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聖母の騎士  作者: 和音
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「団長。私には無理です」


 騎士団団長の執務室。机に向かって書類に目を通していたヒューイットの前で普段見せる事のない疲れきった顔のエミーナがいた。


「私は今まで剣の腕を磨いてきました。騎士としての務めを果たせるように努力をしてきました。ですが、育児は……、赤ん坊の世話は、無理です」


 救世主である赤ん坊と対面してから十日間。侍女たちに赤ん坊の世話の仕方を教えてもらっていたエミーナであったが、慣れない事ばかりであり、すっかり自信を失っていた。


「おい、間違えるな。お前の任務は救世主様の護衛だ」


「護衛という名の世話係じゃないですかっ!」


 執務机をバンと両手で叩き、エミーナは眉を吊り上げる。


「まあ、そうとも言えるのかな……」


 気まずそうに言うヒューイットはエミーナが部屋の入ってきてから、まだ一度も目を合わそうとはしない。


「やはり、私には無理です。赤ん坊を連れて一人でセレン島まで行くなど、無理です」


「そう言うな。もう決まった事だし、陛下も大臣もお前に期待しておられる」


「お二人共、来られましたが……」


 遠い目をしたエミーナは大きなため息と共に二人の来訪を思い出す。






「おお、久しいの、エミーナ」


「へ、陛下!?」


 突然の国王自らの来室に侍女はもちろん、エミーナも目を丸くして驚いた。エミーナはすぐさま、膝を着き、騎士としての国王への礼をとる。


「よいよい。忍びの訪問じゃ。畏まる必要はない」


 国王はまだ六十に満たない年齢ではあるが、魔帝との争いで心労からか、すっかり白くなった頭髪と顎鬚である。決して暗愚では無いが、どこか威厳に欠ける所がある国王は、普段から下の者と距離感が近い。


「救世主様はどうじゃ?」


「はい。今は眠っておられます」


 侍女が答えた。先ほど、四苦八苦の末、エミーナがミルクを飲ませた後、満足したのか、穏やかな顔で眠りについていた。


「赤子はいいのう。罪の無い寝顔じゃ」


 目を細め、愛おしそうに救世主である赤ん坊を見つめる。


「このまま、手元で育てたいくらいかわいいのう」


「陛下!」


 侍女の一人がたしなめるように声を出した。


「わかっておる。救世主様を元いた世界に返さねばならんのは承知しておる」


 国王は名残惜しそうに目線を救世主から離すと、エミーナの方に振り返った。 


「エミーナよ。苦労掛けるが、頼んだぞ。我らの都合だけで召喚してしまったのだ。そんな我らは必ず救世主様を無事に元の世界へお返しせねばならんのだ」


「はっ。心得ております。若輩者ではありますが、ご期待に添えるように精進いたします」


 そう答えるエミーナの額に汗が流れる。

 やはり根は生真面目なエミーナである。救世主をセレン島へ連れて行く任務を任されてからというもの、寝食を共にし、世話を学んでいた。おむつの交換や寝かしつけ、ミルクを飲ませる事などすべて初めての経験であるが、必死に身に付けようと努力していた。しかし、人間には得手不得手というものがある。残念ながら、エミーナにとって、赤ん坊の世話は不得手の方に入る事のようであった。侍女たちに半ば呆れられながらの特訓であった。


