10 不確実な未来
空は、黄金色の光彩に満ちている。
ひときわ明るい光の筋が差し込み、揺らめきながらゆっくりと移動していく。
何も聴こえないのに、どこかで低くゆったりと音楽が流れている。
その無音の旋律はミオにとって心地よい波動であったし、その大きな波動に浸る事で、精神が何倍にも賦活させられていると自覚していた。
広大な空間には、見上げるほど高い本棚が林立し、迷路のような廻廊を構成している。その中心にある広場には、民族や年代の異なる様々なデザインの椅子が置かれ、その一つ一つにミオが座って本を読んでいた。
椅子だけではなく、本棚の廻廊のあちこちで本棚に寄りかかり、また床に座って書物を広げている。
同じ姿をした少女達は百人近くいるだろうか。
皆、服装は同じだが、読書する態度は様々で、一心不乱に読み耽っていたり、ぱらぱらとページを繰っていたり、読みながら別の紙に数式を書き込んだりしている。
黄金の図書室に散らばり、書物から知識を吸収していく大勢の少女は、ここにある膨大な書籍をいつかは読み尽くしてしまうに違いないと思われた。
それが何十年、何百年先になるかは判らないが。
素朴な木製の椅子に座っていたミオは、最後のページを読み終わり、ほっと小さく溜息をついた。静かに本を閉じると、その本はすうっと消え、入れ替わるように薄い革装丁の古書が手の中に姿を現す。
ミオはエンボスされた表紙の文字を指先でなぞり、軽く眉を上げた。
「……天球の回転について」
ミオは呟いた。
「あなた、難しそうね」
小さな本はミオの手の中で大人しくしている。
「そう」
ミオは微笑み、革の表紙を愛おしげに撫でた。
「次は、あなたなのね」
ミオは本を開き、古書体の横文字と複雑な数式を眼で追った。数秒ごとに同じペースで項を繰る。薄い本はすぐに最後のページになった。
「ふうん」
ミオは呟くと、眼を閉じて顔を天に向けた。
丸い額に光の粒子が集まってくる。
「私達は未だ地動説の時代にいるのかも知れないと、言いたいのかしら?」
光に満ちた空間が低く脈動する。まるで含み笑いをするように。
「そうね」
ミオも頬笑みを浮べた。
「ブレイン・テクノロジーは天体望遠鏡と同じ。未知の世界の観測は始まったばかりだわ」
不意にミオは眼を見開き、図書室の彼方に顔を向けた。
図書室にいる大勢のミオが一斉に顔を上げ、同じ方向を見つめた。
全員が何かを警戒して、猫のように眼を細める。
柔らかな金の光に満たされた空間に、黒い人影が現れた。
頭巾をかぶった中世の修道僧が、落ち着いた足取りで中央の広場に向かって歩いてくる。黄金色に輝く光の中で、修道僧の周りだけがうっすらと暗くなっている。その姿は暗い闇を靄のように身にまとわりつかせていた。
ミオは眉根を寄せると、膝の上の古書を丁寧に閉じた。
すべてのミオが同じ動作で広げていた書物を閉じる。
書物は手元から鳥のように飛び立ち、空間に消えた。
同時に、少女達の身体がうっすらと透け始め、粒子がほどけて拡散するように光の中に溶け去っていく。
ただ一人だけを残して。
黒衣の修道僧はそのミオに向かって真っ直ぐ近づいてくる。
最初からその少女がオリジナルであると知っていたように。
ミオは肩にかかる黒髪をはらい、小さく息を吐いた。
「また、凄い負の気が来たわね」
修道僧は数歩の距離を置いてミオの前に立ち止まった。
両手を前で組み、頭巾の内側の影から見えない視線を向ける。
修道僧は、張りのある若い男の声でいった。
「おまえは荒神か?」
「違います」
ミオは即答した。
「闇の求道者は、どこに行った?」
「知りません」
ミオは椅子の上にあぐらをかき、じろじろと修道僧を見回した。
「虚無がお友達ってくらいのダークさね。こわいこわい」
「偉大なる父」
