08
そう言えば、皆さんはご存知ですか?
この公開日(更新そのものは7/9に行っております)って。
7月最終日なんですよ。
8
出雲佳苗の脳裏には、咄嗟に浮かんだものがある。
出来れば、そうそうに浮かんで欲しくないものではあったが。脳みそが勝手に呼ぶのだから困る。
「ふわっ……!」
荷物を「軽く」して置いて良かったと言う気持ちと、「肩掛け」にしたのは失敗だったかなと言う気持ちと。
叫んではいけないと言う気持ちが。
同時に精神を支配した。
あと、石段は幾つも残っていなかった。
現実を逃避する事は、果たして罪悪なのだろうか?
それはイエスでありノーだろう、けれど少なくとも受けるべき罰とやらがあるとしても。
自分自身に確信を持って、思う。
自分自身に自信を持って、告げる。
「いやだ!」
衝撃があった。
それは、目の前の視界を全て遮った。
伸ばした手は、果たして条件反射だと認識した。
意識があったかと聞かれれば、そんなのは判らないと答えただろう。
自分自身の言動が、全て思考制御出来ている範囲だったとしたら
だとすれば、佳苗は……。
「……んな馬鹿な!」
どさり、と言う音と共に立ち上がった佳苗は。
何故か、座り込んでいたらしかった。
ふと首を上に向けてみれば、つい先程までそこに居た筈の石段が「まるで何も無かったかの様に」佇んでいる。
最初に浮かんだのが「あれ? 今まであそこにいたよね? 石段昇ったの無駄? て言うか夢でも見た?」と言う感覚だったのは無理もない。
少なくとも、途中の踊り場までは踏みしめて上がり。横から入れる場所を「帰りに寄ろうかなあ」と思いつつ、再度決意をして踏みしめて上がったのだ。
あの景色はインターネットを使っても見られたかどうか不明だし、そもそも斜陽なのにだらだらと汗が流れおちて雨でも降ってくれと叫びたくなったくらいなのだ。だと言うのに、今では汗でじっとりと湿った服が肌に張り付く……コットン素材だと言うのが数少ない利点ではあるが、それは単に洗濯機へ無造作に入れても罪悪感が少ないと言うだけである。
「……ええと? って、あれ? 大丈夫ですか?」
混乱したのは確かだが、佳苗は視界の端に動く物を見て一瞬戸惑った……が、夜中の二時と言う丑三つ時真っ只中に思わず発見してしまった佳苗最大の一方的な天敵、台所の黒い悪魔、タイプGに比べればどうと言う言もあるが何とかなる。かも知れない。
己を奮い立たせてみたものの、要するに混乱してしまって叫びたくなった極地の佳苗の精神は現実逃避先に選んだのが「どうにも目の前に緊急事態がある様な気がする」だったりするのだから、都合の良い事この上ない。
佳苗の足元……正確には、佳苗が最初に立っていた場所の足元に人がいたのだ。
更に正確に言えば、そこには膝小僧とおでこを地面に着けてうずくまっていると言うか、倒れる寸前と言うか……そんな感じになっている人が居た。
「聞こえますか? 救急車呼びますか?」
人と言うのはおかしなもので、混乱して極度の緊張状態に陥った場合に二極化する事がある。
一つは、混乱が天元突破してしまって奇声を上げて逃げるか腰を抜かすか。
もう一つは、逆に冷静になるか。
前者のバリエーション的には放心状態になると言うパターンもあるので、細かく分類すると四極化と言っても良いのかも知れない……それはどうでも良い。
佳苗の人生で、混乱が極地になる事も天元突破する事も人生であったか無かったかと問われると、恐らく記憶にある限りでは無かった気がする。泣いている間に何が原因で泣く羽目になったか忘れてしまって、泣いている自分自身に泣き続けると言う意味不明な繰り返しに陥ったと言う幼少の記憶ならば恥ずかしながら一つ二つ身に覚えがあったりするが。
今回の場合は、後者だった。
思わず、冷静になってしまったのだ。荷物の中に温くなってしまったがペットボトルで未開封の水と、手に溶けない系統のチョコレートと、ミント系のど飴があった事が理由だろう。
