13 アラスカの機械神殿
夜明け前。
黎明の空にアシュクロフト邸からジェットヘリコが飛び立つ。
最も近いサリバン・カウンティー国際空港に向かい、そこで連盟所有のビジネスジェットに乗り換える。
アラスカ州アンカレッジまで、給油なしでも十時間。
高性能ビジネスジェットの豪華な客室は快適だったが、さすがに長いフライトだ。
サラは座席に座るなりデータパッドを並べて仕事を始めたが、すぐに睡魔に襲われ舟を漕ぎ出した。
ケインはクルーに言ってキャビンの照明を落としてもらい、サラのシートをリクライニングさせた。
シートに横たわり、苦し気に寝息を立てるサラに毛布をかける。きつく閉じたまぶたの下には細かい皺が浮かんでいる。
サラは、この一週間で急速に老け込んでしまったように見える。
無理もなかった。
総合演習後の大混乱とその収拾に当たった不眠不休の一週間を考えたら、こうして予定通りアラスカに向かっているのが奇跡に思える。
総合演習では、遂にブレイン・バトラーから死者を出してしまった。
クーガー・キャンベルはコクーンの中で心肺停止し、懸命の蘇生措置も虚しく息を引き取った。そしてカルロス・ロドリゲスは脳死状態に陥っており、生命維持装置によってかろうじて命を保っている。
関係者の受けたショックは大きかった。
生命の危険が伴う実験であると最初から判っていたが、どこかで最悪の事態は起きないだろうと楽観視していたのかもしれない。
他にも強い精神ダメージを受けて入院したバトラーが二十名以上。
コクーン技術者やシステム管制官からも体調不良者が続出している。
ニューキッズの超越的な能力でアーペンタイルの仮想進化モデルは破壊できたが、その代償は大きかった。
ケインは小さな窓から機外に目をやった。
ジェットは雲海の上を順調に高速巡航している。
出発前に確認を取ると、シンシアはアンカレッジ市内のメディカル・センターから山岳地帯にある連盟の研究所に移され、泊まり込んでいるということだった。
仮想装置の開発が大詰めを迎えているらしい。
正直、開発責任者である父親のカイル・ローゼンタールに会うのは気が重かった。しかし、シンシアに異常なほどの負担をかけている仮想装置の実験は絶対に止めさせなければならない。
「そうだ」
ケインは脱いだコートのポケットから、数通の封筒を引っ張り出した。
サラから読めといわれていたが、ずっと放っておいた御門優からの手紙だ。
母親からの便りを無視していたのは子供じみた反抗心だとわかっている。
だが、わざわざ紙の手紙を書いて送るという古風さがうっとおしく感じられ、かえって反発する気持ちを強くしていた。
一通目の手紙には、研究所に無事に着いたこと、そしてもう一度会ってゆっくり話をしたいと書いてある。
二通目には研究所での単調な生活がかえって心が落ち着くこと、仮想装置の開発が本格的に始まったことなどが書かれてあった。
三通目の手紙を読んで、ケインは表情を曇らせた。ラボ・タワー崩落から共に脱出し、アメリカに来ていた金城飛鳥が倒れたとある。
四通目の封を切り、ケインは身体を強張らせた。
金城飛鳥は末期癌だった。レイブンとしてジャパン・カップに参戦する以前からラボ・タワーに入院し、治療を受けていたのだ。
五通目の文面は短かった。すぐに来るようにと書かれてある。
六通目は一ヶ月後に届いていた。
遺体は日本に送らずに、アンカレッジの墓地に埋葬したとある。いつでもいいから、来て欲しいとあった。
ケインは握り締めた拳を額に押し当てた。
こんな大事なことをなぜ通話やメールで知らせなかったのか、母親が理解できない。
日付を確認すると飛鳥が息を引き取った頃、ケインのチームはEUリーグのツアーでヨーロッパを転戦していた。
会うことはできなかっただろうが、それは何も正当化しない。
「くそっ」
ケインは、アラスカに向かっていることを後悔した。
いったい、どんな顔で母親に会えばいいのか。
怒られるだろうか。それとも呆れて軽蔑されるだろうか。
むしろ叱責され殴られた方がいい。
しかしその考えさえも、許してもらいたいと願う自分勝手さでしかない。
ケインは苛立ち、腿に拳を叩きつけた。痛さに呻き、歯を食いしばる。
—きちんと会って、謝る。それしかない。
ケインはがくりと顔を伏せ、頭を振った。
悪いのは自分だ。許してもらえなくても、できることをするしかない。
場所を教えてもらいアンカレッジの墓地に行こう。
帰りの便は自分で手配すればいい。それよりも、斉藤はこのことを知っているのだろうか。
—生きているのか、斉藤さん?
