すまいるあげいん
前話「ひまわり」の改稿バージョンです。
よくなったといえばよくなったような、悪くなったといえば悪くなったような。
それは、ある夏の日。
私は彼に出会ったんだ。
近くて遠い、先輩に。
*
「先輩、じゃじゃーんっ」
「それが、何」
いつものように軽くあしらわれて、咲野唯衣の朝は始まった。
相手もいつものように花に水をやりながら、唯衣の方を一切見ない。
「むー。せっかく百均で、鼻眼鏡買ってきたのにぃ」
「もっと違うことに、頭使えば?」
この冷たい先輩・神谷夏は、さっさと水やりを済ませて、校舎に入っていった。
必然的に、唯衣が一人花壇に残される。
水に濡れた小さな花が、少しだけ憎らしく感じた。
……だって、この子たちは、先輩に構ってもらえるんだもん。
今日こそは神谷先輩よりも早く学校に来ようとしたのに、結局今朝も負けてしまった。
……たぶん全敗。
まだまだ学校が始まるまで時間があるので、唯衣は濡れていない花壇の淵に座った。
日差しが、だんだん暖かくなってきて。
もう冬だなぁなんて、思ってしまった。
*
あれは、夏休みの最初の日。
唯衣は課題を学校に忘れて、誰もいない廊下を歩いていた。
いつもなら部活をしていて、休みでも結構賑やかなのだが、今日は殆どの部が試合に行ったらしい。
またその時は午後になっていたので、残った部も練習を終えたようだ。
しん、と静まり返った学校は少し怖い。
目的の物を見つけて帰ろうとしたとき、何気なく窓の外を見た。
丁度そこは園芸部の花壇で、たくさんの向日葵が夏の日差しを浴びてきらきら輝いている。
「綺麗……かも」
もっと近くで見てみたい、と思った唯衣はすぐに校舎から出て、裏庭に向かった。
目的地はもちろん、ほんの隅っこにある園芸部の花壇だ。
園芸部、と言ってももう廃部したも同然の部だった。
ただ昔の名残で残っている花壇は、唯衣が入学した当初からずっと花が咲き続けていた。
噂では二年の先輩が一人、園芸部にいるらしい。
本物の幽霊部員だって、聞いたこともある。
向日葵が咲き誇る花壇の前に、唯衣は立った。
少しだけ離れて見てみる。
空の青と向日葵の黄色のコントラストが綺麗だった。
しばらくそのまま眺めていると、何処からか水が飛んできた。
「ひゃぁっ」
「うわ、すみません」
向日葵の陰から出てきた少年は、水が出たままのホースを手にしていた。
誤って水を飛ばしてしまったのだろう。
それが唯衣に当たった、と。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫そうじゃないじゃん、びしょ濡れ」
そう言って、その人は鞄のところへ走っていくと、タオルを唯衣の方へ投げた。
ありがとうございます、と呟いて、そのタオルで制服を拭いていく。
……あれ?
「あーっ! し、宿題がぁ」
手にしていた課題は制服同様びしょ濡れだった。
しかもよりによって数学。
確か五十ページくらいだったような。
急いでタオルで水気を吸い取ろうとしたが、既に手遅れで印刷された文字も滲んでしまっていた。
「あちゃー、君、一年? 二年のならあるけど、一年はな……」
さすがに無いな、と水浸しにした張本人が苦笑した。
「どうしよう……」
数学の先生は怖いで有名。
唯衣にしたら、どの先生も怖いのだけれども。
目に涙を浮かべておろおろしていると、目の前の彼がぷっと吹き出した。
「あははっ、大丈夫だって、俺が言いに行ってくるから。貸して」
斉藤だよね、と聞かれて、頷きながら彼に課題を渡した。
ちょっと待っててね、と言い残して、彼はその場を離れた。
唯衣は借りたタオルで制服を拭きながら、彼が戻ってくるのを待っていた。
二年ってことは噂の園芸部、かな。
でも男の人だし。
とそんなことを考えているうちに、彼は新しい課題を手にして戻ってきた。
ごめんね、ともう一度謝られながら、唯衣はそれを受け取り、その場を後にした。
それが神谷夏との出会い。
*
「あれー唯衣、今日も失敗?」
「うん……なんで笑わないのかな、ホントに」
「神谷先輩が笑うわけ無いじゃん」
「笑ったよ」
「だから、見間違いじゃないの?まぁ、神谷先輩も笑えばかっこいいのにねぇ」
玄関のところで、友達の美草に会った。
同じクラスなので、そのまま2人で話しながら教室に向かう。
「唯衣も本当に懲りないね。挙句の果てに園芸部に入っちゃっているし」
そう、あれから何度か花壇に通いつめて、神谷先輩に入部届けを出したのだ。
今もあの怪訝そうな顔を覚えている。
そして。
美草の言う通り、あの日から一度も笑っていない。
なんとか笑わせようと毎日頑張っているんだけど。
