01 再会と疑念
J・F・K国際空港。
上空は重苦しい灰色の雲で覆われ、強く風が吹いている。
大型の台風がニューヨーク州に接近しているという気象情報が、着陸前にアナウンスされていた。
ボーディング・ブリッジを抜けてターミナル・ビルに入ると、ケイン達は空港職員によって一般旅客エリアから離れた通路に誘導された。
通路の先に背の高い黒スーツの男達が並んでいる。
威圧的な雰囲気に、ミオは繋いだケインの手をぎゅっと握った。
「大丈夫」
ケインは怯える妹の手を握り返した。
「迎えに来てくれたんだ」
荒神の人格が抜け去ったミオは、成長した姿のまま、六歳の頃の意識に戻っていた。
これから眠り続けていた失われた時間を取り戻さなくてはならない。ミオが本来の年齢に見合った知識を得るには多くの学習と経験が必要だ。
しかしそれに自分が関われる時間は少ないだろうと、ケインは思っていた。
体格では見劣りしない山本が黒スーツの男達と英語で話をしている。こちらを振り向くと窓の外を指差した。
「このまま移動します。急ぎましょう」
「どこへ?」真樹が訊いた。
「いえないそうです」
憮然として唇を曲げる。
黒スーツの男達はすでに背を向けて歩き始めている。
非常口の階段を降りて地上に出ると、湿った風が顔を叩いた。
停車していた黒塗りの大型SUVに乗り込む。車はすぐに発進してレースのように猛然と加速し、滑走路を突っ走った。
広大な空港の端に陸軍の装甲車輛が並び、自動小銃を構えた兵士達が警戒に当たっている。その向こうに流線型のジェット・ヘリコがローターを回転させ待機しているのが見えた。
ケインはその機体に見覚えがあった。
助手席の黒スーツの男が振り向き、声を上げた。
「走るんだ。絶対に止まるな!」
装甲車輛の脇をすり抜けたSUVが急停車する。
全員がヘリコプターに走り、シートに座ると同時にヘリコのドアが閉められる。エンジン音が高まり、ヘリコはふわりと浮き上がった。
若いコ・パイロットが操縦席から顔を出した。
「シートベルトを!」
ヘリコはぐんぐん高度を上げると、低く垂れ込めた雨雲の中に突っ込んでいった。
「いったい、どこに行くんだ?」
真樹は険しい声で山本に言った。
山本は黒スーツから渡されたブリーフケースを膝の上で開け、書類を取り出した。
「御門ケイン、御門ミオ、金城飛鳥」
シートに封入された小さなカードの名前を読み上げる。
「日本大使館が発行した暫定IDです。これで出国できます」
ケインと飛鳥は顔を見合わせた。異例すぎる対応の速さだ。
ケースには網膜認証装置も入っている。
IDは本人認証を受けずに開封すると印字が消えるようになっている。
「すぐに使う必要はない」
真樹が別の書類を読みながらいった。
「長期滞在になる」
「俺達も?」山本が訊いた。
「そうだ」
「海外出張扱いで?」
「そうだ」
「貯金できるな」山本はにやりと笑った。
「ところで」
ケインはパイロットに向かって声をかけた。
「久しぶり、ニック!」
操縦席からレイバンをかけた初老の白人が顔を出し、白い歯を見せた。
「元気だったか、ケイン?」
「ああ。なんとか生きているよ」
「それはよかった」にやりと笑う。「で、これは何の騒ぎだ?」
「とにかく、いろいろあって」
ケインは肩をすくめた。
「かなりヤバいことになってる」
「そうか」
ニックは鷹揚にうなずいた。
「それは大変だな」
「わかるのか」
真樹が呆れた顔をした。
「さて」
ニックは前方を向いた。
「雲を抜けるぞ」
雲海の上は太陽が燦々《さんさん》と輝き、抜けるようなコバルトブルーの蒼穹が広がっている。ヘリコプターは水平飛行に移り、高速巡航に入った。
「あれは」
山本が窓に顔をつけた。
「F55じゃないか!」
数百メートル離れて並進する、針のように鋭い最新鋭戦闘機が見えた。
「こちらにも飛んでいる」真樹は反対側を見た。
「国賓級の対応だな」
ニックが顔を出し、真面目な口調で訊いた。
「何をやらかしたんだ、ケイン?」
「こっちが聞きたいよ」
ケインは不安げに自分を見上げるミオの肩を抱いた。
「大丈夫だ、すぐに着くよ」
「どこに行くの?」ミオは首を傾げた。
「アッシュ、いや」
ケインはちらりと操縦席を見た。
「アシュクロフト家の邸宅だ」
「なぜ知っている?」真樹が言った。
「一度行ったことがある」
ケインは再びパイロットに声をかけた。
「アッシュは元気?」
「ううむ」