ラボ・タワー崩落の後、サラに調べてもらったが斉藤の生死は不明のままだ。
タワーの管理システム自体が消失し、あの事故発生時にどれだけの人間がタワーにいて巻き込まれたのか、未だに発表されていない。
ふと目を上げると、シートでサラは昏々と眠り続けている。
薄暗い機内に微かにエンジン音が響いている。ケインはシートを倒すと腕を組み、目を閉じた。
頭の中で記憶の箱がひっくり返されたように様々な場面がフラッシュバックする。
今ここにいる自分の選択は正しかったのか。
どこかで選ぶべきルートから外れてしまったのではないか。
過去に遡り、修正できるとすればどの時点だろうか。
どこかここではない、もっとより良い選択があったのではないか。
無為な行為であるとわかっていながら、ケインは眉根を寄せ、悶々と考え続けていた。
機体の大きな揺れで目が醒めた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
機内の照明は明るくなっていて、眩しさに顔をしかめる。
身体を起こすと前の席でサラがデータパッドにひらひらと指を舞わせていた。
「眠ったおかげで、効率が良くなったわ」
サラはこちらを見もせずにいった。
「ありがとう、ケイン」
「おはよう、なのか?」
ケインは眼をこすった。
「もう夕方よ。間もなく着陸」
サラは手を動かしながら、大袈裟に嘆きの声を上げた。
「ああ、メイクの時間が!」
ビジネスジェットはアンカレッジ近郊の空軍基地に着陸する。
搭乗ドアが開くと凍えるような寒さが襲ってきた。
「こっちです!」
地上で空軍兵士が声を張り上げ、手招きしている。
夕陽に照らされた滑走路に、主翼を立てたビッグ・オウルが待機し、エンジンを轟々と鳴り響かせている。
ケインとサラは滑走路を走り、ビッグ・オウルに乗り込んだ。
搭乗員はケインたちを側壁から引き出した金属製のシートに座らせ、三点ベルトで固定した。
エンジン音が高まり、機体がぐらりと傾く。
ビッグ・オウルは急角度で上昇し、夕陽に染まった山岳地帯に機首を向けた。
金属の骨格がむき出しになった機内は、防寒コートを着込んでいても歯が鳴り出しそうな寒さだ。
ケインは隣の席のサラを見た。カシミアのマフラーを頭と顔にぐるぐる巻いたサラはコートの上に毛布を重ね、離陸と同時に目を閉じている。
防音用のイヤーマフをかけているため会話さえできない。
軍用機の座席がこれほど座り心地が悪いとは思ってもいなかった。
金属のシートは硬く、身体はベルトで固定され身動きできない。
ケインは寒さに震えながら、コートのフードを深く被った。
気流が乱れているらしく、ビッグ・オウルの機体は不規則に揺れる。
数十分の飛行時間が、とても長く感じられる。
やがて身体が浮き上がるような降下する感覚が続くと、小さな窓の外に山肌が見えてきた。
エンジン音が高まると下から衝き上げるショックがあり、機体が安定した。
操縦室から搭乗員が出て来て、サラとケインのシートベルトを外した。
「離陸は一時間後です」
搭乗員は言った。
「必ずここに戻って来て下さい」
驚いたサラが訊く。
「二時間の予定よ! なぜ早まったの?」
搭乗員はロックを解除し、乗降ドアを押し開けた。
「夜から嵐になります」
ドアから顔を出すと、暗くなった空に強風が吹きすさび、灰色のちぎれ雲が流れていく。片側には峻厳な岩肌の山の斜面が迫り、白い雪が積もっている。
着陸スペース全体がビッグ・オウルごとゆっくりと沈み始めた。
航空母艦のエレベーターと同じ構造で、周囲の壁がせり上がり、発着デッキが地下に潜っていく。
