第二章 再開と蜂のページ
第二章 「再開と蜂のページ」
1
『え〜。相変わらず日本のほぼ全域が低気圧に覆われ、天気が崩れやすくなっておりますのでお気をつけください〜』
それほど広くはなくとも、やはり一人のリビングに声は響く。ソファに座った庵の耳に、お天気お姉さんの声が壁やカーテンに反射して余計大きく入ってくる。
対する庵はテレビの方を向いてはいるものの、ぼーっとマヌケ面で上の空。
「……夢? ……とは思わんけどさ、俺、今日死線をくぐったよな」
庵は呟く。
今日、彼は凶器を持った男に人質にされ、それをルナとかいう少女に助けられた。
男は彼女の剣 (レイピアというらしい)の柄でみぞおちをやられてのび、彼女に連行されていった。彼女には「もうすぐ私の組織の人達が来るからさっさと帰って。それと、この件は他人に口外しない必要がある」とだけ言われた。庵は帰る前に瑠璃華と海老村を探したがいなかったので、帰って海老村に電話を入れてみた所、
「……、なんであいつ……」
その時の会話が妙だった。あれだけの事があったのにも関わらず、その事を話しても、「あー。そんな事もあったなー。でさ、庵、明日ヒマ? ボウリングとか行かね?」と、そんな事どうでもいいと言う感じだった。
俺的にはあれで24時間は話し込めるんだけどなー、と思ったが、悪魔とか天使の羽根とかフリーメ……あれ? なんだっけ? フリーメン? とにかくそんなアタマノオカシイヒト的な事を話しても、いいカウンセラーを教えてもらえるだけなので庵は言わなかった。
はー、と溜め息をつくとソファに倒れ込んだ。
「……俺みたいな一般人の知らないトコでいろんな事があってんだな〜。……竜串ルナ、か」
庵はあの少女のことを思い出した。なぜだろう。彼女とはこれからも会う気がする。
「……気になってる? いやいやまさかな、何で俺が明らかに年下の……」
ふと、彼女の自分を見た時の少し安心した表情を思い出す。それは庵だったからではなく、あの立場にいれば誰にでも向ける表情だった。が、庵は内心それが嬉しか
「だーーッ!! もうあいつのコト考えんのナシナシ!!」
庵は髪をぐしゃぐしゃと掻いてソファに顔を沈める。
「あ〜〜……、もう……」
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。とにかく別のことに集中したかった庵は、ガバッと起き上がり、猛ダッシュで玄関へと向かった。
はいはいー、と庵が鍵を掛けてないドアを開けるとそこには、
黒い男の人がいた。
黒人という意味ではなく、ただ体の表面の7割以上が黒で埋められた人だった。要は黒スーツに黒革靴である。どこからどうみても昼に活動しない世界の人に見える。
第一印象、「今すぐドアを閉めた方がいい人」
庵は無言のままドアを閉めた。
「……、やっぱ家にいる時も鍵は掛けとくモンですな……」
しばらくの沈黙。
ピンポーンと、またインターホンが鳴った。
「やばい。さっきのアクションで俺がイヤミな奴と見られたかも。ドアを開けたらバーン! って展開はヤダなぁ……」
庵はぶつぶつ言いながら、しぶしぶドアをちこっとだけ開ける。
「はーい……」
庵がスキマから相手を覗こうとした時、スキマに黒い人が顔をぬっと出してきた。
「おわっ!! あの、うち仏教でいくんでぇ!! じゃあ!!」
庵はドアを閉めようとしたが、『待って下さい奥さん!』的に黒い人がドアに靴を挟んできた。
「獄魔……庵さん、ですね……?」
「そ、そっスけど……。何スか……?」
庵は引きつった笑顔で言葉を返す。わー!! 名前知られてるー!! やべ、なんか俺悪いことしましたか!? と心はパニック中である。
「あなたのお父さん。……について話があります」
2
庵は自分の作るコーヒーの味には自信がある。
今回のお客サマは渋キメの黒スーツおっさんなのでブラックをつくった。要はコーヒー豆に適量のお湯を注いだだけである。何か悪いか。
庵は台所からテーブルに行くと黒い人にコーヒーを出し、彼の前に座った。
黒い人はコーヒーを少しすすって、ってか黒い手袋外そうよ。
「まずは自己紹介しておきましょうか、私の名前は切坂とでも呼んでください。率直に言いますとあなたのお父さんのパトロン……資金提供をしている組織の者です」
「…………、」
庵は唖然としていた。あんな人当たりのよさそうで明るい父親が、まさかこんな人達と付き合っていたなんて。
「あなたのお父さんはですね、詳しくは言えないのですが、とても重要な研究をしていましてね。それゆえにその技術を欲しがる国や組織、富豪から狙われていました。事実、幾度か拉致されたりしています」
「…………、」
そうだろう。ある国が新兵器を研究していれば、他国はその技術を手に入れようとする。簡単な話、A君が新しく買ったオモチャを皆で取りあうと同じことだ。それを避けるには嫌でも『セキュリティ』というのが必要になってくる。
