8
廃墟と化していた村で三日の休養を取り、アレックスの体調も完全に回復したのを確かめると、エミーナは再び歩み始めた。
三日間の休息はエミーナにとっても、いい休養となり、その足取りは軽かった。
しかし、エミーナには新たな心配が生まれていた。それは物資の不足である。中でもアレックスにとって貴重な栄養源であり成長に欠かせないミルクが底を尽きそうであった。
大人であるエミーナは食べずとも我慢が出来るが、まだ赤ん坊のアレックスはそういう訳にはいかない。病み上がりであるという事はもちろん、きちんと栄養を取らせたい思いもあった。
残りの量から考えると、あと三日でミルクが無くなる。エミーナの見立てでは国境の町までもおそらく三日かかる。その間で、補給出来るような町は無いと思われた。しかも、途中で何が起きるか予測がつかない旅である。
「進むしか道はないのだがな」
とにかく先を急ぐしかないとエミーナは草木をかき分け進んでいった。
数度、魔物の群れに襲われたものの、問題なく撃退し、予想以上に順調な道のりであった。二日目の昼過ぎには多少は復旧が施された街道へと辿り着いた。そこからはさらに快調に旅が進んでいった。
ミルクの残りが一回分になった時、ようやく国境の町へ入る事が出来た。
サーザードとその隣国であるガルゼナとの国境の町である。両国は大きな川を国境としており、一本の橋が架かっている。川を挟んで両岸に町が広がっており、古くから交易で栄えていた。
しかし、魔帝との戦争の影響を受け近年ではその交易も廃れ、さらにはサーザード側では魔物の蹂躙もあり、かつての貿易の盛んな商業の町という面影はすっかり影を潜めてしまっていた。
「先に国境を越えるか……」
町の様子を見て、エミーナがそう呟くのも無理はなかった。
商店らしき商店もなく、あるのは、ゴザを引いた露天商だけであり、その品揃えも悪い。宿屋も町に入ってから一度も目にしていない。
そして、何よりもエミーナの頭を悩ませたものがある。町が活気を失っているのはともかく、この国境の町に入ってから目にするのは至る所に溢れる難民の姿だった。エミーナがここに来るまでに見てきた放棄された町や村から逃げてきた人なのだろう。皆、やつれ生気を失った顔をしており、あちらこちら破けている服を身に纏っている。大人も子供もうつろな目をして、道端に座り込んでいた。
エミーナは唇を噛みしめる。彼女の正義感や騎士としての矜持が彼らを何とかしてやりたいと思うが、同時に自らの無力さも感じていた。
断腸の思いで無気力でじっと動かない人々の前を通り過ぎていく。そして、この国の上の者は何をしているのだ、という憤りも感じていた。
何とも言えない思いを抱きながらも、国境を超える為に川に架かっている橋を目指した。
しばらく歩くと、橋が見えた。その橋がこの町で唯一、ガルゼナ側に渡る事が出来る場所である。橋の両側には小屋が設けられており、国境を通過する為の検問所がある。
サーザード側の検問所である小屋は質素なもので、警備する者も見当たらない。
やってきたエミーナの差し出す身分証明書を一瞥すると、あっさりと通された。
橋を渡り、ガルゼナ側へと進んでいく。サーザード側の検問所は打って変わって立派な造りである。大きさは然程ではないものの、石造りの頑丈なものである。橋の部分にも、サーザード側では無かった鋼製の門まである。その門は固く閉じられていて、その前に武装した兵士が二人立っていた。
「入国したいのだが」
エミーナは兵士に近づき、声を掛けた。
「サーザード出身の者は今、我が国には入れんぞ」
兵士は威圧的な態度でエミーナに接する。そして、怪訝な目付きでエミーナを上から下まで見た。
「私はアルゴン出身だ」
そう言えばひどい恰好だな、とエミーナは思った。野宿続きで山道を進んできた彼女はひどく薄汚れ、人から見たら浮浪者と変わりがない姿だった。