鉄骨で組まれた工場のような階下が現れ、数機のビッグ・オウルが主翼を折り畳んで格納されているのが見えた。
あちこちに自動小銃を持った空軍警備兵が立っている。
「研究所というより、秘密基地だな」
ケインは白い息を吐きながら、周囲を見回した。
「しかも、厳戒態勢だ」
「ここは連盟の研究施設よ。ブレイン・テクノロジーの最先端の理論開発が行われている」
サラはマフラーを首に巻き直した。明るい金髪が揺れる。
「そのために、世界最大のスーパーコンピュータが稼動しているのよ」
「世界最大?」
初耳だ。ケインは驚いてサラを見た。
「もちろん公表されていない。この施設は連盟のトップシークレットなの」
サラは頭上の四角く切り取られた灰色の空を見上げた。
「連盟最高幹部でも、アシュレイが認めなければここには入れないのよ」
「あの男が、直接許可を?」
それではほとんどの人間が入れないとしか思えない。
「アシュレイは私たちを許可したわ。そう、私もここへ入るのは初めてなのよ」
エレベーターがハンガーデッキに着床した。
デッキに降りると待機していた制服士官が歩み寄り、二人の手首に位置確認用のプラスチックリングを巻く。
士官はデータパッドにリングのIDを入力すると、そのままパッドをサラに手渡した。
「これをどうぞ」
怪訝な顔で受け取ると、コンクリートの壁の大きな鉄製扉が重々しく軋みながらスライドを始めた。
「進んで下さい」
士官は抑揚のない声でいった。
「進む方向はパッドに表示されます」
内部は分厚いコンクリートで囲まれた待避壕のようだった。
奥の壁に赤いドアがある。足を踏み入れるとすぐに背後で鉄製扉が閉まった。
ケインとサラは顔を見合わせる。黙って赤いドアの前に進んだ。
ドアは頑丈そうな分厚い気密扉になっている。
サラが持つデータパッドが点滅し、赤いドアは自動的に開いた。
中の小部屋に入ると赤い気密扉が閉まり、音を立てて空気が入れ替わる。
「空気中の細菌を減菌している」
サラは呟いた。
「有機回路を使っているのかしら」
反対側の白い気密扉が開いた。
眩い光と共に、外気よりももっと強い冷気が流れ込んで来た。
「なんて寒さだ」
冷気が白い霧になってたなびいている。ケインは思わず両腕で自分の身体を抱え込んだ。
「冷凍庫か、ここは」
「嫌な感じ」
サラは表情を曇らせた。マフラーを首にしっかりと巻き直す。
「まるで、あのコンテナだわ」
明るい照明に照らされた無機質な白い廊下が真っ直ぐ伸びている。
通路なのに見上げる程に天井が高い。
ケインとサラは寒さに唇を震わせながら、急ぎ足で奥に向かった。
突き当たりは円形の小ホールだった。
床も壁も天井も白く、光源の見えない無影照明に照らされて、真っ白い空間に浮んでいるような錯覚を起こしそうになる。
「ここは……?」
ケインは白いドームの天井を見上げた。以前に来たことがある気がする。
「ええ」
サラは呟くように言った。
「屋敷の地下にそっくりね」
振り向くと入って来た通路は消え、継ぎ目のない白く高い壁が二人を取り巻いている。
「閉じ込められたのか?」
ケインは警戒して言った。
「いいえ」
サラはデータパッドをケインに向けた。
「違うみたい」
方眼に区切られた画面で、二つのグリッドだけが薄く光り、文字が浮んでいる。他の多くのグリッドは暗いままだ。この研究施設でケインとサラの訪問が許された場所はこの二つしかない、ということになる。
「カイル・ローゼンタール博士」ケインは文字を読んだ。
「シンシア・アシュクロフト」サラは別の文字を読んだ。
