21
小舟は浜辺へ近づくと、最後は船底を擦り止まった。もう浜まで歩いていける所まで来ていた。
エミーナは小舟を降り、膝下まで海に浸かりながら砂浜へと向かって歩いた。砂浜にはすぐに辿りついた。
白く輝く砂浜に立ち、海を眺めた。さっきまで乗っていた“赤い妖精”号が、動き出すのが見える。ゆっくりと向きを変え、外洋へと帰っていく。
エミーナは船に向かって、深々と一礼する。
改めて、島へと向かい、辺りを見回した。砂浜が広がり、その向こうには小高い山へと向かって森が続いていた。
砂浜に波が打ち付ける音以外、何も聞こえない。
ここから先、どこへ向かっていいかエミーナには分からない。だが、不思議と彼女に、不安は無かった。
思うがままに進めばいい――そんな思いをしていた。
「では、行くか、アレックス」
「んあっ」
元気一杯にアレックスが答えた。それに、頷き返して、エミーナは歩き出した。
足の向くまま進んでいく。砂浜を横切り、森の中へと入っていく。
生い茂っている木々の隙間から太陽の光を受けながら、なだらかな傾斜を登っていく。波の音が聞こえなくなった代わりに鳥の囀りが響いてくる。島は穏やかな空気に包まれているのがエミーナに感じられた。
一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めていく。エミーナの心は穏やかだった。何も考える事もなく、迷いも無い。前だけを見て進む。体にも疲れを感じない。アレックスを胸に下げた袋ではなく、直接、腕で抱いて歩いていく。
海から見えた小高い山の中腹辺りに来た時である。目の前に洞窟が見えた。
エミーナはその洞窟の前に立った。中は暗く、様子を伺う事は出来ない。すうっと一筋の風が洞窟の奥から吹き抜けてきた。その風は彼女の髪を揺らしている。
導かれる様にエミーナはその洞窟の中へと入っていった。真っ暗で何も見えない中、足元を注意しながら進んでいく。
音も無く、何か生物がいる気配も無い。エミーナの足音だけが、辺りに響く。
突然、明るい光がエミーナの目に差し込んだ。つい先ほどまでは暗い洞窟を歩いていたはずである。それが、急に眩いばかりに明るくなったのである。
その眩しさに思わず目を閉じる。少しづつ、目を開いた彼女に視界が戻る。
エミーナの前には、大きな空間が広がていた。地面からは、いくつもの水晶が生えていた。その水晶が光を放ち、その空間を照らしていた。光は高い天井まで届いている。少し先、空間の中央付近には舞台のように、円形状に一段高くなった場所がある。床一面、磨き上げられた青い石が隙間無く敷き詰められている。石に水晶の光が青く反射して、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
突然現れたその空間にエミーナは驚く事は無かった。
むしろ、直感的に思っていた。ここが、旅の最終目的地だ、と。
その場の神々しい雰囲気に圧倒されながらも、エミーナはゆっくりと中へと入っていった。
「いらっしゃい。良くここまで来ましたね」
透き通る様な美しい声が聞こえた。
エミーナは声のした方を見る。一段上がった床のの上に一人の女性がいつの間にか立っていた。白い肌に白いドレス。長い金色の髪は輝いている。伝承とはやや違いがあるものの、エミーナが今まで見た事のない程の美しさである。
「女神様……?」
神々しさを放つ女性は、にっこりと微笑む。
「ええ、貴女だちが、女神と呼んでいる者です」
一瞬、我を忘れていたエミーナは、はっとなる。
「エミーナ・ラインバードと申します。アルゴン王国騎士団所属の騎士であります。突然の来訪、どうかお許し願いたい」
エミーナは片膝を着き、頭を垂れる。
女神は微笑んだまま、黙ってエミーナの口上を聞いている。
「この度、我が国にて召喚した救世主様を元いた世界へとお返しする為に、やって参りました」
エミーナは腕の中のアレックスを女神へと見せた。
「ええ、知っているいます。長旅、ご苦労様でした」
