ケインとサラは足早に近づいた。


 シートをめくって中を覗く。

 暖かい空気が顔に当たった。内部には簡素なベッドがぽつんと置かれ、簡易型の医療モニター機器が枕元に置かれている。

 ケインとサラはシートの隙間からエアテントの中に入った。


 ベッドには、金髪の少女が横たわっている。


「アッシュ!」


 ケインとサラは同時に叫んで、ベッドに駆け寄った。

 シンシアは青い眼を薄く開けて天井を見上げていた。


「アッシュ!」


 声をかけても、アッシュの表情に変化はない。

 やせ細って棒のような手足も硬直し、皮膚にも生気がない。等身大の人形が置かれているようだ。

 放置されているのかとケインは疑った。


「介護スタッフは?」


「ここにはいないようね」

 サラは暗く声を落とした。

「なんて、ひどい」


 細くプラチナのように艶のあった金髪は色あせて藁のように乱れ、肌は乾燥し、唇はひび割れている。何よりも虚ろに見開いた青い瞳は、濁ったガラスのように光がなかった。


「聞こえるか、シンシア?」

 ケインはベッドの枕元で片膝を突き、少女の耳元に口を寄せた。

「シンシア、俺だ、ケインだ!」


 簡易バイタルモニターのディスプレイには変化はない。

 呼びかける声も聞こえていないのか。


「こんな状態でエントリーさせているのかしら?」

 サラは唇を噛んだ。


 アンカレッジの病室からバイタルデータをモニターしていたが、この研究施設に移されてからはデータを入手できなくなっていた。

 総合演習後の混乱に忙殺されたとはいえ、彼女の情報提供を求めなかったのは迂闊だった。


「サラ、あれは?」


 枕元の金属スタンドから点滴パックが吊り下げられている。

 カラフルな薬液の入ったパックは数種類あり、細いチューブがシンシアの腕に伸びている。

 近づいて薬品記号を読んだサラの顔色が変わった。


「ケイン、アッシュを連れて帰りましょう」


「急に、どうして?」


 サラはパックを捻って表示を向けた。


「高栄養薬液、精神安定剤、そして」

 サラは険しい顔で言った。

「この鎮痛剤は強い麻薬よ」


 ケインたちはすぐに動き出した。

 腕の点滴針をテープで固定する。室外の冷気に耐えられるように身体を毛布で包む。頭部と首を支えるヘッドレストはそのまま使用した。

 サラは砂漠の遊牧民のようにカシミアのマフラーで頭と首をぐるぐる巻き、スタンドから外した点滴パックを高く掲げた。


「持ち上がる?」


「なんとか」ケインは答えた。


 極度に痩せたシンシアだけなら問題なかったが、毛布やヘッドレストは意外な重さがあった。ベッドからシンシアを抱え起こし、ケインはよろめきながら立ち上がった。


「よし、行こう、サラ」


 サラは答えずに、深刻な表情で何かを考えている。

 ケインには逡巡するサラが理解できた。確かに入り口のある上層階まで長いスロープを歩かなくてはならない。

 また研究所から出られたとしても、ビッグ・オウルの機長が予定にない搭乗を許可するかはわからない。

 連盟とはいえ、米軍機の運用に対して命令権は持っていないのだ。

 しかし。


「考えても仕方ない。行ける所まで行こう!」ケインは言った。


 サラは、はっとして顔を上げた。


「そうね」

 大きく肩を上げ、ほうっと息を吐く。

「ケイン、やっといい顔になったわね」


「なんだって?」


「あなたはこうすべきだったのよ」


「よく言うよ!」


 ケインは視線を落とした。

 毛布を巻き付け、腕に抱えたシンシアは眼を閉じている。一刻でも早く、この苦痛から解放させなければ。


 エアテントのシートをくぐり、ドアを開く。

 通路に出ると、すぐに全身が強い冷気に包まれた。

 ケインは前方に延びる白い通路を見た。更にその先にあるスロープの連続を考えると、出口までは絶望的な距離に思えた。

