13
宿から逃げ出したエミーナは脇目も振らず町からも出ていた。
幸い、追手はいないようである。小さな町であったからか、他の警邏隊に出会う事もなかった。
「驚かせたか?」
町から離れ、エミーナは少し休む事にした。
二階の窓から飛び降りたが、幌がクッションとなりエミーナもアレックスも怪我は無い。
「んぱっ」
アレックスは笑顔である。どうやら楽しかったようである。
「お前は気楽だな。いや、それとも大物か」
エミーナはアレックスの反応に苦笑する。
「それより、どうしたものか……」
恐らくガルゼナは救世主を探している事は間違いないとエミーナは考える。目的は分からない。しかし、軍事国家が、警邏隊を動かしてまで捜索しているのだ。碌な目的でないのは見当がつく。
「他の町でも、警邏隊が赤子連れの旅の者を捕らえていっているのだろうな」
エミーナは地図を広げる。
南端の国、ナレントまでは普通に行けば、三日から四日かかる。途中には町もあり、苦労はないだろう。しかし、町では赤ん坊連れで旅をしているエミーナは目立つ。そもそも、赤ん坊を連れて旅をする者などいないのだ。
「街道にも、手が回る可能性もあるな」
今日の騒ぎで、エミーナの存在が向こうには知られている。そして、大体の居場所も分かったはずである。
「ここか……」
地図をじっと見ていたエミーナはある一点を見つめる。
ガルゼナとナレントは山脈で国境を分けていた。その山脈が一部途切れている場所に街道が走っている。だが、今のこの状況ではすんなりと国境を超える事が出来ないとエミーナは予想している。確実に検問で止められる事は火を見るよりも明らかだった。
検問を通らずにとなると山脈を超えるという事になるが、至難の業である。しかし、エミーナは高い山脈が続く中、一カ所高原のようになっている所を見つけたのだ。そこまで行くのにも苦労するであろうが、そびえ立つ山を登っていくよりはマシと思えた。
「アレックス、また野宿が続くが我慢してくれ」
「んあうっ」
アレックスは両手でぬいぐるみを抱きしめながら楽し気な声を上げる。
エミーナは手持ちの食料を確認する。国境を超えるのに、何日かかるかわからないが、アレックスの粉ミルクが心もとない。
「どこかで調達するしかないな」
行商人とでも出会えればいいのだが、そうは都合良くはない。
もう一度地図に目を落とし、近くの町を探す。今から出れば、明日の昼頃には着くであろう場所に大きな町がある。
「ここなら、何でもありそうだが……」
当然、赤ん坊を連れた旅人を探しているガルゼナの者がいるであろう事は想像に難くない。
迷っていても仕方ない――とにかく近くまで進もうと、エミーナは立ち上がった。
久々の夜間の移動であった。サーザードと違い、魔物の類と出会う事もなく進んでいった。夜が明ける前には、念のため、街道から少し外れた場所を進んでいく。
昼過ぎには、エミーナの読み通り、町が見える場所までたどり着いていた。
エミーナは岩陰に隠れる様にして、町の様子を伺う。
遠目からであるが、城壁に囲まれた町であるのがわかる。城壁一部には戦いの跡がある。魔帝との戦争で出来たものであろう。
町は何ヶ所かの出入り口があるようで、真正面にある門には警備の者もいるのが見える。
エミーナは思案にくれた。このまま行ったとしても、面倒な状況が簡単に思い浮かぶ。
「アレックスが見られなければいいのか」
頷いたエミーナは荷袋から野宿の時に使っている布を取り出した。それを筒状にして、頭からすっぽりと被った。首元でずり落ちないようにしっかりと結わえる。
「マントに、見えなくもいないな……」
重ね合わせている布の両端が開かない様に、注意しなければならないがアレックスの入っている胸元の袋は表からは見えない。
「息苦しくはないか?」
不格好な即席マントを開き、中のアレックスを見る。