切坂は続けた。
「そして今回の行方不明もそれなのですが……」
庵は思っていた。
それだけ拉致されても、変なお土産を片手に笑顔で帰ってくるぐらいだから、今回も大丈夫だろうと。
だが、
「あなたのお父さん、獄魔 蒼さんは」
違っていた。
「ドイツのヘッセン州にて、 死体で発見されました」
「―――……え?」
止まった。呼吸が、思考が、全てが。
唇、手、足から血の気が引いてゆく。
自分の父親は、苦痛を息子には見せまいとしていただけだった。
何も言えない。というか何も考えきれない。
その時、インターホンが鳴った。庵は我に返り、よろめいた足で玄関へと向かう。ドアを開けようとしたが開かない。よく見たら鍵がかかっていた。庵は鍵をあけ、ドアを開ける。
ドアの向こうには、フードを被った子供がいた。フードを被っている所為で顔が見えない。子供といっても庵よりやや背が低いだけである。怪しい、とは思わなかった。今の庵にはそんなことを考えられる余裕などなかった。
「あの……何? 大した用じゃないなら明日にしてくれないかな……」
庵は適当に答えた。
ところがその子はいきなり庵の腕をつかみ、家の外に引っ張り出した。急に手を放されたので、庵はしりもちをついてしまった。
「いった! てめ……!」
庵は怒鳴ろうとしたが、口を手で塞がれた。
「しっ。静かに……!」
その声は聞き覚えのある女性の声だった。その子は玄関を覗き、辺りを見回してから、
「あなたを保護しに来ました」
と、ぎこちない口調で言ってフードを外した。
そこには、
とても見覚えのある金髪の少女がいた。
「あ……」
目を見開いているのは庵だけではなかった。彼女もフードの所為で、こっちの顔までは確認してなかったらしい。
沈黙する二人。
先に口を開いたのは少女の方だった。
「よりによって……、あなたとはね……」
「な、聞き捨てならねぇ! じゃあお前はどーゆー奴が良かった!? 言ってみ!? 怒らないから!!」
庵は立ち上がり、小言で怒鳴った。対して少女は腕を組み、
「そうねぇ、科学者の息子だから、もっと頭のよさそうな人かと」
『科学者の息子』という単語に、庵は反応した。この少女に会った時に込み上げてきた元気が失せていく。
「……あのさ、お前がどうやって俺の父さんが科学者だったことを知っているのかは知らないけどさ、実はもう、俺の父さんは――」
言葉はそこで区切られた。庵にではなく、少女に。
彼女は両手で庵の両肩を押さえ、庵を見つめていた。
「なんで……あんた、知ってんの……?」
その顔は驚愕と、緊張と、焦りで満ちていた。
庵は場に合わないがあまりに少女がまじまじと見つめてくるので、目を逸らして、
「今、俺ん家に来てる人に教えてもらった」
やっぱり、と少女は呟きながら庵から手を放す。
「あんたのお父さん、どうなったって?」
庵はあまり言いたくなかったが、この少女が悪意あって聞いてきてるとは思えないので答えることにした。
「……、死体で発見されたって」
「それ、嘘よ」
……。
……。
……。
……ん?
「だから、あんたのお父さんはまだ生きている、って言っているの。別に、あなたを安心させようとしてるんじゃないからね。あなたは真実を知る必要があったから」
唖然。目の前の少女は本当の事を言っている、と思う。今さっき教えられたことに絶望し、それは全部ウソでした! ……って、じゃあ、
「じゃあ、俺にウソついた人って」
「敵。恐らくはあなたのお父さんをさらった組織」
「え? さらわれてんの!?」
「生きてはいるけどね。いろいろ事情があるらしいから」
素直に喜んでいいのやら。とにかく、父親は生きていて、あの黒スーツおっさんは敵らしい。
「……俺はどうすりゃいい」
「まず、ここから逃げるの。多分そいつはあなたを消しに来たか、面倒な事を考えないように思考を植え付けに来たと思う。あなたはこんな事に巻き込まれる必要はないのに」
また、『逃げて』
「お前はどーすんだよ?」
少女は玄関を見ながら、
「そいつは家の中にいるんでしょ? あなたのお父さんを助け出すための情報収集のためにも、そいつを拘束する必要がある」
「戦うのか?」
「抵抗すれば、ね」
その言葉に庵は怒った。
「そんなのダメに決まっているだろ!? 自分が戦うからお前は逃げろって、そんなんで俺が嬉しくなると思ってんのか!? 女の子一人、危険な場所に放り込んで、へらへらと平気な顔して逃げれる奴だと思ったのか!?」
「じゃあ、あんたは戦えるの? 死ねる覚悟があるの?」
「……死にたくねえよ、……それに俺はそんな特別強いわけでもない。俺なんかよりお前の方がはるかに強えよ。でも、守ってもらうばかりじゃいけねぇだろ。俺だって何か……」
その時、ヒュンという風切り音と同時に、少女が庵を蹴り飛ばした。庵はまたしりもちをつく。
「ってぇ!! 何すん……!」