 サラが思い立ったように、データパッドに発声した。


「現在位置」


『規制により表示できません』

 パッドは落ち着いた女性の声でいった。


「エレベーター、リフト、カート、ストレッチャー」サラは早口に言った。


『ありません』


「セグウェイは?」


『もちろん、ありません』


「感じ悪いわね」

 サラはパッドを睨んだ。

「とにかく、移動手段!」


『ありません』


「歩けってことね」サラは念を押した。


「サラ、時間の無駄だ」


 ケインは歩き出した。

 とにかくこの凍りついた地下施設から出なければならない。


「出口までの方向表示」サラは言った。


 データパッドが赤い矢印を通路の先に向けて点滅させた。




 通路を抜けると、氷壁に面した吹き抜け空間に出る。


 緩やかなスロープを登り始める。

 片側には垂直に切り立った永久凍土の壁がそびえている。


 サラは荒い息を吐きながら、掲げていた点滴パックを持ち替えた。


「大丈夫か、サラ?」

 ケインは抱えたシンシアを揺すり上げた。


「最近エクササイズしてないし」

 サラはくしゃみをした。

「ケイン、ローゼンタール博士とお母様はどうするつもりなの?」


「脱出が先決だ。それより、離陸時間には間に合うかな?」


「わからないわ」

 サラは傾斜路を見上げた。

「登りがこんなにしんどいだなんて」


 ケインたちは歩き続けた。

 次第に無口になり、いつしか喘ぎながら、一歩一歩機械のように脚を動かし続けた。やがて膝ががくがくと笑い始める。腕に抱えたシンシアが岩石のように重く感じられる。

 ついにケインは足を止め、通路に片膝を突いた。

 膝で少女の重さを支えながら、喉を鳴らして激しく呼吸する。


 —ここまでか。


 ケインはごくりと唾を呑み込んだ。

 もう一歩も歩けそうにない。意志の力ではどうしようもないこともある。

 現実の世界は、イメージ通りにはいかないのだ。


 眼が霞んでくる。

 ケインは顔を上げ、スロープの先を見た。

 遠くに大きな人影が立っている。じっとこちらを見ているようだ。誰だろう。


 隣で、喘ぐような声が聞こえた。


「まさか」

 サラが前方を見つめ、声を震わせている。

「まさか、そんな!」


 人影は男のようだった。

 それも背が高く体格の良い、堂々たる偉丈夫だ。


 ケインは唸り声を上げ、残った力を振り絞って立ち上がった。

 シンシアを高く抱え直し、一歩一歩確かめるような足取りで前に進む。

 あの人影の前では、無様な姿は絶対に見せたくなかった。


「アシュレイ!」

 サラが泣きそうな声で叫んだ。

「ああ! あなたなんですね?」


 大きな男は肩まである銀髪を冷気になびかせ、自らは一歩も動こうとはせず、ゆっくり近づくケインとサラを泰然とした様子で待っている。


 ようやく男の前に立つ。

 ケインは必死に呼吸を鎮めながら言った。


「また、会ったな……アシュレイ・アシュクロフト!」


「君達を」

 アシュレイは柔らかく微笑み、チェロの低音弦のように深く響く声で言った。

「待っていたよ」


「待っていた?」


 ケインは大きな男を見上げた。

 身長は肩の辺りで軽く二メートルを超しているだろう。

 高みから見下ろす青灰色の瞳は、労るような慈悲深さがあり、同時に対象を観察するような冷たさもあった。


 銀髪の男が歩み寄ると、熱波のような熱い波動が押し寄せてきた。

 男は手を伸ばしてケインの腕から毛布にくるまれたシンシアを軽々と持ち上げ、片腕で抱えた。


「サラ」

 男はもう片方の腕でサラを招き、その肩を恋人のように抱き寄せた。


「ああ」

 サラはうっとりと目を閉じ、安堵の嘆息を漏らした。


「しっかりしろ、サラ!」

 ケインは叱るように声を上げた。

「まだ脱出できた訳じゃない!」


「その通りだ」