「アポイントメントは?」ケインは訊いた。
「もちろん」サラはうなずいた。
「では、カイル・ローゼンタール博士を」
ケインはサラを見つめた。
「先に、話をしたい」
サラがグリッドをタップすると、白い壁がスライドして別の通路が現れた。
ケインたちは霧のように冷気が漂う白い通路を進んだ。
「私はこの研究施設で行われている仮想装置開発について、具体的な内容を知らされていない……」
歩きながら、サラは言った。
「そして、アレクシス・アレクセイエフの件も」
「ダーク・モンクか」
ケインは黒衣の僧侶を思い出す。
アンリミテッドでの戦いで見せた、機械と融合したようなあの異様な黒雲の頭部。そして仮想空間そのものを自在に変容させる超越的な情報操作能力に、ケインは戦慄するしかなかった。
「アシュレイは、彼をアーペンタイル攻撃に参加させるわ」
サラは硬い声で言った。
「これは、ジェネラルにも伝えていないことよ」
「まさか?」
ケインは不審の声を上げた。
「いったいどうやって、ダーク・モンクが他のブレイン・ギアと共同して戦うんだ?」
「わからない」
首を左右に振るサラに、ケインは愕然とした。
「そんな、いい加減な!」
「アシュレイの考えがわからない。このまま開会式を迎える訳にはいかない」
サラは真っ直ぐに前を見つめ、自分にいい聞かせるように呟いた。
「アシュレイがそれを知らせないのならば、私が自分で調べるしかない」
ケインは口をつぐんだ。
攻撃計画の全貌を知っていると思っていたサラでさえ、曖昧な状況の中を突き進んできたのだった。
そして、その状況を作り出している原因はひとつしなかい。
「サラ、あの男は、実在しているのか?」
「イエス」
サラは前を向いたまま答えた。
「本当に?」
「あなたは、会った筈よ」
「夢の中でね。物理的に存在しているかだ」
「こだわるのね」
「幻想に踊らされているようで、納得できない」
「生身の人間だったら、納得できるの?」
「よくわからない」
ケインは頭を振った。
「とにかく、会いたいんだ」
「私も会いたいわ」
サラは声を落とした。
「あの人に……」
通路の先に暗い闇が広がっている。
そこから更に強い、凍えるような冷気が流れてきた。
通路を抜けると、目の前に大きく暗い空間が現れた。
視界一杯に氷結した岩の壁が屹立していた。
照明に照らされた氷壁の高さと幅は、数十メートルはあるだろう。通路の手すりから下方を覗き見ると、その深みは暗闇に溶けている。だが、おそらく氷壁自体の高さは百メートル以上あるのではないかと思われた。
地下にある研究施設は、裂け目のような地中の狭い空間を挟んで、この巨大な氷壁に向かい合う形で建設されていた。
研究施設側の壁面からベランダのように張り出した通路は傾斜したスロープになっていて、研究施設の幅いっぱいでジグザグに折り返し、上階と下階を繋げている。
サラは聳え立つ氷壁の量感に圧倒されながら言った。
「これは、永久凍土ね」
「寒さの正体だな」
ケインは両腕で身体を抱え込み、歯を鳴らした。
「急ごう、本当に凍ってしまいそうだ!」
データパッドの表示に従い、緩やかなスロープを降りていく。
施設内には電力を消費するエレベーターはなく、各フロアはスロープだけで結ばれているようだ。研究員の姿は一人も見えず、人気も感じられない。この地下施設にはスタッフはいないのだろうか。
スロープを何度も折り返し、どんどん下層に降りていく。