「死んだ方がマシだった!?」
少女が庵のいた場所を指差す。そこには軍人が使うような背がギザギザになっている軍用ナイフが2本、突き刺さっていた。刺さっている角度からして家の中から飛んできたと思える。
少女は玄関を睨んでいる。
「よォよォよォ。ヒトヤマサンよォ。客をいつまで待たせん気だァ?」
玄関の奥から切坂の声が響いてきた。だが、口調はさっきまでとは全く違う。
まるでもう生かす意味はないと言わんばかりに。
玄関からコッコッと足音が響く。
「なァなァなァ? 何か? やっぱムサい男より、ピチピチの女が良かったクチか? ワリィなァ。そこまで気ィきかなかったわ」
そして、玄関から現れたのは、
女性だった。
長い黒髪に黒い瞳のすごい美人だった。服装は黒スーツ、まるで切坂が変装したように全く同じものだ。
その女性は庵の方を向き、怪しい笑みを浮かべ、口を開いた。
「なァなァなァ。やっぱ日本人はこーゆー女がいいか?」
「……ッ!!」
その声は確実に切坂だった。
「てめ……ッ! 誰だ!?」
女は、女性とは思えないほど口の端をつり上げて、
「おィおィおィ。決まってんだろ? 切坂だよ。ま、偽名だがよ」
バギンと切坂の顔にヒビが入る。そして、まるで風化した岩を叩くように、割れ、剥がれ落ちてゆく。
出てきたのは青年。身長は庵より高く、灰色の混じった銀の長髪につりあがった目、つりあがった口と、とても挑発的な容姿で、服はそのままの黒スーツである。よく見ると首や首元に古傷が複数ある。
ただ見られているだけなのに、それだけで自分を殺そうとしているのが分かる。この威圧感を『殺気』というのか。
「本当の名前はなァ、デッドバー・リング。ノイズの殺し屋及び幹部だ。よろしくなァ」
3
すっかり夜の住宅地を照らすのは、頼りない街灯と住宅のカーテンのスキマから漏れてくる蛍光灯の光、そして綺麗な満月。その精錬された月光さえも浴びる人によってその効果は変わってくる。
後ずさりする少年には、動揺を。
金髪の少女には、勇姿を。
銀の青年には、妖異を。
海に近いせいか、匂いのある風がこの道路を吹き抜けていく。狭い道なので車が通ることはなさそうである。
「……、変装術……あんた、その図式はどこで?」
「あァあァあァ。多神道には無ェ図式だかんな。気になんのは分かんぜ」
「ノイズ……変装術、多神道にはない……。やっぱり、魔術……」
「あァー。フリーメーソンは魔道が嫌ェだもんな。どうする? 俺様を殺しちまうか?」
デッドバー・リングはポケットに手を突っ込んで答えた。挑発しているようだ。
対して、少女は冷静な顔で、
「そんなことはする必要はない」
瞬間、三人の半径二メートルぐらいまで、まるで球を作るように、あの白い羽根が出現した。デッドバーはヒュー、と口を鳴らす。
「ただ、あんたがここでコイツに何をしようとしていたのかを聞きたいだけ。……抵抗すれば私は、あんたと戦うことになる」
んー? とデッドバーは首を傾げ、目の前にある羽根を手ではらう。そして手をポケットへと戻し、トントンと少し跳躍してから、
まるで、今すぐにでも噛み付けそうな凶暴な顔で少女を睨みつけ、
「あァあァおィ。教えっと思ってんのか、あぁ? ガキ、てめえが村崎を倒した奴だろ? ハッ、抵抗だと? ナメんな。見下してんじゃねえぞオイ」
デッドバーがポケットから右手だけを引き抜く。その手にはナイフが握られていた。
「! ……やめ……、あぶ―――」
庵が叫んだ時にはもう遅く、ナイフは少女目掛けて放たれた。
その刃は幾つもの羽根を貫き、もう少女の目の前……、
で止まった。
「は……?」
あまりに予想外の出来事に、情けないほどに間の抜けた声を出してしまう。
刃に三枚の羽根をつけたナイフはあっけない程にからんと落ちた。
普通ではありえない。ナイフは野球選手の放ったボールのような速さで、少女の顔面目掛けて飛んでいた。
それが、いきなり止まった。
デッドバーの口笛が響く、
「……へェ、衝撃吸収の付加ねェ。それで村崎の手榴弾を逃れたって訳か。
……だが今ので三枚、俺と殺り合うには少なすぎんじゃねえの?」
デッドバーが再びポケットの手を突っ込み、抜くと、どういう原理かまたナイフが握られていた。そしてそれをさっきと同じように投げる。しかもそれを一度で終わらず、一秒に一本ぐらいの速さで繰り出す。
その全ては羽に押さえられ、空しい音を立てて落下する。
ナイフの連射が止まる頃、その数約二十本。無造作に散りばめられていた。
そして、
「おォおォおォ。ナイフ一本辺り三枚、二十本で六十枚。ハッ、やっぱ少ねぇな。俺は後八十本はいけんぜ?」
少女の出した羽根も全て、ナイフと共に落ちていた。
「……、」
「なァなァなァ、降参しろよ。今、尻尾巻いて逃げんなら許してやってもいいかもねェ」
少女は極めて無表情。
やがて一つのため息と共に出した答えは、