「んあう」
少々不安げではあるが、小さく声を返してきた。
「……まあ、確かにこんな出来だが、仕方あるまい。他に方法も思いつかん」
エミーナは最近、アレックスの気持ちや言いたい事が何となくではあるが、分かってきていた。
「アレックス、お前はとにかく、声を出してはならんぞ。静かにしてるのだ」
「んあっ」
「では、行くぞ」
一抹の不安を抱えつつも、エミーナは町の入り口へと向かった。
高い城壁の一部にくり貫かれた様にして、大きな門がある。門には閉じられればかなりの強固な守りとなるであろう鉄製の扉が付いいた。
門には三名の門番が気怠そうに立っている。
エミーナはゆっくりと門へと近づいていく。
「旅の者か?」
門の側まで来たエミーナに門番の一人が声を掛けてきた。
「ああ、そうだ。ナレントに向かっている」
立ち止まり、エミーナは答えた。マントの中に隠れているアレックスは大人しくしている。
「どこから来た?」
門番は決められている事を決められた通りに聞いているだけの様で、緊張感は感じられない。
「ブロガードから来たのだが……」
ブロガードとはガルゼナの西にある国である。エミーナは嘘を付く。
どこまでガルゼナが救世主の情報を掴んでいるかは分からないが、エミーナは、自分の素性をぼかした方がいいと考えていた。
「ブロガードか。お前、一人だな。赤ん坊は連れていないな」
エミーナを一瞥して、門番は確認する様に尋ねてた。
「ああ、私一人だ」
やはりここにも、赤子連れの旅の者を捕らえる指示が出ている事を知るエミーナは頷いた。
「じゃあ、構わんか。通っていいぞ」
意外な程、あっさりと通される。
門を通り抜け、ほっと一息つく、エミーナ。
まだ、自分が警邏隊を振り切って逃走した事が伝わっていないのだろう、とあまりの緩い警備に拍子抜けもしていた。
とにかく、必要な物を買い揃えようと、商店の集まる場所へと向かう。
他の町では簡単なテントで商売をする者も多いが、この町では、しっかりと店を構えている方が多い。店の数も多く、品揃えも豊富である。
充実している商店街に安堵し、エミーナは粉ミルクや日持ちのしそうな食料、念のために薬草も多めに買い込んでいく。
何とかエミーナが持ちきれるまでの物資を買い揃え、一刻も早く町を出ようと、足を速めて、商店街を抜けていく。たまに、マントの中の様子を伺うが、アレックスは大人しくしている。
急ぎ足で進むエミーナの前方に警邏隊の姿が見えた。特に変わった様子も見せず定期的な巡回の様である。ガルゼナでは魔帝との戦争後、治安の維持には力を入れているようで他の町でもよく見る光景である。この町でも、すでに何度かすれ違っていた。
「ちょっと、待て」
今回も何事もなくすれ違おうとしたエミーナに警邏隊の一人が声を掛けてきた。
「何か?」
エミーナは平静を保ちつつ、足を止めた。
「俺はこの商店街をさっきから巡回している警邏隊の班長だ」
声を掛けてきたのは、中年の警邏隊の男である。じっくりと観察する様にエミーナを鋭い目で射貫く。
「お前、旅の者だな」
「ああ。ブロガードから来た」
エミーナは門で答えた事を繰り返した。
「そうか。いやな、お前を見かけて気になったのだが、何故、赤子用の粉ミルクを買っていたのだ?」
言外に赤ん坊連れではないはずなのに、という意味が込められている。
残りの三人の警邏隊がゆっくりと、エミーナの周囲を固めるように動いた。
「姉の所に子供が生まれてな。その土産だ」
確かに考えてみれば、おかしな買い物だと今更ながら気づくエミーナ。咄嗟に言い訳を口にした。
「なるほど。姉への土産か」
警邏隊班長の顔から若干険しさが減った。それに合わせるように、部下の警邏隊も気のい緩みが感じられてくる。
その時である。ぷすうという音と共にエミーナから何とも言えない臭いが漂い始めた。
