晴空に、恋模様
空に手を伸ばしている夢を見た。
私はただ空を見上げて、手を伸ばしていた。
何かを掴むために伸ばしたはずなのに、何を掴めばいいのか分からない。
暫く手を伸ばしたままにしていると、誰かの手があたしの手を包んだ。
それが誰の手だったのか、何故あたしの手を握ったのかは分からない。
……そこで夢は途切れてしまったから。
残ったのは、温かい優しさ。
これが、あの人だったらいいのに。
なんて、思いながら目を開けると、カ―テンの隙間から漏れる光が眩しい。
訪れる朝は、今日も鮮やかで透き通っていた。
♪
昼休み、何処の教室でも必ず彼の歌が流れる。
まぁ、昼の放送で毎日流れるだけなんだけど。
リクエスト制で音楽をかけているはずなのに、毎回彼の曲が一曲は流れるから、素直に凄いと思う。
でも、これは誰も知らないだろう。
その彼が、人気アイドル『奏音』がこの学校の生徒だなんて。
想像も出来ないはずだ。
「何ため息ついてるの?」
「別に。いつも同じ歌で飽きるなーと思って」
渉はもう一度ため息をついた。こんな日に限って、奏音の歌が二曲も流れている。
と、そこで放送が一端途切れた。
女子の間からブーイングが出る。
「あーもう、いいとこだったのにー」
隣に座る万知も残念そうに玉子焼きを口に運ぶ。
渉はそれに同意しながら、心の中では放送を止めた誰かに感謝していた。
毎日家で聞かされるから、正直飽きているのだ。
しかし次の瞬間、その感謝の気持ちは掻き消された。
『二年三組汐崎渉。即効で生徒会室に来いっ! 一分以内で来ないと、殴るからなっ』
飲みかけていたお茶を吹き出すかと思った。
クラス中の視線が渉に集まる。
渉は急いで食べかけの弁当を片付けると、慌てて教室を出た。
「ほんと、渉も大変だねぇ」
万知が渉の背を見送りながら、呆れたように呟いた。
♪
「遅い」
生徒会室に入るなり、不機嫌そうな声が降ってきた。
これには渉もむっとなる。
「い、一分で来れるわけないでしょうがっ」
「まぁ、いいけど」
全然そんな顔をしていないのは、気のせいじゃないと思う。
めちゃくちゃ納得のいっていない顔をしてるし。
「で、何の御用ですか、生徒会長様」
「今日の放送は何なんだ」
「今大人気アイドル・奏音さんの歌が二曲流れていただけですけど」
言ってからヤバイと思った。
さっきよりも不機嫌そうな顔をして、渉を睨んでくる。
……なんで、素直に言っちゃうかな。
「し、仕方ないでしょ。そこまで口出ししたら、怪しまれるじゃない」
渉はこれ以上機嫌を悪くしないように、気を使いながらそう言った。
だが、不満は募り積もっているようで、不機嫌な表情を崩さない。
渉は片手で顔を押さえて、他の生徒会の人が来ないように祈りながら、小さな声で言った。
「生徒会長があの『奏音』だってバレたら大変でしょうが!」
「……別にバレてもいいし」
「よくないっ。私の苦労をこれ以上増やさないで」
奏音は、今では中高生を中心に若い世代に人気の歌手だ。
昨年ファーストアルバムを出して、それが人気の火種となった。
それまでは売れない歌手だったんだけど、一気に人気上昇。
人気アイドルのトップまで昇り詰めた。
奏音がこの学校に通っていることは渉と理事長しか知らない。
教師陣も知らされていないそうだ。
出席日数はギリギリだけど、それは家庭の事情で追試を受けて、留年は免れている。
ギリギリのくせに生徒会長なんて信じられないけど、着任してからはなるべく学校に来ているらしい。
今日も午前中仕事だったはず。
渉が人気アイドルのスケジュールまで知っているのは、家が芸能事務所で、奏音の契約している事務所でもあるからだ。
だから、こうやって呼び出されて、愚痴を聞かせる羽目になっている。
他の人にこういうことは言えないから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど。
「仕事、順調?」
「まぁね。夕方からナマだけど、見に来る?」
少しばかり機嫌を直したのか、笑顔で誘ってきた。
こうやって奏音の収録現場に何度かお邪魔したことがある。
でも、今日はそうもいかない。
「ごめんね、今日は先約があるから」
「何があんだよ」
「別に生徒会長には関係ないでしょ」
「生徒会長、生徒会長って俺にはちゃんとした名前があるっつーの」
誘いを断られたことに腹を立てたのか、また一段と不機嫌な顔を見せた。
そうやってコロコロ表情を変えて、よく疲れないものだ。
渉は心の中で感心しながら、生徒会室のドアに手をかける。
不機嫌な彼を振り返って、なるべく可愛く……。
「まぁ、どっちにしろ行けないから。仕事頑張ってね、日高奏くん」
奏に笑顔を向けて、渉は部屋を後にした。
♪
渉はホームルームが終わると、すぐに教室を飛び出した。
廊下で奏とすれ違ったような、すれ違わなかったような。
もしすれ違っていたら、また文句を言われるけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