 銀髪の男は背を屈めると、片腕でサラまで抱え上げた。

 くるりと踵を返し、大股に歩き出す。

「急ごう、あの黒い翼が飛び立ってしまう」


 銀髪の男の足取りは速い。

 ケインは小走りになって後を追った。


「まだ下にカイル・ローゼンタールと御門優がいる!」

 ケインは男の背中に叫んだ。

「二人を解放しろ!」


「開放しろとは、人聞きが悪いな」

 アシュレイは不本意そうに言った。


「何を言っている! あれでは幽閉と同じだろ!」


「彼等の仕事は終わった」

 大男は前を向いたまま言った。

「早々に屋敷に戻すつもりだ。君に言われなくてもね」


 ケインは黙った。

 この状況でこれ以上の確約を求めることは難しい。


 スロープを登り切り、通路に入る。

 円形ホールを抜けると、白い気密扉の前まで来た。銀髪の男はサラを降ろし、シンシアをケインに抱えさせた。



「ここだけは大きくできなかった」


 アシュレイは背を屈め、窮屈そうに気密室に入った。


「いつから、ここに?」

 サラは膝を折った銀髪の男に声をかけた。


「さぁ」

 アシュレイは不思議そうな顔をした。

「しばらく前、といえばいいかな? 時間を感じるのは、もうやめてしまったのでね」

 音を立てて気密室の空気が入れ替わる。


「あんたはここで何をしていたんだ?」


 無礼な言い方になってしまったことに気づき、身体を緊張させる。


「ふむ」

 アシュレイは頭を低くしたまま、視線をケインに向けた。

「話していた。いや、呼びかけていた、といえばいいか?」


「誰を?」


「もちろん」

 大男は言った。

「アーペンタイルを」


 赤い扉が開くと、コンクリート壁の待避壕のような室内に出る。

 奥にある鉄製扉の向こうは、もう格納デッキだ。


「アーペンタイルは、ここにいるのか?」


「そうだ」

 銀髪の男は平然と答えた。

「この施設はあれを構築するために造ったのだ。必要としていた演算処理能力を手に入れるまで、随分と待たねばならなかったが」


 ケインとサラは唖然として立ち止まった。

 膨大な計算機群すべてがアーペンタイル構築のために使われていたのだ。


「だが、ここで構築されたことを明かす訳にはいかない。この施設の存在は、秘匿されなければならない」


 アシュレイの重い声には、誰の反駁も許さない強い響きがある。

 それはアシュレイにとって、この地下施設がそれほど重大な価値を持っていることを現している。


「待ってくれ」

 ケインは大きな背中を見上げた。

「アーペンタイルは仮想空間を閉鎖して逃走したんじゃないのか?」


 アシュレイは振り返りもせずに答えた。


「現実問題として『自分の世界に閉じこもってしまった』ことは確かだ。どこにいようともアーペンタイルにはアクセスできなくなっている」

 大股に鉄製扉に向かう。

「だからずっと話しかけていた。呼びかけていた」


「呼びかけていた?」


「私は直接話しかけ、説得するつもりで、自らここに来たのだ」


「説得は、できたの?」

 サラが歩きながら言った。


「できなかった」

 男は銀髪を振り、深く低く、声を響かせた。

「残念だ」


 ケインとサラはそっと眼を見合わせた。

 その短い言葉には隠し切れない強い怒りが篭っている。

 銀髪の男にすれば直接の呼び掛けに出向いただけでも、王が玉座を降りるに等しい大幅な譲歩であった筈だ。それにも関わらず相手が応じない状況は、許しがたい無礼を受けたに等しい。


 アシュレイは人工知能とその想像的構築体であるアーペンタイルを完全に自己の所有物として考えていたに違いない。しかし人工知能はブレイクスルーし超知性が誕生した。その超知性はアシュレイ自身の話しかけも拒絶している。それは創造主であるアシュレイにとって絶対に許しがたい反逆であり、裏切りでしかなかった。