「目の前に殺されようとしている人がいるのに、見殺しにする必要は全く無いよ」
その瞬間、辺りに散らばった羽根が消えると同時に、少女の周りにまた羽根が出現した。
デッドバーはまた口を鳴らし、
「降参する気ナッシングってか?」
「ご生憎。私の戦いにそんな言葉ナッシング」
そして少女は何処から取り出したのか、レイピアを構え、デッドバーに突っ込む。
4
デッドバーは素早くポケットから両手一本ずつナイフを取り出し、クロスさせて少女の振り下ろしを防ぐ。鈍く鋭く響く金属音が、耳をつんざく。
「へェへェへェ!! いい筋してんじゃねーか!! この羽根の衝撃吸収の付加で上手ェ事、体への抵抗をなくすことで、身体能力が100パーセントの状態で戦えるって訳か! 上出来だぜ!!」
「グダグダと……、うるさい!!」
左、上、右、中心と少女が剣を叩き込む。デッドバーは体をくねらせ、ナイフでそれらを受け流していく。まるで、子供の遊びに付き合っているかのように笑いながら。
「ほォほォほォ。型にはまっちゃいねェが……そこは経験でカバーってか!? カハハハハ!! それでよく村崎を倒した
モンだ!! あいつ、相手が子どもだからって手ェ抜き過ぎたんじゃねえの!?」
少女はかまわず攻撃し続ける。デッドバーはしばらく笑いながら戦っていたが、
「だが」
その声から笑いが消える。
「分かってんぜ? その軽い身のこなしと剣を片手で振り回せるのは、この羽根のお陰なんだろ?」
「それが、何だって言うの!!」
少女が鬱陶しそうに叫んだその瞬間、
ぱすん、と周りにあった羽根が全て消えた。
「なッ……!!」
そんな、と思った時にはもう遅く、少女はバランスを崩す。羽根による微妙な体の抵抗、重力、重量の調節がなくなり、その全てが衝撃となり、少女の華奢な体に一気に叩き込まれる。
少女は地面に倒れた。ただ地面に倒れるならまだしも、今さっき体に叩き込まれた衝撃が地面から跳ね返ってくる。バキメ
キッ! という音と共に彼女の体が少し浮き、また地面へと帰っていく。
「が……!!」
少女は激痛をこらえ、立ち上がろうとした。が、デッドバーの足がそれを阻む。デッドバーの右足が少女の頭を地面へと叩き付ける。
「あがッ!!」
悲痛を嘆く少女の上で、デッドバーは笑いながら、
「よォよォよォ。術一つ消されたぐらいでこれかよ? 不思議だろ? 何で羽根が消えちまったのか」
少女は片目を深く閉じたまま込み上げる悲鳴を噛み潰し、口を開いた。
「まさか……、あのナイフ、が……?」
「そォそォそォ。よーく分かりましたねェ。
教えてといてやる。俺の契約した悪魔『マルバス』。こいつの能力は契約者の姿形を自在に変化させる。……つっても一応制限があんだけどな。
そしてもう一つ、敵につけた刀傷は決して癒えない! それを応用すれば、さっき『殺した』お前の羽根も消せるってこった」
「……でも、あの羽根とさっきの羽根とは少しだけ違う図式を……!」
「そう思うだろ? でもな、これが魔道だぜ。いいだろ? ちょっとした矛盾なら許されんだよ」
「……ッ!! そんな事……」
少女が羽根を出現させようとする。
だが、今度は出現さえもしなかった。
「……!」
「だーかーらーよ」
デッドバーが少女の頭から足をいったん離し、また踏み直す。
「ぐッ!」
口を切ってしまったようで、少女の口からは血が流れる。
「無駄だっつってんだろ? 哀れだねえ。人の為に命を賭けといて、そんなんで殺されるなんてな。最終的にお前は誰かを救えたのか? 今救えても、明日そいつは殺されるかもしれねえんだぞ」
少女は少年がいた場所を見る。だが、そこに少年の姿はなかった。
(よかった……。逃げてくれた……)
悲しくはなかった。むしろ嬉しさがある。
そもそもあの少年には何も期待していない。
そう、ただ人を守りたかっただけ。
そう、たとえその所為で命を落とそうとも。
それが「竜串ルナ」の意味だったから。
(まぁ、こんな化け物みたいな人間同士の戦いを見たら、逃げ出すのは当たり前かな)
「お?」
少年がいないことにデッドバーも気づいたようである。
「よかったなァ、ガキ。お友達は尻尾巻いて逃げてくれたようだぜ? まァ、お前の死も無駄にはなんなかった、…………かもな♪」
「……、かも……?」
「なァなァなァ。俺がフリーメーソンがマークしてる人物に接触すんのに、わざわざ一人で出向くと思ってんのか?」
「……ッ! ま、さか……!」
確かに、「獄魔 庵」はその父の誘拐ゆえ、数多の組織にマークされていたハズだ。そんな中で彼に接触するとなれば、当然危険になってくる。
大は小に兼ねる。
一人より二人。
一人より数人。
デッドバー・リングは一人では来てはいなかった。
「―――……ッ!」
少女が立ち上がろうとする。が、デッドバーの足がそれを拒む。
(くそ……考えが甘かった……!! あいつを……助けないと……――!!)