「ああ、期待しておるぞ。しかし、それにしても……」


 国王は再び、救世主の寝顔に見とれる。


「やはり、かわいいのう」


 その顔はだらしないくらいに崩れた笑顔であった。






「……という事がありました」


「そうか。まあ、陛下も救世主様を召喚した事を気に掛けておられるのだな」


 頷きながら、ヒューイットは椅子の背もたれに寄り掛かった。


「いえ、それはいいのです。問題はその後です」


「問題?」


「はい。その日以降毎日陛下は来られまして。しかも、毎回大量の玩具を持参してです」


「え? 玩具? 毎日?」


 ヒューイットはここで、今日初めてエミーナの顔を見上げた。


「はい、毎日です。救世主様と持って来られた玩具で遊ぶのがもはや日課となっています。救世主様も陛下が来られると嬉しそうな声を上げるようになりました」


「……」


「おそらく、救世主様は私より陛下に懐いていますね」


「……そう言えば、陛下は孫が欲しいってもっぱらの話だったなあ。いや、ほら王子が、なかなか結婚しないだろ。救世主様を見て、火が付いちゃったんだろうなぁ」


「救世主様をお連れして行くのは私です。その私より陛下に懐かれては任務に支障をきたします」


 眉間に皺を寄せ、エミーナが言った。


「ああ、分かった。俺から大臣に言って何とかしてもらう」


「その大臣にも問題があります!」


 バンッと執務机を両手で叩くエミーナは大臣の顔を思い出し、眉間の皺を深くしていた。






「エミーナ、だからそこは違うと言ったではないか!」


 毎日やって来る国王が甘いおじいちゃんなら、大臣は子育てに煩いおじいちゃんであった。


「ほれ、ワシに貸してみろ」


 救世主のおしめ替えである。どうやら、大臣はエミーナのやり方が納得出来ないようである。


「私はこの方がやり易いのです!」


 エミーナの母は大臣の妹である。つまり、叔父と姪の間柄である。それゆえ、お互いエミーナが幼い頃より見知った仲であり気安い関係であった。


「それでは、ダメだ。赤ん坊に負担がかかるであろう」


 侍女たちはおろおろしつつも、口が出せない。


「いえ、別に負担など掛からないはずです。それに、私はこうしろと教えられました!」


「ワシはお前にミルクをやった事もあるのだぞ!」


「今それは関係ないでしょう!」


 目の前で口論を始める大人二人についに救世主が泣き声を上げる。


「おお、救世主様。すみまんせんなあ。ほれ、エミーナ! 言わんこっちゃない。救世主様が泣き出してしもうたではないか」


「いや、叔父上が大きな声を出すからでしょう! もう、邪魔しないでください!」






「……という事がありまして」


 険しい顔で、エミーナは睨み付けるようにヒューイットの顔を見る。


「う、うーん。まあ、大臣は几帳面な方だしな。おまけに、子供好き。ま、悪い人じゃないんだよな……」


 ヒューイットは腕を組んで、ため息を吐く。


「悪い人ではないのは分かっています。ですが、はっきり言って邪魔です」


 いくら叔父とはいえ、一介の騎士が国の大臣を邪魔と断言するのはかなりの問題発言ではあるが、ヒューイットはあえてそこは何も言わない。


「わかた、わかった。俺が何とかする。だから、無理とは言わず、頑張ってくれ」


 頭を下げるヒューイット。


「……本当になんとかしてくれるのですか?」


 エミーナは疑わしい目でヒューイットを見る。


「ああ、約束する」


 不満と怒りが交錯するエミーナをなんとか宥めて救世主のいる部屋へと返したヒューイットは、一人となった執務室で大きくため息を吐いた。


「やっかいな仕事を任されちまったもんだな……」


 翌日――。

 特殊訓練に入るという事で、救世主のいる部屋への立ち入りは一切禁止される事になった。建物周囲を騎士団が固めるという念の入れようであった。

 これに、不満を抱いた者が二名ばかりいたのは言うまでもなかった。しかし、救世主の為という決定に異議を挟む事も出来ない二人であった。






 春の終わりに突然魔帝がこの世を去り、人間たちが勝利を収めてから、時が立ち、夏が終わる頃。

 ようやくエミーナの赤ん坊の世話も形になってきていた。未だに戸惑う事も多々あったが何とか対処できるようにはなっていた。それは、エミーナが救世主を連れ、女神がいるというセレン島に向かう日が来たという事でもあった。


「では、セレン島までの道筋は以上でいいな」


 机に地図を広げ、ヒューイットはエミーナに確認する。


「はい。治安の事や距離から考えても最適であると思います」


 エミーナたちの住むアルゴン王国から二つの国を抜け、三つめの国が大陸の最南端になる。さらにそこから、海を越えた所にセレン島がある。魔帝とその軍団を倒したとはいえ、世界は未だ混乱を引きずっていた。魔帝軍に荒らされた国もあれば、人心が荒廃し治安が乱れている国も多い。通過する国も決して安定しているとは言えなかった。幸いにも魔帝軍の攻撃が少なかったアルゴン王国は世界でも非常に恵まれている地なのだ。