「アルゴンか。……ちょっと待ってろ」
兵士はそう言い残すと、鋼製の門についてある小窓を開け、何やら門の向こう側にいる者と話し出した。
しばらくすると、待っていたエミーナの元に兵士が戻ってきた。
「こっちに来い。入国にあたっての審査がある」
エミーナは兵士に連れられて、門をくぐると、小屋へと案内された。門の内側にも屈強な兵士が控えていた。
国境の警備にしては厳しすぎる――エミーナに疑問を抱かせる程の警戒ぶりである。
小屋の中の一室に通されると小さな机を挟んでこれまた小さな椅子が置かれていた。片方の椅子に座って待つように言われたエミーナは黙って指示に従う。兵士はそのまま背後でエミーナを監視するように立った。
すぐに、扉が開き、一人の男が入ってきた。
「俺は審査官だ。今からお前の入国の審査を始める」
そう言いながら、椅子に腰かけた。審査官というわりには、その雰囲気からは荒事に慣れているようにエミーナは感じた。
エミーナは黙って身分証明書を机の上に置く。アルゴンの正式な証明書である。
「見た目は酷いが、身元ははっきりしているな」
審査官は身分証明書をさっと見ると、エミーナに手渡して返した。審査官の言葉に腹立たしさを覚えるがぐっと我慢をして、証明書を受け取る。
「で、こんなご時世にお前はどこに行くつもりだ? しかも、女の身で」
「私は魔帝との戦いで傭兵をしていた。そのさなかにこの子が出来てな。ちなみに父親は死んだ。傭兵をしていた男で東方の戦いでな」
袋の中のアレックスを見えるように審査官の方に向けた。
「魔帝が死んで戦いが終わり、私たち傭兵の仕事は無くなった。しかも、私は赤子持ちだ。生活もままならなくなってな。そこで、ナレントにいる叔母を頼ろうとこの子を連れて向かっている途中だ」
「なるほどな。まあ、おかしな話ではないな……」
興味無さげにアレックスからすぐに目を離して審査官は頷いた。
「おかしいもおかしくないも、あのままアルゴンにいても飢え死にを待つだけだ。事実を話しただけだ」
「ああ、分かった。怪しい所もないし、難民でもないようだしな」
難民の流入を防ぐ為の厳重な警備かと、エミーナは納得すると同時に複雑な思いが蘇ってきた。
「もういいだろう。行くぞ。」
ここにあまり留まっていたくないという思いのエミーナは立ち上がった。
「ちょっと、待て」
立ち上がったエミーナを審査官が止める。
「まだ、何かあるのか?」
うんざりとした表情でエミーナは聞き返した。
「いや、アルゴンから来たのだろう?」
「ああ」
「だったら、何か噂とか聞いてないか?」
審査官の目線が鋭くなっている。
「噂?」
「どんな噂でもいい。何か耳にした事はないか?」
「そう言われてもな。特に変わった噂は聞かなかったがな」
審査官の意図を掴めずエミーナは不審に思った。入国の審査より、こちらの噂の方が本題のように感じたのだ。
「そうか」
特に落胆した様子も見せず審査官は、それ以上の追及をしてこなかった。
「では、行かせてもらうぞ」
エミーナが扉を開け、部屋から出ようとした時、背後から審査官が声を発する。
「救世主――」
救世主。今、まさにエミーナが抱いているアレックスの事だ。
「――という言葉も聞いた事がないか?」
「救世主?」
ゆっくりとエミーナは審査官の方を振り返る。内心では、驚愕していた。救世主の事は極秘事項である。何故、目の前の男がその極秘の存在である救世主の事を口にしたのか、分からない。どこから情報が漏れたのか。この男は救世主に何の用があるのか。ぐるぐるとエミーナの頭の中を考えが巡る。
「あいにく、私はその類のお伽噺には疎くてな。詳しく知らんが、作り話に興味はないな」
内心を悟られないように努めて冷静に、エミーナは話す。幸いにも、元々感情表現の乏しいエミーナであったので、顔にはなんら変化は見当たらない。
