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車輪から伝わってくる振動に揺られて、エミーナの体もその揺れに合わせて動いていた。彼女の腕に抱かれている救世主――アレックスは眠っている。
「よく眠ってますね」
対面に座るでっぷりとした中年の男が愛想のいい笑顔でアレックスを見ていた。
「ああ。本当によく寝る子でな」
今、エミーナは目の前の男の馬車に乗せてもらっていた。男はローディーという商人で、馬車三台を引き連れて、国境の街まで商品を運ぶ途中であった。
「これから世の中は良くなっていくのですかね? 願わくば、アレックス君たち幼い子らが大きくなる頃には、平穏な生活が出来る世になっていて欲しいものです」
「そうだな。私もそれは強く願っているな」
魔帝とその軍団は滅んだとはいえ、いまだに世は混沌としていた。魔帝は死んだが、彼が操っていた魔物は数を減らしつつあるものの、まだ残っていた。実際、ローディーはその魔物の集団に襲われている所を通りかかったエミーナが助けたのだった。ローディーは感謝し、また、赤ん坊を連れて旅するエミーナを気の毒に思い、国境の街まで馬車に同乗する事を願い出たのだった。
「しかし、エミーナさんはお強いですな。魔物の群れをあっさりと片付けたのですから。傭兵をしていたそうですが、相当の腕利きだったんでしょうな」
感心したようにローディーは何度も大きく頷く。
単体で強力な魔物は少ない。あくまで、集団で行動する事で脅威となっていた。しかし、騎士として厳しい訓練を重ねたエミーナにとっては大した敵ではなかった。ローディーを襲っていた魔物の群れも簡単に殲滅していた。
「いや、それほどでもないがな……」
元傭兵の設定である今のエミーナは気まずそうに謙遜した。
「これは噂ですがね……」
ところで、と話を変えて、声を低くしたローディーは表情を暗くした。
「魔帝は死んだものの、その残党がいるとか……」
「その噂は私も耳にした事があるな」
騎士団にいた時にその情報はエミーナも聞かされていた。しかし、騎士団に入ってきたその情報も真偽の程は不明であった。
「もし噂が本当なら、まだまだ安心はできませんね」
「そうだな……」
「本当に幼い子らが大きくなる頃には、平和な世になっていて欲しいものですな……」
重苦しい空気が馬車の中を包んだ。
「ま、その方が我々商人も商売に精を出せますからね」
沈んだ空気を振り払うかのようにローディーはおどけた表情で、笑みを浮かべた。
「そういえば、その子の父親は東方大陸の方で?」
ローディーはアレックスを優し気な目で眺めながら尋ねた。
設定として、アレックスの父親も傭兵をしていたが、先の魔帝との戦いで死んだ事にしていた。
「え、ああ、まあな……」
エミーナはローディーの質問の意味が良く理解できず、曖昧な返事をした。
「やはり、そうですか。特徴的な黒髪と、顔の雰囲気からそう思いましてな」
「ああ……」
本当は異世界から召喚された子であるが、それを知られる訳にはいかないエミーナは丁度いいとばかりに、設定にアレックスの父親は東方大陸の出身であると加える事にした。
「東方大陸の国々も魔帝の軍に随分と蹂躙されたとの話ですからね。きっと、あなたのご主人も一矢報いたかったのでしょうなあ」
「……」
よく考えなくともそうであるが、アレックスの母親という事は父親の妻である。設定とはいえ、エミーナがその妻なのである。実際は結婚はおろか、浮いた話一つないエミーナはなんだか、気恥ずかしくなり、黙り込んでしまった。
「す、すみません。余計な事を言いました。本当にすみません」
そんなエミーナの様子を亡き夫を思い出させてしまったと思ったのか、ローディーは申し訳けなさそうに何度も頭を下げた。
「いや、気にしないでもらいたい」
