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なつほたる

―――ほ、ほ、ほたるこい……


 懐かしい歌が聞こえる。

 子供の頃見えない光を追って歌っていた。でも今は目の前に黄色い光が飛び交っている。思わず綺麗だと零れた声は夜の闇に消えていく。

 都会の喧騒が存在しないかのように、辺りはしんっとしていた。遠くで聞こえていた歌はいつの間にか聞こえなくなって、微かに感じていた人の気配も消えていた。

 そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がったとき、川の向こうで水飛沫が大きく上がった。


「……誰だ? こんな夜中に川で泳ぐなんて」


 いくら田舎だと言っても夜は危ない……と思う。地元じゃない上に、今年初めて来た場所だ。治安なんて知るはずもない。夜泳ぐのが常識だったら何かと気まずい。

 立夏は大学の友人に頼まれてこの村に来ていた。用事は別荘の掃除と空気の入れ替えだけだったが、何故か一週間もここに滞在している。そして、あと数日間滞在する予定を友人に伝えていた。

 暇なのは確かだけど、都会生まれの都会育ちだからかとても離れがたい。珍しすぎるんだ、何もかもが。

 そんなことを考えていると、再び静寂を破る水音が聞こえた。今度はさっきよりも近い。こちらに泳いできたのかもしれない。


「一応見とくか」


 溺れていたら困るし。明日の朝水死体が、なんてことになったら後味が悪い。

 かと言って助けられる保障は全くない。生憎川や海で泳ぐような少年時代を過ごしていない。河原でバーベキューなんてものは何度かやったけど。


「溺れてませんように」


 立夏は心の中で祈りつつ、川原に下りた。月灯りのお陰で足元は結構明るい。それでも数回足を捻りそうになりながら水辺に近づいた。

 水辺ではさっきよりも多くの光が夜を飾り立てていた。それは何か意志を持っているかのように、ある一点へと集まっていく。

 その先を見て、立夏は息を呑んだ。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、本当に時が止まったかと思った。


「天使……?」


 その小さな呟きが聞こえたのか、光に囲まれた少女が振り返った。夜の闇に映える白いワンピース。まだふくらみのない細い体に、漆黒の長い髪が垂れる。

 立夏は少女から目を離すことが出来なかった。


 *


「で? 何処の誰が天使よ。私は生きてるっつーの」

「ごめんってさっきから言ってるだろ。お前、根に持ちすぎ」


 翌朝夢だと信じて寝室に入ると、明らかに不機嫌な彼女がベッドに座っていた。夢じゃなかった。最初は嬉しかったが、今はまぁ……夢であって欲しかったような。

 彼女の不機嫌の原因が自分の呟いた『天使』の言葉であったことが理解できない。普通喜ぶよな。女の子ってそういうの喜ばない?


「お前じゃないし」

「だーかーらー名前言えっつってんだよっ」

「逆切れ? サイテーね」


 朝からずっとこの調子だ。彼女は自分のことを殆ど喋らない。名前さえ名乗らない。そのくせ、お前とかあんたとか言うと怒る。

 立夏はどうしたらいいのか全く分からなかった。一人っ子の自分にはどう考えても機嫌の取り方を思い浮かべることができない。こんなに頭を使うのは大学受験以来かもしれない。とにかく扱いが難しい。

 これを機に子供嫌いになりそうなのは気のせいだろうか。


「立夏ってさー、絶対精神年齢低いよね」

「はぁっ? ってなんで名前!」


 少女は立夏の後ろを指差した。慌てて振り返るも、そこには何もない。

 開いたドアの先には廊下が見えて、その先は吹き抜けになっている。一階にはリビングとキッチンがあって、昨日はソファの上で寝た。もちろんベッドを占拠したのはこの謎の少女だ。

 他にも部屋はあったが、性格上帰る前の掃除が面倒臭い。彼女を別荘に連れ帰ったことさえあり得ないのだ、この自分には。


「な、何見たんだよ」

「運転免許証。絶対ペーパーでしょ、立夏」


 立夏は口をあんぐりさせた。開いた口が塞がらない。というかこいつはエスパーか。

 馬鹿にしたような笑みを浮かべる彼女に、頬が思い切り引きつったのが分かった。どうしてこんなに生意気なんだろう。


「なんで分かるんだよ」

「認めたし。なっさけなーい」

「……質問に答えろ」

「車で来る方が早いのにそんな気配ないもん。どうせ鈍行の汽車に乗ってきたんでしょ。おじくそ」


 おじくそってなんだ、おじくそって。

 立夏はマジ切れしそうになるのを必死に堪えながら、納得したように何度か頷いた。顔が引きつる。

 これって喧嘩売られたんだよな? 別に買ってもいいんだよな? 真面目に買っちまうぞ?