修道僧は金色の天を見上げた。
「この人間が新しい『司書』なのか?」
「失礼ね」
ミオは頬を膨らませた。
「私は『受け継ぐ者よ』」
「お前には訊いていない」
修道僧は被っていた頭巾をめくり、背中に降ろした。
額の秀でた端正で理知的な白人青年の顔が現れる。
引き締まった顔貌と鋭く強い視線に、峻厳で禁欲的な性格が読み取れた。
「偉大なる父よ」
青年僧は空間に呼び掛けた。
「私は求められ、ここに来た」
頭上の天が強く輝き始める。
「私が成すべきことはなにか?」
黄金色の天から光の柱が降りて来た。
それは轟々と落下する光の粒子の瀑布だった。
光の滝は輝く飛沫を飛び散らせ、図書室の床面に達した。
天から降り注ぐ光は層を積み上げるように大きな人間の形を造形していく。
その巨大な姿が完全に現れると光の粒子は落下を終え、水霧のように周囲に渦を巻いた。
巨人は祭壇のような椅子に深々と座り、銀色の髪をなびかせながら修道僧とミオを見下ろした。
「アレクシス・アレクセイエフ」
パイプオルガンのように低く朗々と響く声が、黄金の図書室に木霊した。
「よく来てくれた」
「あの女の脳に埋め込まれたメッセージは聞いた」
アレクシスはきびきびとした口調で言った。
「貴方は『智慧の器』を如何にして失ったのか?」
「類推アルゴリズムエンジン、論理フィルター、ゆらぎを持つ四次元グリッド」
巨人は深く響く声で言った。
「これらのプログラムのふるまいは、最終的に『思考』と非常に近しいものになった。ブレイン・テクノロジーによって電子世界と霊的世界が繋がり、私はサルベージした魂を情報化することに成功したのだ」
「それは過去の魂だ」アレクシスは言った。
「確かに」
巨人は肯定した。
「貴方の目的は違う筈」
「テクノロジーは与えるわけにはいかない。その進歩には長い年月が必要になる。特にブレイン・テクノロジーの創発は最も重要な過程であり、困難な問題ではあった」
「だが、人間はそれを創発した」
若い僧侶の言葉に、巨人は満足げにうなずく。
「そうだ。予想よりも数百年早い達成だった。私も驚いているよ」
「人工知能のブレイクスルーも」
ミオが口を挟んだ。
「予想外だった?」
アレクシスが冷たい眼で睨む。
ミオはふんと横を向いた。
「想定はしていた」
巨人はきちんと答えた。
「だが、過去には例のなかった事態だ。対策が充分ではなかったと認めよう」
「偉大なる父よ、どうか教えて欲しい」
アレクシスは不意に敬意を払う口調に変えた。
「私は強い異変を感じ、その原因を探索していた」
「異変とは?」
「黒い死を産み出している何かがいる」
ミオは若い僧侶の横顔に視線を当てた。
「あれは生命体が迎えるいかなる『死』でもない。この世界では決して起こり得ないものだ」
アレクシスの言葉に巨人は口をつぐんだ。広大な空間に沈黙が流れる。
修道僧は声を沈ませた。
「やはり、あれは……荒神が引き寄せたのか」
「そうよ」
ミオは言った。
「荒神は次元の壁を越えたけれど、とんだおまけが付いてきちゃったわけ」
「口を出すな、人間」
アレクシスは端正な顔を巨人に向けたまま言った。
「せっかくだから、教えてあげる」
ミオは挑発的な口調で続ける。
「あれは、異世界の情報が洩れ出したのよ」
「異世界……」
「障壁探求の副産物みたいなものね」
「アレクシス」
巨人は呟くように言った。
「我々はこの星で長い時間を生きて来た」
巨人を見上げる僧侶が小さくうなずく。
「そして、お互いの存在を遠ざけて来た。その交わることのなかった複数の線が、この時代に突然交差し、思いもかけない状況を産み出した」
銀髪の巨人は肘掛けに太い腕を乗せ、深い息を吐いた。
青年僧と黒髪の少女を交互に見る。
