04
呑気であると言う事は、現実逃避である事と似ている。
厳密にはどうだかはさて置き、人生はそれくらい気楽であるべきだろう。
多分ね。
4
二日酔いでも、幻でも、見間違いでも無ければ思い違いでもないとすれば。
確かに、出雲佳苗の部屋は先ほど浮いていた。
正確に言うのならば、佳苗の部屋の荷物は浮いていた。ついでに言えば、佳苗の横になっていた寝具……床に直接ベッドから外したマットレスを敷いた上にお布団を敷いていると言う有様で、その上に横になっている佳苗も含めて浮いていた。
目が覚めた時、通常と視界が異なるので何とか気が付く事が出来たけれど。そうでも無かったら、うっかり落ちてしまって体を打ち付けていたかも知れない。そう思うと、寝起きの悪さも日頃はともかくとして悪い事ばかりとは言い切れないが、圧倒的に良い事が少なくて涙が出ない。
「ごち!」
ぽむと手を合わせて、佳苗はお皿を片付ける。ついでに、カップを流しに出しながら牛乳パックを冷蔵庫に片付けて、お皿に乳酸菌飲料の入れ物を載せてから台所に出向く。
文字として見れば佳苗は随分と有能そうに見えるかも知れないが、実際にやってみれば大した事ではないと佳苗は思うし何より……佳苗は面倒くさがり屋なのだ。面倒は一度で済ませたいので、たまに大失敗を起こす。
例えば、一度に運ぼうとして乗り切れない事なども割とある。
そう言う時、佳苗の脳裏には「急がば回れ」と言う言葉と「転ばぬ先の杖」と言う言葉が同時に脳裏に浮かぶが、時間差で手が触れてもいないのに物が落ちる時にはどうしたものかなあ? と思う事も珍しくはない。
つい先日も、それまで全く何事も無く置いてあった白磁のティーポットがいきなり落ちて、割れた。少し寂しかったが、面倒だと思う気持ちの方が強かった。安かった割には、もう入手不能な一品だったからだ。
また、別の日には台所に置いてあった顆粒出汁を入れるケースが突然落ちた事がある。別の日には、丸めて箱詰めにしておいたスーパーの袋が詰まった段ボール箱が落ちた事もあった。あれは元に戻すのが面倒だったと思いだすと微妙な気持ちになる。
「どうしたものかなあ?」
何をどうした所で、物事と言うものは起きるのだと思えば諦めも着く。
人生で初めて「諦めが良すぎるよ、もっと抗いなよ!」と叫ばれた事があるのは10年もたっていない昔の事だ。
佳苗は人と争うのを好まない……正確には、どれだけ頑張って相手を納得させてもまとわりつく不快感が「割に合わない」と思わせる。頑張った割に成果が得られていないのか、それとも頑張りすぎたのか、もしくは佳苗が贅沢物でその程度の成果では我慢できないと感じているのか……それについて考えるのは、もう若い頃に止めてしまっていた。
人は、己以外のナニモノをも理解するなんて烏滸がましいのだ。そう思えば、己が誰かから見ていかに都合よく使い捨てられる不遇の身の上であるかなど、気にしなくても済む。実際、聞かれて答えたら相手はものすごい顔で「なにそれ!」と一度は怒鳴って来るが、そもそも怒鳴る相手が違うし怒鳴っただけで何かしてくれるかと言えば何もしてはくれない。もし、そこで本当に憤ると言うのならば何かの動きをすれば佳苗とて考えをずらす事はあっただろう……もしかしたら、相手は佳苗が何もしない事を望んでいるとでも「勝手に」思ったのかも知れないと言うのは善意的な見方だろうか?
