16
「アレックス!」
掠れた叫び声を上げると同時にエミーナは起き上がった。
「ここは……?」
彼女がいたのは、記憶に僅かに残っている森の中ではなかった。見知らぬ部屋である。小さな部屋で、片隅に花が入れられた花瓶が置かれている棚とエミーナがいるベット以外には何もない。窓からは草原とその向こうに森が見えた。
外は明るい。どれくらいの時間が経ったのか、アレックスはどこにいるのか、そして、何故、自分がここに寝かされていたのか。エミーナにはまったく記憶に残っていなかった。
「アレックスは……」
エミーナはベットから出て、立ち上がろうとするが、体が重い。頭を数度振り、無理やり立ち上がった。
「うあうっ」
エミーナの耳のアレックスの声が聞こえた。
「!」
扉の向こうからである。
「アレックス!」
ふらつきながらも、小走りで扉に駆け寄り、勢いよく開ける。
扉の向こうにも今までエミーナがいた部屋より若干広い部屋があった。やはり、質素な造りであるが、壁には自作と思しきタペストリーが所狭しと並んでいた。描かれている題材はすべて、馬である。
その板敷の部屋の真ん中にアレックスがちょこんと座っている。
「んきゃああっ」
エミーナを見たアレックスは叫び声に近い声を上げると、一目散に彼女の方へとハイハイでやってきた。
「アレックス!」
エミーナは側に来たアレックスを抱き上げると、顔を擦りつけながら、強く抱きしめた。
「目が覚めたのかい?」
皺がれた女性の声が聞こえた。
エミーナは声のした方を振り向く。部屋の奥にある椅子に腰かける老婆の姿が見えた。長い真っ白な髪で、顔には深く皺が刻まれている。
「何か食べた方がええ。こちらにおいで」
老婆はゆっくりと椅子から立ち上がると、エミーナを手招きした。
「貴女が……」
「まずは、そこに座って。話はそれからだよ」
エミーナの言葉を遮り、近づいてきたエミーナを椅子へと座らす。
「良かったねえ。お母さん、元気になったみたいだよ」
柔らかい笑顔の老婆はアレックスの頭を撫でる。
「ちょっと、待ってておくれ」
そう言い残すと、老婆は奥へ消えていった。
状況がいまいち、分からなかったものの、危険は無いと判断したエミーナは大人しく待っていた。アレックスは腕の中から、エミーナの髪を引っ張たり、顔を胸に押し付けたりと忙しくしている。
「アレックス、どうしたのだ?」
今までにないアレックスの様子にエミーナは若干の戸惑いを感じる。しかし、悪い気はしない。むしろ、癒される様な気もしていた。
「ほっほっほっほ。倒れていた母親に久々に甘えているのだね」
そう言いながら老婆は部屋に戻ってきた。手には器を乗せた盆があり、器からは湯気が立ち上っている。
「さあ、お食べ」
エミーナの前に粥が入った器を置いて、老婆は勧める。
「かたじけない」
頭を下げると、スプーンを手にし、ゆっくりと、粥を口へと運ぶ。
「美味いな……」
体中に温かさと滋養が行き渡っていくのをエミーナは感じた。
「たんとお食べ。おかわりもあるからの」
エミーナはあっという間に器に入っていた粥を平らげた。老婆は何も言わずにおかわりを出してくれた。
二杯目も食べ終え、エミーナは老婆に頭を下げる。
「ご馳走になった」
「いやいや、大したもんじゃあない。気にせんでおくれ」
エミーナの対面に腰掛けた老婆は少し照れくさそうに顔を振る。
「ところで、私は一体……。それに、貴女は?」
気になっていた事をエミーナは老婆に尋ねる。
「昨日の朝だったかね。森の方に馬が見えてね。何で馬がいるのだろうと思って見に行ったらあんたが倒れておったんだよ」
サンドラと名乗った老婆の話によると、見えた馬の正体はモントレーに貰った魔道具が映し出した物だったようである。意識を失い倒れてしまったエミーナの側でアレックスがその魔道具を起動させ、それに老婆が気付いたそうであった。