佳苗は無意識だが、母親が低血糖持ちなので選択肢に甘味を選ぶ様になったのとのど飴を選ぶようになったのは過去の己が低血圧だったからと言うのもある。
「い……つう……」
「倒れそうなら横になった方が良いですよ?」
中身に硬い物や精密機械が多いので、枕には向かないから倒れるにしても己のカバンを提供するべきかどうか佳苗が悩んでいた所。
力尽きたのか、その人物は佳苗とは反対側に倒れてくれて助かった。良かったと思った。
こちら側に倒れかけてきたら、そのまま問答無用で押しつぶされるのを避ける為に逃げなければならない……どこで誰が見ているのか判らないのに、倒れる人を我が身可愛さで逃げたとか周囲に思われると流石に困る。
いや、自衛は大事だと言いきろう。その時は。
「未開封のペットボトルと飴とチョコと救急車、どれが良いですか?」
佳苗は……真剣だった。
そこだけ聞くと「おいおい」と言いたくならないでもないが、とりあえず真剣だった。
少なくとも、脳内で近隣にある大病院を二つ三つリストアップして、救急車とパトカーとどっちを呼ぶべきか悩む程度には真剣だった。
いかに、この近辺に警察官が多く巡回しているとは言っても、流石に巡回ルートと時間まで佳苗は把握していないから地理として役に立つ情報があるとは自分でも思わなかったけれど。
「何それ……」
しかし、返って来た反応はどれでも無かった。
一瞬遅れて、佳苗は汗まみれの背筋が急激に温度を下げたかの様にゾッとした。
何となくだが「触れるとろくな目に合わない」何かに、自分から突撃をかましてしまったのではないかと言う気がしてならなかった……実際には、突撃された方なんじゃないかと言う気がしたのだが。
そう、佳苗は先ほどの事を忘れた訳ではなかった。頭の中では同時進行で目の前の人物の安否を気にし、危険人物であるかないかを気にし、出来れば巡回のお巡りさんに引き渡したいと思いながらも「石段を登り終えようとしていた筈の自分自身が、石段を昇る前の場所に居た」と言う事実に疑問を持つ思考回路を同時進行していた……何となく、空回りしているんだろうなあと自分自身で思ったが。
人生で「始点と終点の間の行動記憶」が無かった事が、過去に何度かある。
自分でも「ありすぎだから、それ」と自分自身の記憶の無さにツッコミを入れたくらい、行動に記憶が伴わないと言う事があった。何度か。
最近では無かった筈なのだが、よりにもよって石段を登っている最中に記憶が無くなると言うのは危険極まりない。それ以前だと会社から出る自動ドアを出た所から実家の門扉を開ける所の記憶が無かった。更に以前だと、知り合い達と出掛けた時に30分ほど記憶が無かったが信じて貰えなかった……信じられないのは別に良い、自分が「信じて貰えるだけの価値がない」と言う風にレッテルを貼りつければ問題はない。
問題があるとすれば、「もしかしたら目の前の人物は自分とぶつかって落ちたのかも知れない」と言う事だ。
治療費など請求された所で、無職の佳苗に出来る支払いなど「無い袖は振れない」程度にないのだから確かめなければならない優先順位は決まっている。
「警察と救急車、どっちが良いですか?」
「いらねえ……てか、なんで魔女がこんな所にいんの?」
「……はぁ?」
どうしよう。
佳苗は心底困った、これ以上困る事はなかなかないだろうと思う程度に困った。
心情的には「相手が何を言っているのか判らない」が一番近いだろう、ついでに言えば「今の言語って日本語に極端に近くて違う言語って事あるかな?」だった。
電波だったのだろうか、それなら特別地区に行ってくれ。少なくとも、この近隣は政府が電波障害かけている筈だと昔聞いた事があるから電波塔の電波が替わる際に、政府がご近所のテレビ環境におけるケーブルを敷いたと聞いた事がある気がするんだが!
とか、佳苗は思った。
この時間、およそ0.2秒である。
「ええと……生きてます?」
「死んだ覚えはねえなあ?」
ざっと前髪をかき上げた人物を見て、佳苗は思った。
体、起こしてからやれば?