研究施設側の白い壁は丸い穴がパンチングされ、内部が覗き見える。内側の広大な室内にはスーパーコンピュータを構成する箱形の計算ノードが、はるか奥までぎっしりと大量に並んでいた。地中深くまで建設されているこの施設に、どれだけの数の計算ノードとサーバが設置されているのか見当もつかなかった。
ケインは向かい合う氷の壁を見上げた。
「発生する熱をこの永久凍土で冷却しているのか。確かに、世界最大としか言えないな」
「想像もつかない数だわ」
サラは畏怖するように声を震わせた。
「ケイン、今稼働している世界中のスーパーコンピュータを集めても、このワンフロアにも満たないのよ」
「……凄すぎるな」
「ええ」
「それを絶対極秘で連盟と米軍が管理している」
ケインは声を落とした。
「あの男には……どれだけの力があるんだ?」
ケインたちはスロープを降り続けた。
かなりの距離を歩いたと思われたが、ケインもサラも体温が上がらず、氷の岩壁からの冷気で身体は冷えきっていた。
「どこまで降りるんだ?」
ケインは上層部からの照明が届かず、暗くなってきた周囲を見回した。
「こっちよ」
データパッドを持つサラが施設の中を指差した。
スロープの折り返しから施設内の通路に入る。
かなり進んでも、背後から痛いほどの冷気が届いて来る。
「どうしてこんな遠い所に研究室を作るんだ?」
ケインは不審に思った。
「移動のカートもエレベーターもない。不便すぎる」
「そうね」
サラは同意した。
「まるで何かから隠れているみたいだわ」
「何かって?」
サラは通路の高い天井を見上げた。
「ここは、スーパーコンピュータのための施設ね。人間が働く場所じゃない」
「機械の神殿か」
「神殿……」
サラは眼を瞠った。
「ここでは巨大な計算機が主人で、人間はこっそり間借りしているのかも」
「とにかく、部屋に入ろう」
ケインは白い息を湯気のように吐いた。
「この寒さは異常だ」
「待って」
手に持ったデータパッドを確認し、サラは目の前の壁に触れた。
「そう、ここよ!」
突然、白い壁が四角く開いた。
室内に飛び込むように踏み込む。
中の暖かさに、ケインはほっと安堵の息を漏らした。
その空間は濃密な白い霧のような光に満たされ、壁も天井も見えない。
空間の真ん中に、白い大きなデスクと椅子があり、中年の男性が座っている。
その傍らにはやはり白い長椅子があって、黒髪の女性が横たわっていた。
室内の冷気は和らいでいる。
近づいていくと、中年男性はこちらに背中を向け、カーブした長大なディスプレイに向かい、両手を動かしてデータを操作している。
しかし、白いディスプレイには何も映っておらず、雪のような結晶パターンが薄く輝いているだけだ。
「……ケイン」
二人に気がついた長椅子の女性が、気怠そうに上半身を起こした。
「よく来たわね……」
「……母さん!」
ケインは優の前に片膝をついた。
「手紙は……読んでいなかった。本当にすまなかった」
「いいのよ」
優は微笑み、手を伸ばしてケインの髪の毛に触れた。
「ここはメールも通話もできないの。完全に隔離されているから」
ケインは絶句した。
母はわざわざ手紙を書いたのではなく、《《それしか方法がなかった》》のだ。
「でも……どうして?」
「ここは最高度の機密情報を扱っている。その閉鎖環境が必要なのでしょう。それは人も同じ」
優はディスプレイに向かうカイル・ローゼンタールを見た。
「私達はここに来てから、一度も外に出ていないわ」
「でも、飛鳥さんのお墓は?」
優は小さく首を振った。
「飛鳥とは、ここでお別れしたの」
「……そんな」
優は悲しげに眼を伏せた。
「ケイン、ここを出たら一緒に行きましょう」
「しかし、いつ出られるんだ?」
ケインは思わず声を上げた。