「ん?」
目の前の班長が不思議そうに辺りを見渡す。
エミーナにはもちろん、音と臭いの出所と正体は分かっている。胸に抱いているアレックスである。わざわざこんな時に漏らすなと、言いたいのを、ぐっと堪えて彼女は班長の様子を伺う。
「何か臭うが……」
明らかに臭いの出所がエミーナであると確信した班長はエミーナに再び疑いの眼差しを向け始める。
「す、すまん。その、あ、朝から腹の調子が悪くてな。で、つい……」
エミーナは耳まで真っ赤にして、苦しい言い訳をする。いくら、男勝りに騎士をしてきたエミーナといえども、かなり羞恥心極まりない言い訳である。
タイミングが悪い時は続く様である。エミーナの言葉が終わると同時に次は先程より大きく、排泄音が響いた。音に比例して臭いも酷い。
「いや、その、だな……」
なおも言い繕おうとするエミーナは言葉が続かない。その音は明らかにエミーナの胸元からしているのは明白であった。
「女性に対して失礼かもしれんが、そのマントを外してもらおうか」
班長は一歩エミーナの方へと近づく。
「……分かった」
エミーナはマント代わりにしていた布の首元の結び目に手を掛けた。ゆっくりと結びを解いたエミーナは布を一気に引っ張り、そのまま目の前にいる警邏隊の班長へと投げつけた。
「すまんが行かせてもらうっ!」
傍にいた若い警邏隊を蹴飛ばし、エミーナは駆けだす。
「逃がすなっ! 追えっ!」
後ろから班長の怒鳴り声が聞こえてくる。
商店街にはそこそこに人がいるが、その人並みを掻き分ける様にして、エミーナは走っていく。後ろからは、大きな声を上げながら警邏隊が追いかけていた。
商店街を抜け、先ほど町へと入ってきた門へと辿りついた。
門番は相変わらず、のんびりとした雰囲気で立っている。
「その女を止めろっ!」
すぐ後ろから追いかけている警邏隊の一人が門番に向かって叫んだ。
突然の出来事に戸惑いながらも、門番はエミーナを止めるべく、彼女の進路に立ち塞がろうとした。持っている身長程の棒を持ち、構えている。
「すまんが、押し通るっ!」
エミーナは勢いのままに、門番へと向かっていく。抜刀し、門番が向けてきている棒を両断する。そのまま、剣の腹で門番をなぎ倒した。
勢いを弱める事なく、もう一人の門番も剣の腹で吹っ飛ばすと、そのまま門を駆け抜けていった。
エミーナは町を出ても止まる事なく走り続け、少し離れた森まで来て、ようやく立ち止まった。
「逃げ切ったか」
肩で大きく息をしながら後ろを確認するも、追いかけている者がいる気配は無い。
「しかし……」
胸元の袋の中にいるアレックスを見る。出す物を出してか、どこかすっきりとした顔であった。
「あれほどの恥を晒したのは初めてだぞ」
アレックスのうんちを自分のものだと言い張った事をエミーナは思い出して、顔を顰めた。
「うんあっ」
気にする様子もなく、アレックスは元気に声を出している。そして、体をもぞもぞと動かす。
「ああ、分かっている。おしめを替えて欲しいのだろう。今準備するから待っててくれ」
出た量が多く気持ち悪いのか、はたまた、町の中でじっと動かず我慢していたからなのか、アレックスは袋の中で大きく手足をばたつかせた。
「こら、アレックス。暴れるな」
「へー。その子、アレックスって名前だったんだぁ」
アレックスを宥めようとしたエミーナの背後からの声である。
「!」
エミーナは慌てて振り返り、声のした方を見る。彼女にしたら、周囲に人がいない事を確認していたはずなので、驚きが大きい。
「また、そんな怖い顔で睨まないでくれよ」
両手を前に出し、振りながら笑う男がいた。
「あれ? 俺の事忘れちゃった?」
「いや、覚えている……」
警戒しつつ、エミーナは答えた。
「いやあ、嬉しいね」
そう笑うのは、サーザードに入った直後に会ったカナックであった。