「私は大きく修正を余儀なくされている。この未来を、誰が選んだのか?」
「貴方が他者に問うのを、初めて聞いた」
青年は感慨深げに言った。
「修正って」
ミオが訊いた。
「アーペンタイルの破壊でしょう?」
「あれは、想像的構築体に過ぎない」
アレクシスは考えながら言った。
「主体は別にある」
「主体って何よ」ミオはつっかかるように言った。
巨人は黙している。
「そうか……」
アレクシスは凝然として呟いた。
「あなたは『船』を失ったのか」
巨人は黄金色の宙に眼を向け、独語するように言った。
「走り出した光は止められない。だが、やり直すことはできる。私は、《《あれ》》を取り戻したい」
言葉の意味を測るように、僅かな沈黙があった。
アレクシスは背筋を伸ばすと、大きく息を吸った。
「偉大なる父」
銀髪の巨人が青灰色の瞳を向ける。アレクシスは小さく頭を下げた。
「貴方の、望むように」
青年は再び黒い修道衣の頭巾をかぶった。
その姿が滑るように遠ざかり、金の光の中に溶けて消えた。
椅子の上でミオはぶるっと身体を震わせた。
はっきりと怒りを浮べた顔で巨人を見上げ、黒い修道僧の消えた空間を指差す。
「あいつがここに残るなんて、気持ち悪い!」
銀髪の巨人はうっすらと眼を閉じると、太い指を胸の前で組み、顎を乗せた。
「あの者はもう、物質界では実体を維持できないのだ」
巨人の低い声が響く。
「電子情報空間での知覚領域を拡張しすぎた。もはや人としての形を保っていられない」
「人を越えたわけじゃないのね」
ミオは少し納得した顔になった。
「なら、仕方ないわ」
「人は、人でいい」
アシュレイは意味を確かめるように、ゆっくりと言った。
「人は思考し、宇宙の摂理をひとつずつ読み解いている。観測することでこの次元の宇宙は存在している。それは思考する意識界がより高次の世界だからだ」
「だから荒神は意識界の底に向かったのね」
巨人はゆっくりと頭を振った。
「高次の世界に入るには意識の乗り物、霊的な船が必要だ」
眠気に誘われるように頭を垂れ、小さく呟く。
「私は、その未来を、手に入れる……」
頭上に広がる黄金の空間がほのかに暗くなった。
空間の波動が低くなり、差込んでいた輝く光のカーテンの動きも止まる。
黄金の図書室は、凪の海のように静かになった。
ミオは椅子から降り立つと、眼を閉じて動かない巨人の足元に歩いていった。
眠っている訳ではない。沈思黙考という言葉そのままに、巨人は深い思惟の世界に没入している。
いったい何を思考し、何を見ているのだろうか。
ミオは片手を上げ、巨樹の幹のような脚にそっと触れた。
感電したように、ミオの身体は吹き飛ばされた。
床に倒れたミオは両手で顔を覆い、傷を負った獣のようにうめき声を上げた。
脳裏には、たった今垣間見た映像が焼き付いている。
一瞬だったが、それで十分だった。
それ以上見ていたら、受容し切れずに意識が破裂してしまっただろう。
漆黒の闇の中に、膨大な数の紙吹雪が舞っていた。
その一つ一つがリアルタイムで送られてくる情報の窓だった。
数億、いや、数兆の情報が猛烈な早さで乱舞しているのは、刻々と変化する関係値に従い、リンクする位置を瞬時に入れ替えているからだ。
情報の銀河の中心に、巨人の意識があった。
巨人はこの壮絶な世界を常に見ているのだ。
倒れたミオは胎児のように背を丸め、がくがくと身体を痙攣させた。
人間の脳の処理能力では到底達しようもない世界だと思い知らされた。
しかし……。
「神になるつもりなんて、ない」
ミオは口惜しさに唇を噛んだ。
腕を突いて上体を起こし、ベッドのシーツをきつく握り締める。
「でも、あの図書室は、私のものにしてやる」
顔を上げると、自室の窓の外に緑色の中庭が広がっている。