「ハッ、無駄だつッてんだろ」
デッドバーが鼻で笑ったその瞬間、
「う……おォォォォォォォォォォォオ!!」
聞き覚えのある声と同時に、誰かがデッドバーの背中に体当たりをした。予想外の出来事にデッドバーの体が吹っ飛び、家の塀にぶつかる。
重力から開放された少女の見上げた先には、一人の少年が立っていた。
「な……、んで……?」
特別な何かがある訳でもなく、
自分と特別な関わりがある訳でもなく、
赤の他人なのに、
赤の他人のために、
目の前に立っている少年はただ、
「俺が逃げるワケねーだろ?」
自分のためにここへ来た。
「弱いくせに……」
そう、ただ人を守りたかっただけなんだろう。
そう、たとえそのせいで命を落とそうとも、
そう、それはまるで誰かさんのような。
5
悲しいはずだ。少女は身を呈して少年を助けた。しかし少年はその思いを裏切ってここへ来たというのに、
(なのに、なんでこんなに……)
何かが溢れてくるんだろう、と少女は思った。
少年は右手に握っている金属バットを肩に置いて、
「いやー、何か戦えるモンが無いか探してて……」
「なっ……!」
少女は起き上がろうとしたが、すぐに倒れてしまった。
(……ッ!! 脳が揺らされて、平衡感覚が麻痺してる……!)
「お、おい。大丈夫かよ……」
「逃げて!! そんなガラクタで倒せる相手じゃないの!! 路地裏のケンカじゃないのよ!!」
心配して近づいてきた少年に少女は叫んだ。
自分をかばってこの少年が死ぬなんて悲しすぎる。少女は最後まで自分一人の犠牲を選んだのだ。
庵はそれが分かるからこそ、少女の言葉が気に障った。
「……、分かってるって……。あんな奴、俺がバット持って向かっていったところで、返り討ちに合うだけだって」
「じゃあ……!!」
少女は説得するつもりでいるのだが、その表情がボロボロすぎた。庵はその表情を見ても、さらに決心を固めるのみ。そう、答えは決まっていた。
「でも、どうしてもお前を護りたいんだよ」
「えあ……、」
少女の頭の中が空っぽになった。ていうかなんか顔、熱い。そういう意味じゃないと思うけど、そういう意味なんだろう。
数秒後、ハッと我に返り、首をブンブン横に振りながら、
「そ、そそ、それでも!! わた、私の事より自分の心配をしなさい!!」
少女は赤い顔のまま両目を固く閉じ、吐き捨てるように叫んだ。
あのな……、と言いかけた庵は何かを閃いた。ピーンという音が似合いそうである。
「じゃあさ」
庵は少女を指差して、
「な、何?」
「お前は俺を護ってくれ、その代わり俺がお前を護るから!」
「はァ!?」
少女は条件反射的に即答した。彼女は立場上、庵を護らないといけないような立場にあるので、「お前は俺を護ってくれ」は分かるのだが、「俺がお前を護る」はさっきの言葉といい何か違っている。それなのにこの少年ときたら、
「ちょっと待ちなさ」
「よし!! 決めた!! 俺はそれでいく!!」
「………………、」
唖然。まるで小学生。もう、こいつには何を言っても無意味なんだろうな、と悟った少女は説得を諦めた。
「……、はぁ……。もう、それでいいわよ……」
少女は次々とこの少年に裏切られているのに、何故か笑微っていた。自分でも分からないくらいに。
だが、そんな平和な時間は一瞬でしかなかった。
ドスッ、という鈍い音と共に目の前の少年が倒れる。
「か……っ!!」
「……ッ!」
庵はまるで全身の力が抜けたように崩れていく。金属バットが軽い音を立てて転がる。
庵は少女の前にいたので、ちょうど少女の目の前に庵の体が転がった。
「ち、ちょっと!! 大丈夫!!」
少年はビクともしない。少女は手を伸ばそうとしたが、それさえも出来なかった。
「……ッ。どうして……!」
「あ゛ァあ゛ァあ゛ァ!! クッソ!! ナメやがって!! あー、いてェ……ちょっと気絶しかけたぞコラ。何で俺様がこんなクズみてェな奴にやられねーといけねーんだ。クソが」
声の持ち主はすぐそこまで来ていた。片手には血のついたナイフが握られていて、ポタポタと血が滴っている。
「―― ……!!」
少女は、デッドバーが少年に何をしたかはすぐに想像がついた。だが、それを認めることは難しかった。
「あんた……、何を……?」