「大人気ないなぁ。声に出てるよ」

「ぬぁっ」


 慌てて口を押さえたが遅いものは遅くて。

 一層眉間に皺を寄せた彼女は立夏の横を通り過ぎて部屋を出て行った。

 立夏は首を傾げつつリビングに下りると、何やらキッチンで音がしている。そっと覗き込んだ先で、少女が冷蔵庫の中身を床に全部並べていた。


「な、何してんだよっ」

「どうしてつまみしかないの? 信じらんない」

「うっせー!」


 缶ビールまで並べ始めた彼女を追い払って、床に散らばる食材を全部冷蔵庫に詰めた。不満そうな視線が上から降ってくるが無視する。取り敢えず隣の棚からカップ麺を取り出して彼女に渡した。が。


「私、カップ麺嫌い」


 突き返されたカップ麺を手に立夏はため息をついた。お腹を空かせているらしい彼女は、今度は棚の中を探り始めている。

 暫くしてふりかけを見つけるとそれを立夏に突きつけた。


「……食べたいの?」


 こくりと頷く。もう一度大きくため息をついてから、炊飯器を開けた。昨日の残りが少しだけ残っている。

 少女を振り返ると、ふりかけを持っていない方の手を突き出された。何となく……というか、はっきり意図が読めてしまったことが悔しい。捻くれてるとか分かってるから言うなよ。


「捻くれてる」

「だーっ! 今入れるから黙って待ってろっ」


 伏せてあった茶碗に微妙な量のご飯を装って渡すと、彼女はお礼も言わずに受け取ってリビングに行ってしまった。立夏はしゃもじと空になった炊飯釜を洗い、冷凍庫から出したアイスキャンディを加えながらリビングに戻った。

 さすがにあれだけしかなかったからか、彼女はご飯を食べ終えてソファに寝転がっている。気配に気付いたのか顔をこちらに向けた。


「あ」


 少女の視線が口元に注がれる。アイスキャンディを手に持つと、その視線もゆっくりと移動した。くるりと回すと面白いようについてくる。

 ……欲しいんだろうか。いや、この視線は欲しいんだろうな。くるくると回したり溶けた表面を舐めたりしながら、そんなことを考えていた。

 ねだり方が子供だなと思う。立夏にすれば中学生くらいの彼女は十分子供なのだが。


「……立夏、ふざけんなよ」

「名前教えてくれたら、やらないこともないけど?」


 思いも寄らなかっただろう交換条件に、彼女は何やら考え込むように目を閉じた。そんなに躊躇するようなことでもないと思う。

 それだけ嫌われているのか? 名前さえ教えたくないほど。何もした覚えはないんだけど。

 立夏がアイスキャンディを食べ終わった後も、彼女は暫く考え込んでいた。かれこれ十分近く経とうとしている。

 まさか、自分はどこそこの亡命国の姫様とかどっかの国とのハーフで名前が思い出せないくらい長ったらしいとか、そういうファンタジックなことを言い出さないよな? ただの家出娘だよな?


