15
彼が気付いた時には、両親もいなく、優しくしてくれた兄もいなかった。たった一人だった。親や兄弟を奪った戦争というモノが憎かった。貧しさや悲しみを招く戦争というモノが恐ろしかった。
一人になった彼を国が引き取った。安心出来たのは一瞬だった。それから毎日続く訓練という名の過酷な日々。国は身寄りの無い子を使い捨てに出来る隠密として育てていた。
何人もの子が命を失っていく中、彼は生き残った。唯一の私物と言える一冊の本が彼を支えていた。古の英雄物語。
子供から大人になるにつれ、彼は生きていく術を身に付ける。それは明るく振る舞う事。常に笑顔を見せる事。そうしていれば、人に良く思われる。
しかし、彼の心は孤独だった。満たされる事はなかった。心の奥底では憎しみと悲しみが渦巻いている恐怖が常にあった。それを抑えつける為にも彼は笑顔を絶やす事はなかった。
彼は望んでいた。幼い頃に読んだ物語の英雄が自分を救ってくれる事を。いつか自分の救世主が目の前に現れる事を、待ち望んでいた。
「ははっ。やられちゃった……な。走馬燈……だっけ? 見えちゃったよ」
苦悶の表情の中に笑顔をカナックは見せる。頭に浮かんだ過去の記憶が蘇っていた。普段は心の底に閉じ込めている思いでもある。
「前見た時と比べてさ、随分と、思い切りが……良くなったね」
「いろいろあったからな」
剣を振り、血を払い鞘へと戻す。もうどう見てもカナックに反撃する力どころか命も尽きようとしているのがエミーナの目にも分かる。
「そっかぁ。……苦労したんだな」
息をするのも苦しそうなカナックではあるが、笑みは浮かべたままである。
「……ひと思いに楽にするか?」
エミーナは静かに尋ねた。
「いや、いいよ。代わりに少し話し相手になってくれないか?」
「ああ、構わん」
頷くと、エミーナはカナックの前に座り込んだ。
「俺さ、親父も兄貴も戦争で亡くしててね。だから……戦争は嫌いだ。無くなればいいと小さい頃に思ったね」
うつろな目になりカナックはぽつりぽつりと話す。
「そうか。それでガルゼナが世界を制するのにも協力したのか」
「うーん、それは……どうかな。今でも分からないな。仕事でもあったしね。ただ戦争が無くなればいいと思ったのは……間違いないな。まあ、ガルゼナの考えが正しいのか、君の綺麗事が正しいのか分からないけどね。どっちにしろ、それを見る事は……俺にはもう無理だしね」
カナックの浮かべている笑みに自嘲の色が入った。
「それよりさ……これから君はどうするの? ガルゼナでは……まともに歩けないよ」
「街道も通らんし、町にも寄らない。山越えだ」
今更隠す必要も無いとエミーナは正直に計画を話した。
「まさか……、死の高原を通る気?」
「死の高原?」
不穏な言葉に怪訝な表情となる。
「ああ、山脈が途切れている……高原地帯の事だ。あそこは止めといた方がいい。ガスが充満していてね、いくら救世主様でも、死ぬと……思うよ」
「そ、そうなのか?」
カナックの話では高原を抜ける事が出来ない。再び、国境超えについて、頭を悩ませる事になると、エミーナは眉間に皺を寄せた。
「ああ。その……高原に至る前に川がある。その川に沿ってナレントへ進め。険しい道だが、死の高原よりははるかにマシだよ」
「……何故、そんな事を私に教える?」
エミーナは不思議そうな目をカナックに向ける。
「信用……してよ。これは、お礼。……話し相手になってくれ……てるね」
カナックは大きく咳き込む様にして、口から、赤い塊を吐き出した。
「分かった。助言、感謝する」
素直にエミーナは頭を下げた。
「感謝……か。じゃ……あ、一個お願い。その子の……救世主……様の顔を見せてよ」
エミーナは黙ったまま、アレックスの顔をカナックに見せる様に抱き変えた。
「ああ……そう言えば昔……読んだ本の主人公の名前、アレックスだったなあ」
懐かしそうにアレックスの名を口にしたカナックは、もう一度、口から血の塊を吐き出した。
「古の英雄の活躍を描いた物語だろう。そこから名前を付けた」