「まぁ、頑張れ。いつかは届くんじゃない、唯衣の気持ち」
「気持ち?」
「好きなんでしょ、先輩」
美草はニタニタと笑いながら、唯衣の肩を叩いた。
違う、と反論しながら、唯衣は心の何処かで思う。
もし……もしも、もう一度彼が自分に笑ってくれたなら。
その先は、唯衣自身にも分からない。
*
「で、なんだよ、こんなところまで」
昼休みになって、唯衣は美草と一緒に神谷先輩の教室を訪れた。
そう意味は無い。
答えに悩んでいると、美草が後ろから言った。
「神谷先輩はどうしてそんなに無愛想なのか聞きたいんですって」
「美草ちゃんっ?」
「あら、本当のことじゃない」
「……別に、そんなこと関係ないだろ、お前らに」
神谷先輩はそう答えると、何事も無かったように自分の席に戻っていった。
周りは騒がしく友達と昼食を共にする中、先輩は一人窓際の席でパンを齧っていた。
丁度窓の下には園芸部の花壇。
それを時折眺めながら、黙々と昼食を取っていた。
「クラスでも笑わないだね、先輩」
「……だね」
先輩は笑わない。
それどころか人との関わりを最小限にしている。
なんだかそんな先輩が寂しく見えた。
*
日本史の授業はつまらない。
夏はそう感じながら、いつものように窓の外を眺めた。
運動場では何処かのクラスがサッカーをしている。
じっとそれを眺めていると、一人の女の子が転んだ。
「……咲野、またこけた」
確か先週の体育でも転んでいた。
その日の放課後、膝に大きな絆創膏をつけていたのを覚えている。
そして先週と同じように、すぐに咲野に駆け寄る姿が見えた。
昼休みに咲野と一緒に来ていた子だろう。
端から見ると、友達というよりも姉妹のようだった。
咲野の怪我は先週より軽かったらしく、サッカーはすぐに再開された。
自然と咲野を見ていた自分が可笑しくなって、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
我慢比べは、もうすぐ終わりそうだ。
*
「いったーい」
「もうっ、毎週体育で怪我をするなんて、小学生ですか!」
先生に文句を言われながら、唯衣は痛みを堪えていた。
先週と比べればまだ小さな傷だが、沁みるものは沁みる。
歪めた顔を見て、付き添ってきた美草は笑っていた。
「そ、その顔、先輩に見せたら、絶対笑うよ」
「うるさいっ!恥ずかしくて見せられませんー」
小さな絆創膏を張りながら、唯衣はベーっと舌を出した。
好きでそんな顔したんじゃないし。
「あ、そうそう。今日私も園芸部行っていい?」
「別にいいけど。和くんは?」
「県外に遠征。日曜までいないの」
和くんとは美草の幼馴染。
彼氏……寸前なんだとか。
相思相愛なのだから、さっさとくっつけばいいのに。
なんて、毎回言う度に神谷先輩の話題を出されるので、今は自粛中だ。
いや、話題にするのは別に構わないのだけど、内容が、ね。
言ったら可哀想なので言わないけど。
そのうち強制的に退室を強いられ、唯衣と美草はホームルーム中の教室へと戻っていった。
*
放課後、花壇に向かうと珍しく先輩の姿はなかった。
まぁ園芸部の活動なんてないにも等しいのだが。
新しい花を植える準備が整っている花壇は少しだけ寂しい。
でも、もうすぐ冬だからこの寂しさも愛しく思える。
「先輩、いないね。帰ったのかな」
「うーん。いつも私が来たらすぐに帰るし……そうかもしれない」
「え、いつも待ってるの?」
「待ってるわけじゃないだろうけど」
へぇ、と美草は花壇の周りを見渡した。
そして、植木の方で一瞬目を留めたと思うと、悪戯を思いついた子供のような顔をして、唯衣を見た。
何がなんだか分からない唯衣は首を傾げた。
植木の方に何かあるのかな、と思い、見に行こうとすると美草が話しかけてきた。
「ねぇ、唯衣は神谷先輩に告白しないの?」
「はい?何をいきなり言うの」
「いいから、いいから。どうなの?」
「……しないよ。美草ちゃんの方のこそどうなの」
「んー、唯衣がしたらするかな」
いつ美草に先輩が好きだというようなことを言ったのだろう。
唯衣にはそんな覚えはない。
というか、まだ好きかどうかなんて、唯衣には分からなかった。
「じゃあ、しようか?」
振られることは分かりきっていたので、唯衣はため息をつきながら言った。
美草と和くんもそろそろくっつくべきだろうから。
そのためなら、別に。
「……唯衣、先輩のこと、好き?」
美草はさっきよりも声を潜めて尋ねた。
その顔はいつになく真剣だった。
「……さぁ。分からない」
「じゃ、告白できないじゃん」
そんなんじゃ、先輩傷つけるだけだよ、と美草は言った。