「アイス食べたい」

「はいはい。で、名前は?」

「……たる」


 聞き取れないほど小さい声だった。立夏は暫く考えて、聞き取れた分だけを名前だと認識することにした。大方間違っていると思うけど。


「樽? 珍しい名前だな」

「蛍っ! 誰が樽よ。このバカなすびっ」


 ソファに置いてあったクッションが顔面に直撃した。物理的には痛くなかったが、精神的に痛かった。

 ……なすび……。

 初めて言われた。生まれてこの方散々バカにされてきたが、こういう手のものはなかったような、随分昔にあったような。

 取り敢えず色んな意味でショックを受けて落ち込んでいると、視界にすっと手が伸びてきた。

 細くて綺麗な手をじっと見つめる。正しく女の子の手だ。自分の手と見比べて思った。


「アイス」


 蛍は目を輝かせて、立夏を見ていた。いや、輝いてはいない。九十八パーセント錯覚だ。

 もしかしたら一瞬輝いていたかもしれない。淡い期待を二パーセントに託してみた。……そんなのはどうでもいいか。


「……つべこべ考えてないで……さっさとアイスを渡せーっ!」

「わっ。いきなり叫ぶなよ! 今持ってくるから待ってろ」


 なんか使用人の気分を感じつつ、キッチンに入る。ちらりと蛍を伺うと、鋭い視線でこちらを見ていた。

 下手なボディガードよりも怖いぞ。テレビでしか見たことないけど。


「ほれよっと」


 アイスキャンディを投げて渡す。それを見事キャッチして、蛍は一瞬微笑んだ。

 笑っていれば結構可愛いんだろうな。あともうちょっといろんな所が成長していれば完璧だ。

 はぁとため息を零すと、またクッションが飛んできた。今度はある程度硬さのあるもので、直撃した顔面がほんのり熱を持つ。それが痛みに変わるまで数秒も要しなかった。


「……いってー!」

「ニヤけんな、きしょい」


 しゃりしゃりとアイスキャンディを噛み砕きながら言う。窓から吹き込んでくる風に靡く髪を邪魔そうに払い除けて、最後のカケラを口に含んだ。

 こう見たら普通の女だ。中学生だとしても。


「見惚れんな、ぼけ」

「み、見惚れてねぇよっ」


 あかんベーと舌を出した蛍はアイスキャンディの棒を立夏に投げつけると、寝室に戻っていってしまった。アホみたいに頭に棒を乗せたまま、立夏は暫く二階を見上げていた。


 *


 お昼時になってもおやつの時間になっても、蛍は部屋から出て来なかった。一応呼びに行ったが返事がない。ドアを開けるのは大分躊躇して諦めている。

 いつの間にか貼り出されたそれには『入ったら殺す』と書かれている。そう言われて入るバカでも気にもとめずに女の子がいる部屋に入るような勇気がある訳でもない。朝は夢だと半分思っていたから別だ。

 ……でも、さすがにそろそろ決心をつけなきゃいけないだろう。すっかり影を落とした外を見ながら思った。朝食とアイス以外何も食べていない胃がもう既に限界点を超えている。


「蛍ー? お腹空いただろー。飯食べね?」


 控えめにドアを叩いてみるがやっぱり返事はない。少し強く叩いてみる。……反応なし。もう少し強く叩いてみると反応があった。……自分の腹に。

 思わず周りを見回し、誰もいないことにほっとする。ってここには蛍以外いないじゃん。その蛍には反応なし。そんな感じでだんだん力を加えていった。

 ……今はほぼ殴っているに近い。


「お前、ふざけんなよ! さっさと出て来い……っていー……っ!」


 最後に叩いたのが見事に骨に響いて、立夏はその場に蹲った。さすがに叩き過ぎたのか手がじんじんとする。心なしか赤い。

 それでも部屋の中からの反応はなく、立夏は少し心配になってきた。そもそも部屋の中に蛍がいるかさえも微妙だ。

 これだけ大騒音を立てているのに、気付かないのは相当おかしい。まさか倒れてるとか死んでるとか……ないよな?


「って鍵かけてないのかよ」


 ドアノブに手を伸ばすとすんなり回った。そっと開けて中を覗く。部屋は窓から差し込む月灯りでほんのり明るかった。

 ベッドでもぞもぞと何かが動き、立夏は慌ててドアを閉めようとした。が、それだけで何もない。恐る恐るベッドに近づくと、すやすやと寝息を立てている蛍がいた。


「……あれで起きないとかどういう神経してんだよ」


 寝返りすら打たない蛍にため息を落とす。試しにベッドの縁に座ってみるが、軋んだ音に自分が驚いただけで蛍には全く反応が無かった。思わずほっとして頭を振った。起こしに来たのにほっとしたらダメだろ。