ローディーは何度も謝った後、御者台を見てくる、と言ってエミーナを一人にした。彼なりに気遣いをしたようである。
一人になったエミーナは腕の中ですやすやと眠っているアレックスの顔を覗き込んだ。何の心配もしていない穏やかな寝顔である。
エミーナは思う。この子には、元いた世界に両親がいるはずである。子供は両親の元で育つのが一番である。この子が召喚され、突然いなくなった事に親は嘆き悲しんでいるに違いない。今もどこに行ったか探している事だろう。エミーナも子供はいないが、それくらいは簡単に想像できる。少しでも早くこの子を元いた世界に返さなければならないと思うエミーナであった。
馬車に揺られる事、三日。国境の街へと到着した。
ローディーの厚意で馬車に乗せてもらったおかげもあり、徒歩での移動を考えていたエミーナにとっては予定より早く隣国へと向かえそうである。
ローディーと別れたエミーナは宿に落ち着いていた。昼過ぎに到着した事もあり、今晩ゆっくりと休んで、明日の出発に備える事にしていた。明日からはまた、徒歩での移動となる。エミーナだけではなく、それはアレックスにも負担が掛かる事を考えての休息であった。
椅子に腰かけ、瓶の口からアレックスにミルクを飲ませている。ミルクはコルトと呼ばれる動物の乳を乾燥させた物を保存し、少量ずつ湯に溶かして与える。母乳と似ているという事で、各地で古くから母乳代わりに使用されていた。
「最後まで、ちゃんと飲むんだぞ」
特訓の成果もあり、エミーナの世話は、雑な所もあるものの、様になってきていた。瓶の口には綿の布が巻き付けられ、そこを吸う事で中のミルクが出てくる。アレックスその布地を口に咥えて一心不乱にミルクを飲んでいた。
「んあっ、んあん」
腹が満たされ上機嫌のアレックスはベットの上で両手を伸ばし、バタバタとさせていた。ぐるんと寝返りを打ち、すぐ傍で腰掛けているエミーナの服の袖を掴んだ。
「んきゃあぁ」
アレックスは楽し気にエミーナの袖を掴んだ。しかし、エミーナはどういう対応をしていいのかよく分からなかった。わずかに、目を見開き、困惑に包まれた。世話をする事は特訓をされたが、思い返してみると、遊び相手は国王と、侍女がしていたのだ。そのせいか、出立してからというもの、ミルクを飲ませたり、おむつを替える世話はしているものの、遊び相手になった事は一度も無かった。
「んんっ!」
咳払いをしてみたエミーナを気にする事なく、アレックスは機嫌良さそうに袖をいじっている。
エミーナは恐る恐る袖を掴まれていない方の手をアレックスの目の前に差し出した。
「んきゃあぁっ、きゃっ、きゃっ」
差し出された手を掴み、アレックスは満面の笑みを浮かべて一段と声を張り上げた。
わずかに口元を綻ばせて、エミーナはアレックスを見ていた。指を動かすと、その指を掴もうとアレックスの手が宙にまよう。
悪い気はしないな――そんな思いに捉われていたエミーナの耳に部屋の外から大きな叫び声が聞こえた。
「!」
騎士という仕事柄か、瞬間的にキッと目付きが鋭くなり、扉の外の様子に耳を集中させた。男性と思われる怒鳴り声が聞こえてくるが、何を言っているのかまではわからない。ただ、何かしらの揉め事が起きているようであった。
放っておいても問題ないはずではあるが、騎士だからという理由だけでなくその性分からも放って置くことの出来ないエミーナはアレックスを抱き上げると、廊下へと出た。
怒鳴り声の主は食堂にいた。そして、罵声を浴びて、ひたすら頭を下げているのは、若い夫婦のようである。女の腕の中にはアレックスと同じくらいの赤ん坊が抱かれている。
「うるせえそのガキをなんとかしろよ! 隣でぎゃあぎゃあ泣き喚かれたらゆっくり飯も食えやしねえじゃねえかよ!」
