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茜色の光が斜めから帰り道を照らす。親しい友達と分岐路で別れ、スクールバッグを担いで慣れた道を歩く。なんてことはない、いつも通りの光景だ。私は肩を回し、重いカバンをかけ直した。もう少しで家が見える。そう思ったときだった。
ぐらりと地面が揺れる。アスファルトが波打つように大きな衝撃に、私は体勢を崩してしまう。足が地面から離れた。抗うこともできず前のめりに倒れ込む。衝突を予感し、咄嗟に手をつこうとした。だが、手応えは全くなかった。あるべきはずの地面はそこになく、掴む物のない不安定の感覚に投げ出される。落ちている。そう理解しても、私の頭の中はぐるぐると混乱していた。
そこは奇妙な空間だった。見慣れた通りは視界から消え、ぐちゃぐちゃの景色が上下左右全部に広がっている。おかげで落ちているというのに上下の感覚がなかった。広いのか狭いのかもよくわからない。自分の悲鳴が反響するようなしないような、変な感じで聞こえてくる。
やがて空間を裂くように光が現れた。それはどんどんと大きくなり、私の体を越すほどにまでなる。私はなすすべもなく落ちた。いや、光に吸い込まれたと言うべきかもしれない。一面の緑が目に飛び込んでくる。柔らかい草の上に体が投げ出された。勢いを殺せず、そのまま倒れ込んでしまう。土と草の青い匂いがふわりと襲ってきた。
「いたたた……」
私はゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。背の低い草が地面を覆い、たくましい樹木がまばらに生えている。サバンナとジャングルを足して二で割ったようなところだろうか。少なくとも、私の知っている場所ではない。はっとして振り向いたが、出てきたはずの奇妙な空間は消えていた。どこを見ても映るのは同じ景色ばかり。突然の出来事に状況を理解できず、私は呆然と座りこんだ。
がさりと草むらが揺れる。音のする方を見ると、数人の人影があった。重いものでも持っているのだろうか、腰をかがめた奇妙な格好で歩いている。しかし、これは幸運かもしれない。彼らに現在地と道を聞こう。そうすれば、帰る方法もわかるはずだ。がさがさと草をかき分けて人影に近づく。だがその姿がはっきりするにつれ、私の希望はがらがらと崩れていった。
そこにいた人たちの雰囲気が、尋常じゃないのだ。にたにたと気味の悪い笑みを浮かべ、目は獲物を見つけた肉食獣のようにらんらんと輝いている。彼らの視線の先には、小さな獣がいた。尖った耳とふっさりとした尻尾。黄金色のその生き物は狐に似ている。狐は草むらを駆け回り、それを異常な人たちが狂ったように追いかけ回す。私は恐怖で後退った。関わらない方がいいと本能が訴えている。あの狐に彼らの注意が向いている今ならば、まだ逃げられる。そう思って足を後ろに戻したとき、ガサリと草を踏んでしまった。音に気付いた彼らの目が、一斉にこちらに向けられる。その口の端が、嬉しそうにつり上がった。
「ひゃーははは!」
甲高い笑い声が上がる。とても正気には見えなかった。歓喜、いや、狂喜が瞳に宿っている。新たに大きな獲物を見つけて喜んでいるといった感じだった。その手が、私の方に伸びる。
「っ――!」
私は背を向け、夢中で駆け出した。震える足を叱咤して逃げ続ける。すぐに追いついてくる気配はなかった。けれど安心はできない。せめて見えなくなるまで遠くに行かなければ。迫る恐怖を無理矢理押しのけ、前に進むことだけを考える。一瞬、影が差した。何だろうと思った次の瞬間、目の前に例の狂った人が降ってきた。ここまで一気に跳躍したのだ。慌てて止まり、喜ぶそれから逃れる。向きを変えて走ろうとした。だが、既に囲まれていた。ゆらりと近づく彼らに戦慄する。このままじゃやられる。そう直感したとき、一人の腕が振るわれた。咄嗟にかがみ込んでそれを躱す。地面に手をつき、土を掴んだ。目の前にいた者に思い切り土を投げつける。狙い通り目に入り、相手は苦悶の声を上げた。迫ってきた他の奴にも同様に砂を投げつける。目の痛みにひるんだ隙に、私は彼らの間をすり抜けて走る。所詮目くらましだ。時間が経てばまた追ってくるだろう。それまでに、少しでも距離を稼いでおきたかった。