 そっと顔を覗き込むと、起こすのも躊躇してしまうくらい安心しきった表情で眠っている。月灯りのせいか少し大人っぽく見えて変な気分だ。胸の辺りはぺしゃんこなのに。

 顔にかかった髪をそっと避けてやる。一瞬眉間に皺を寄せたが目を覚ます気配はなかった。


「まだ寝るのかよ。いい加減空腹で死ぬぞ、俺もお前も」


 ぐしゃぐしゃっと蛍の頭を掻き撫でた。食い物の恨みは怖いぞ、なんて場違いなことを考えていたら思い切り殴られた。顔じゃなかったのがまだ救いかもしれない。

 殴られた胸を押さえつつ、蛍の腕を元に戻した。細い腕に少々驚きを隠せなかった。にしても、明らかに強すぎないか? この田舎娘。


「なーんか損してるよな、俺」


 いつものことだけど。小さく呟いて虚しくなった。自分で情けないと思うけど、何に損してるのか分からない。でも確実に損している。

 乱した髪を出来るだけ元に戻しながら、立夏は蛍の顔を見つめた。息を立てている小さく開いた口に視線が止まる。髪を撫でていた手を頬に伝わせた。親指でそっと唇を撫でる。

 ん、と漏れた声にはっとなり、慌てて手を離した。


「へんたい」

「う……うるせー」


 いつの間にか起きていたらしい蛍に睨まれた。今までにないくらい冷たい視線にいたたまれない気持ちになる。

 それを知ってか知らずか、蛍はその視線を保ったまま口を開いた。


「名前しか知らない娘にヨクジョーするなんて、立夏サイテー」


 棒読みの台詞に何故か逃げ出したくなった。ぐっと足に力を入れ、その場に止まる。蛍は呆れた表情もプラスしながら体を起こした。

 視線が自然と近くなる。少しだけ目を泳がすと、蛍は鼻で笑った。明らかにバカにされているのは気のせいだと思……えないですよね。


「つーか、張り紙読めなかった? なんで入ってきてんの? 死にたいの?」

「う……死にたくはねぇけど」

「大体お腹空いたんなら一人で食べればいいじゃない。まさか一人でここに来てんのに、寂しいとかなっさけないこと抜かさないでよ」


 抜かそうとしていた立夏は慌てて口を閉じた。蛍はその様子を見て再び笑った。


「隠すの下手くそ。顔に出てるよ、バカ立夏」

「るせーよ」


 思わず赤くなった顔を隠すように俯く。髪をぐしゃぐしゃっとかき乱して息を吐いた。

 本当に情けなくて涙が出そうだ。無理矢理笑ってそれを耐えていると、肩に小さな重みがかかった。驚いて顔を上げる前に引き寄せられる。

 突然の出来事に戸惑っていると、優しく背中を叩かれた。


「寂しがり屋の立夏くーん」

「……うるせ」

「ごめんねぇ。一人は寂しかった?」


 額が蛍の胸に当たる。微妙な心境だ。バレたら容赦なく殴られそうなんだけど。


「立夏」


 気付いていないのか、蛍は今までで一番優しい声を出して名前を呼んだ。ゆっくり撫でられる手に何故かほっとする。

 ……って普通逆じゃね? そんな考えが頭に浮かんで、立夏は慌てて蛍を引き剥がした。目の前にものすごく不機嫌そうな表情がある。自分の行動をすぐに後悔した。


「立夏」


 今度は少しだけとげがある声で呼ばれた。恐る恐る顔を上げる。その瞬間、唇に温かい感触が走った。

 頭が真っ白になる。もう一度触れてから蛍は立夏から離れた。それを呆然と眺めるしか立夏には出来なかった。


 *


「口内炎出来たかもー」

「……何が言いたい」

「この炒め物、なんか変な味」

「……塩と胡椒しか使ってないけど」

「うん、天才的な不味さだよね」


 寮生活で培ってきた料理の腕は全く上がっていなかったようだ。確かに外食やカップ麺が多かったけど。それでも不味くはないはずだ。だって塩と胡椒で炒めただけだ。不味くするのは焦がさない限り相当難しいと思う。