「そっかあ。ああ、あの……本、もう……一、度、読み……た、かった、な……」
それが、カナックの最後の言葉であった。
エミーナは立ち上がると、目礼した。カナックはガルゼナの手の者だが、決して憎める人物とは彼女には思えなかった。それに、魔帝の残党との闘いでは、偶然とはいえ、彼の言葉に助けられたのだ。
「んあ……」
アレックスの声もどこか寂し気に聞こえる。
「なあ、アレックス。彼にも彼の信念があったのだろうな」
「んあう……」
エミーナはカナックの短剣を拾うと、そっと彼の胸の上に置いた。もう一度、目礼をする。
木漏れ日に照らされているカナックの顔には、穏やかな笑顔があった。
エミーナはカナックの助言に従い、高原の手前に流れる川を上流方向であるナレントに向けて進んでいた。
そこまでの道のりも平坦ではなかったが、今進んでいる場所に比べたら、楽な物だったとエミーナは感じていた。
カナックの言っていた通り、険しい道であった。道と言えば聞こえがいいが、実際道などではない。川沿いの急峻な崖を歩いていた。崖の際までせり出す木々を超え、大きな岩をよじ登り、不安定な足場を神経をすり減らして抜けるという様な有様であった。
三日が経っているが、そんな場所のせいか人ひとり出会う事もなく、魔物の類に出くわす事も無かった。
夜。町を出てから四度目の野宿である。
以前にも、サーザードでは何度も野宿をしたお陰で、エミーナもアレックスも野宿にはすっかり慣れてきていた。
崖から少し入った所で火を起こし、休んでいた。アレックスはミルクを飲み終わると、すぐに寝息を立て始めていた。クマのぬいぐるみをしっかりと抱きしめてすやすやと眠っている。
「だいぶ、寒くなってきたからな。暖かくしなければな」
アレックスの厚手の布を被せる。
アルゴンを出たのは、夏の終わりであった。まだまだ暑さを感じる季節だった。しかし、ガルゼナに入った辺りから肌寒さを感じていた。そして。今では冬を感じられる。
「随分と経ったものだな」
季節の移り変わりに時の経過をエミーナは感じる。
「短かったのか、あっという間だったのか……」
いろいろな事があり過ぎたエミーナは空を見上げた。木々の隙間から小さく夜空が覗いている。
「後、一国。次がいよいよ最後の国ナレントだ」
余りにも険しい場所であるので、現在地がどの辺りかはっきりとわからないエミーナであったが、二日もすればナレントに入ると考えている。
今まで登りであったのが、今日の昼過ぎからは下りへと変わっていた。つまり、山を超えたという事だ。
「もうちょっとだぞ、アレックス」
アレックスを元いた世界へと返す事が出来る――先はまだある、それに何が起きるか分からない。魔帝の残党の存在も気になっていた。しかし、エミーナは旅の終わりが確実に近づいているのをを実感する。
それは、同時にアレックスとの別れを意味する事になる。その事に一抹の寂しさを感じるエミーナ。
そっと、アレックスの頬に触れる。弾力のある柔らかな頬である。
「まだしばらくは、私が母親だ……」
エミーナは静かに呟いた。
「んまんま」
アレックスは何やら言っている。
「ふふふ」
夢でも見ているのだろうか、とエミーナは小さく笑い声を立てた。
野宿ではあるが、穏やかな時間が流れていた。
「くしゅんっ」
エミーナが性格に似合わない可愛らしいくしゃみをした。
「うう。少し冷えてきたな」
身震いをして、羽織っていたマント替わりの布を引き寄せた。
「私も少し眠るか……」
エミーナもアレックスの隣に寝転ぶと、目を閉じた。
翌日の朝、空がどんよりと厚く黒い雲に覆われていた。昨日の夜空が嘘の様である。
歩き始めてしばらく経つと、やはり雨が降ってきた。時間と共にその雨は激しさを増していくばかりであった。
「アレックス、大丈夫か?」
なるべく雨に当たらない様に、マントの下にアレックスの入っている袋を入れているが、激しくなってきた雨に顔に雨水が付いている。
「んあうっ」