ニックはいいにくそうに口ごもった。
「まぁ、会えばわかる。いや、会ってやって欲しい。ぜひ」
ケインは声を落とした。
「何か、あったのか?」
ニックは答えずに前を向いている。ここでは話せないということか。
シンシアと最後に会ったのは何ヶ月前だろう。
一緒に戦ったアンリミテッドでのバトルが、もう随分と昔のように思える。
日本に帰ってから、それだけ様々な出来事が立て続けに起こったのだ。
ヘリコは雲海の上を順調に飛び続けた。
護衛の二機の戦闘機もぴたりと等距離を保っている。
やがてコ・パイロットが客室を振り返った。
「まもなく降下します。雲の下は嵐です。揺れますから気をつけて」
ヘリコはぐいと機首を下げた。
たちまち窓外は灰色の雲に覆われ、窓ガラスに水滴が走る。
機体は不規則に揺れながら、視界のない雲の中を一気に降下した。
雨雲の下に出ると、広大な針葉樹の森が暗緑色の海のように広がっている。
すぐ前方に雨に打たれて灰色に霞むアシュクロフト邸が見えた。
ニックは目まぐるしく変化する強風をものともせず、揺れる機体をコントロールして絶妙な着陸を見せた。
「ありがとう、ニック」
シートベルトを外し、ケインは操縦士の肩越しに手を差し出した。
ニックは手を強く握ると眉間にしわを寄せ、ケインを見上げた。
「お嬢さんを頼む」
男の顔でニックは言った。
「俺ではどうしようもない」
ケインは言葉を呑んだ。黙って手を強く握り返し、ドアに向かった。
待機していたベントレーに駆け込む。用意されていたタオルで、濡れた髪を拭った。
ベントレーは森の中の道を流れるように走って行く。
静粛な車内にいると雨風が吹き荒れる外の景色も現実感が感じられない。
やがて灰色の雨の帷の先に、壮麗なアシュクロフト邸が浮かび上がった。
「わぁ!」
ミオが歓声を上げた。
「すごい! お城みたい!」
邸宅とは反対側の森を見ていた真樹が低く言った。
「地対空ミサイルのトレーラーがある」
「さっきも見えたな」
山本がぼそりといった。
「この邸宅を囲んで配備されている。戦争でも始める気か」
「アシュクロフト」
飛鳥が雨を眺めながらぼんやりと呟いた。
「聞いたことがある。昔、荒神が……」
「今回の本当の依頼主ということだな」
真樹は腕を組んだ。
「どういう契約かきちんと説明してもらおう」
「黒服は国防総省職員。空港での陸軍の警備に、空軍最新鋭戦闘機の護衛。着いたところは迎撃用ミサイルだらけ」
山本は短髪の頭をかいた。
「まったく厄介なことになっちまった」
ベントレーは邸宅の裏に回ると地下に降りるスロープに入った。
地下には広大な駐車場があり、陸軍の輸送トラックや装甲車輛がずらりと並んでいる。
「こんな施設があったのか」
ケインは驚いて広々とした地下駐車場を見回した。
前に来た時は全く気がつかなかった。
ベントレーはエレベーターのあるエントランスに廻り込み、静かに停車した。車から降りたケイン達を出迎えたのはいかにも執事然とした銀髪の老紳士だった。
「ようこそいらっしゃいました」
老執事は柔和な笑みを浮かべた。
「どうぞこちらへ」
大型のエレベーターで地上階に出る。
ドアが開くと、ヨーロッパの宮殿を思わせる壮麗な室内が広がっていた。もっとも感嘆の声を上げたのはミオと山本だけで、飛鳥と真樹は平然としている。女というのは強いものだと妙な感心をした。
老執事の案内で、磨き上げられた廊下を進む。見覚えのある部屋に通された。
ルーブル宮殿の鏡の間のような、豪奢な装飾が施された奥行きのある部屋だ。
高い天井にシャンデリアが並び、煌びやかな光を放っている。
長大なテーブルの奥に数人の男女が座っていた。
一人の女性が立ち上がり、こちらに歩いて来る。
シックな黒いスーツを着こなし、カイルるい金髪をなびかせながら。
「サラ!」
ケインは驚きの声を上げた。
「どうしてここに?」
「会いたかったわ、ケイン」
サラはケインの身体に腕をまわし、しっかりと抱擁した。
ケインと手を繋いでいたミオが眼を丸くしてサラを見上げている。
サラはしゃがみ込むと、にっこりと微笑んだ。
「あなた、ミオね?」
サラは日本語で言った。
「うん」
ミオは不安げにうなずく。
「はじめまして、サラ・アルブライト、です」
「はじめ、まして」
ミオはケインとサラを交互に見て、ちょこんと頭を下げた。
「あなた、とっても可愛いわ」
サラは英語でいい、ミオの手を取って立ち上がった。