「あ? 別に殺しちゃいねーよ。ま、放っといたら死ぬけど。……そうか、お前からは何処刺したか見えねーか」
ほら、とデッドバーが庵を足で転がす。少女としてはデッドバーを睨み付けたいところだが、そんなことより少年の方がずっと大事である。
見えるようになった少年の背中は血みどろだった。左脇腹にはナイフが一本刺さっていて、右肩辺りを斜めに深く斬られていた。
たとえ今生きていようとあと一時間も持たないほどの重傷だ。
「あ、ぅ……あ……」
少女の全身に緊張が走った。今まで、どうやって呼吸をしていたのかが分からなくなるほど息が苦しくなる。
「にしても、こいつバカだな。そのまま逃げてりゃ、もうちっと長く生きられたのに、わざわざ死ににきやがった」
デッドバーがスーツに付いたホコリをはたきながら笑いの含まれた声で言った。
「そんな事な……」
少女がデッドバーを睨んで、叫ぼうとした時、
「そんな事ねぇよ!!」
少女とデッドバーは庵の方を見た。庵は続けた。
「今日、知り……合ったばかりだけど……、何か、特別な関係が……あるわけじゃ……ないけど……」
少年の体がゆっくりと起き上がる。傷口から血が吹き出す。だが、そんなことは関係ない。
「でも、そいつは俺の……ために、自分を犠牲に……したんだよ」
少年は立ち、朦朧とする目で、それでも強い眼差しでデッドバーを見た。
そして、叫ぶ。
「そんな奴を護りたい、って思うことは、そんなにくだらねぇのかよッ!!」
6
「放っとけない……、ねェ……」
デッドバー・リングは呟いた。その右手に握られたナイフから滴る血が、彼の足元を染めてゆく。
(こいつ……、致命傷のハズなのにな……。それほど意志が強ェってコトか)
目の前に立っている少年「獄魔 庵」。デッドバーはある事情により、彼の命を狙っている。先程そのカタをつけた。
(ハズなんだけどなァ……)
彼にとって人を一人殺すのなど気に止めることではない。
それは、彼の中の過酷な記憶ゆえのもの。
(昔に比べりゃ、今は全然殺していねぇ方だ)
けど、と思う。
(こんな景色見てたら、殺したくなくなんだよなァ)
今さら遅いのだが、と少し思う。
(つっても、こーゆー人間は強ェンだよなァ)
俺と違って、と深く思う。
(……ッ! ……けっこー、傷口がマヒしてきたな……)
庵は引きつった笑みを浮かべる。それが痛みなのか、気の緩みなのかは本人にも分からない。もともと気絶していい意識にムチを打って正気でいるのだから、とにかく何かに集中していたいのだ。
ふと、足元がブレて、ガクンと左膝が落ちた。
「とっ、とっとと!!」
上手くバランスをとろうとしたが、今の体力でそれが出来る筈もなく、庵はそのまま―――、
立っていた。
「あ、れ?」
感覚を探ってみると、左腕を誰かが支えてくれていた。
「もう……無茶しないの。あんた、死んでもおかしくない状況なのよ?」
庵の左隣、そこに立つのは金の短髪の少女。名前は「竜串 ルナ」。赤の他人の庵のために、自分を犠牲にしてくれた少女だ。今、庵はこの少女のために立っている。
「……へっ、倒れるワケには……、いかねぇよな。……ん?」
庵は気づいた。いや、気づいてしまった。
(……、え〜と……。俺は倒れそうになって、それでルナに左腕をつかまれて……ってアレ? れれれ? ちょ、ルナさん? そのポジションでそんな俺の腕を抱きしめると……ッ!! あ、当たっとる……!! イカン!! 俺の全神経をそちらに集中――ッ!!)
少女は一時、なぜ少年のの顔が赤くなったのかを考えていたが、疑問の末、ある答えにたどり着いた。
(……まさか!! 外傷による発熱!?)
寝ときなさい、と少女が言おうとしたその時、
「……、ん?」
体のどこかがムズムズする気がする。よーく神経を集中してみると、その先には……、
「……、……―――ッ!?」
へ? と思う庵の反応はもう遅く、
少女の右フックが庵の左頬に炸裂した。
7
「がっ……む、無念……!!」
と、本当に武士かと思わせる言葉を遺言に、獄魔 庵はその場で崩れ落ちた。
少女は最初、頭に血が上っていたが、冷静になってみると……、
「……っ!! ゴ、ゴメン!! ケガしてるんだった!! あの、その、つい……」
と何度も謝りまくる。
(おィおィおィ……こいつら馬鹿か? 敵が目の前にいんだぞ?)