顔を拭いてやると、元気良く声をアレックスは上げた。
「雨宿りでも出来ればいいのだがな……」
エミーナは周囲を見渡すが、雨を遮られる場所は見当たらない。止まる事も退く事も出来ない彼女自身もずぶ濡れになりながら、進むしかなかった。
すぐ横で流れる川は水量が増え、轟音を響かせている。岩場では雨で濡れたせいで滑りやすくなっている。風も強くなってきていて、真っすぐ歩くのさえ、一苦労である。
豪雨の中の移動は困難を極めていた。エミーナの体力を削り取るかの様に自然の猛威が襲い掛かってきていた。
「まったく、厄介だな」
思わず、エミーナの口から愚痴をこぼれる。
「あうあう」
マント替わりに体に巻いてある布の下からアレックスの声が聞こえる。
「すまん、少し言いたかっただけだ」
気を取り直そうと、マントの下のアレックスの顔を見ようとしたエミーナに眩暈が襲い掛かる。一瞬、ふらついたものの足を踏ん張り、しっかりと目を見開く。
「んああ」
エミーナに心配そうなアレックスの声が聞こえた。
「大丈夫だ……。すまんな」
雨に打たれながら立ち止まっていたエミーナは再び歩き始めた。
眩暈を感じてからしばらく経つ頃には、エミーナは彼女自身の体の変調を確かなものであると自覚出来た。体が重く、強い寒気を感じる。呼吸も少し荒くなってきているのが分かる。
そんな状況にも拘わらず、雨は容赦なく彼女に降り注ぎ、一向に止む気配はなかった。
「心配する必要はない、大丈夫だ」
エミーナは自分に言い聞かせる様に呟きながら、ただ前を見て、ひたすら進んでいく。
夜になっても、無情にも雨が止む事はなかった。多少激しさはマシになったが、大粒の雨がエミーナの体に落ちてきていた。
「こんな状況では休めんな……」
雨が降っている状況では野宿など無理である。雨から逃れられるような場所もない。
「進むしかないのか……」
エミーナは唇を噛みしめた。拳を強く握りしめ、気力を振り絞る。立ち止まっている訳にもいかず、周囲に暗闇が広がってくる中、歩き始めた。
空は黒い雲に覆われているので、月や星の明かりは届かない。真っ暗の中を慎重に進んで行く。
「アレックス、お前は眠っていろ」
袋の中のアレックスに声を掛けた。
「んなー」
暗いので、顔の様子は良く見えないがアレックスの声からは不安が感じられた。
「大丈夫だ。何も問題はない……」
暗闇で、見えているかは分からないが、エミーナはアレックスに微笑みかけた。
夜半過ぎになると雨も止んで、雲の切れ間から月の明かりが差し込んでくる。
しかし、その時のエミーナは意識が朦朧となっていた。
体を引きずるようにして歩いていた。時折、何かに躓き転びそうになる。片手を地面に着き、もう片方の腕で胸のアレックスを大事そうに包んで守る。
何とか意識を保ちながらも、ふらふらと歩いていく。
黒い雲がすっかり無くなり、朝日が昇る頃頃にはなだらかな下り坂となっていた。
朝日に照らされるエミーナは酷い姿であった。全身泥だらけで顔や手には小さな傷がいくつもあった。綺麗であった金色の髪もその輝きを失っていた。
ナレントに入っただろうか、この辺りはどの辺りだろうか――エミーナは混濁した頭で考えていた。
エミーナはいつの間にか、川沿いではないところを歩いていた。気付かないうちに、川から離れていた様である。周囲に植わっている木の密度も減ってきている。
「近くに……」
どこか、町でもないか――エミーナの声は最後は掠れていた。
また、転ぶエミーナ。今までと同じく、片手を地面に着き、反対の腕でアレックスをしっかりと抱きかかえる。
立ち上がろうと、地面に着いた手に力を入れようとしたが、入らない。それどころか逆に力が抜けていく。アレックスを守ろうと体を反らして、そのままエミーナは倒れ込んだ。
もう一度立ち上がろうとするエミーナだが、体が動かない。
「ア、アレッ……クス……」
意識は遠のいていくエミーナは掠れた声を出す。
「んあっ、んあっ」
アレックスの声が聞こえる中、エミーナの意識は深い暗闇へと引きづりこまれていった。