「ニンジン生焼けだし。てゆーか、これ何? 庭の雑草?」

「ホウレン草だけど」

「えぇー味がホウレン草じゃない」


 ……散々な言われようなのは気のせいか。

 立夏は蛍曰く天才的に不味い炒め物を食べながらため息を零した。食べるのに支障はないと思う自分の舌が疑わしくなる。

 そうと言えば目の前で顔を顰める蛍も疑わしい。そんなに不味いのなら食べなければいいのに。


「野菜が可哀想」


 大きくため息を吐いた蛍を一瞬殴りたくなった。さすがに大人気ないので堪えたが。

 炒め物を口に運ぶと、蛍が眉間に皺を寄せて小さな唸りを上げた。


「なんだよ」

「よく食べられるね。まさか都会ってそんな不味い物だらけなの?」

「……さあ?」


 曖昧に答えると、蛍の眉間の皺が一層深くなった気がした。


 *


 赤蜻蛉が飛び始めて、夏の終わりも近いことを知る。もう蛍はいない。それは口に含んだアイスキャンディのように。甘さを残して消えてしまった。


「……お前、家に帰らねぇの? 俺そろそろ帰るんだけど」

「蛍ってどれくらい生きられるのか知ってる?」


 夕焼けに飛び交う赤蜻蛉を二人で眺めていた。約束の時間は刻一刻と迫っている。明日この別荘の持ち主が迎えに来てくれる。

 汽車で帰るつもりだったが、向こうの強引な言いように断ることが出来なかった。


「んー、一ヶ月くらい?」

「成虫になってから一週間。一週間しか光っていられないんだって」


 一週間。立夏が蛍に出会ってから同じ時間が経とうとしている。あの夜以外は何事もなく、ただぼんやりと過ごしていた。

 相変わらずの蛍の毒舌にたじたじになりながらも結構楽しい日々を過ごしたように思える。ぼんやりと過ごした割には時間が経つのが早かった。何も特別なことはしていないはずなのに。


「私、蛍にだけはなりたくない」

「え、蛍じゃん」

「……立夏ってどうしようもなくアホだよね」


 大袈裟にため息をつきながら呆れたような目でこちらを見てきた。何処か哀れまれているような視線なのは気のせいだと思う。

 蛍はそれっきり何も喋らなかった。何も話してはいけないような雰囲気に、立夏も黙ったまま蒼くなっていく空を見上げていた。


 *


 言葉はなかった。残ったのは僅かに残る香りとここにいたという記憶だけだった。あと、感触。薄れていく香りと記憶とは違って、これだけは立夏の心を掴んで離さなかった。


「蛍?」


 一緒に寝ようと珍しく甘えてきた。断る理由もなくてそのまま一緒に寝た。確かに隣にその温もりはあったはずなのに。

 蛍の寿命は一週間。夕べそう言った蛍の言葉が突然思い出される。重なった言葉に不安が押し寄せてきた。……蛍と出会って一週間になった今日。


「……っ、蛍!!」


 嫌な予感は的中していたようだ。家の部屋という部屋を開け放っていく。トイレもお風呂も納屋も押入も全部、全部。でも何もない。

 最初から自分以外はいなかったかのように、何処にも何も残っていなかった。

 それは突然。そう、突然。今までに感じたことのない喪失感に、立夏はその場に立ちつくすしか出来ない。寝起きの頭は一切動こうとはせず、状況を把握することが出来ない。

 蛍に出会ってからずっとこうだ。何も出来ない。なんて情けないのだろう。蛍の声が耳から離れない。


『なっさけなーい』


 ……そうだよ、情けないんだよ。こうなった今気付くなんて情けなさ過ぎるんだ。

 乾いた笑いが出て、立夏はその場に蹲った。止まらない笑いに胸が苦しくなる。ぐるぐる回る蛍の言葉に一瞬見せた笑顔が重なって。


「……蛍」


 届かない言葉は跡形もなく掻き消されていく。初めて感じた想いもいつか同じように消えてしまうのだろうか。この苦しさもいつか忘れられるのだろうか。

 いつだったか。思い出せないほど昔に誰かが教えてくれた。蛍が短い生涯の中で放つ光には求愛の意味があるんだって。雌は見つけてもらうために、雄は探し求めて輝く。

 もし蛍だったらきっと今自分は光を灯しているに違いない。蛍はずっと光っていた。あの瞬間からずっと光っていた。勘違いかもしれないけど、たぶんきっと。


 *


 夏が来る度思い出す。そして思い出す度訪れる。あの夏を最後に蛍は見られなくなったらしい。今はただ月灯りに照らされるだけの河原を歩く。

 友人が面倒くさそうに立夏の後ろをついてきていた。


「立夏ー。毎年毎年こんな田舎に来て楽しい訳?」


 そう言いつつも別荘を快く貸し出してくれる彼には感謝している。何故か今年はついてきやがったけど。


「あちー。そろそろ帰ろうぜ? 明日はいい店連れて行ってやるからさ」

「……俺、もうちょっとここにいるから」

「あっそ」


 そう言い残して、友人は別荘に戻っていった。姿が見えなくなったのを確認してから、立夏は水の中に足を入れた。思ったよりも冷たい水に思わず足を引っ込めそうになる。

 あの日彼女はこんな冷たい中を泳いでいたらしい。その割に掴んだ腕が温かかったことを思い出した。

 あれから毎年同じ時期にここを訪れているが、蛍に会うことはなかった。以前ちょっとだけ仲良くなったおばあちゃんに聞いてみたが、この村にそんな女の子はいないと言っていた。会えないことが分かっていても来てしまうのは何故だろう。


