9
ガルゼナは国王を頂点とする王国である。そして、世界有数の軍事国家でもあった。魔帝との戦争でも積極的に交戦を繰り返してきた国の一つである。
その分、魔物を送り込まれるのではなく、魔帝の軍勢の侵攻を受けていた。精強を誇るガルゼナ軍といえども、魔帝の軍団には敵わず、じりじりと後退を続けた結果、王都まで喪失していた。
しかし、それで諦めるような国ではなく、都を移動させながらも抗戦を続け、魔帝の死を迎える。
軍事国家だけあり、その王都を含む都市は要塞とも言える程強固なものであった事もあったが、それでも魔帝の軍から直接攻撃を受けながらも、魔帝の死までぎりぎりとは言え、国家を保った事は軍事国家としての面目躍如であった。
そんなガルゼナが魔帝の死後積極的に魔帝の占領地や旧領に積極的に攻め入るのは当然であった。
魔帝の死後、彼が支配していた地は統治する者がいない空白地帯となっていた。そして、その統治を巡り生き残った各国で様々な駆け引きが繰り広げられていた。今は魔帝のせいで荒れ果ててはいても将来性のある地はどこの国にとっても魅力的なものである。
きな臭い噂もいくつか流れていて、ガルゼナはその噂に出てくる国の一つでもある。
ゆっくりする間もなく、国境の町から出たエミーナはそんなガルゼナという国を進でいった。
魔帝の侵攻を受けていたが、街道は比較的きれいな状態であった。魔帝の軍団は意思を持ち合わせていない魔物と違う。自分たちの行軍の為にも街道は大きく破壊される事がなかった。
その為、エミーナも順調に次の町へと歩いていく。街道は問題無く続いており、町も点在しているので野宿をする事態も無さそうである。
もちろん、いまだ廃墟と化したままの町もあったが、国全体としては順調な復興を遂げているようである。
「さすがは不屈のガルゼナ、と言ったところか」
物価はやや高いものの、エミーナも感心する程活気が溢れていた。もっとも、その活気の源は別の大陸などでの旧魔帝領を手に入れる為の活気でもあった。
街道を進み、エミーナは夜半過ぎには小さな町へと辿り着いた。夜遅かったが、運よく宿へと泊まる事も出来た。
久々に体を綺麗に流しさっぱりとしたエミーナとアレックスはこれまた久々に見たベットの上で一息つけていた。
特にアレックスはベットの上で随分はしゃいでいる。胸元の袋の中で窮屈な思いしていたからだろうか、ここぞとばかりに出来るようになったばかりのハイハイを楽しそうにしていた。
「あまり夢中になってベットから落ちるなよ」
エミーナも久しぶりにベットで眠れる事に安堵していた。旅に出る前までは考えられなかった事ではある。
アレックスはひとしきり騒いだ後、疲れてしまったのか小さな寝息を立てて眠ってしまった。
「よく眠っているな……」
眠るアレックスに毛布を掛けてやりながら、エミーナは静かにベットに腰を下した。よく眠っており、たまに口をもぞもぞと動かし、ちゅぱちゅぱと音が部屋に響いていた。
こんな小さな赤ん坊が本当に救世主か、と疑問が湧き出てくる程の穏やかな寝顔である。
実際、エミーナはアレックスから何か特別な力を感じたり、奇跡めいた事象を起こした事はない。もちろん、エミーナは彼が、救世主かを疑っているわけではない。
「こうやって見ていると、何ら他の赤子と変わらんな」
しかし、そう呟いてしまう程、何の変哲も感じられなかった。
ふと、エミーナは無性にアレックスに触れたくなった。理由など無い。ただ、触れたいという思いが突然沸き上がったのだ。
そんな感覚にエミーナは戸惑った。しかし、その戸惑い以上にその思いは強く、半ば無意識のうちに、恐る恐るといった手つきで彼女の手がアレックスの頬に近づいていく。
手がアレックスの頬に触れると、ゆっくりとその頬を撫でてやる。
エミーナの口元が緩む。不思議な感情が出てくる。エミーナが今まで感じた事の無い感情であった。とても優しい思いが胸の奥底から沸き上がってくるような感覚だった。それを何と呼んでいいのかエミーナには分からなかった。
だが、悪くない気分だ、と思う彼女であった。