倒れているエミーナに驚いた老婆はすぐにこの家へと連れ帰り、寝かせて、袋の中にいたアレックスにまたも驚きながらも、世話をしてくれていたとの事だった。
「感謝する。もし、貴女が助けてくれていなかったら、私たちは今頃どうなっていたか……」
サンドラは小柄である。そんな彼女が自分を運んでくれた事を申し訳なく思うと共に、感謝をするエミーナ。
「感謝するなら、そのアレックスにしておくれ。この子が、あの馬の映る道具を触らなかったら私は気付いていないからね」
優し気な目で、サンドラはアレックスを見る。
「あんたが寝ている時も、この子はなかなかあんたから離れようとしなくて。何度も目を離した隙にあんたの側へ行っていたしね」
「そうか……」
サンドラの話にエミーナは嬉しそうでいて、どこか照れた笑みを浮かべながら、アレックスを見た。
「あうー」
アレックスはエミーナの顔をぺたぺたと触っている。
「あんたも寝言で、何度もアレックスと言っていたよ。お陰でこの子の名前が分かって助かったがね」
よく似た親子だねと、サンドラは楽しそうに笑った。
「よく似た親子――か」
少々複雑な気持ちになるエミーナ。いつまで、アレックスの母親としていられるのか、との思いがもたげてくる。
「どうかしたかい?」
難しそうな顔となったエミーナを心配そうにサンドラが覗き込んでいた。
「い、いや。大丈夫だ」
「もう少し休んだ方がええ。着替えさせてもらったが、見たところ、あんた旅のお人なんだろう? ここで体調をしっかり整えておいき」
見ると、確かにエミーナは着替えさせられていた。
「勝手に悪いとは思ったが、余りにも酷い恰好だったから……」
申し訳なさそうにサンドラが謝る。
「いえ、とんでもない。むしろ、ご迷惑おかけして申し訳ない。何から何まで本当にすまない。感謝する」
エミーナは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「やめとくれよ。本当に大した事じゃないから」
サンドラも立ち上がり、エミーナを座らせた。
「もう二晩もすれば良くなるだろう。その子の為にも、それまではゆっくりしておいきなよ」
サンドラの勧めをエミーナはありがたく受ける事にした。
倒れてから一日半も眠り続けていたエミーナであったが、目が覚めた日の夜もすぐに眠りについた。習慣となっている隣で眠るアレックスの様子を見る為に何度か目が覚めたものの、朝までゆっくりと体を休める事が出来た。
昨晩、寝る前にここがすでにナレントである事を確認していたエミーナは気分的にも、久々にのんびりと過ごす事が出来ていた。
「世話になっているだけでは申し訳ない。私で出来る事があれば、手伝いのだが」
一日だらだらと過ごす事も、サンドラに対して失礼であるし、性格的にもエミーナには無理であったので、何か手伝える事はないか尋ねる。
「気を遣わでええ。裏の畑で、自分が食べる分だけ作っている気ままな一人暮らしだしね。特にやる事もないさね」
「うーむ。しかし、それでは申し訳なくてなくてな……」
「本当に構わんよ」
優し気な笑顔でサンドラは椅子に座り縫物をしている。どうやら、タペストリーを作っているようだ。
「壁にあるタペストリーは貴女が作ったものか?」
壁に掛かっているタペストリーを見て、エミーナは尋ねた。
「ああ、そうだよ」
サンドラは手元を器用に動かし、布に鮮やかな模様を縫い込んでいる。そのすぐ横にはすっかりサンドラに懐いたアレックスが昼寝をしていた。
「馬がお好きなのか?」
どのタペストリーにも馬が描かれている。
「好きというより、すべてだったね」
「すべて?」
「ああ、うちは元々、牧場でね。ほら、家の前の草原で多くの馬を育てたもんだったよ」
手を止め、サンドラは窓から見える草原へ視線を移す。
「馬の生産をしておられたのか」