 サラは扉の前でデータパッドを操作した。

 鉄製扉が重い音を立ててスライドを始める。湿り気のある外気が吹き込んできて、アシュレイの銀髪をはためかせた。


 扉の向こうで制服士官がアシュレイを見上げ、驚愕の表情で立ち竦んでいる。

 大男は軽く指先を向けると、何かの仕草をした。


「急病人をアシュクロフト邸まで搬送する」

 大男は厳かに言った。

「空中給油が必要になる。指令部に連絡を」


「わ、わかりました」

 士官は眼を見開いたまま答えた。


「すぐに軍医と医薬品も」


「わ、わかりました」


「行きたまえ」


 走り去る士官を一瞥もせず、アシュレイは格納デッキに足を進めた。

 周囲の兵士や整備員達に向け、波を送るように大きな掌を横に薙ぐ。


「行こう」


 アシュレイは低く言った。

 ケイン達はデッキの中央にあるエレベーターに向かった。

 既にエレベーターに乗ったビッグ・オウルは垂直に立てたエンジンを轟かせ、離陸準備に入っている。

 搭乗ドアの横に搭乗員と自動小銃を構えた兵士が立っていた。


「間に合ったわ!」

 轟音の中で、サラが声を張り上げた。


 ケインは歩きながら、サラの顔を覗き込んだ。

「正気に戻ったか、サラ?」


「失礼ね」

 サラは怒った。

「驚いただけよ。何しろ十年ぶりだったのだから」


「しかし、変だな」

 ケインは周囲を見渡した。

「アシュレイが、見えていないのか?」


 ビッグ・オウルに向かって近づくアシュレイの巨体を、兵士や整備員達は誰も気にも留めていない。これほどの巨躯を見慣れている筈がない。

 考えられるのは……。


「……マインドコントロールか」


「そんな大袈裟なものではない」

 突然、アシュレイが言った。

 ケインはぎょっとした。この騒音の中で聞こえる筈がなかった。


「後部扉を開けて!」

 サラは乗務員に駆け寄り、大声で指示を出した。

「ストレッチャーを! 急いで!」


 シンシアを抱えたケインとアシュレイは機体の尾部に廻った。

 装甲車輛も搬入できる後部大型扉が開き始める。


「人間の網膜には盲点がある」

 アシュレイはケインを見下ろして言った。

「脳は自動的にその隙間を周囲の情報で埋めている。ここにいる全員に、私の姿を周囲の情報で塗りつぶすようにした」


「そんなことが」

 ケインは言いかけ、唇をへの字に曲げた。

「できるんだな」


 銀髪の大男は当然のように言った。

「誰も私を見ることはできない」


「屋敷でもか?」


「そうだ」


 思い当たる節がある。ケインは少し考えて言った。


「あちこち、歩き回っているな?」


 アシュレイは否定せず、短く笑った。


「いい趣味だな」


「ぶつからないように、気をつけている」


 ストレッチャーと軍医が駆けつけて来た。

 機内に運ばれたストレッチャーは脚部を折り畳み、床面の資材固定器具で固定される。その上にシンシアを移し固定ベルトで縛った。


 後部扉が閉まると機内が暗くなった。

 ケインとサラ、軍医は急いで側壁の座席に座り、三点シートベルトを締める。

 警報が鳴り、エレベーターが重い唸りを上げて上昇を始めた。


 エンジン音がどんどん高まっていく。

 サラは訊かなければならないことを思い出し、慌てて声を張り上げた。


「教えて! アシュレイ!」

 サラは叫んだ。

「アレクシスは味方なの?」


 シートに着座した軍医が、ぎょっとした顔でサラを凝視している。

 誰もいない空間に向かって、突然叫び出したとしか見えていない。


 アシュレイは金属の床にどっしりと座り込でいる。

 銀髪の巨人は、悠然と大きな顎を撫でた。


「あれは自己の力を過信している。私が欲するのはその過信と傲慢が生む強さだ」


「そんな奴とは協力して戦えない!」

 ケインも声を張り上げた。


「その必要はない。またそんな余裕もないだろう」


 エンジン音が甲高く唸りを上げる中で、銀髪の男の声は明瞭に聞こえている。


「傲慢さはあれの力を最大現に発揮する。アーペンタイルはしたたかに蹂躙される。それがすべてだ」


 機体がぐらりと揺れた。

 身体に加重がかかり、急速に上昇しているのが判る。

 強風に煽られた機体がびりびりと振動し、主翼に雹が当たる音もする。

 サラとケインは会話を断念し、防音イヤーマフをかぶった。

 アシュレイは東洋の僧侶のように胡坐を組み、騒音など気に止める様子もなく、静かに瞑目している。


 再び寒さとエンジン音に耐える時間が続いた。

 往路と違うのは、ビッグ・オウルはこのままニューヨークのアシュクロフト邸まで直行する。ビジネスジェットより巡航速度の遅い軍用機だから、飛行時間は十数時間以上かかるだろう。


 —だが、それがどうした。


 ケインは考えた。

 その程度の苦痛など、どうということもない。

 自分はようやくシンシアを助け出すことができたのだ。


 —シンシアを、取り戻したぞ!


