02
日常で混乱すると言う事は、普段は滅多にない。
混乱に陥った場合、人は二通りの方法に出る。
一つは、開き直って立ち向かう事。
一つは、何も無かった事にする事。
選ぶ選択肢の理由は、人によりけりだろう。
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出雲佳苗にとって、趣味はそこまで多くない。
いっそ、ブランドものとかに好奇心を持っていれば話は違ったかも知れないが、貴金属はアレルギー持ちなのでアイテムを選ぶし。洋服関係は安くてシンプルなファスト・ファッション万歳だと思っている。
実際、持っている洋服は時代も世代も選ばずに着回しが出来るし。佳苗にしてみれば布地そのものよりも組み合わせが大事だと思っている……ちなみに、アレルギーは化粧品にも当てはまるので化粧水や乳液はともかく一時期は口紅だけでも三日以上毎日着けて居たら痒くなった程度なので、本人は接触アレルギーもあるだろうと思っている……夏場の服の下は、割と人に見せるのは拒絶したい。脂肪以外の理由で死亡フラグがビシバシたってしまう。
かと言って、皮膚科の医者にかかるほど酷いかと言えばそうでもない。なので、余計に困る。
ピアスと指輪だって痛みと痒みの中でしつこく着け続けて、何とか肌と折り合いをつけるのに数か月かかったくらいだ。
「よし、現実逃避終り……に、したい……しなくちゃ……」
心臓のドキドキと言う音が音と言うよりは振動と言う意味で主張しているのが判って、ざーざーと耳障りな音が脳を駆け巡る血液の音なのだろうと。恐らく、錯覚なのだろうと言う気はした。
これは、以前に30過ぎて髄膜炎で入院したり35過ぎて胆嚢切除手術で入院したりした時に感じた記憶がある。実際、それが現実に起こった事実なのかと問われると答えられないが。聞かれた事がないので別に問題はない。
二日酔いで幻覚を見ているのだとしたら、今からインスタントでも良いからお味噌汁を飲まないといけないと思う程度には焦っていて、ついでに頬を抓ってみた。爪が全体的に薄いので皮膚が破けやすいけれど、面の皮の厚さは判っているので今更、傷をつける様な真似はしない。
「なんで消えないのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
瞬きをしても、目をこすっても、頬を抓っても目の前の現実は変わらない。
出来れば幻覚だ、まだ夢を見ているのだ、これは勘違いに思い違い……のわけにはいかない。
酔っぱらっているのだ、二日酔いなのだ、そう思いたくても無理難題だと言うのは頭のどこかで何となく判った。
佳苗は、酒は呑めるが煙草は喫まない。単に、酒は栄養素として胃袋にもたまるしと言う事でやるけれど煙草は肺を汚すだけだと知っているからだ。
外で呑む事は、あまりしない。高くつくし誰かと呑みに出かけるには年齢的に、ただでさえ「友達」と言う単語に嫌悪感を持ち会社の人と出かけるのは仕事の範疇だと認識し、古くからの数少ない馴染み相手はほとんどが家庭持ちか事情持ちなので誘いにくい……と言うのもあるけれど、コミュニケーション恐怖症はコミュニケーション障害と呼ばれるより上だと思っているから自宅呑みが一番楽だと思っている。
何しろ、飲みすぎて倒れても眠ってしまえば良いのだから最強だ。支払だって先に済ませて買い物が済んでいるのだから知らない間に財布の中身が空になっているかも知れないと言う恐怖心と戦わずに済むし席を立たなくても問題がない。
なので、先日も年内は何とか生き残れそうだと思った時点で税金を支払う為に夏は期間限定のちょっと体力を作る仕事でもしようかと思って面接に落ちたと判断した直後、腹いせにおつまみになりそうなものを仕入れて来た。お酒は普段滅多に口にしないから必ず一本か二本は常備してある。最悪、見つからなければ一度封を開けてしまってから3年ほど飲んでいない市販品の薬用酒があるから代理で済ませて……流石にそれは健康的に不安要素が残るが。
