ニワトリとブラウニーとパン
裏庭は予想以上に広かった。
まだ花の季節ではないが、それでもそよ風が、ごく微かな草木の匂いを運んできた。
冷たい早朝の空気も心地良く、オレは目を細めた。
「王都と違って、空が広いな……。一面曇ってるのが、少し残念だ」
「魔物は太陽があんまり好きじゃないから、ちょうどいいのよ。あの隅っこが水場」
「ああ……って、ニワトリまで飼ってるのか。放し飼いとは自由だな」
ちょうど十数羽の群れが、小刻みに鳴きながら歩き回っていた。
白い羽が鳴き声に合わせて揺れている。
真っ赤なトサカは、見たことがないほど大きく立派だ。
興味を引かれて、オレは群れに近づく。
「逞しいトサカだな。初めて見る種類だ。卵用か?」
「ええ。でもそれコカトリスよ」
「コカーーっ!?」
オレは奇声を上げて飛び上がった。
「早く言えよ!? 突っつかれたら石になるだろ!?」
「今言ったじゃない。ていうかコカトリス、見たことないの?」
「あるわけがない。存在自体が珍しい魔物だから、知っているヤツのほうが少ないぞ」
「ちなみに毎朝の餌やりは、明日からあんたの仕事だけど」
「……そ、その程度、朝飯前だ」
オレは強がったが、ただの餌やりが命がけとは……。
人間の世界とは一線を画している。
「で、こっちが井戸。飲み水から調理水、洗濯水まで、全部ここでまかなってるわ。はい、これ」
ミッケは小さな麻袋を、オレに手渡した。
「これは?」
「さっき倉庫から持ってきた、新しい包帯と傷薬よ。身支度が終わったら、厨房に来て。手伝ってもらうことがあるから」
そう言い残すと、ミッケはさっさと城内に戻っていった。
オレは1人取り残されたが、これは好都合だ。
目の前に石造りの井戸がある。
そのふちに腰を下ろすと、オレは腰紐から愛用のナイフを引き抜いた。
どんなときでもナイフを1本持っていれば便利というのが、オレの持論だ。
「さて、この首輪だ」
撫で付ける。
自分の首だから視認はできないが、そこまできつく締まっているわけではなさそうだ。
オレはナイフの切っ先を、肌と首輪の間に押し込んだ。
鋼の冷たい感触が、首筋に食い込む。
「……くそ、痛い」
刃先で捻ったり、擦ったりするが、首輪が切れる様子はない。
革のくせに頑丈だ。
「いかんともしがたいな……。魔法の首輪らしいから、下手にオレが魔法をかけても怖いしな」
自分の命を実験台に乗せる気はない。
オレは当面、首輪を諦めることにした。
「とはいえ、このままでいる気はない。機を窺って魔王を殺し、この魔王城を脱出しないと」
オレを裏切ったユウとセンを、1発殴ってやらないと気が済まない。
そうでなくても、魔物だらけの城に人間が1人など、精神衛生上よろしくない。
「……使用人のミッケも、魔物なのか? どう見ても人間だったが」
ふとした疑問に首を捻りつつ、オレは服を脱いで包帯を取り替え始めた。
「ブラウニーよ」
「ブラウニー?」
「トロー」
ミッケの言葉に、オレはおうむ返しに尋ねた。
横で相槌を打っているトロルが鬱陶しい。
巨体に威圧感がありすぎる。
オレは厨房で、魚を捌いていた。
調理用の刃物で腹を切り、内臓を取り出し、身を切り分ける。
「あ、魚のアラは骨を残して、隅っこの大鍋にね。コカトリスの餌にするから。身は塩漬けと燻製だけど、トロルがやるからいいわ」
「ああ。それで、ミッケの種族が?」
「そ、ブラウニー。お掃除妖精って聞いたことない?」
「人間の屋敷とかに住み着く?」
「正確には、屋敷から生まれる、だけど。そんな感じ。だからこの城の掃除と洗濯は、あたしの仕事」
「トロー」
ミッケは大鍋で、麦とイモとニンジンのスープを煮込んでいる。
さっきから水差しで鍋に継ぎ足しているのは、羊のミルクだろう。
トロルは焼き釜で黒パンを焼いている。
釜の上から天井の煙突へ、黒煙が吸い込まれていく。
「つまりは妖精か……。見た目は人間そっくりだな」
「生まれたときからずっと、姿は変わらないけどね。こう見えて、何十年もこの城にいるのよ」
「む? 今の魔王が現れてから、まだせいぜい10年ほどだぞ?」
「そうね」
「ということは……。魔王がこの城に現れる前から、延々とここに1人で?」