反面呆れる中、デッドバーは一つ思っていた。
「あァあァあァ……。『平和』、ねぇ……」
目の前でぎゃあぎゃあ騒いでいる二人を見ていると、そう感じずにはいられなかった。
彼としても平和を壊したい訳ではない。
(だけどなァ、やらねーといけねんだわ)
デッドバーは血塗れたナイフを捨て、ポケットから両手一本ずつナイフを取り出し、構える。そして間合いを開く。彼のナイフの使い方は、斬ったりすることではなく、投げることにある。投げナイフというのは丁度良く間が開いていないと、敵に刺さらない。ゆえに、せめて五、六歩間を空けておかないといけない。
目の前の二人も、戦闘態勢に入ったデッドバーに気づいたらしく、それぞれの武器を構える。
(そォそォそォ。それでいんだよ。平和なんてありえねぇ。世の中な、上の奴と下の奴って区別されて、生きていかなきゃいけねェんだよ。優越、差別、怒り、嫉妬の中でなァ)
デッドバーは二人を見て皮肉げに笑う。それが世界の定石だ、と言わんばかりに。
だが、そんな接戦間近な中、一人の少女が口を開いた。
「ねえ」
「あん?」
「どうしても戦わなきゃいけないのかな」
「ハァ? 決まってんだろ。弱ェ奴は強ェ奴に潰されて、弱ェ奴は強ェ奴を潰そうと努力する。ンなモンだろ? 相手を潰さなきゃ、こっちが潰される。そんな世界だ。いつも自分の背中を狙っている奴がたんまりいんだよ。
そんな中で『共存』なんてアホらしい意見が通ると思ってんのか。平和なんざありえねぇ。そんな世界がことを知っていてなお『世の中は平和だ』なんてほざいてる奴は俺様がぶっ潰す。ムカつくんだよ」
「……確かに世界は平和とは言い切れないよ。働き口も食べ物もない人もいるし、簡単な病気で死ぬ人もいる。過剰な虐待の中で生きる子供、生まれてすぐ捨てられる赤ちゃん……。でも、だからって……ううん、だからこそ『もう平和にはならない』って決めちゃいけないよ。だから……」
「あぁ、そうだな」
庵と少女は驚いてデッドバーの方を向く。対してデッドバーは威嚇的な顔ではなく、思いつめたような表情で言った。
「あァあァあァ。結局はそういう話なんだよな。今は平和じゃねェ、それだけだ。じゃあ今から平和にすりゃ良いんだ。だって俺様はその為に動いてんだからなァ」
「? ……じゃあ何で人を殺すの?」
「……なァなァなァ」デッドバーはどこか楽しそうな声で「よく言うだろ? 『成功に犠牲はつき物』だってなァ!!」
ズバン! と轟音を立てて、デッドバーの両腕からナイフが放たれた。
狙いは、庵のみ。
「平和のために死ねッ!! 獄魔 庵ォォ!!」
「―――ッ!」
今の庵に避ける体力は無い。
「ち……、」
今の少女にかばう体力と時間は無い。
潮風吹く夜の道路で、あざやかな鮮血が舞った。
8
勝ったんだ。
俺様のナイフは狙い通りのルートを通って、敵に直撃した。
はずだったのに、
「おィおィおィ……」
ターゲットは身動きがとれない。その護衛も相当なダメージがあって、術も使えない状態で、たいした反応も出来ていなかった。
なのに、
「……なんで俺様が血ィ吹いてんだァ……?」
その場に居合わせたものなら誰でも、目を見開いただろう。
庵と少女に放たれたナイフは粉々に砕かれ、代わりにデッドバーの右肩が縦に切り裂かれ、血が吹き出していた。
そしてもう一つ、
「遅くなったな」
二人の前に背を向け立つ黒い男。
それも、デッドバーのような黒スーツの、マフィアを連想させるものではなくて、長い黒コートをひるがえすその姿はまさに
『殺し屋』
唖然、どころか恐縮さえしそうな庵に、少女は安堵の息を上げた。
「大丈夫、心配する必要ない。味方だから」
ふと、黒コートの男が庵の方を見た。まだ若い、二十歳ぐらいの青年だ。その身長は高く、姿勢は堂々としている。鋭いがしっかり開いた目、顔はすごく整っている。だが、何よりの特徴はそのボサボサした「赤」ではない「緋」い髪にある。風が吹くたびになびくその緋い長髪は、まるで悪魔が流血したような雰囲気を出している。異常であり不思議であり、不気味な感覚を。
男は庵と目があった瞬間に、前を向いた。
そう言えばデッドバーは? と庵もデッドバーの方を向く。
デッドバーはまだ立ち尽くしたままだった。血を出すのが久しぶりなのか、傷口を押さえることもせず、ただボーッと吹き出してくる血を眺めている。
「……おィおィおィ……何だてめェ……。痛ェなァオイ。てめェどーやって周りのガード破ってきやがった……? ……いや、もうそんな事どうでもいいな……。てめェ……、俺様の邪魔してんじゃねェぞ!! あ゛あ゛ァ!?」
デッドバーの表情は逆転し、叫びに近い声が辺りをつんざく。
しばらくの沈黙が流れる。
デッドバーはいつもの、敵を嘲るような表情に戻り、笑いを含んだ声で言った。
「……まァ、んなコトはどうでもいいか。別に何も変わらねえ。ただただ、殺す人間が一人増えただけなんだからなァ!!」
9
誰が口を開く間もなく、戦闘は始まった。
先に動いたのはデッドバー。瞬時にナイフを二本取り出し、一本目を防いでも二本目があたるように、時間差をつけて黒コートの男に投げる。
彼のナイフは当てる場所が何処でも、当てるだけで意味がある。つけた刃傷は絶対にいえないナイフの刺さった場所は、一生その部分に刺さった時の痛みが持続する。