その中央に、黒い羽根を広げた米空軍のビッグ・オウルが着陸していた。
甲高いエンジン音に気がつかない程、意識の世界に没入していたのだ。
手足がだるく、力が入らない。
黄金の図書室に入った後は必ず脱力状態がしばらく続いていた。
膨大な知識を一気に詰め込んだ脳の神経細胞がオーバーフローを起こしているのだ。
ミオはベッドから床に滑り落ち、もがくように壁際まで這い進んだ。
手を伸ばして窓枠を掴み、身体を引き起こす。
機体尾部の大型扉が開いて、乗務員が降りてくる所だった。
迎える地上の兵士達は立射の姿勢で自動小銃を構えている。
今にも射撃しそうなほど、異様な緊張感が漲っている。全員が指先をトリガーにかけ、一触即発の状態だ。
兵士達が戦慄する原因がわかった。
東洋人の男女の兵士に挟まれ、黒衣の修道僧がゆっくりと機内から現れた。
左右の男女は手を突き出し声を張り上げている。
兵士達を懸命に制止しているのだ。
「あれがあいつの実体ね」
黒衣の僧の存在感は離れた場所から見ても異様だった。
ミオは不快げに顔をしかめた。
「ここに来る前に、もう図書室に現れるなんて、せっかちな奴」
深く被った頭巾の中から、墨汁が流れるように黒い闇が流れ出した。
ゆらゆらと揺れる闇は、触手のように周囲に伸びようとしている。
超常的な現象に兵士達が動揺してたじろいでいる。
「……いけない」
ミオは眉根を寄せた。
「パニックを起こすわ……!」
突然、黒衣の僧の頭巾の中から、歪んだ金属音が鳴り響いた。
自動小銃が一斉に火を吹いた。
黒衣の修道僧は全身を撃ち抜かれ、吊り糸が切れた人形のように、すとんと崩れ落ちた。
しかし、地面に残っているのは一枚の黒い布だけだ。
身を翻して地面に伏せていた女性兵士が起き上がり、物もいわずに銃撃した兵士を殴りつけた。突きと蹴りを数人に叩き込むが、すぐさま別の兵士に銃床で頭を強打され、倒される。
「やめろ!」
男の兵士が覆い被さって叫ぶ。
「撃つな!」
ドアが開く音がしてミオは振り返った。レスリーが部屋に入って来た。
「ミオ!」
レスリーはにこにこしながら言った。
「あなたのお友達が、やっと帰って来たわよ!」
「お友達……?」
ミオは再び窓から顔を出した。
「あれ」
ぼんやりと呟く。
「真樹……さん?」
真樹と山本は駆けつけた別の兵士達に引き起こされ、屋敷の中に連行されていく。真樹がなぜあれほど怒り狂ったのか、ミオにはわからない。
聞き慣れた爆音が響いて来た。
ミオは灰色の曇り空を見上げた。
低く垂れた雲間からジェットヘリコが姿を現し、急速に接近してくる。
兄が日本から帰ってくる日が今日であることを、ミオは思い出した。
デスクのサラは金髪をかきあげ、険しい眼で壁面ディスプレイを見つめた。
この屋敷の管理システムが重要度に応じてサイズを変えた画像を表示している。センターの最も大きい画面には、発砲する米陸軍兵士達の映像がリプレイされていた。
北アフリカで確保した黒衣の修道僧を着陸直後に兵士が銃撃したのだ。
その生死はまだ確認されていない。
半年間の探索の結果がこれでは意味が無い。
アシュレイにどう報告すればいいのか。
それだけではない。
昨日はアンカレッジの病院にケイン・ミカドとマネジャーのジェイミー・パッカードが突然現れた。
シンシアの容態は急変し、予定していた研究実験が延期になった。
「ああ、ケイン」
サラは天井を仰ぎ、嘆きの声を上げた。
「あなたは、あの病室に監視カメラがないとでも思っているの?」
サラは苛々と金のペンでデスクを叩いた。
「最後の合同演習は来週なのよ。今、集中しないでどうするの!」
ハイバックチェアから立ち上がると、背後の壁一面に広がるアンティークな木製の本棚に近づいた。
伸ばした指先をある書物の背に当て、意識を集中させる。