確かに女に抱かれた赤ん坊は泣き声をあげている。両親と思しき若い夫婦はひたすら頭を下げ謝罪を口にしていた。しかし、男の剣幕は収まりそうになかった。宿屋の主人が間に入り宥めようとしているが、それもまったく効果がないようであった。
「あの男が急に怒鳴り出したから、泣いたのにね……」
周囲で野次馬を決め込んでいる者の中から、そんな声が聞こえた。しかし、助けに入る者や仲裁をしようとする者はいないようであった。
エミーナは迷った。騎士としてならば、あの若い夫婦を助け、この場を収めなければならない。そして、彼女の持つ正義感もそれが正しいと言っている。しかし、今はアレックスを女神の元まで連れていくという任務中である。しかも、極秘の任務であるので、目立つ事は出来る限り避けるべきであった。
「ほぎゃあっ、ほぎゃあっ!」
突然、エミーナの腕の中から、若い夫婦の赤ん坊の泣き声をかき消すくらいのさらに大きな声が発せられた。
「ア、アレックス!?」
アレックスはめったに泣かない子であった。それはエミーナの特訓中から変わらない。それが今は耳をつんざく程の泣き声を上げていた。
「ああっ!? そっちにもガキがいたのか! うるせえっ、うるせえよっ!」
血走った眼をエミーナに向け、男が一直線にエミーナの方へと向かってきた。
「黙らせろよっ!」
男は叫び声と同時にエミーナに殴りかかってきた。
酒臭い。酔っぱらっているのか――そんな事を考えれるくらい余裕を持って、エミーナはさっと男の拳を避ける。同時に足を突っ込んできた男の前へと出す。その足に躓き、男は勢いをそのままに、顔面から床に転げこんだ。
「てめえ、よくも……」
そう言いながら、起き上がろうとする男の肩口を蹴り倒し、そのままエミーナの片足一本で男を抑えつけた。そして、冷たい視線で男を見下ろす。
「やめておけ。これ以上、痛い目に遭いたいのか?」
有無を言わせないエミーナの声色である。いつの間にかアレックスは泣き止んでいた。周囲は一瞬の出来事に呆然としている。
「ううっ、何で、何で俺の……」
男はエミーナの足の下で、嗚咽を漏らしだした。
「何でだよ。俺の嫁と子供は殺されったってのによ。何でだよ」
世の中には、魔帝との争いで命を落とした人が多くいた。中には家族すべてを殺された者もいた。そして、それは決して珍しい事ではなかった。
やるせない気持ちでエミーナは男から足をどけた。男は仰向けのまま、両手で顔を抑え、泣き続けたままであった。男の行動は許される事ではないが、家族を失い、目の前にいた家族に抑えていた気持ちが暴走したのであろう。周囲の者も複雑そうな表情を浮かべていた。
そこへ誰かが知らせに行ったのか、街の治安を預かる警邏隊がやってきた。人心の乱れた世ではよくある事である。特に周囲にいた者に話を聞くまでもなく慣れた様子で男を連れて行った。
然程時間もたたないうちに、食堂は何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。若い夫婦と宿の主に礼を言われたエミーナであったが、たいした事はしていないと、首を振ると部屋へと早々に戻った。
「……」
魔帝との戦争は終結したものの、未だ世界は混沌としている。そして、悲劇が決して癒えない者も多くいる。重苦しい思いをエミーナは感じていた。比較的治安のいい王都にいたエミーナは世界の現実の一部を見せつけられた気分であった。
「なあ、アレックス。……あの男が救われる日はくるのだろうか?」
答えるはずもない事は分かってはいる。それでも、エミーナには問わずにはいられなかった。
「あのような思いをしている人間はどれほどいるのだろうな……」
エミーナはベットに寝かせたアレックスを見つめた。ぱちくりと開けられた目と視線が合う。
「アレックス……」
目を合わせたまま、アレックスの名を口にした。
「出たのか……」
エミーナの鼻には、何度も嗅いだ臭いが入ってきた。