「アーペンタイルを破壊してからだ」
カイル・ローゼンバーグが画面に顔を向けたまま言った。
「ローゼンバーグ博士」
サラが背後から声をかけた。
「あなたの作っている仮想装置とは、いったい?」
ローゼンバーグはボソリと言った。
「……イメージ・アクセラレーション・アンプリファイア」
「やっぱり……」
サラは息を呑み、ゆっくりと問いかけた。
「その増幅装置は、アッシュ・ガール専用ですね?」
「その通り」
カイルは静かに言った。
「完全に、あのギアのものだ」
「それはもう、必要ない!」
ケインはカイルの背中を睨み、声を上げた。
「アーペンタイルの仮想進化モデルはニューキッズのディーバによって破壊された。だから、もう必要ない」
カイル・ローゼンバーグは小さく溜息をついた。
「ハルトマン博士は間違っている」
サラは顔を強張らせた。
「間違っている?」
「そうだ」
「その根拠は?」
「仮想進化モデルは人間が考えたものだ。ブレイクスルーした人工知能、つまり超知性は、人間の思考をなぞらない。アーペンタイルが進化するというのはハルトマン博士、いや、科学者達の誤った思い込みだ」
ケインは愕然とした。
科学者達が構築した仮想進化モデルと三度戦い、最後の総合演習では死者まで出ているのだ。
「冗談じゃない!」
ケインは叫んだ。
「それでは、俺達のやって来たことは、無駄だったっていうのか?」
「無駄ではない」
「無駄じゃないわ」
カイルとサラが同時に言い、ケインは叫んだ。
「わからない! 説明してしてくれ!」
カイルは肩越しにケインを一瞥すると、ゆっくり話し始めた。
「総合演習のデータは私も確認した。複数のブレイン・バトラーが犠牲になったことも知っている。突然覚醒した新しい世代の超越的なイメージング能力も見た。人間にこれほどの潜在的な力があったとは想像もしていなかった。まさに驚異といえる」
カイルは言葉を切り、白いディスプレイを見つめた。
「しかし、それでも足りないと、私は思う」
「足りない?」サラは聞き返した。
「そう、確実に」
「ローゼンバーグ博士」
サラは眉根を寄せた。
「それこそ根拠のない思い込みでは?」
カイル・ローゼンバーグは椅子を回転させ、ケインとサラ、優に顔を向けた。
「アーペンタイルはこの九ヶ月間、何をしてきたか?」
頬がこけ憔悴したカイルの様子にケインは慄然とした。
しかしその眼には狂気の色はなく、透明な知性の光が宿っている。
「あれの目的は、人間の魂を情報として書き出し保存することだ。そのためにワールドバトルの開会式で異世界の情報を流して『黒い死』を発生させ、多くの人間の魂を奪おうとしている。しかし魂を奪うとはどういうことだ? どうやって? その方法は?」
「それは、わかっている」
ケインは父親を見つめた。
「アフリカの砂漠で、黒い死体が発見された。それはおそらく、アーペンタイルが開会式でやろうとしていることのテストだ」
ケインは真樹と山本から聞いた話をした。
しかし、カイルはゆっくりと首を左右に振った。
「アフリカだけではない」
「え?」
「その『黒い死』は世界中で起きていた。それも人里離れた、過疎の村や部落を狙って」
ケインとサラは眼を見開いた。
「まさか、そんな……」
カイルは背を屈め、ケインとサラを沈んだ眼でじっと見た。
「……聞いていないのか?」
サラは黙ってうなずいた。
「ここには」
カイルは天井を指差した。
「地球上のすべての情報が流れ込んでくる。控えめな検索ならば、気を悪くはしない」
カイルは妙な表現を使った。