「でも……あれは夢じゃなかった……」
佳苗の向けた視線の先には、痕跡があった。
部屋は、引っ越してくる時に傷跡こそあったがペンキで塗られていたから目立たないフローリングだ。個人的には和室だったらもう少し値段が下がったのだろうかと言う気もするが、この家は最初から家として建てられたわけではなかったらしく色々と普通の家とは造りが違う。とは言っても、他人からお金を払って借りている以上は家を「可能な限り痛めない方向性で使用する」と言うのは店子としての義務だろうと勝手に思っていた。
なので、この部屋にはどちらの部屋にもクッションシートが敷かれてある。ホームセンターで売っているものだが、これを購入して置いて良かったと何度も思った。仮に汚しても切っても床にはダメージはないとう優れもので、おまけに床も凹む事はない。その衝撃は全てシートが受けてくれるし好きな大きさにカッターで切る事も出来る。さらに言えば部屋を出ていく時は燃えるゴミに出せる筈だと思っているのだから。最初の価格はなかなかに可愛くは無かったが見合うだけのものはあったと何年たっても思える。
今回、その「凹み」が重要なのだ。
「でもなあ……そうなると、なんだろうね?」
ポットのお茶をカップに移し、佳苗は視線をそらさぬまま飲む。
熱々のお茶は好きだが猫舌だから飲めないと言う、なかなかに我儘な状態ではあるがティーポットに入れたままだと渋くなるだけだと言うのもあるので苦肉の策でもある。
「……人に言っても、何か説明しにくいしなあ?」
テレビの音を横で聞きながら、佳苗は考える。
佳苗が一人暮らしをするに至って、特に部屋に関しては「自力で何とも出来ない事はしない」と言う事を信条に掲げている。数少ない例外は冷蔵庫と洗濯機の搬入で、それ以外は引越し業者が運んでくれたと言うのもあるが基本的に自力で運べるものしか持ち込んではいない。
パソコンも、段ボールも、テレビも、テーブルも、マットレスも……ちなみに、マットレスは三分割出来るからだと言うのもある。
一度、冷蔵庫の位置が気に入らなくて動かしたことがある。だが、それは随分と昔の話だしその時の凹みは現在の所は電子レンジの乗った金属ラックが置いてある。だから、当時の凹みは存在しない。
なのに、凹みがある。
冷蔵庫の丸い凹み、金属ラックのキャスターの四角い凹み。
これらは「持ちあげるなり何なりして置き直す」と言う事をしなければ、決して出来ない。
キャスターは車輪止めを持ち上げないと動かないし、動かせば車輪が回転した跡が残る。冷蔵庫の場合はもっと切実で、中身が空っぽでも自力で持ち上げる事が出来なかった冷蔵庫は斜めにした挙句に気を付けて転がす様に、それでいて地面に倒さない様にしなければ位置を動かせない。更に言えば、ちょっとずらそうとすると床に突き刺さっている制御装置が床を傷つける羽目になる……最初、その装置に気が付かなくて買ったばかりのクッションシートが引きちぎれたかの様に傷ついたが床の木目そのものではなくて安心した様な、複雑な気分になった事もあって脳みそはあと10年くらい記憶から削除してくれないだろう。
「空き巣とかってわけじゃないし……そもそも、私居たし。幾ら、一時期空いてない巣? とでも言うのか? 在宅中狙い泥棒? がテレビで紹介されていたからって……ねえ?」
軽い物が落ちるのとは、訳が違う。
黒い悪魔が出てきて食器に触れて落としたとか、そう言う事ならば理解出来ないわけでもないのだ……想像しただけで顔を顰める羽目になったが。
問題は幾つかあって、一つは部屋の中にある大多数のもの……もし、佳苗の勘違いではなければ「電源コードに繋がっていなかったもの」が「全て」浮いていたと言う気がする。コードに繋がっている場合、どうしてもそれ以上の力を掛けなければ引っこ抜けたり千切れたりする事はないのだ。そうして、冷蔵庫や電子レンジの乗っていた金属ラックは浮いては居たが本当に浮いていた「だけ」である。
もう一つは「自分もまた浮いていた」と言う事実だ。
床の上にマットレスと布団を敷いて眠っていたのだから、その目線はどれだけごろごろ転がっても高さとして1メートルにも満たないだろう。実際、ドアノブと目が合った覚えはない。
だと言うのに、先ほど目が覚めた時の視線は思い切りドアノブが視界の中では目下にあった。そんな、立ち上がらない限りは出来ない寝相などした事はないし出来ないし、したくもない。
うっかり目線の高さに対して脳みそが停止して、心臓が血液を緊急対策として激流的な速度で流した……そんな解釈も、出来なくはない。ただ、現実的と言うより物理的ではない。
「そりゃそうか……生物だから分野が違うよねえ?」
問題が違うと言う話もあるが、その点については他に意見を交わせる相手がいるわけではないのだから仕方がない。
第一、誰に何を言えば良いのだろう?