久々のベットでの睡眠が余程気持ち良かったのか、エミーナが目を覚ましてからもアレックスはなかなか起きなかった。また、調子が悪いのかとエミーナが心配するくらいなかなか目を覚まさなかった。もっとも、起きてからは普段と変わらず、元気一杯であったので、その心配も杞憂となっていた。
朝食を済ませ、宿を出ると必要な物資を購入する為に商店を回る。ついでにこの国の様子を情報収集する事も兼ねての買い物である。
昨日買ってやった熊のぬいぐるみをいたく気に入った様子のアレックスは袋の中でそのぬいぐるみとじゃれあっていた。たまにちらりとその様子を覗き見るエミーナも楽しい気分になってくる。
必要な物を買い揃え終わる頃には、このアルゼナの状況もだいたい掴めた。
街道はほとんど無事であるようだが、やはり多くの町は魔帝に徹底的に破壊され、いまだ手つかずの所もあるらしかった。破壊と殺戮を免れた町も戦争の傷跡が色濃く残っている所が多いという。実際、エミーナが今いる町も城壁の一部は崩れ、町の外れには焼け落ちた建物が散見された。
しかし、サーザードに比べるとはるかにマシな状況であるようだった。
「さあ、アレックス。行くとするか」
「んあっ」
この国では野宿をしなくて済みそうだな、とエミーナは少し安心しながら町を出て南へと向かって歩き始めた。
アルゴンを出発して、二か月近く経つ。道程も半ばを少し過ぎたあたりである。随分と苦労もしたが、楽しい事もあったと感じるエミーナである。そして、たくさんの事を学んだ気もしていた。この任務を任された事に感謝する。
「任務……か」
エミーナは胸元の袋の中で揺られているアレックスの顔を見た。
「あう、あう」
何やら上機嫌のアレックスである。ぬいぐるみの耳を齧っている。そのせいでぬいぐるみは唾液でべたべたである。
「ふふ。そのクマも災難だな」
熊のぬいぐるみの状況にエミーナは小さく笑った。そして、こんな些細な事に笑う自分に驚く。旅に出るまでは表情を見せず、鉄仮面のような自分が、今はこんな些細な事で笑っているのだ。
エミーナはふいに立ち止まった。そして袋の上からアレックスをぎゅうっと抱きしめた。
不思議そうにエミーナを袋の中から見上げるアレックス。
「す、すまん」
アレックスの視線に気づいたエミーナは慌てて両手を戻した。
何故、急に抱きしめたのか。彼女には何となく理由が分かっていた。抱きしめる直前に彼女が考えていた事――それは、いずれ、アレックスは女神の元で彼が元いた世界へと返さなければならないという事を考えたのだ。だが、そんな事を考えて、アレックスを思わず抱きしめたてしまった理由をそれ以上考えるのは止めた。考えてはいけないような気もしていた。
「ああう」
袋の中からアレックスの腕が伸びてきた。その伸ばした手でエミーナに触れた。
エミーナは笑みを返した。
「ああ、行こう」
この子を本来の両親の元へ届けなければならない――心の中でエミーナは改めて自分にそう言い聞かせる。
エミーナは前を見据えると、再び歩き始めた。
サーザードでの苦労が嘘だったような順調な旅が続いていた。
ガルゼナに入り八日が経つ。後、十日もかからないうちにガルゼナの南にある大陸最南端の国、ナレントに入る事が出来る。
少し気持ちに余裕も生まれたエミーナは街道沿いに森を抜けて進んでいた。
地図によると、この先に街がある。だが、彼女が集めた情報では、魔帝軍の激しい攻撃とそれに続く破壊によって、今は廃墟と化しているらしかった。復旧もまだ手付かずで人もいないとの事である。
時間は昼過ぎであり、そこで昼食としばしの休息を取ろうとエミーナは考えていた。少し休んでも、次の町が夜までには十分着く所にあったからである。
かつては多くの人が行き交ったであろう町の門を通る。今ではかろうじて残っている柱がかつてここに門があった事を示すのみであった。
先へと進んでいき、井戸を見つけたエミーナは中を覗き込んだ。
かなり深い井戸のようであるが、水がある様子は無い。
「枯れているな」
これでは水の補給が出来ないな、と肩を落とす。