「任務の性質上、お前は騎士という身分ではなく、一般の人、救世主様とは親子として行くのだ。苦労もあるだろうが、頼むぞ」


 エミーナは傭兵出身の母親という設定で救世主を連れて行くという事になっていた。


「男性と付き合った事もない私が母親役など勤まるのか、不安ではありますが……」


 エミーナの不安に思わずヒューイットは苦笑する。


「帰ってきたら、侯爵からの見合いの依頼がまた来そうだな」


「勘弁してください。父から、見合いの依頼が来ても断ってください」


 能面のような無表情な顔でエミーナは言った。


「まあ、善処するよ」


 娘が嫁ぐのを心待ちにしているエミーナの父親の顔を思い出しながらヒューイットは頷いた。


「それより、救世主様ですが、名はどうしますか?」


 赤ん坊は召喚されてより、“救世主様”と呼ばれ、名は付けられていない。赤ん坊であるがゆえ、名を知る術も無かった。


「言われてみれば、そうだな。まさか道中も救世主様と呼ぶわけにもいかんしな」


「どうしますか?」


「うーん。お前が付けろ」


「私がですか?」


「ああ、かまわん。でも、出発するまで、この件は秘密だ。でないと、名付け親になりたがるのが出てきてまたややこしくなる」


 そう言うヒューイットは顔を顰めた。


「なるほど」


 エミーナの脳裏に国王と叔父である大臣の顔が浮かんでいた。






 三日がたち、いよいよエミーナと救世主の出立の日を迎える事になった。

 王国を挙げての召喚した救世主の帰還への旅立ちとしては随分と寂しいものであった。見送る者はお忍びでやってきた国王、大臣。それに、今まで世話をしていた侍女三人と騎士団の団長。しかも場所は救世主がいた部屋の前である。実に静かな見送りであった。


「本来であれば、盛大な式典をするべきものなのだがな」


「そうですな。救世主様には申し訳ないという思いでいっぱいです」


 国王と大臣は申し訳なさそうな表情であった。


「仕方ありません。今回の召喚は極秘ですから」


 世界はまだ混沌から抜け出せていない。救世主を利用しようとする者が現れてもおかしくはない。それを防ぐ為にも秘密裡に救世主を元の世界に送り返さなければならないのだ。ヒューイットもあまりにも寂しい見送りに複雑な思いを抱きながらも言い切った。


「そうじゃの。では、救世主様。お別れです。ありがとうございました。少なくともワシは救世主様のお陰で癒されましたぞ」


 魔帝との戦争後、国王も随分と混乱を収めるのに苦労していた。それを無垢な救世主に癒されていたのだろう。名残惜しそうに救世主の手をそっと、自分の手で包む。救世主はきゃっきゃっと声を出しながら、国王の指をその小さな手で握った。


「健やかにの」


 目に涙を浮かべて、その救世主の手から名残惜しそうに自分の手を引っ込めた。


「救世主様。立派な人になってください。ここでの事は大きくなったら忘れてしまうでしょうが、ワシは救世主様の事は生涯、忘れませんぞ」


 大臣が救世主の頬をそっと撫でると、嬉しそうに両手をバタバタとさせた。

 侍女三人も涙を流してる。彼女らも、ずっと世話をしてきて、情が沸いていたのだろう。


「では、行って参ります」


 エミーナは救世主をしっかりと抱きしめ直すと、軽く頭を下げた。


「お前は騎士団の誇りだ。無事を祈っている」


 ヒューイットは力強く頷いて、エミーナの道中の無事を祈った。


「頼んだぞ」


 少ない見送りの数ではあるが、思いの籠った見送りを受けてエミーナは出立した。

 部屋の前から、見送る人々を振り返る事なく、歩き始めた。

 普段の騎士の姿とは違い、剣を帯びているものの旅装に身を包み王宮の城門を出る。赤ん坊を抱き歩く姿がエミーナであると気づく者はいない。

 城門を出て、少し歩いた所でエミーナは周囲に人がいない事を確認すると、立ち止まった。

 救世主は大きな布に包まれている。その布の先端を首の後ろで縛り、エミーナの両手は使えるようにしていた。彼女は布の中で大人しくしている救世主の顔を覗き込んだ。


「救世主様。私が女神様の元まで無事に送り届けさせて頂きます。必ずや、元の世界にお返ししてみせますので、ご安心を」


 救世主はじっとエミーナの目を見ていた。


「恐れ多い事ではありますが、今からあなたの母親役となります。どうか、お許しを」


 一拍置いた後、目を閉じたエミーナはしばらく黙り込んだ後、再び目を開いた。目を閉じる前と変わらず、救世主の瞳はエミーナを見つめている。


「では、行くぞ。……アレックス」


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