「『黒い死』の情報はすぐに集まった。そして私は確信した。アーペンタイルは目立たぬように僻地を選んで実験を繰り返し、人間の魂を収拾する方法を見つけたのだと。問題なのは『黒い死』を起こすことではない。それによって死んだ人間の魂をどうやって収拾するかだ」
「よく理解できないのだけれど」
サラは困惑し、額に手を当てた。
「ローゼンタール博士、あなたは人間の魂を収拾できると、本気でそう思っているの?」
「私は昔、一度だけ見たことがある」
カイルは両腕を前に伸ばし、眼前に垂れたカーテンを開くような仕草をした。
何も見えなかった白い空間が真上から暗くなっていく。頭上の空間はすぐに黄昏時の藍色の空に変わり、ケイン達は荒れ地の中にいた。
ケインはこの空間の変容に覚えがあった。ラボ・タワー地下のあの思念ドームだ。
「三十年前、私が見た光景だ」
カイルは顔を上げた。
「病院の裏庭で、砂漠の呪術師がこれを見せてくれた」
「砂漠の呪術師?」
「彼等はこれを見ることができる。この霊的な光のネットワークを」
暗い空に一筋の細いラインが浮かび上がった。
そのラインは曲線を描き、交差し、からまりあって増殖し、空一面に美しい不思議なアラベスクの文様を描いた。
「光のネットワーク……」
サラは幻想的な光景に眼を細めた。
「なんなの、これは?」
「観測されなければ存在しないわけではない。我々がそれを知る術を持たないだけで、それは確かに存在している」
民衆に向かう預言者のようにカイルは手を広げた。
「この惑星はあの光の編み目で包まれている。光のネットワークは霊的な情報網であり、魂の往還する道でもある」
「落ち着いて、ケイン」
優が静かに言った。
「力を抜きなさい」
ケインは、はっとした。気がつかないうちに、優の手首をきつく握り締めていた。
「『黒い死』によって強制的に肉体から引き離された大量の魂は、世界中からこのネットワークを通じて集められる」
カイルは夜空に手を伸ばした。
「このように」
見えない糸を手繰るように手首を回すと、細い光の文様が巻き取られ一本の太いラインになる。カイルは人差し指を下に向けた。光の先端が真っ直ぐに下降し、地表に到達する。
「アーペンタイルは魂を曵き込む独自の光のラインを構築したと推測される。だからもう、『黒い死』は起きていない」
「どうやって物理的に干渉しているの?」
サラは急き込んで言った。
「それが判れば対応も可能だわ」
「その通りだ。我々の世界では常に物理が問題だ。しかし、わからない。物理的な次元では説明できないのだ」
カイルは夜空にかざしていた両腕を下ろし、疲れたように椅子に深く身を沈めた。
「人間には想像することさえできないだろう。しかし、超知性は人間を模倣しない。人間の思考に捕われない。そうして『あれ』は、次元を越えて思惟を巡らし、魂の往還路を自ら見つけ出した」
「アシュレイは知っているの? そのことを?」
サラは強く、問い糺すように言った。
「当然だ」
カイルは即答した。
「彼はすべてを知っている」
サラは茫然と立ち尽くした。
「ワールドバトルの開会式まで後二週間」
カイルは抑揚のない声でいった。
「君達が実際に遭遇するアーペンタイルは、科学者達の計算した仮想進化モデルに近しいものであり、同時に完全に異なったものである筈だ。だがやることは変わらない。アーペンタイルを、必ず、破壊するんだ」
ケインは妙な違和感を感じた。
父親の声に、あの銀髪の男の声が重なって聞こえる。
「すべて、計画通りに進めるんだ」
カイルは念を押すようにいった。
ケインは母親の前から立ち上がり、カイルに向き直った。