「幻、だったのかな」


 手を空に伸ばして、空を掴む。月が雲に隠れて辺りが暗くなる。ここにいると示すのは足下の冷たさだけ。立夏はそれを求めるかのように川の深みに身を沈めた。

 暗い水の中に少しだけ不安になりながら足を動かす。月が出たのか微かに視界が明るくなった。水面を見上げると揺れる視界に黄色い光。こぽっと漏れる水泡が空を目指して飛んでいく。

 死んでもいいと思った。このまま流されて、蛍のいたこの川で。瞼の奥に映る蛍を思い出していると、思い切り腕を引っ張られた。


「……っ、この、どアホっ」


 河原に引き上げられながらぼんやりとその背中を見つめていた。やけに長い髪が振り返った顔にへばりついてる。


「お前は死ぬ気かっ」

「貞子……」

「はぁ? ふざけんじゃねーっ」


 濡れた髪を束ねながら帰ったはずの友人が立夏の横腹を蹴った。手加減なしで蹴られて足がふらつく。石が転がる河原でバランスを取るのは難しかった。予想通りというか何というかそのまま転んだ。

 思わずついた手のひらが痛い。そんな立夏の様子を友人は呆れたように見下ろしていた。


 *


「だーかーらー、お前一人で行けよっ」

「お前に拒否権はない」

「はぁーっ?」


 炎天下の中、立夏は汗だくになりながら友人に腕を引かれて農道を歩いていた。すれ違うおばあちゃんとおじいちゃんが珍しそうにこちらを見てくる。腕を掴んだままの彼は笑顔で挨拶していた。

 殆ど汗を流していない彼に少し苛つく。どうしてそんなに涼しそうな顔をしてるんだ。


「何処行くんだよ」

「もうちょっと先の居酒屋」

「昼間から飲むの?」

「飲まない」


 飲まないなら行く必要はないんじゃないか。そんな言葉が出そうになったとき、道の向こうに居酒屋という文字が見えたので立夏は口を噤んだ。

 平日の真っ昼間だからか店には殆どお客は入っていなかった。クーラーだけが低い音を立てて忙しそうに働いている。カウンター席でおじいちゃんが真っ赤な顔をしてこちらを見ていた。

 友人は笑顔を浮かべて、そのおじいちゃんの隣に座りながら言った。


「ケイ、います?」

「ケイちゃん? あぁ、おるおるー。今裏にビール取りに行っとるで」

「そっか。……おい、突っ立てないでお前も座れよ」


 立夏は渋々友人の隣に腰掛けた。彼はおじいちゃんと話に花を咲かせている。専ら『ケイ』という人の話。所々聞こえる単語で、ここでバイトをしている若い女の人だということは分かった。

 十分ほど経った頃、入り口の扉が音を立てて開いた。重たそうなビールの箱が先に入ってくる。


「お疲れ、ケイ」


 その後に入ってきた女の人……いや、まだ少女と言った方がいいかもしれない……を見て、立夏は言葉を失った。彼女も少しだけ目を見開いて立夏を見ている。


「立夏、連れてきたよ」


 友人の声が遠くに聞こえて、目の前の少女が笑った。見たことがある笑顔に、ずっと忘れたかった苦みが押し寄せる。

 忘れるはずがない。忘れられるはずがない。


「相変わらずなっさけない顔してるね」


 そう口が動いた気がする。立夏は目の前の現実を夢としか思えなかった。ずっと探していた、ずっと会いたかった彼女がこんなに近くにいたなんて。


「ほ、たる……?」


 少しだけ大人になった顔立ちに、再び笑顔が映し出される。

 あの夏、どんなに望んでも一度しか見られなかった表情が目の前にある。そのことがどうしようもなく嬉しくて、苦しくて。

 ビール箱を置いて近づいてきた彼女の腕を引いて、思い切り抱きしめた。もう消えてしまわないように、強く強く。もうその光を逃がさないと誓って。


 *


 ―――こっちの水は甘いぞ、あっちの水は苦いぞ……

 ほ、ほ、ほたるこい。

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