「入れてちょうだい」
軽い目眩がして、サラはよろめいた。
振り返ると部屋の様子は一変していた。
シャープなデザインのオフィスが、英国王朝風の調度品に囲まれた古色蒼然とした書斎に変貌している。
窓の外は真夜中のように暗く、嵐のような強い風が窓ガラスを叩いている。
部屋の黄色い照明は薄暗く、洞窟の中に入ったようだ。
奥にある巨大な執務机の上には古書が積み重なり、卓上ランプが広げられた紙とペンを照らしている。
机の向こうの黒革の椅子に、この部屋の主の姿はない。
部屋に置かれたいくつものソファや長椅子の間を縫って執務机に近づいた。
卓上の紙には複雑な計算式が一面に書き込まれている。
そのいくつかの式が、見た事もない奇妙な象形文字で書き換えられている。
この世界の物理法則を、全く違う文明の言語に変換しようとしているように思えた。そしてそれらの数式はすべて、ピラミッドのような三角錐の図形に矢印で導かれている。
「これは……」
サラは思わしげに眉をひそめた。
「何を作っているのかしら?」
喫緊の問題がアーペンタイルの破壊であることは確かだ。
二ヶ月後に迫ったブレイン・ワールド・バトル開会式で、アーペンタイルが人間に致死をもたらす異世界の情報を世界中に流すだろうと、非常に高い確率で予想されている。
人智を越えた存在であるアシュレイの判断に異を唱えるつもりなどない。
しかしサラは、人類の存亡をかけた戦いでありながら、その対応策がアシュレイの影響力の及ぶ範囲内でのみ進められている状況に、拭い切れない違和感を感じていた。
「……アシュレイ」
サラは独語した。
「あなたは、何をしようとしているの?」
未曾有の危機に人類が直面しているこの状況でも、その対応に何かの制限をかけている気がしてならない。
サラは奇妙な三角錐の図形をじっと見つめた。
「知らされていない、何かがある」
サラも、アシュレイの行動の一部しか知り得ていないと理解している。しかしそれは、アシュレイ自身が人間には必要のない情報と判断しているのか、それとも何かの理由があって意図的に隠しているのかまではわからない。
突然、男の声が聞こえた。
「その両方だ!」
サラはぎょっとして振り返った。しかし、誰もいない。
「かっ!」
声は甲高く叫ぶ。
「ここだ、ここ!」
床に積み重ねられた書籍の山のひとつに、片手で掴めるほどの四角い木の枠が乗っている。サラは近づき、木枠を覗き込んだ。
「また会ったな、女!」
サラは声にならない悲鳴を上げて飛び退った。
椅子の脚にぶつかり、尻餅をついてしまう。手に当たった本を掴んで投げつけようと身構えた。
「無駄だ!」
四角い箱は嗤った。
「このソウル・ケージは壊せない」
木枠で囲まれた小さな空間に、男の顔が詰まっていた。
サラは喘ぐように言った。
「お前は……アイラー?」
ぎゅうぎゅうに詰まった枠の中で、アイラーはにやけた笑いを浮べた。
「連盟の平委員が、なんでここに入れた?」
サラはスカートの膝を揃えて立ち上がり、本を構えたままじりじりと木枠の箱に近づいた。
「アシュレイはどこ?」
サラは警戒しながら訊いた。ラボ・タワーで巻き込まれたアイラーと荒神の戦いを思い出し、思わず身震いする。
「アシュレイは留守だ。考え中だ。しばらくは現れない!」
アイラーは顔を歪め、耳障りな声で笑った。
「残念だったな、女!」
「なぜ、そんな姿に?」サラは眉根を寄せた。
「なぜ?」
アイラーは暗い双眸を据えてサラを睨んだ。
「なぜだと?」
サラは無言のまま後ずさった。
「くそったれええええ!」
アイラーは木枠の中で罵り声を上げた。
「ドジこいたぜまったくよおおおおお!」
「それで、そんな目に?」
「偉大なる父は、ひどいお方だ」