はっと息を呑む声が聞こえた。
振り返ると飛鳥が口に手を当て、眼を見開いている。
「まさか……」
飛鳥は声を震わせた。
「まさか?」
テーブルの奥にいた男女が立ち上がり、飛鳥に向かって手を振った。
「優!」
飛鳥はいきなり走り出した。誰も制止するものはいない。
飛鳥は黒髪の女性にぶつかるように飛びつくと、大きく叫んだ。
「優!」
「飛鳥!」
御門優は金城飛鳥を抱きかかえ、黒髪に顔を埋めた。
「ありがとう、助けてくれて」
「そんなこと」
飛鳥は声を震わせた。
「そんなこと、当たり前じゃない! だって、約束したんだから!」
「ありがとう、飛鳥」
優は繰り返し、背中を優しく撫でた。
「優!」
こみ上げる嗚咽を抑え、飛鳥は叫んだ。
「君のおかげで優は人格を取り戻した」
男性が声をかけた。
「本当に感謝する」
「カイル!」
飛鳥は手を伸ばした。
三人はしっかりとお互いの肩を抱き、頭を寄せ合った。
「本当によかった!」
飛鳥は感極まった声を上げた。
「優が戻って来た!」
「ありがとう、飛鳥」
カイルはちらりとサラを見ていった。
「あの女性から聞いた。みんな、君のおかげだ」
「いいえ」
飛鳥は繰り返した。
「いいえ、違うわ」
「飛鳥?」
涙に濡れた顔を上げ、飛鳥は訴えるように優を見つめた。
「障壁を切り裂いたのは、ケインなのよ!」
「わかっているわ」
優は微笑んだ。
「だって私、あの闇の中でケインに会ったもの」
抱き合っていた三人が、ケインに視線を向ける。
「行きなさい、ケイン」
茫然として立ち竦んでいるケインに、サラが言った。
「あなたのお母さんと、お父さんよ」
ケインは無言で、男女を見つめた。
三人がこちらに歩いてくる。ケインは縛られたように身動きできなかった。
優がケインの前に立ち、手を伸ばしてそっと頬に触れた。
「……ケイン」
懐かしい声で優は言った。
「大きくなったわね、ケイン」
「母さん……」
「助けてくれて、ありがとう」
優は微笑みながらケインを見つめた。
ケインはどう答えていいのか、言葉が出て来なかった。
確かに自分は分離させられた母親の人格を障壁から連れ戻した。
しかし、素直に喜べる気持ちが湧いて来ない。記憶の深海ではあれほど母の救出を強く願ったのに、何が今の自分の感情をせき止めているのか、ケインにはわからなかった。
「ケイン」
咳払いをして男性が言った。
「私は、カイル・ローゼンタールだ」
ケインは見覚えのある男の顔を見た。それはアンリミテッドから帰還しても意識の戻らないシンシアの夢の中、セントラル・パークで出会った男。
そして以前、サラがブレイン・テクノロジーの天才と賞賛していた科学者だ。
ケインはサラを振り返った。サラはゆっくりとうなずく。
「私も、そしてお前も、お互いを忘れている」
気まずそうなカイルの声。ケインは視線を戻した。
「忘れている?」
「そうだ。私達の記憶は消されてしまった」
「消された……」
ケインはぼんやりと繰り返した。
「実際には記憶を消すことはできない。それはどこかに隠されている。アイラーは隠匿された記憶は取り戻せるといっているが」
カイルは小さく頭を振った。
「あの男は信用できない。おそらく嘘だろう」
「アイラー?」
ケインは眉根を寄せた。
「誰だ、それは?」
カイルは怪訝そうな顔をした。
「ラボ・タワーで一緒だった。それも忘れたのか?」
「ケインは」
ケインは額に手を当てた。
「ケインは……」
カイルはすぐに理解した顔で言った。
「荒神だな」
優がケインの背後を覗き込み、声をかけた。
「あなたが、ミオね?」
三人が近づいて来た時からミオはおびえたようにケインの後ろに隠れていた。ケインの背中に顔を押し当て、シャツをきつく握り締めている。
「ほら、顔を見せて」
優の指先がミオの肩に触れた。
ミオはその手を邪険に払いのけ、叫ぶように声を上げた。
「知らない!」
「ミオ?」
優は困った顔でいった。
「わたしよ、お母さんよ?」
「知らない! 知らない!」
ミオは震える声で拒絶した。
「この子が、そうか」
カイルは傷ましげに声を落とした。
「私は、会うのは初めてだ」
「なんだって?」
ケインは声を尖らせた。
「あんたは、父親だろう?」
「この子が生まれる数年前から、私はアメリカで働いていた」
「じゃぁ、どうやって?」
優はミオの前から下がると、肩を落とし、小さく呟いた。
「この子は体外受精児よ」
「え?」