自宅の冷蔵庫には、基本的にブロックチーズとスライスチーズがある。お金があった時に買い足して置いたもので、賞味期限は見ない事にしている。洋酒入りのチョコレートをバレンタインの時に仕入れておいたのもあるし、おつまみ用のデザートチーズもある。クラッカーはないが、食パンがあるから一緒にオーブントースターで焼いて食べるのがお気に入りだ。
何なら、とっておきの缶入りミックスナッツを開けても良いくらいにご機嫌だった……そう、もうヤケだった。
ある程度までしか呑まないし、呑んだ所で酔っぱらって二日酔いになる程は呑まないんだからおつまみくらい豪華にしよう……。
40を過ぎたと言うだけで、他に取り柄らしい取り柄などないと思っている。
特技としては知り合いに「脳みそをかち割ってみたい」と思われる程の思考能力と、キーボードの打ち込みくらいしか誇れるものはないとも思っている。
実際問題、仕事の依頼をエントリーと言うのだが「社内選考」で100社以上を落とされているのだからやさぐれたくもなると言うものだ。おまけに、現場にいれば世間で言う所の「選考基準」である「資格」に使いどころがない事など身に染みて判ると言うものである。
「うう……でもでも、これはないよぉ……」
涙目である。
心臓の奏でる音と脳内で響く音とに連動しているのかと言いたくなる程の、そんな流れで。
何と言うか、気分的には佳苗の天敵、台所の悪魔、コードネームはタイプGとでも言わないとやってられない生き物を見た時に近い。もしくは、いきなり夜中の1時に玄関チャイムが鳴って扉を開けてみたら実家の両親が部屋の中に立っていた時と同じくらいの衝撃だ。同率に扱って両親に申し訳はないと思うが、三日連続で電話が繋がらなかっただけで突然部屋に深夜時間帯で強襲かけるのは止めてくれと本気で思ったくらいである。
前置きが長い。
ちらり、と視線を向ける。
それ、はふよふよと「浮いて」いる。
視線を、ずらしてみる。
それらは、ふよふよっと「動いて」いる。
はっきり言って、こちらに対して意識でもあるのではないかと想像してしまうが。そうなると、これまでの日常的に「それ」に囲まれていた自分自身は随分と図太い神経になってしまう事になるのは勘弁してほしいと思ってしまうけれど、現実はだからと言って何一つ変わらない。
「視界を塞いでみるか……いや、それで懐いてこられても困るし。でも暴れて床でも抜けたら困るし……」
都心部に近いと言えば近い、移動するには駅二路線どころか隣町まで行けばついでに五路線も使えてしまうと言う立地条件の割に安普請だから、当然の事ながら木造アパートだ。佳苗の年齢よりも年上の部屋に決めたのは数年前の事で、ご近所に住んでいるのが老人が多かったのも決め所の一つではあった。
別に、佳苗は老人好きと言う訳ではない。若者だろうが老人だろうが「知らない人」か「知っている人」の違いでしかない。実際、お隣の家は男の子三人いる五人家族の一軒家だし、反対側は木造パートだ。お向かいの家も二階建てのアパートだし……では決めた理由の一つは「きっと静かに住めるだろう」と言う理由からである。
それに、老人が多いと言う事は昔ながらの町会が機能していると言うのもポイントは高い。ご近所づきあいは大事だ。町会のイベントに参加する率が少ないのは一人暮らしである事を知られていれば良いわけだし、実際に町会費用の事とかを不動産屋に相談したら「そんなのしなくて良い」と言われたのだから佳苗の責任ではない。もし言われたら、文句は不動産屋へ回せば良い。