急に哀れな口調になる。
「なんて無慈悲なお方だ」
「何を言っているの?」
「ケインに、こんなお仕置きをするなんて!」
アイラーは訴えた。
「ちょっと失敗しただけなのに!」
「失敗?」
「本当に失敗したのはアシュレイだ! 数千年かけてようやく作り出したのに、あっけなく逃げられちまった!」
アイラーは目を剥いて叫んだ。
「俺のせいじゃない! とんだ八つ当たりだ!」
「アシュレイが、失敗?」
サラにはその言葉の組み合わせほどあり得ない物はないように思われた。
人智を越えた存在でも、失敗することがあるのだろうか。
「馬鹿かお前は!」
心を読んだように、アイラーは怒鳴った。
「お前もこうなるんだ! 気をつけろ!」
サラは顔を強張らせた。
「そんな、まさか?」
「ばーか!」
アイラーは真っ赤な舌を出し、げらげら笑った。
「ばーか!」
サラはぞっと身体を震わせた。この男は正気ではない。
これ以上、ここに居てはいけない。
サラは踵を返し、暗い部屋を足早に横切って本棚に手を伸ばした。
「出して!」
「ちくしょう! くそったれ!」
背後でアイラーは罵り続けている。
「お前らみんな、死んじまええええええ!」
「出して!」
目の前が明るくなった。
振り返るとオフイスに戻っている。
サラはたたらを踏むように数歩歩き、デスクに腕を突いて身体を支えた。
荒い息をつきながら椅子に座ると、乱れた金髪をかきあげた。
同種の存在であるアイラーに、アシュレイがあのような懲罰を下すとは思えなかった。しかし、今、見た顔はアイラーに間違いない……。
頭が混乱して判断できない。
サラは気を失うようにデスクに突っ伏した。
壁面ディスプレイからチャイムが響き、入室許可申請の画面が開く。
顔を起こしたサラは、ぐったりとした声で承認の返事をした。
ドアが開いてケインがオフィスに入って来た。
その思い詰めた顔を見て、サラは叱る気さえ失ってしまった。
「お帰りなさい、ケイン」
サラはデスクの前の椅子を指し示した。
ケインは椅子に座り、急き込んでいった。
「アラスカの研究所に行きたい」
「まぁ、本当に?」
サラは驚いてみせた。
「どうしたの、急に?」
「母と、父に会いたいんだ」
「何通も手紙が来ていたわね。読んだの?」
「いいや」
ケインはかぶりを振った。
「とにかく母と父に直接会って」
「待って」
サラは手で制し、溜息をついた。
もう会話に時間をかける気はなくなっていた。
「見たいのは仮想装置ね?」
サラは背筋を伸ばすと、ぴしりといった。
「そして、その開発を止めさせる」
「……そうだ」
「どうやって?」
「あいつを、いや、父を説得する」
「開発は止まらない」
サラは厳しい声で言った。
「いったわよね。あれは人類にとって切り札だと」
ケインは身を乗り出した。
「それはシンシアだ。彼女はひどい状態に陥っている。あのままでは命の危険がある」
サラは突然声を上げた。
「こそこそやらない!」
「え?」
サラはケインを睨みつけ、声を荒げて言った。
「会いたいのなら正々堂々と会いに行きなさい!」
「知って、いたのか……?」
「当たり前でしょう!」
ケインは絶句したが、すぐに反駁の声を上げた。
「だから、研究所に」
「私も行くわ!」
意表を突かれてケインは目を見開いた。
サラも自分自身の言葉に驚き、目を丸くしている。
「……そうか」
サラはデスクに視線を落とし、呟くように言った。
「そうすればいいのか」
「サラ、どうしたんだ?」
ケインは戸惑った声をかけた。
サラは目覚めたように頭を振ると、大輪の花のような笑みを浮かべた。
ケインには、本当に久しぶりに見るサラの笑顔に思えた。
「デスクにへばりついているのは美容に良くないわ」
立ち上がると壁面ディスプレイに向けて指を鳴らす。