傷が致命的でなくとも、『痛み』を与えるだけで、人間の動きは遅くなる。そのスキに致命傷を入れることも出来るし、運がよければ痛みでショック死してくれることもある。
要は、一撃でも当てれば勝ち、という事である。
だからこそ、デッドバーは油断していた。
だからこそ、自分へ飛んでくる何かに、反応が遅れた。
めりっ、と硬いものが肉にめり込む音が体の内側で響く。
「ぎっ……がぁぁあああっ!!」
音の後に痛みが走る。左脇腹、そこに軍用ナイフが一本、粗々しく斜めに突き刺さっていた。自分がさっき投げた中の一本である。例の図式は自分には無効にしてあるものの、やはりこれだけ図太く、背のギザギザになったナイフは、普通に刺さっても激痛は避けられない。
デッドバーは震える手を、ナイフに伸ばした。引き抜く気だ。
「あがっ! ぎぐ、げぁぁぎぃい!!」
ギザギザの加工部分が肉の繊維をブチブチと引きちぎる。そのたびに体が軽く痙攣する。
引き抜いたナイフを地面へ投げ捨て、前を向く。傷の度合いでいうと、庵よりひどい。だが、その威嚇的な表情は変わらない。
そう、例え、目の前の敵が無傷でも。
彼に絶望している暇などない。すぐに敵の観察へと意識を移す。
黒コートの男の手にはワイヤーが握られていた。先には近未来を連想させるような、曲線で出来た包丁サイズのナイフが付いていて、腕の少し大きめの腕時計のようなリストアクセから伸びている。多分メジャーのような伸び縮みする仕掛けなのだろう。
武器らしいものはそれ以外には見当たらない。おおよそ、そのワイヤーに何らかの図式を付加して戦うのだろう。
(それだけ分かりゃいい、十分に対応できる)
デッドバーは再び、ポケットに両手を突っ込む。そして、恐ろしい速さで片手を引き抜き、射出する。
黒コートの男は防ぐことなく、左へ飛んだ。そしてデッドバーへ向けてワイヤーを飛ばす。
「おっ……と!」
デッドバーは黒コートの男から離れるように横に転がった。傷がうずくが、関係ない。もはや痛みなど雑音同然だった。
転がり際にもう片方のナイフを飛ばす。そして黒コートの男がそれについて行動している間に、起き上がり、またポケットに手を突っ込み、投げる。このサイクルをどんどん早くしていくことで、敵のスタミナを奪ってゆく。当てるだけで決定的な、一撃を入れるために。
だがそうはならなかった。
「なぁ……?」
距離をとったはずが、目の前に黒コートの男はいた。
(いかん! きけ……)
起き上がってはいたものの、ナイフを構えるどころか、体勢を整えてもいない。
デッドバーは体をひねらせ、男に上段蹴りを入れる。が、黒コートの男はそれを呼んでいたのごとく、頭を落とし、デッドバーの左脇腹――ナイフの刺さっていた場所を手刀で突く。
「ぎがぁぁあ!!」
デッドバーは激痛に耐え切れず、その場で崩れ落ちる。
黒コートの男が、ナイフを構える。トドメを刺す気だ。
そうはさせるか、とデッドバーが近くに落ちていたナイフを、彼の顔面に投げる。黒コートの男は体を反り、それを難無く避けるが、もう次のナイフが来ていた。
仕方なく後ろへ飛び、ワイヤーを構える。
「……あァあァあァ。サスガだなァ。『蜂』ぃぃ……」
ふらふらと起き上がるデッドバーから発せられた響きに、黒コートの男は少しだけ目を見開いた。
「よく分かったな……」
「当たりめえだ。その髪、そのコート、その圧倒的な強さ、まさか日本に居るとはな。……『ホネット・アグゼローク』……名前からだろ? HORNETはスズメバチって意味だからな。……世界に恐れられている殺し屋が、何で敵にもなりかねないフリーメーソンの味方をしている?」
「お前に教えて、世界が平和になるのか?」
「ハッ。そーだな。俺に知る義務はねえや。それに、結構やられたモンだしな」
デッドバーが一歩、後ずさる。それを見かねてホネットが足を進める。
「……逃がすと思っているのか」
「……一つ、教えといてやるよ。今から俺は逃げるためにあることをする。お前しだいで犠牲者はゼロに出来るかもなァ」
何を……とホネットが言い切る前に、後ろから、ばすん! と爆発音が耳に入った。
そこらじゅうにあったナイフが、次々に爆発を繰り返している。
別によほど近くで受けない限り、殺傷能力はないほどのものだったので、「それが何だ」と思ったホネットはふと、あることに気が付いた。
「! ……お前……!」
獄魔 庵だ。確か彼は脇腹にデッドバーのナイフを一本受けていたはず。
少女はすぐに、庵の脇腹に手を伸ばした。
(分かっている。今、動けるのは私だけだから、最善を尽くしたい……!)
一瞬、頭に痛みが走った。
一瞬、腕が止まった。
ナイフが微かに赤くなった。
それだけで、間に合わない条件を満たしてしまった。
「くっ……!」
だが、それより早く、誰かの手がナイフに触れた。少女に顔を確認する暇はなかったが、男の掌だった。ホネットだろう。
ホネットはナイフを一気に引き抜く。庵が痛みによるショック死をしないか心配だったが、今はそれどころではない。
ホネットが引き抜いたナイフを投げ捨てようとするが、間に合わなかった。
バシュッ! とホネットの腕が弾き飛ばされる。腕や指が吹き飛ばされることはなかったが、しばらくは使い物になりそうにない。
「ホネット! 大丈夫!?」
「……逃げられたな。……今から忙しくなる……」
ホネットは一応デッドバーの方を見てみたが、やはりそこにデッドバーの姿はなかった。