女神は頷き、労いの言葉をエミーナに贈る。
その言葉にエミーナは恐れ多いとばかりに、さらに頭を深く下げる。
「魔帝の存在は私にとっても、予想外のものでした。どうしようかと悩んでもいました。彼も可哀そうな存在ではあるけれど……」
複雑そうな顔となった女神が言った。
「魔帝が可哀そう?」
女神の言葉に驚きを隠せず、下げていた頭を上げて、目を見開きエミーナは聞き返した。
「ええ。人間でありながら、人間では無い存在へと変えさせられた者。そして、それをしたのも人間」
女神は小さなため息を吐いた。
エミーナにはよく理解出来なかった。彼女にしたら、いや、彼女以外の人間にとっても魔帝は邪悪な存在以外の何ものでもない。
「あなたは気にしなくてもいいですよ。彼はね、かつて天才と言われた魔導士に育てられました。でも、その魔導士は狂ってもいた。その才能から、自分を万能の神とでも勘違いしたのかしらね。後に魔帝と呼ばれる小さな男の子に、自分の力を注ぎ込んだのです」
「力を注ぎ込む?」
エミーナは眉を寄せて、首を傾げた。
「ええ。簡単に言うと、体に直接魔法陣を描いて、生ける魔道具を作り上げたのです」
女神の美しい顔が辛そうに歪む。
「生ける魔道具……」
魔力が無く、魔道の分野に疎いエミーナでも、それがどんなに酷く残酷で、人道に反しているかは分かる。
「その男の子は、その魔導士の憎しみ、恨み、世の中への反発の籠った魔力を流し続けられていました。そしていつしか、魔帝と呼ばれる存在になってしまった」
女神はどこか、悲し気な笑みを浮かべる。
「人間が忌み嫌った魔帝は生んだのは、人間の心の闇だったのですね……」
何とも言えない気持ちにエミーナはなった。
「そうですね。だから、きっと魔帝と呼ばれていた者も、その子には感謝しているはずです。やっと、すべてから解放されたのだから」
「やはり、魔帝が死んだのも……」
抱いていた疑問である。
「もちろん。その子がこの世界に召喚された時に発した強い光。聖なる力を持つ希望の光です。それによって、魔帝は消滅しました」
女神はじっと、アレックスの顔を見つめて、頷いた。
「あなたも、ハルニアで経験したでしょう?」
女神はそう付け加える。
エミーナはハルニアでの、アレックスが青く光り輝き、魔帝の残党をすべて灰へと化した事を思い出しながら、頷いた。
「そんな小さな体で本当によく頑張ってくれたました。私からもお礼させてください。ありがとう」
女神はエミーナの前まですっと近寄ると、アレックスの頭を優しく撫でた。。
エミーナは立ち上がると、腕の中のアレックスを見つめる。
「んああう」
不思議そうにアレックスはエミーナを見つめ返す。
「アレックス、今までよく頑張った。これで、元いた世界へと帰れる……。これで私の役目も……」
エミーナは言葉が詰まった。
「……母親役も、終わりだ」
目を一度閉じて、大きく息を吸い込み、続く言葉を絞り出す。
「……救世主様、女神様への元へと無事、お届けする事が出来ました。今までの数々の無礼、どうかお許しを」
そのエミーナの声は震えていた。言い終わると、ぐっと、奥歯を噛みしめる。
「んあぁう」
きょとんとした表情のアレックスである。
「あなたたちの旅はずっと、見ていました。本当にありがとう。この子をここまで連れてきてくれて」
女神は二人の様子を穏やかな微笑みを浮かべ見ていた。
「もったいないお言葉です」
エミーナは頭を下げた。
「では、救世主様を……」
もう一度エミーナはアレックスの顔を目に焼き付ける様にしっかり見ると、女神へと近づいて差し出そうとした。その手はわずかに震えていた。
その時、初めてエミーナがアレックスに会った時に聞いた、音がした。彼女の手に生暖かい感触が伝わってきた。
「……」
その感触にエミーナは懐かしさを感じる。
「そのままでは可哀そうですね。おむつ、替えてあげたら?」
女神は苦笑して、エミーナを促した。
「は、はい。しばらくお待ちください」
エミーナは女神に頭を下げ、アレックスを下ろすと、荷袋から新しいおむつを取り出した。