とりあえず、そんな空気を読まない言葉は社会を知っている日本人としては止めておこうと思った。
無職だけど。
否、無職だからこそ言動には気を付け……た所で、どこで誰が見ると言うわけでもないし。自暴自棄になっても良いとは思うのだが。
いやいや、先日うっかりテレビ関連で思わず調べてしまったジェームズ君事件を思い出すのだ。
人とは信じられない程度に残酷な生き物だと学んだではないか、学んだついでに「あちら側」に堕ちれば10歳の子供ではないのだから確実に42歳の佳苗では社会生活に戻って来られなくなる。
ここまでの思考で、追加0.5秒。
佳苗は、一刻も早く逃げ出したい衝動に駆られていた。
「寝てると汚れますよ……とりあえず、どうぞ」
カバンから、佳苗はウェットティッシュを取り出した。
普段から、コーヒーショップなどに入る事があると一つ多く貰って帰ると言う小市民な事をする。ただし、紙ナプキンは貰わない様に心がけている。何の意味があるかと言えば、佳苗の気が済むか否かと言う点だ。
ついでに言えば、今の様に顔と手に汗と汚れがついてしまった人を水のない場所で清潔にして貰えると言う利点がある。お店には迷惑かも知れないが、この場合は気にしない。バレなければ良いと言うわけではなくて、基本的に店員の目の前でやっていて咎められないのならば問題はない筈だ。
と、更に思ったのが0.3秒。
「……何?」
「汚れてますよ、顔を手。
あと、ついでにこれもどうぞ」
「……なんで?」
バッグから取り出したウェットティッシュと、水のペットボトルと、数個の飴玉をぽいぽい渡すと言うより腹の上に落とした……流石にペットボトルは脇に置いたが。
「貧血か熱中症じゃないんですか? 倒れるのは危険だし、道路の真ん中だと通報されるから端に寄った方が良いと思いますけど……ひきずります?」
「……いや? て言うか、なんで?」
佳苗は、人から説明を求められる時に逡巡する事がある。
一から百まで説明をするのは全く苦ではないのだが、以前言われたのが「情報量が多くて口調が早いから処理しきれない」的な事を言われてすっかりやる気が失せた事がある。可能な限り、出来る限り、相手の立場に立って、どうせなら理解出来る程度に説明したいのは山々だが、佳苗はあくまでも出雲佳苗だ。
正直にはっきり言って、他の誰かではない。
だから、相手の処理能力など知らない。誰も教えてくれないからだ。
致し方が無いので、会社で業務などで求められる場合は三倍遅くを心掛けている。出来れば、その間に差し込める単語も相手が認識しやすいもの「例え」を利用すると言うのを覚えたのもその頃だ。相手が想像する事が出来れば、佳苗の語彙が少なくなっても相手が勝手に想像力で補ってくれるだろうと、そこまで考える様になったのは、割と後になって「どうしてだろう?」と疑問に思ってからだ。
「通報しても良いですけど……さあ、どうしてですかねえ?
ああ、多分アレですよ。
時の勢いモノのついでって奴、ですかね?
とりあえず、目の前で人がぶっ倒れて。明らかにそれがドラマや映画の撮影じゃなくて、ついでに側に誰も居なくて、しかもテレビのスタッフも出て来ないんじゃ……どっきりではないかなあ? とは、今。思いましたけど」
「……変わってるな、あんた?」
「はあ、年に一度くらいは言われます。
いきなり倒れる人も、朝の通勤ラッシュ時の電車の中とか以外では見た事ないですけどね」
座り込み、佳苗は「嫌がるかな?」とは思ったが気にしないでペットボトルの蓋を開ける。
「音で判ると思いますけど、未開封だったもので今開けましたから。
そんな顔してるのなら、頭からかけても良いかも知れませんけど」
流石に、それはまずいだろうと思いながらペットボトルを渡すと。意外な事に「くっくっく」と笑いながら、それで居て「うごぅ!」とか言いながら変な踊りを始められて……。
佳苗は内心で「この世界にMP無くて良かった、吸い取られるわ」と思っていたが……それは口にしなかった。
続きます