 心に強い高揚感が広がってくる。

 身体の芯に温かな炎が灯ったような気がする。その小さな焔はいつの間にか疲弊していた心を炙り、疲れを燻り出して行くようだ。


 ケインは隣のサラの手を握った。サラも黙って握り返してくる。

 サラには自分の気持ちが伝わっているのだと感じた。


 ビッグ・オウルは最高速度で飛び続けている。

 既に窓外は暗くなり、稲妻がたびたび閃光を走らせた。機体が時折大きく揺れるのは搭乗員の言っていたように天候が悪化しているせいか。

 轟々とエンジンを鳴らして風雨を突き進む機体の中にいると、むしろ静けささえ感じてしまう。


 ケインは顔を上げた。

 床面に固定されたストレッチャーの上で、シンシアは酸素マスクを付けられ、防音イヤーマフをかぶせられている。

 その真横に銀髪の男が胡坐をかいて座っている。堂々とした巨躯は大きな巌が鎮座しているようだ。

 暗い機内で表情はよく見えないが、瞑目した男は眠っている訳ではなく何か集中した様子、一心に念じているような気配を発している。


 —シンシアを、案じているのか?


 痩せ細り憔悴し切った娘を労っているようにも、悼んでいるようにも見える。


 —変なことを考えるな。


 ケインは頭を振った。

 シンシアはケインが護る。仮想空間で合流したらアカツキをアッシュ・ガールのガードにつける。演習で見たように攻撃に特化したアッシュは防御をしない。いや、できないのだ。


 —オウガ・フレーム。


 カイル・ローゼンタールが開発した白い骨のような仮想装置が頭に浮かぶ。

 あの増幅装置がどれだけの力を引き出すのかわからないが、オウガ・フレームを実装したアッシュは攻撃することしかできなくなる。

 射出イメージを想起し続ける限り攻撃は続き、装置は解除されないだろう。


 —これが、選択できる唯一の方法なのか?


 ワールド・バトルの開会式は、もう来週に迫っている。


 攻撃作戦のために集められた百戦錬磨の精鋭のブレイン・バトラー達。

 常識を超えるイメージング能力を突如として開花させた新世代の子供達。

 仮想空間を操るダーク・モンクの超常的な能力。

 そして攻撃力を極限まで高めたアッシュ・ガール。

 これらを『戦力』として、巨大な想像的構築体アーペンタイルを破壊しなくてはならない。


 ケインは拳を握りしめた。

 問うまでもない。答えは出ている。


 —俺も、アッシュも生きて還る。


 そのために、アーペンタイルは絶対に破壊しなければならない。

 カイルは科学者グループの造った仮想進化モデルは間違いだと断じた。これからバトラー達が戦う本当の相手は全くの未知の敵なのだと。それでも、戦って勝つしかない。生き残るにはそれしか道はない。


 アシュレイはすべてを知っている、とカイル・ローゼンタールは言った。ハルトマン博士が間違っているかも知れないこと、攻撃演習ではブレイン・ギア側は常に劣勢に立たされていたこと。

 それでもアシュレイは、人間達を送り込もうとしている。


 —何かを取り戻そうとしているのか。


 ケインはふと気が付いた。

 ケイン自身が妹の御門ミオを、母である御門優を、そしてシンシア・アシュクロフトを取り戻したいと願ったように、この数千年を生きたとされる最古の稀人も、何かを取り戻したいと思っているのか。


 ケインはゆっくりと、視線を前に向けた。

 銀髪の男はシンシアの傍らに座り、黙考を続けている。 

 意識の中でしか姿を現さない屋敷の主は実在していた。しかし、存在を疑ったその男が眼の前にいるのに何も話せない状況にいる。もどかしいとしかいいようがない。

 それはサラも同じだろう。十年ぶりに邂逅したアシュレイと話したいことは山ほどある筈だ。そしてそれ以上にこの計画の全貌を聞き出したいと願っている。


 不意に機内の寒さが和らいだ気がした。

 暖かい大きな波が幾重にも押し寄せてくる。

 身体の強張りがほどけてゆき、その心地よさにケインは思わず吐息を漏らした。

 ぼんやりしながら顔を上げると、銀髪の男がシンシアの身体の上に両腕を伸ばし、大きな掌をかざしている。


 —何を、している?