「ねえ、キミ」
走る足下で声がした。誰かと思って見ると、横に黄金色のあの狐がいた。まさかと思ったが、他に誰もいない。
「ねえキミ、協力してよ」
「き、狐が喋った!?」
この狐の口の動きに合わせて声が聞こえる。目の前の出来事が信じられなくて、思わず目を丸くした。狐は呆れたように息を吐き出す。
「今はそんなこと気にしてる場合じゃないだろう? 死にたいの?」
その通りだった。追ってくるあの狂った人たちをどうにかしなければ、襲われて殺されてしまう。細かいことは後回しだ。
「それで、何すればいいの?」
「これを使って」
私が尋ねると、狐は何かを投げた。片手にすっぽり収まるほどの大きさをしたそれは、真珠のような光沢を持つ白い石。三日月型に湾曲し、表面はなめらかだ。こんな石を使えって、一体どういうことだろうか。
「これは?」
「説明は後。今からボクが言うとおりに唱えて」
よくわからないが、ここは従うしかない。私は言われたとおりに言葉を紡いだ。
「晶中に封じられし魂よ、ラクシェン神の名のもと、その力を解放せよ」
言葉に呼応するように、石がどくんと脈打つ。何かが体の中に入り込んでくるように感じた。
「英雄晶・シラギ!」
カッと石から光が放たれた。光は大きくなり、私を包み込む。そして、徐々に消えていった。否、私の中に入り込んできた。白い石は一際大きな輝きとなって目の前に現れ、一振りの刀に姿を変える。日本刀のようなそれは、ずっしりと手に馴染んだ。
「えっ? ちょっと待って、これでどうすればいいの?」
訳がわからない。確かに一見戦えそうではある。でも刀を出されたって、剣道部でもなければ剣術を習ったこともない私に扱えるはずがない。戸惑う私に向かって、狐は自分のことのように胸を張った。
「大丈夫だよ。だってそれは――」
「ひゃーっはっは!」
奇声が狐の言葉を遮る。振り向くと、例のおかしい人たちが飛び上がってこちらに向かっていた。こんなの相手にどうしろって言うんだろう。けれどそんな私の心中を無視するかのように、体が勝手に刀を構えた。飛びかかった彼らの腕が迫る。その動きは、まるでスローモーションのように見えた。同時に、振るうべき太刀筋を直感する。ほぼ反射的に体が動いていた。刀を突き出し、向かってきた腕を薙ぐ。相手の懐に来たところで勢いよく振り下ろした。真っ赤な液体が目の前で噴き出す。倒れていくのを横目で見やる。感傷に浸る間もなく刀を切り返す。その刃でもってもう一体を横薙ぎに斬り伏せた。まるで何度も経験したかのような、洗練された動き。自分のことなのに、そんな風に動けたことが信じられなかった。
呆然としていると、残っていた一人がこちらに向かってくる。高く振るわれた腕も、ゆっくりと見ることができる今となっては無駄な攻撃となる。刀を水平に構え、突き出した。確かな感触が腕に伝わる。白く輝く刃が、相手の胸を貫いていた。ずるりと引き抜けば、鼓動に合わせて血が吹き出る。どさりと重たげな音がした。草むらが徐々に赤で染まっていく。先ほど襲ってきた人たちは、光のない目を開いて動かなくなっている。私が殺したのだと、すぐには理解できなかった。ただ、死んでいると思っただけだ。むせかえるような血の臭いが鼻を突く。
「ここまでする必要は、あったのかな」
死体を見つめながら、ぽつりと漏らした。それをとがめるように、声が足下から聞こえた。
「あいつらを殺さなかったら、キミが殺されてたよ」
狐は冷たく言い放つ。その様は仕方ないから気にするなと慰めているようにはとても思えなかった。そんなことを気にするなんて馬鹿だと、突き放しているようにしか聞こえない。私は無性に腹立たしくなって、手の中の重みを握りしめた。