「あんたの作った仮想装置は、シンシアに強い負担をかけている。今やっている実験をすぐに止めて欲しい!」
「シンシア?」
カイルは怪訝そうに優を見た。
「あの、車椅子の女の子よ」優は言った。
「……ああ」
カイルは気のなさそうに答えた。
「大丈夫だ、まだ死にはしない」
サラがケインの腕を抱え込む。
ケインも、目の前の男に掴み掛かりそうになる自分を必死に押さえた。
カイルは椅子から立ち上がると、黄昏の空に向かって両手を交差させた。
「オウガ・フレーム」
光のネットワークが消え、空間が暗くなる。
空中に白い傘の骨組みのようなものが浮かび上がった。
仮想装置は動きだし、八本の太い腕木を蜘蛛の脚のように広げた。
「これが私の開発した仮想装置だ」
カイルは自慢の作品を紹介するように声を上げた。
「このオウガ・フレームは実装者のイメージ想起量を累乗させる。現在は剛体を八基まで実装可能になった。これは、通常の人間では考えられない量だ」
—膨大な射出イメージを持つアッシュ・ガールだから可能なのだ。
ケインは無言で父親を睨みつけた。
—しかし、そのアッシュでさえ耐え切れないほどの負荷がかかっている。この男はそれに気がつかないのか?
ケインは歯を食いしばり、爆発しそうになる怒りを抑えた。どうにかして、この男に装置の開発実験を止めさせなければならない。
「ケイン、大丈夫よ」
優が立っているケインに声をかけた。
「何が?」
ケインは尖った声で言った。
「もう、実験はないわ」
一瞬当惑して硬直するケインに、カイルが言った。
「これ以上の実装実験は必要ない。後は、実装者がどこまでコントロールできるかが問題だ」
「やはり危険なのか」
ケインは改めて怒りが込み上げて来た。
「では」
突然、カイルは低く叫んだ。
「彼女に言いたまえ!」
その語気の強さにケインはたじろいだ。
この神経質な科学者がこれほど感情を見せたことはなかった。
「実験を志願したのは彼女だ。限界まで剛体を増やしたのも、彼女が強く望んだからだ! 私も危険性は充分理解している。しかし彼女は命懸けでこの仮想装置を制御しようとしているのだ」
カイルはケインの前に立ち塞がるように腕を組んだ。
「ケイン、君はその覚悟がわかっているのか?」
ケインは拳を握りしめ、父親に対峙した。拳を握った腕が激しく震える。
それではシンシアが『助けて、ケイン』と言った言葉は嘘だというのか。
「行きましょう、ケイン」
サラが、醒めたような口調で静かに言った。
反射的に抗おうとするケインの腕を抱え込んだまま、サラはケインを引き摺るようにしてカイル・ローゼンバーグと優の前から離れて行く。
「サラ!」
ケインは腕を振りほどいた。
「どこに行くんだ?」
「もうここにいる必要はないわ」
「しかし!」
「見なさい」
ケインは背後を振り返った。
白い空間の遠くに、デスクに向かうカイルの背中と、長椅子に横たわった優が見える。それは投獄された無実の罪人のように、弱くて痛々しい姿だった。
「あの二人は夢の中にいるのよ」
「どういうことだ?」
「夢を見させられている、ずっとね」
「……アシュレイか?」
「ああ、もう!」
サラはいまいましげに腕を振り上げた。
「あなたたちのそんな姿は見たくない!」
「サラ?」
「私はこの状況を打破するわ!」
サラは白い光の中を、怒ったようにずんずんと進む。
ケインは急いで後を追った。
「元気になったな、サラ?」
「私はずっと元気よ!」
サラは胸を張った。
「行くわよ、ケイン!」
サラがデータパッドを差し出す。
ケインは少女の名前のグリッドをタップした。