「ええ」
表情を変えることなくミッケは答える。
ついでに小皿にスープを取り分け、口に運んでいる。
何十年も1人とはぞっとしないが、こいつは魔物だし、寂しいという感情とは、恐らく無縁なのだろう。
「魚が終わったら、次はそっちの貝殻ね。木槌で粉々に砕いて。細かくね」
「何に使うんだ?」
「それもコカトリスの餌よ。貝殻を食べさせないと、ちゃんとした卵を生んでくれないの。何でか知らないけど」
「そういうものか……。ふん!」
調理台に貝殻を並べて、力任せに木槌を振り下ろしていく。
いやこれ、重労働だぞ。
自慢じゃないがオレは非力だ。
「にしてもジロー。あんた、尊大っていうか図太いっていうか……とにかく、怯えないのね? こっちとしては助かるけども」
……。
内心はそんなこともないんだがな。
そう見えているなら、上手く振舞えているようだ。
「まあ、怯えたところで何も解決しないしな」
「人間は好きじゃないけど、そこは大したものだわ。ヌイ様も褒めてたし」
「ヌイ様?」
「魔王様の名前よ。名乗られなかったの?」
「いや、魔王としか」
「まあ……あんたたち、手も足も出なかったものね」
「く……」
痛いところを突いてくる。
「でもヌイ様が言ってたわ。手控えたとはいえ、2回も魔法を使って、死ななかった勇者一行は初めてだって」
「……そうかよ」
あれで手加減していただと?
本気を出したら、広間が崩れるからか?
あるいはこの城が丸ごと吹き飛ぶのか?
いかん、動揺を顔に出すな。
こいつに悟られるな。
「ぬぐう!」
木槌で自分の指を打った。
痛い。
ミッケが呆れた顔をしている。
考え事をしながら、作業するもんじゃないな……。
「トロー!」
「あ、黒パンができたって。あんたは台車で、大鍋とパン皿を持っていって」
「食堂で全員食べるのか?」
「ゴブリンとあんただけ。ていうかこの城の兵士、ほとんどゴブリンだから」
「それはもう知ってる」
トロルは焼き釜から、黒パンの山を大皿に移すと、今度は白いパン生地を釜に放り込んだ。
火を纏った真っ赤なトカゲが、釜の底をうろちょろしているのが垣間見えた。
「そっちの白パンは?」
「ヌイ様とあたし用」
……これが格差か。
いや、パンにありつけるだけよしとしよう。
麦の栽培が盛んな大陸とはいえ、作成に手間のかかるパンは、田舎の農家あたりではあまり作られない。
麦を野菜と一緒に煮込んで、スープにするのがせいぜいだ。
ミルクの香りが漂うスープ鍋と、パンが積みあがった皿を台車に乗せて、オレは食堂に向かった。
ミッケがなぜか応援してきた。
「がんばって」
「ゴブーゴブー!」
「ゴブブー!」
「くそおおお退けえええ!」
ふざけるな。
何だこの修羅場は!
ゴブリンたちと長テーブルを囲む。
ゴブリンたちは食欲旺盛だった。
パンは取り合いになった。
スープに至っては、レードルの数が全然足りない。
つまりは、すくい取るものがないわけで、皿を直接、大鍋に突っ込んでいるゴブリンが大半だ。
「おいそこの鼻ゴブリン! パンを3つも確保するんじゃない。そっちの耳ゴブリン、頭を鍋に突っ込むんじゃねえ!」
硬い黒パンを噛み切りながら、オレは声を荒げる。
遠慮していたら負ける。
空腹で夕方まで過ごすことになる。
しかし、それにしても……。
「た、耐えられん……。魔物は品がなさすぎる。人間はもっと繊細なんだ」
どうにか木皿に半分ほど確保したスープを、木製のスプーンで口に運ぶ。
「……む。これは本当に、あのミッケとトロルが作ったのか?」
美味い。
麦とイモはほどよく煮えているし、ニンジンも柔らかい。
ミルクも適量で、野菜の味を損っていない。
行儀よく腰掛けているのは、もはやオレ1人だ。
長テーブルの上でゴブリンがひしめき合っているのを見ると、王都にある場末の酒場を思い出す。
木杯に酒を酌み交わし、チーズと野良豆を奪い合いながら、愚痴や口論をぶつけ合う。
吟遊詩人が歌う英雄物語など、そよ風のように右から左だ。
存外、人間も魔物も、部分的には大差ないのかもしれない。
妙な感慨を抱きながら、オレは温かいスープで胃袋を満たしていった。