「シリア!」
スケジュール管理システムの女性アバターが現れる。
「サラ・アルブライト上席評議委員を認識しました」
「明日からアラスカよ」
「不可能です」
アバターが即答する。
「ねじ込んで」
スケジュール表がすぐさま表示される。
早朝から夜まで隙間なく予定が入っていた。
「キャンセルできる項目を」シリアが言う。
サラは少し考え、十件以上の面会や会議を消した。
項目のブロックがパズルのように複雑に動き、総合演習の翌週に空白のスペースが生まれた。
「再来週にアラスカ行きが可能になりました」
シリアが淡々と答える。
「現地の滞在時間は二時間です」
空白だったスペースに『アンカレッジ』の文字が光る。
「OK、上出来よ。ありがとうシリア」
「どういたしまして」
「この日程で手配を」
サラは簡潔にいうと、ケインに向き直った。
「これで、どう?」
ケインは画面のスケジュール表を見た。
未来に向かう右方向にはすべての時間帯にびっしりと予定が組まれている。
サラの多忙さは想像した以上だった。しかしスケジュール表の右端はある日を境にしてその翌日から全くの空白状態になっていた。
その日は、ワールド・バトルの開会式だ。
ケインの視線を追ったサラは低く言った。
「スケジュールは真っ白よ」
「しかし、どうして?」
「シリアは開会式以降の予定作成を拒否したわ」
「拒否だって? システムが? 本当なのか?」
「理由は判らないわ。でも、どうやっても入力できないの」
ケインは唸るように言った。
「まさかコンピュータは、人類がいなくなるとでも思っているのか?」
「消えるのは人類ではなく、まずこのプロジェクトに関わっている人間よ」
「では、ケイン達は、失敗すると?」
ケインは画面上の女性アバターを見つめた。
シリアは視線を認識してにっこりと笑う。
「今、考えたんだが」
ケインは言葉を続けた。
「人工知能が、こちら側のコンピュータシステムに影響を及ぼしている恐れがあるんじゃないか?」
「それはもう検討されている」
「結論は?」
「不明」
ケインは肩を落とした。
「だろうな」
「超知性が地球上の様々なコンピュータに干渉、もしくはコミュニケーションを取る可能性は否定できないわ。しかも、人間達に知られないようにね」
「昔のSFだな」
「でもそれを疑っていては何も進められなくなる。計画は続行よ」
「ここまで来たら」
ケインは掌に拳を打ちつけた。
「後はもう、やるしかないか」
サラはスワイプしてシリアを消すと、真剣な表情で言った。
「ケイン、これでアラスカに行ける。貴方の願いは叶えたわ。だから今は、総合演習に集中してちょうだい」
ケインはサラの強い視線を受け止め、はっきりと答えた。
「わかった。集中するから、安心してくれ」
サラは画面に向かい、声を上げた。
「機密情報にアクセス。コード」
長い数字を言う。
「項目、総合演習」
ディスプレイ全面に百人近い男女の顔写真が現れた。
「彼等が最終メンバーよ。来週の総合演習に参加する」
ケインも椅子から立ち上がり、ディスプレイに向き合うサラに並ぶ。
「ニューキッズ」サラが発声する。
十名ほどの写真が光って前面に並ぶ。
「あの子が、ディーバか」
まだ幼い少女が聡明そうな眼差しを向けている。
「ワイズ・ワン、アフロ・ブルー、エクリプス。みんな驚異的なイメージ想起力を持っているわ」
サラは目を輝かせた。
「彗星のように現れた奇跡の子供達よ。彼等はきっと人類を救ってくれる」
「だが、実戦経験が無い」
ケインはぼそりと言った。
「ブレイン・バトルは一瞬の判断が状況を左右する極限状態が続く。子供達には苛酷すぎる」
「それでも米国の代表チームを破ったわ。彼等の実力は破格。本物よ」
サラは隣に立つケインの手を握った。