「救世主様、今、替えますので……」
「んあー」
エミーナは慣れた手つきでおむつを替え始めた。汚れたおむつを外し、お尻を綺麗に拭いていく。
「もう少しで……終わります、救世主様」
エミーナが呟く。おむつを替える彼女の手にぽたりと一滴の水滴が落ちる。
「な、何だ? 何故、私は……?」
エミーナの目から大粒の涙がいくつも零れ落ちていく。声を噛み殺して、肩を大きく震わせている。今までにエミーナが感じた事のない、寂しく辛い気持ちが心の奥底から溢れ出してきていた。
「まったく、本当に仕方ありませんね。こんな時にまで漏らすなんて……。救世主様……は……」
エミーナの手が止まるが、溢れ出してくる感情は止まらない。
「……アレックス、お前は……」
嗚咽に交じり、言葉にならない言葉を繰り返す。とめどなくエミーナの目からは涙が溢れだしていた。
「んあっ」
アレックスの手がエミーナの濡れた手に触れた。そして、その小さな指でぎゅっと彼女の指を握りしめた。
それを見て、エミーナはにっこりと笑顔をアレックスに見せた。涙で顔は濡れているが、優しい笑顔を向けた。
頷き、アレックスをそっと抱きしめた。このまま離したくない思いを必死で抑えつける。
しばらく抱きしめた後、エミーナは立ち上がり、女神の前に立った。
「もう、いいのですか?」
エミーナは黙って頷いた。女神に手渡そうと、アレックスを差し出す。
しばらく、じっとエミーナの様子を見つめてから女神は受け取ろうと両腕を差し出す。
「んあっ」
アレックスは咄嗟にエミーナの腕を掴む。
しかし、そのままエミーナはアレックスを女神の腕へと預けた。そして、彼女の腕を掴むアレックスの指を優しく撫でた。
心配は無い、とばかりにエミーナは微笑みかける。すると、安心した顔を見せたアレックスは、彼女の腕からその小さな指を離した。
女神はその腕にアレックスを抱いて、エミーナをじっと見つめる。
「では、召喚せし者を元いた世界へと返します」
エミーナは片時もアレックスから目を離さずに、成り行きを見守っている。
「この世界を救ってくれて、本当にありがとう。この世界の神として、あなたには感謝しています」
女神がアレックスへと微笑んで、感謝の言葉を述べた後、顔を上へと向け、目を閉じた。すると、彼女の周囲に小さな風が起こる。ぐるぐると女神の周りを回転するような風が巻き上がった直後、アレックスの体から、強い光が発せられる。
エミーナは一瞬でも、目を離さない様にしっかりとその目を見開いていた。
女神の全身が光に包まれた瞬間、風が止み、光も瞬く間に消失した。
光の中から再び現れた女神の腕の中には、そこにいたはずのアレックスの姿は無かった。
「……元の世界へと帰りました」
ぽつりと女神が呟くように言った。
静かである。
すべて終わった――エミーナの全身から力が抜けていく。その場に崩れ落ちる様に座り込んだ。
力なく項垂れたエミーナの目に、袋の中に熊のぬいぐるみがあるのが映った。何度も口に咥えられ、涎まみれであったぬいぐるみである。白かったそのぬいぐるみは、今では所々黒ずんで、すっかりと汚れていた。
彼女はぬいぐるみを手に取った。持っている手が小刻みに震え始める。
「くっ、ううっ」
エミーナの口から、唸るような音が漏れた。震えは手から全身へと伝わっていく。
「あああー」
顔を上げたエミーナの目からまた、涙が溢れだす。
熊のぬいぐるみをしっかりと抱きしめ、今まで流した事の無い程の涙を流し、声を上げて泣いていた。感情の起伏が少ないと自覚していたエミーナが、自分でも戸惑う程の声で泣いていた。それでも、涙は止まらなかった。
今のエミーナには、はっきりと分かっていた。何故、自分がここまで涙を流すのか理由を分かっていた。だからこそ、その感情に身を任せ、泣き続けていた。
抱き続けていたアレックスの変わりにぬいぐるみを抱きしめながら涙を流していた。
神秘的なこの空間に、エミーナの泣き声だけが響いていた。