「……俺はそういう夢物語が好きでな。いやなに、同好のヤツがいないか気になっただけだ」
審査官はしばらくエミーナを見つめた後そう言って、手で出ていくように合図した。
門から案内をしてきた兵士に伴われ、小屋を出る。
「行っていいぞ」
兵士はエミーナを小屋から出すと、さっさと中でと戻っていった。
「……」
エミーナは兵士が戻っていくのを見送ると、速足でその場から離れていく。そして歩きながら考えていた。
何故突然、救世主という言葉が出てきたのか――と。審査官の言い訳のような話は信用出来ない。必ず何かしらの目的があって問いかけてきたはずである。
「分からん」
しかし、アレックスが救世主だとは、ばれていない。エミーナはそれは確信していた。だが、それはあくまでも現時点での話である。
救世主の存在が漏れているのだ。この先、召喚した救世主が赤ん坊であったという事もいずれ、知る者が出てきてもエミーナには不思議ではなかった。
召喚したアレックスを元いた世界に返す為にセレン島まで連れていくのを知っているのはごくわずかである。そして、大臣や団長が漏らすとは考えられない。世話をしてくれていた侍女たちもである。
しかし、召喚には多くの人間が関わっている。そちらから漏れる可能性は十分考えられるとエミーナは思った。召喚には王宮専属の魔導士だけでなく、臨時で雇われた魔力の強い者もいたと聞いていたからだ。それに、準備に携わった者も多くいる事も聞いていた。
「急いだ方がいいかもな」
本来であれば、この町で泊まる予定であったが、一刻も早く出る事を決めた。
ミルクだけはここで調達していこうと、エミーナは商店を覗く。
サーザード側と違い、商品も豊富である。何より活気を感じられる。
更に、複雑な思いを抱きながらも粉末ミルクを購入し、早速町を離れようと商店が立ち並ぶ一角を通り抜けていく。
「あー、あー」
珍しくエミーナの胸元の袋から乗り出すようにして、店の軒先に並ぶ商品を眺めていたアレックスが声を発した。
「どうした?」
今までにない事にエミーナはアレックスの顔を覗き込んだ。アレックスは袋から手を伸ばし何かを掴むような仕草をしている。その先には、ぬいぐるみがあった。白いクマのぬいぐるみである。
「欲しいのか?」
「あー、んっ、んっ」
エミーナの言葉にアレックスは両手をばたつかせる。
「そういえば、おもちゃなど、持ってないな……」
国王がせっせと、アレックスに貢いだ玩具は全て置いて出てきた。旅に出てからは玩具など買っていない。
何か一つくらいなら、遊ぶものがあってもいいとエミーナは考える。
「わかった」
男なのにクマのぬいぐるみを気に入るのが、腑に落ちないエミーナであった。どうせなら、剣をかたどった玩具を欲しがってくれればと思いつつ、店の前に立った。
「それをくれ」
店番の老女にクマのぬいぐるみを指し示す。
「ああ、これかい。これは手作りのいいものだよ」
半分眠っているような老女はその熊のぬいぐるみを手にとると、自慢げな様子である。
アレックスは必死でそのぬいぐるみを取ろうと手を伸ばしている。
「おやおや。こりゃまたかわいいぼうやだねえ」
老婆はエミーナにぬいぐるみを手渡し、代金を受け取る。
「ありがとよ」
「ああ」
代金を受け取った老婆はすぐにエミーナとアレックスに関心を無くしたように、店の奥へと消えていった。
「アレックス、欲しがっていたぬいぐるみだ」
胸元の袋のい中で両手を伸ばしているアレックスに買ったぬいぐるみを渡した。
「んあー」
アレックスはぬいぐるみを受け取ると、嬉しそうにぬいぐるみを抱えて声を出した。そして、盛んにぬいぐるみの手足を手に持ち動かしている。その様子はとても楽しそうなものにエミーナは見えた。
さっきまでの複雑な思いが消えて、何だか自分まで嬉しくなってくるエミーナは、山のような玩具を次々と届けにきた国王の気持ちがほんの少しだけ分かったような気がしていた。