「私の卵子に、冷凍保存していた精子を使ったの」
ケインは絶句した。
「記憶層の深深度に到達するのは、耐圧設計のギアを構築しても極めて困難だ。しかも脳の神経結合は成長と共に変化する。同じ航路は二度と使えない」
カイルは科学者の口調で言った。
「そこで荒神は、到達可能で安定した中間点を作ることを思いついた」
ケインは思い出した。
同じことを荒神は言っていた。ミオは中間点だと。
「同じ遺伝子が脳構造を近似させ同調性を高める。昏睡状態であれば脳神経組織は変化せず、航路トレースも可能だ」
カイルは説明を続けた。
「この子はそのために作られ」
「やめろ!」
「ケイン?」
優が怪訝そうに言った。
「どうしたの? 大丈夫?」
膝ががくがくと震える。
ケインは足を踏みしめ、声を絞り出した。
「思いついただと? 作られただと?」
優とカイルは眼を見開いてケインを見た。
「ふざけるな!」
ケインは怒声を上げた。
優とカイルは驚きと戸惑いの表情を浮かべ、身体を固くした。
「ケイン、落ち着きなさい!」
サラの声が飛ぶ。
「優を、責めないでくれ」
カイルは沈痛な声で言った。
「優はお前達二人を守るために、自ら再び、障壁に沈んだのだ」
「守る、ため?」
「荒神には逆らえない」
カイルは苦しげに顔を歪めた。
「お前は、荒神の恐ろしさを知らないんだ」
「その結果がこれか?」
ケインは拳を握りしめ、唸るようにいった。
「ラボ・タワーは、沈んだ」
カイルと優の顔色が変わった。聞かされていなかったのだ。
「米軍の核攻撃まで受けた。あの時、ラボ・タワーで何が起きたんだ?」
「あの時?」
「スタッフが一瞬でミイラのようになった。恐怖に顔を引きつらせていた。あれはいったいなんなんだ!」
優とカイルが問いかける視線を飛鳥に向けた。
飛鳥は重い溜息を洩らした。
「探索者は、まだ残っていたの」
「まさか」
優が口に手を当て、眼を見開いた。
「探深錘の一人が取り憑かれたのよ」飛鳥は言った。
「その子供の脳を通じて洩れ出したんだな」
カイルが重々しく言った。
「やはり、また起きたのか」
ケインは苛立って声を荒げた。
「一体、何を言っているんだ?」
「闇の具現化だ」カイルは答えた。
「闇?」
「闇は……始原の恐怖」
優が低く呟く。
「それは異世界のもの」
「荒神は『異世界の情報』と言っていた」ケインは言った。
「本質は変わらない。あれはこの世界にあってはならないものだ」カイルは言った。
優は、ふっと吐息をついた。
「でも、よかったわ」
「な!」
その言葉にケインは驚愕した。
「なんだって?」
「闇は封じられた。ラボ・タワーと共に」
優はケインに顔を向けた。
「あの建物は、そうなる運命だったのよ」
「信じられない!」
ケインは唖然とした。
「脱出できない人がまだ大勢いたんだ。それなのに核ミサイルを撃ち込まれたんだぞ!」
優はじっとケインを見つめ、小さく、しかしはっきりと言った。
「世界が破滅するよりはましよ」
ケインは耳を疑った。
平然としてそう言い放つ母親が他人のように思えた。
「その『闇』は……」
飛鳥が暗い声で呟いた。
「米軍が持ち去った」
飛鳥は掬い上げるようにサラを見据えた。
「あなたは知っているんでしょう?」
サラは答えない。強張った表情は感情を覆い隠している。
「どうなの?」
「ここで説明する予定はないわ」
サラは乾いた声でいった。
「ミス・アルブライト」
カイルが言った。
「私達もまだ聞かされていない。『闇』、いや、DCで捕獲した『異世界の情報』は略取されてしまった。いったい、何が起きているんだ?」
沈黙の間があった。
サラは逡巡し、一瞬でその迷いを打ち消した。
何かの強い意思がサラの背筋を伸ばした。
「必ず説明する。何が起きて、これから何が起きるのかを」
突然、その場にいた全員が凝固した。
空気の中を眼に見えない波動のようなものがゆったりと通り過ぎて行く。
真樹は飛鳥に視線を向けた。それは旅客機の中で感じた『見られている』感覚に近いものだったからだ。飛鳥は気配を探るように眼を閉じている。
「しかし、今ではない」
サラはきっぱりと言った。
「では、いつ?」カイルが訊く。
「嵐が来るわ」
サラは窓の外に顔を向けた。
強風に樹々が揺れ、雨脚が強まっている。風景は薄暗くなり始めていた。
「天候の回復を待ちましょう」
サラは振り返り、待機していた老執事に声をかけた。
「皆を部屋に案内してください」