魔王ヌイ
「! 魔王ヌイ……」
オレは通路で、小さな後姿を見かけた。
空っぽの鍋と皿を、厨房に引き上げた帰り道だ。
とっさに物陰に隠れる。
魔王はまだ、オレに気がついていないようだ。
「どこに行く……。いや、いい機会だ。上手くすれば、奇襲で倒せる可能性も」
長い杖を携えて、魔王は通路を進んでいく。
黒い髪はゆるやかに波を打ち、黒衣が一歩ごとに小さく揺れる。
後ろから見ると、まるで影法師のようだ。
「あっちは裏庭方面だな……」
オレは足音を忍ばせて後をつける。
緊張のため、知らず手のひらが汗ばんでいく。
案の定、魔王は木扉から裏庭に出た。
オレは慌てて駆け寄ると、扉が閉じる前に手で押さえて、隙間を確保した。
「さて……。むっ、コカトリスの群れに近づいていくぞ」
魔王はしゃがみ込んで、黒衣の内から何かを取り出した。
扉の隙間からだとよく見えないが、あれは野菜の葉か何かか……?
「コケー」
コカトリスがのん気な声を上げながら、魔王に群がる。
魔王は手を差し出し、野菜の葉を分け与えている。
「……な、何か、平和な光景だな。あれは本当に魔王なのか?」
不意に魔王が、横目でオレを一瞥した。
オレの心臓が大きく跳ね上がった。
唐突すぎて、頭が真っ白になった。
バレた。
どうする?
逃げる?
殺される?
「一緒にやる?」
「……は?」
オレはさぞや間抜け面だったに違いない。
魔王は無表情のまま、言葉を続ける。
「こっち」
「あ、ああ……」
誘われるままふらふらと、オレは魔王の隣に並んだ。
「はい」
「お、おお……」
野菜の葉を受け取ろうとして、はたと気づく。
「待て、手渡しで餌をやろうものなら、オレが石にされる!」
「あ」
魔王は「そうだった」と手を引っ込め、野菜の葉をそのまま、手近なコカトリスに食べさせる。
コカトリスはどれも、魔王に懐いている様子だ。
「……」
「……」
この状況は何だろう。
こいつは大陸の支配者たるアマニール王国を脅かす、諸悪の根源だ。
魔物の王たる魔王だ。
それが庭先にちょこんと座り込んでいる。
あまつさえ、ニワトリもどきに餌をやっている。
その傍らにいるのは、オレ――勇者の仲間だった人間だ。
「……あー。くちばしで突っつかれてるのに、石にならないのか?」
「うん」
「何でだ?」
「魔王だから」
……。
ずるいぞ。
しかし反応が薄い。
表情がない。
感情が読めない。
ただ、予想外というか……会話は、成立するんじゃないか?
見た目は人間の女の子だし。
「えーと、魔王?」
「ヌイ」
「……じゃあ、ヌイ。どうしてオレを殺さなかった?」
「ミッケが、下働きをほしがってた。ゴブリンは頭が悪くてダメみたい」
「本当にそれだけなのか?」
「あと、勇者に裏切られた人間、初めて見た」
「……」
口の中が苦くなる。
なるほど、興味本位ってところか。
まあ悪くない。
このぶんなら、露骨に敵対しない限り、殺されることはないだろう。
「いいのか? オレは、仮にも勇者の仲間だった。身の危険を感じないのか?」
「この城にいれば無敵だから、だいじょうぶ」
「何……」
絶対の力から来る自負かと思ったが、オレはすぐにその考えを打ち消した。
ユウやセン、オレの攻撃が、ヌイに一切届かなかったことを思い出す。
恐らく明確な根拠があって、ヌイはこの城で無敵なのだ。
「もしかすると、何か仕掛けがあって、あーつまり、ヌイを攻撃すると、自動的に守りの魔法が発動するのか? 魔王城にいる限り?」
「うん」
「……」
あくまでさり気なく探りを入れたが、あっさりと頷かれた。
オレは呆気に取られる。
「なあ、ヌイ……。オレが言うのも何だが、そんなことを簡単にバラしていいのか?」
「あ。ダメかも」
「おい」
「ミッケに怒られる。黙ってて」
ヌイはしゃがみ込んだまま、オレをじっと見上げてきた。
困ったように、眉根を少し寄せている。
客観的に見ても、愛らしい顔立ちだ。
幼さを残してはいるものの、黒い瞳は大粒の宝石のように、白い肌は滑らかな陶器のように、それぞれヌイを印象付けている。
「……まあ、黙っててもいいが。代わりに、ときどき教えてくれ」
「何を?」
「魔王のこととか、魔物のこととか」
敵を知れば強みになるし、知的好奇心もある。
知らないことを学ぶという行為は、いつなんどきでも尊重されるべきというのが、オレの持論だ。
「どうだ?」
「いいけど、ジロー・アルマも教えてほしい。人間のこと」
「ジローでいい。差しさわりのない範囲で、気が向いたらな」
「うん」
相変わらず抑揚のない声。
ただ、感情らしきものはあるし、話も充分通じる。
前評判と異なり、とりたてて好戦的でもないようだ。
それがわかっただけでも収穫だった。
「まあ、ミッケにどやされる前に、オレはもう行く」
「ん」
ヌイはそれきり興味を失ったように、コカトリスへの餌やりを再開した。
その光景に背を向け、オレも城内に戻る。
奇襲をする気はすっかり削がれていた。