 かざした掌が光り始めている。

 ケインは眩さに眼を細めた。

 しかし痛い光ではない。光を浴びた頬が暖かく感じる。

 アシュレイの手の平から柔らかな淡い金色の光が霧のようにたなびき、降り注いでいる。

 淡い金色の光は、横たわったシンシアを繭のように包み込んだ。


 —ここまで、よく耐えた。


 アシュレイの静かな声が聞こえる。

 それは意識の中に直接流れ込んでくる。


 —次の戦いが、お前の最後の戦いになる。


 アシュレイは大きな手を伸ばした。

 人差し指の先が蛍のように光り、金色の細い光りの筋が頭を出している。その指先を仰臥する少女の喉元に当てた。


 —全力を注ぎ、そして、必ず勝つのだ。


 喉の皮膚をまさぐるように動いていた指先が止まる。指がゆっくり引かれると、喉元から白く光る細い糸が現れた。

 銀髪の男は慎重に腕を上げ、細い光の筋を喉から引き抜いていく。

 ケインは光る糸を注視した。あれはいったい何だ。


 ケインは手探りでシートベルトのロックを外し、振動する機内をよろめきながら進んだ。ストレッチャーの前に跪き、金色の光に包まれて目を閉じているシンシアを覗き込む。


 骨と皮のように痩せ細り、あれほど憔悴していた顔が、今はふっくらと生気を取り戻している。ほつれていた金髪の輝きが戻り、肌の色も張りも良く、唇も薄い桜貝の色に艶めいている。

 そこにはアシュクロフト邸の温室で初めて会った時と同じ、美しく聡明な少女の顔があった。


「シンシア?」

 ケインはかすれた声で呟いた。


 少女はうっすらと、眼を開けた。


「気がついたのか?」

 ケインは小さく叫んだ。


 少女の盲いた眼はケインを映さない。しかし、青い瞳は澄んだ輝きを取り戻していた。

 消耗し切ったシンシアに、アシュレイは生命力といえるパワーを直接注ぎ込んだ。銀髪の男なら、それも可能なのだ。


 ケインは顔を上げた。

 目の前にいる筈のアシュレイの姿が消えている。


 —消えた? いや。


 ケインは機内を素早く見渡した。まだ暖かい気配は残っている。


 —視覚を操作されたのか。


 ケインは理解した。

 見えないが、アシュレイはまだこの軍用機の中にいる。


 シンシアの唇が震えている。

 エンジン音に掻き消され何も聞こえない。いや、喉の骨伝導マイクと合成音声装置がなければ、発声できなかった筈だ。

 それでも少女は唇を震わせている。ケインはイヤーマフを外し、口元に耳を寄せた。


「ケイン……」

 少女は呟いている。

「そこに、いるの? ケイン……?」


 ケインは絶句した。シンシアが声を発している。

 信じられないことだが、シンシアが声を取り戻したのだ。

 ケインは床に這いつくばり、少女の細い肩にすがるように手をかけた。


「シンシア!」

 ケインは叫んだ。

「俺は、ここにいるぞ!」


「ケイン……」

 少女は安堵したように溜息をついた。

「……よかった」


 ケインは額をシンシアの肩に押し当てた。

 姿を消したアシュレイの声が、ケインの頭の中に響く。


 —希望はある。


 ケインは顔を上げた。金色の光は消え、機内は再び薄暗くなっている。


 —明日を諦めるな。


「アシュレイ!」

 ケインは見えない相手に叫んだ。

「シンシアの身体は直せるのか?」


 —精神は肉体に左右される。


 声は答えずに、ケインの意識の中に響き渡った。


 —渾身の力を振るわねば、アーペンタイルは破壊できない。


「そのために、シンシアを……」


 —アーペンタイルは私との接触を拒んだ。そして黒い死の準備を終えている。


 アシュレイの声は緊迫した響きで言った。


 —あれは確実に、開会式に現れる。残された道は唯一つ。


「わかっている」

 ケインは深くうなずいた。

「必ず、破壊する」


 —迷いを捨て、気を高めよ。


 男の声は、ケインの脳の中に朗々と響いた。


 —決戦の時だ。

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