「いやいや、懐くってなんだかな……犬猫じゃないんだから、ここペット禁止だから。小鳥さえもダメな筈……電子ペットは大丈夫だよね、あれはご飯も水も散歩もお風呂も必要ないし。そうなるとロボットペットは? 全自動御掃除機は? いや、床に物を置いてる時点でアウトだし、そもそも契約書締結の時点で人っぽい形の感情集積回路搭載型電話会社のロボット? 足で歩いてないけどアンドロイド? あれ、そもそも分類としてはどっちだ? 重そうだし階段上れないだろうし高くて買えないし……って……」
たらりと、現実逃避から更に自己防衛に入ろうとしてみたものの。
目の前の現実の変わらなさについては、本当に佳苗は困っていた。
近年稀に見る困り方で、ついでに言えば「今の困ってる状況が何とかなるなら、年内は仕事なんて見つからなくても文句を言うか通勤時間帯の天気にケチつける程度にするのにぃぃぃぃぃぃぃっ!」と半ば本気で思っていた。
実際には、それで済むか否かは不明だが。
「うう……スマホもあっち側だし……」
現実逃避ついでに調べてみようかと思ったが、目の前で起きている現実の中に世界と繋がる頼れる相棒も敵に回ったかのように素知らぬ顔をしている様に見える。こうなると、実は携帯も持ち主である自分に不満があったのだろうか、少なくとも好意的な意識は全く感じられない……そもそも、電子機器に感情があるかと言う問題に対しては自立思考系成長進化型集積回路を専門としている人達の専門分野であって、100以上の企業を相手に代理人たる派遣会社が「お前じゃ無理」と烙印を押す様な人物が想像したり判断したりするべきことではない……かも知れない。
要するに、はっきり言って現実逃避をしながら暇だったわけだ。
「調べるに調べられないじゃないかあ……こんな事なら通る方を仕事部屋にするんじゃなかった……」
佳苗の部屋は、ささやかながら2Kである。
玄関から入って階段を上り、突き当りの扉は上から下まですとんと繋がっているだけの物置部屋で、右側を開けると4.5畳の部屋になる。この部屋を佳苗は持ち込んだパソコンやらテレビやらゲーム機、数々の蔵書にDVD、CDやらを所狭しと積み上げていた。収納力が多かったのも部屋を決めた理由の一つではあるが、思ったよりもと言うより現状の収納の4倍は必要だったと言う現実を思い知ったのは荷物を詰め込んでからだったと言うあたりが、何とも間抜けではある。これでも、昨今の住宅事情から見れば十分収納力は多い方なので、単に佳苗は物を捨てられないと言うだけの話だ。
しかし、佳苗の蔵書は基本的に昔はブックカバーをされて何度も読んだ後は段ボールに詰め込まれる。そうしないと本棚など何本あった所で入りきれないからだが、そのお蔭で太陽や蛍光灯の明かりに紙が日焼ける事もなく貸した場合は「新品同様」だと驚かれた事もある……一人にしか貸したことが無く、その本も何年たっても帰って来ないが。
「……うう、叫んだら近所迷惑になるかしら?
えぐえぐと泣いているが、家族でも無いご近所へ雄叫びを上げたりして白い目で見られたりするのは本意ではない。老人が多いと言う事は、夜が早くて朝も早く、ついでに眠りが浅い人達が多く住んでいると言う事で、しかも今の時間帯……午前10時過ぎあたりとなると普通に昼前の支度をしているか天気によっては出かけていると言う可能性もある。少なくとも、下手に騒ぎ立てて「自称:善良なご近所」が動いても困るし、となると手も足も出ないと言う程度には現実を判断する理性は稼働していた。良かった。
「もし、誰かがいきなり踏み込んできたりして反応されて怪我でもされたら、こっちのせいにされちゃうもんね……賠償請求は回避が鉄則、うん」
なんじゃらほいと言われると、つまりはこういう事である。
「どうして、部屋のものが浮いてるのよぉ……?」
続きます