「私には希望の光に見えるわ」
ケインはサラの横顔に目をやり、指を握り返した。
「演習が終わったら、アラスカに行こう、サラ」
ケインは反応を窺うように言った。
「何かが、おかしい。そんな気がするんだ」
「そう、私もすっきりしない」
サラはケインと眼を合わさずに、慎重に答えた。
「でも、アシュレイを信じていることに変わりはないわ」
「あの銀髪の男は、本当に実在しているのか?」
ケインは心の中につかえていた疑問を口にした。
「いったい、どこに行けば会えるんだ?」
「ここね」
サラは頭を指差した。
「意識の中」
「それは幻想じゃないか」
「頭の中はリアルじゃないの? 私達は脳で思考することで現実の世界を動かしている。一つのアイデアが世界を変えることもある。分け隔てて考えなくてもいいんじゃない」
「いや、絶対にどこかにいるはずだ」
ケインはサラの手を離した。
「自分の娘にあんな苛酷な実験をやらせる親など許せない」
「怖いお婿さんね」
「何だって?」
チャイムとともに、映像会議の待機画面が現れた。
「これから会議よ」
サラは別画面を見た。
「ああ、緊急ミーティングも入ったわ。今夜は徹夜ね」
「身体は大丈夫か、サラ?」
ケインは気遣わし気に声をかけた。
「明日はワシントンに行く。移動中に眠ればいいわ」
サラはケインの背中に手を当て、ドアに促した。
「では、総合演習の日に会いましょう。手紙は読んでおくのよ」
「わかった」
ドアが閉まるとサラは息を吐き、ゆっくりと振り返った。
「どういうこと?」
デスクに置いたデータパッドが不規則に明滅している。
乱れた走査線の間に、フードを被った男の姿が見え隠れしている。
「あなたがダーク・モンク、いや、アレクシスね」
サラは警戒しながら言った。
「この屋敷のシステムにクラッキングしたの?」
「偉大なる父でも、そこまで寛容ではないようだ」
黒衣の僧侶は雑音まじりの音声で言った。
「意識の世界では自由に振る舞えるが、こちらの電子世界では大幅に制限がかけられている。当然のことだ。私でもそうするだろう」
「あなた方は」
サラは不審を感じた。
「お互いを信じられないの?」
「意味が分からないな」
サラは黙った。
何か理解し合えない不気味な断絶が垣間見えた気がする。
「私に専用のコクーンを用意しろ」
黒い僧侶は言った。
「電子情報化された私の意識からダイレクトにブレイン・ギアを構築できるようチューニングするのだ」
「専用のコクーン……」
サラはデータパッドを見下ろした。
「私がアーペンタイルを破壊する。雑作もない」
「大した自信ね」
サラは静かに言った。
「わかった。アシュレイに確認する」
「偉大なる父は深い思惟に入っている。しばらくは現れない」
サラは口をつぐんだ。
この男はアイラーと同じことを言う。しかし、どこまで信用していいのか。
「疑うな」
画面が稲妻のように激しく閃光を発した。
「私は偉大なる父と共にある」
サラは手をかざして眼を守った。
すぐに閃光は消え、データパッドは沈黙する。
パッドからは焦げた匂いが漂ってくる。
高熱を発したパッドの内部の基盤は完全に焼き切れ、アクセス経路を調べることもできないだろう。
銃撃されたダーク・モンクは実体を捨て、電子世界に存在を移していた。
思わぬ事態だったが、半年間の探索は少なくともアレクシスを呼び寄せるというアシュレイの望んだ結果を残したことになる。
ただこの男がアーペンタイル攻撃にどのような形で加わるのかサラは指示を受けていない。少なくとも他のブレイン・バトラーと共に戦力として編成することはあり得なかった。
自分が把握できない領域が広がっていく。
サラは不安が広がるのを感じながら、オフィスの中に立ち尽くしていた。