目が覚めたら浮いていて、そのまま寝て次に起きたら元の位置に戻ってました。
確実に無視されるか荒れるかの二択の未来しか思い浮かばない……そう思ってしまった時点で、「友達」と言う言葉に嫌悪感を持ち「親友」と言うものを持ち合わせない、人工知能の開発が進まないかなあと心を遠くに飛ばす佳苗は思う。
「私だって信じないし」
良いタイミングでテレビから爆笑の声が聞こえて来るのが、また佳苗のやる気をゴリゴリ削ってくれる……。
もしかしたら、ともう一つ思う。
「私が雇われないのって、やる気が書類とかデータからすら感じられないって事なのかしら?」
だったら、気に食わない「社内選考」で落とされまくるのも仕方ないかも知れないなあと、また一つ「諦め」てしまう。
これが、取引先企業からのお断りなら「A社が駄目ならB社があるさ」と半泣きになりながらまだ頑張れると思った20代に思いながら、今やその倍の年齢だから将来性がないと思われるのは仕方がないとも言える。それなら、近所のコンビニでバイトと言うのも考えないわけでもないが、佳苗が現在住んでいるのは一年前まで就業していた会社から徒歩10分程の所なのだ……つまり、昔の顔なじみがごろごろいる。滅多にすれ違わないし、仮にすれ違っても反応される事は少ないので気にするほど気にされないかも知れないが、正直な話。人の居ない所で人の悪口をしていたと噂される様な人達の何を持って信用出来ると言うものか……。
「……面倒臭い」
3か月で100以上、すでに追加で30は却下されている。
気分が落ち込むのも当然だ、だからあまり気にしない様に記憶しない様に、気づかない様にしていた。
努力が足りない、他人に頼りすぎだと言われている気がして余計に気が沈む。
「駄目だ、無糖じゃ足りない……」
普段、佳苗は世間一般で言う所の「でぶ」と言う称号に相応しく糖分を取らない。油は取らない方ではあるだろうし、タンパク質は取らないでいたら肌がガサガサになり貧血になりでえらい目に合った事があるので、一時期に比べると油もタンパク質も取るようにしているが、基本的に野菜と卵中心の生活だ。もしくは、豆腐などを好んで食べる……予算的な関係もかなり大きな理由を占めているけれど。
それでも、蒸し野菜にはまった時は野菜と塩コショウだけで大量に食べて美味しかったと言う現実に心を躍らせた事もある……健康にはあまり良くなかったけれど。
単純な話、学生の頃は甘い紅茶も飲んでいた。次第に、おやつを食べるなら紅茶に砂糖は不要だと思うようになって、ミルクポーションは成分的に怖くなって、牛乳を入れるのは熱くてすぐに飲めない時限定になった。
なので、牛乳を入れる事さえ回数が減った最近の中で。いきなり、ステンレスポットのお茶をカップに移してからスティックシュガーを入れてスプーンでかき回し、更に牛乳も入れた上にビターチョコレートを持ちだしたと言うのは……要するに……。
「暇なのが悪いって事なのかしらねえ? ろくな事を考えないわ……」
部屋中のものが浮いていたと言う面妖な白昼夢と結論付けた現象は、己の目を背けたかった現実を持ちだして心の中の鍵のかかる「禁書箱」の中にガンガンに頑丈な鍵をかけて仕舞い込む事にした。
続きます