エミーナも騎士だけあり、馬にはこだわりと愛着がある。何度か馬の生産をしている者にも会った事があり、その苦労も知っていた。
「昔の話だけどね。うちは旦那は早くに亡くなってしまったが、変わりに三人の息子が良く働いてくれてね。いい馬を多く育てられたもんだよ」
草原を眺めるサンドラの目はかつて多くの馬がいたであろう草原を懐かしそうに眺めていた。
「でもね、魔帝とやらが現れて私らの生活は一変してしまった」
草原から視線を外し、サンドラは大きなため息を吐いた。
「馬は母馬から仔馬に至るまで、戦争に必要だと、国に徴発されてしまって。挙句に末っ子も軍隊に取られてね……。私一人なら何とかなったが、家族のいる上の息子たちは嫁と子供を連れてガルゼナの町へ出稼ぎに出てなあ……」
悲しみを湛えているのか、持っている布をぎゅっと握りしめる。
「息子たちが行った町は破壊しつくされ、おった者は皆殺されたそうだ。その上、戦争に行った末っ子も戦死したと紙切れ一枚で知らされたよ……」
「サンドラ殿……」
エミーナにはどんな言葉を掛けていいのか分からなかった。
「すまないね。こんな話を聞かせるつもりは無かったんだけどね。嫌だね、年を取ると、つい昔の話をしてしまうよ」
目じりに零れる涙を拭い、エミーナに笑顔を見せる。
「いやね、あんたを見つけた時だけど、まるで、草原を馬が駆けているかと思ったんだよ」
モントレーから貰った魔道具が映し出した動く絵の事である。
「懐かしかったね。思わず楽しかったあの頃の事が蘇って、私はあの世からのお迎えが来たのかとも思ったよ」
笑い声を立てて、サンドラは目を細めた。
「だからね、私もあんたに感謝してるよ。一瞬でも幸せな気分を思い出せられたからね」
サンドラはすやすやと眠っているアレックスを見る。
「まあ、老婆心から言わせてもらうよ。あんたはその子を大切にね。ちゃんと守ってやっておくれ」
エミーナはサンドラに力強く頷く。
「うん、うん。あんたなら大丈夫だね」
何度も頷きながら、サンドラは穏やかな笑みをエミーナに見せていた。
もう一晩サンドラの言葉に甘え、ゆっくりと休ませてもらったエミーナの体調はすっかり回復していた。
朝食の後、サンドラに別れを告げる。
「本当に世話になった。心より感謝致す」
「あうー」
エミーナが頭を下げるのに合わせ、アレックスも声を出す。
「いやいや、私も楽しかったよ」
サンドラはアレックスの頭を優しく撫でながら、エミーナに頷き返した。
「しかし、礼を何もしなくても……」
せめてもの礼にと、まとまった金額を渡そうとしたエミーナだったが、きっぱりとサンドラに断られてしまっていた。そればかりか、昼食にと、弁当まで持たされていた。
「そんな事、気にせんでええよ」
「んあっ、んあっ」
アレックスが手にモントレーから貰った魔道具を持ち、差し出している。
「アレックス。それを礼に渡すと言うのか?」
「んあうっ」
アレックスはひと際大きく声を出した。
「でも、それはアレックスの大事なおもちゃなんだろう?」
サンドラには魔道具とは理解していない様で、アレックスのおもちゃだと思っているようである。
「んっんっ」
受け取ろうとしないサンドラに魔道具を突き出す。
「サンドラ殿、アレックスからの気持ちだ。貰ってやってもらえないだろうか?」
エミーナも頼む。
「いいのかい?」
アレックスの顔を近づけ、サンドラは尋ねた。
「んあ」
エミーナもアレックスの声と共に頷く。
「じゃあ、頂くよ。これを見てまた幸せな気分に浸らしてもうとするかね。ありがとうよ、アレックス」
サンドラは両手で魔道具を受け取ると、大事そうに胸に押し抱いた。
「世話になった。サンドラ殿、お達者で」
エミーナは頭を下げる。
「あんたも気をつけてな」
歩いていくエミーナを手を振りながら、見送るサンドラであった。