エミーナは井戸の側にある家に入った。もちろん無人である。屋根は落ちていて、壁のみが残っていた。休むだけなら問題は無さそうである。
「ここで、少し休もう」
布を引き、その上にそっと胸元の袋からアレックスを取り出し置いた。やっと、自由に動けるとばかりにアレックスは引かれた布の上で動き回る。
これは最近始めた事である。アレックスは日に日に活動量が増えてきているのかやたらと自由に動きたがるようになった。その為に、エミーナは休憩の度に布を引いてアレックスを自由に遊ばせるのが恒例となっていた。
「布を引いてある場所からは出ないようにな」
その場で火をおこし、アレックスのミルクを準備しながらエミーナは注意した。
「んきゃあ」
エミーナの声が届いているのか疑問なくらいアレックスは元気一杯で、動いていた。
そんなアレックスに苦笑しながらミルクの準備をする。たき火が勢い良く燃え出したのを確認しながら、ミルクの元となる粉を取り出した。ミルクの準備もエミーナは随分手慣れたものになっていた。おむつ替えも素早く出来るようになっていた。
すっかり、世話が板についたな、とエミーナは世話の特訓の事を懐かしく感じていた。
「あっ、あっ、あっ」
突然、アレックスの叫ぶような声が聞こえた。
「どうした!?」
普段と違う様子にエミーナは慌ててアレックスに駆け寄った。
「ばううぅぅ」
「アレックス、一体どう……」
エミーナの言葉が途中で止まった。
気配を感じたのだ。しかも、とてつもなく敵意が籠り、悪意に満ちた気配がである。エミーナはその気配を感じた方角を横目で見る。
「!」
エミーナはアレックスを抱えると、そのまま一回転してその場から離れる。彼女の耳が矢が飛んでくる微かな音が入ったのだ。
エミーナの耳と判断は正しく、彼女が先ほどまでいた場所に矢が突き刺さっていた。
矢を確認したエミーナは飛んできた方向から死角になると思われる崩れた壁の裏へと身を潜めた。その方向は嫌な気配を感じた場所と同じだった。アレックスを胸元の袋に入れると、剣を抜き、神経を研ぎ澄まして次に備える。
「今のを避けるとはなかなかですねぇ」
矢の変わりに声が聞こえてきた。妙に甲高い声である。そして、その声からも邪悪な気配が伝わってくる。人に不快感を与える声であった。
「何故、私を狙った?」
身を隠したまま、エミーナは尋ねる。もっとも、相手はエミーナの位置は確実に分かっている事を確信してもいた。
「褒めてるのですよ。まずは感謝して欲しいですねぇ」
エミーナは壁の隙間から顔だけを出す。声の主が見える。全身黒ずくめで、頭からフードを被っている。両隣にも同じ様な姿をした黒ずくめがいる。片方の手には弓があった。
「何の用だ? 私はただ旅をしている者だぞ」
相手が発する気配はエミーナが今まで感じた事のないものであった。出来る事なら戦わずにやり過ごすのが最善の策だと、エミーナの本能が告げている。
「いえ、あなたに用はありません」
フードの間から除く顔は知的な男性の顔である。しかし、冷酷な印象を受けるものだった。
「用があるのは、その赤ん坊です」
やはり、目的はアレックスか――エミーナは唇を噛みしめる。
相手の力量はかなりあるとエミーナは見ていた。しかもそれが三人である。厳しい戦いになる事は明らかであった。
「ガルゼナの手の者か?」
覚悟を決めながら、剣を強く握り直す。
「ガルゼナ? 私をあんな愚かな人間と一緒にして欲しくないものですねぇ。もしかして、あの下等な者たちも、その子を狙っているのでしょうか」
真ん中の男は醜い笑みを浮かべた。
「私は魔帝軍第二軍団の参謀、シャズナックと申します」
エミーナは目を見開く。目の前にいるのは魔帝軍の残党であったのだ。しかも上位の幹部クラスのようだ。
「あんな連中と同等に見られるのは傷つきます。それに、せっかく名乗ったのにあなたは黙ったままですか。まあ、いいでしょう。どうせ、あなたはここで死ぬのですからね」
シャズナックから笑みが消え、変わりに凍てつく様な視線をエミーナに向けた。