そう思うならそんなこと聞くなよ、と唯衣は思った。
でも。
もう一度美草が目を留めた植木に目をやった。
誰か、いるのだろうか。
……先輩がいるのだろうか。
「……ね、美草」
「なぁに?」
「私、先輩の笑顔好きだよ。だから、もう一度私に笑ってくれたら好きになるかもしれない」
唯衣は植木から視線を外して、空を見上げた。
白い雲が流れている青い空。
あの日のことを思い出しながら、唯衣は言った。
「ふぅん、だって先輩」
唯衣は美草を見た。
美草はあの植木の方に顔を向けていて、案の定そこから先輩が出てきた。
「何が」
「こうなったら、笑うしかないんじゃないですか?」
美草が笑顔で先輩に言った。
唯衣は先輩が笑うかどうか分からないまま、その顔を眺めていた。
先輩も唯衣を見て、二人の視線は絡んだ。
しばらく見詰め合ったと思うと、先輩はその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
肩が震えている。
まさか。
「先輩?」
唯衣は美草の隣まで歩いた。
そして先輩の肩を叩く。
すると、先輩は顔を上げた。
その顔には笑みが浮かんでいた。
「あははは、あーもう俺の負け、負けた」
先輩はおなかを抱えながら笑い続けていた。
唯衣と美草はしばらく呆然と見つめていたが、二人で顔を合わすと先輩と同じように笑い始めた。
笑った、笑った、先輩が、笑った。
「そろそろ教えてくださいよ、笑わない理由」
しばらく笑った後、美草はそう切り出した。
先輩は少しだけ考えるような顔をすると、すんなりと答えた。
「え、これが普通だから」
「……」
返す言葉が見つからなくて無言で言うと、それを補うように先輩は続けた。
「んー、いつの間にかこんなんだったし」
「じゃあ、やっぱり友達いないんですか?」
「何で?」
「いつも一人だったから」
唯衣が真面目に答えると、また先輩は笑った。
……笑ってくれるのは嬉しいけど、なんだかむかつく。
「あぁ、うん、咲野が見てたから。友達も優しいからすぐ協力してくれて」
「あれは演技だったってことですか」
「まぁそんなところだね。友達はいるし、そいつらの前だったら笑うよ、普通に」
唯衣は先輩の思惑に見事にはまっていたようだ。
ということは、唯衣が見ていないときには普通に笑っていたんだ……。
唯衣の目から自然に涙が出た。
それはゆっくりと頬を伝っていった。
「わ、ゴメン、うそ、泣くなって」
先輩はあの日の唯衣みたいにおろおろとして、唯衣の涙を止めようと必死だった。
たぶん勘違いしているのだろう。
申し訳なさそうにする先輩を見て、唯衣はそう思った。
「あーぁ、先輩、唯衣を泣かせたら私が許しませんよ?」
美草がそう横から言って、先輩は余計に焦り始めていた。
「大丈夫、です。なんか、よかったって思ったら……」
先輩は一人じゃない、と分かったら、自然に涙が出た。
ただそれだけ。
それだけだったから、慌てる先輩を見て気の毒に思った。
「ゴメンね」
先輩はあの日のようにそう優しく言うと、唯衣を抱きしめた。
*
「唯衣っ、遅い」
いきなり現れたあの笑わない先輩にクラスメイトは驚いて、一瞬しんと静かになった。
そして一斉に唯衣の方を見ると、何人かの噂好きな女の子が唯衣に駆け寄る。
「唯衣ちゃんっ、あの神谷先輩とどんな関係なの!」
その迫力に押されて、唯衣は後ずさりをする。
美草の方を見ると、面白可笑しそうに笑っていた。
助けてくれるような気配は……一切無かった。
「た、ただ部活が一緒なだけだよ!」
「唯衣ちゃん、大丈夫?笑わない先輩と一緒だなんて大変じゃない?」
「生憎、部活では笑いますので」
後ろから声がして、驚いて振り向くといつの間にか先輩が立っていた。
女の子達は先輩の笑顔を見て顔を赤くしていた。
そして唯衣の耳元で、
「ねぇ、先輩って彼女いないよね?紹介してくれない?」
と囁いた。
唯衣はあぁ、と納得したように頷いた。
美草の言ったように、笑ったらかっこいいんだ。
そうか。
「紹介、って何をどう紹介したらいいの?」
「ゆーい。そんな親切はしなくていいの!」
見かねた美草が横から入ってきて、唯衣の口を塞いだ。
そして女の子達の方を見ると、笑顔でこう言った。
「先輩は唯衣にアタック中だから、無理だと思うよ?」
*
今、花壇には小さな芽が出ている。
先輩と二人で植えたチューリップの芽。
花言葉は『永遠の愛情』。
先輩が教えてくれた。
なんだか告白みたいだね、と二人は笑った。
それは、唯衣と夏の二人の花。
この花が咲く春には、二人手を繋いで。
――二人で笑っていよう。