家まで走ると、隣にある事務所のドアを開け、社長室に直行した。
「お母さんっ!」
「……ここでは社長と呼びなさい、と何度言えば、わかってくれるの?」
「そんなことより、どーゆうことよっ」
「何が?」
お母さん……社長は何も知らないような顔をして、渉を見上げた。
その態度を見て、怒りが込み上げる。
「奏音の応援で、歌番組に出るなんて、聞いてないんですが」
「あぁ、それは渉じゃなくて、『琉環』が奏音と出るのよ」
何も問題はない、と言っているようだけど、こっちとしては問題ありまくりだ。
暫く睨み合いが続いたが、社長は鼻で笑うと渉から目を逸らした。
「ほら、もうすぐ奏音が来るから」
「……っ、着替えてくればいいんでしょ! バレても知らないからね。ていうか、バレるようなことがあったら、一生恨んでやるから!」
渉はそう言い捨てて、社長室を出た。
思い切りドアを閉めると、中から怒鳴り声が聞こえた。
それを無視して、渉専用の更衣室に入り、乱暴に制服を脱ぎ始める。
「全く……人手不足だからって、娘を扱き使うなっての」
ため息をつきながら、用意された服を手に取る。
普段は絶対に着ないような女の子らしい服。
……『琉環』として仕事をする時だけ着る、服。
最初の『琉環』の仕事は、ファッション誌のモデルの代役だった。
事務所と契約してるモデルやタレントはみんな、他の仕事があって、仕方なく一回限りの約束として受けた。
断れば済むのに、大手の雑誌だから断れないとか言って、素人の自分の娘にその仕事をさせるなんて、今になっても信じられない母親だ。
何度か仕事の手伝いをしていたので、なんとか成功したからよかったものの、大失敗していたらどうするつもりだったのだろう。
……でも、その成功によって、不運が訪れてしまうなんて。
こんなことなら、失敗しとけばよかった。
そんな後悔をする羽目になったのは、雑誌が発売されてすぐのことだった。
一回限りのはずの『琉環』は、予想以上に注目を集めてしまい、雑誌の方から契約したいと言ってきたのだ。
結局、一回限りという約束は無かったことになって、週三回、しかも土日と夜だけ、モデルの仕事をするようになった。
もちろん今日まではモデルの仕事しかしていない。
今日のようにテレビ出演は初めてだし、モデル以外との仕事も初めてだ。
それが人気アイドルで、同じ高校に通っていて、しかも生徒会長で、昼休みに会った奏、もとい奏音だとは、本当に信じられない。
こんな奇跡みたいなこと、どうして起こったのか、逆に恨みたいくらいだ。
服を着終えると、次に机の上にあるメイクボックスを開いて、軽くメイクする。
社長以外、渉が『琉環』だと知らないし、知られたくないので、全て自分で準備しなければならない。
「マネージャーくらい、つけてくれればいいのに」
メイクが終わると、次は髪だ。
茶色の長い髪を結い上げて、灰色に近い髪色のカツラを被った。
ピンで固定して、ずれないようにする。
これが結構曲者で、一番時間がかかってしまう。
最後にカラーコンタクトを入れて、準備完了。
『琉環』の完成だ。
「琉環ちゃ―ん、準備出来た? 奏音くん、もう来てるんだけど」
「今行きます」
さっきとは違って、仕事の口調で話す社長にいらっとしながら、渉は更衣室を出た。
……ここから出た瞬間から、『琉環』になる。
表面上は。
「……で、こちらが琉環ちゃん」
「よろしくね、琉環ちゃん」
バレないかと内心ドキドキしながら、琉環は奏音に笑顔で会釈した。
当然……というのか、まぁ、気付かれていないようだ。
気付かれちゃ、困るけど。
ほっとしていたら、今度は違う問題が発生。
「あ、そうそう。社長、渉、もう帰ってる?」
奏音がいきなりそう尋ねたので、琉環は不自然に飛び跳ねてしまった。
一瞬不審な目で見られたが、笑顔でごまかす。
……が、ごまかしきれなかったっぽい。
「え、えぇ、たぶん帰ってると思うけど。どうかした?」
「いや……今日誘ったんだけど、用事があるって言ってたから」
言葉の裏を感じられて、琉環は逃げ出したくなった。
即効で『渉』に戻らなくてはいけないような気がしてくる。
奏音なら、今から誘いに行く、なんて言いかねない。
「ま、今度は来てもらえるように、社長からも何か言っておいてね」
「わかったわ。ほら、そろそろ行かなきゃ、間に合わないわよ」
「はーい。じゃ、行こうか。琉環ちゃん」
「は、はい」
手を差し伸べられたが、琉環は思わず思い切り断ってしまった。
少し苛ついた表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、社長室を出て行く。
琉環は一度社長を睨んだ後、奏音を追いかけた。
長い夜はまだ始まったばかり。
あと四時間。
四時間も経てば、仕事も終わって、奏音と離れられる。
琉環はその瞬間をいつになく心待ちにしながら、奏音の後ろを歩いていた。
♪
奏音のマネージャーの車に乗り込んで、琉環は奏音とともにスタジオに向かう。
暫くは二人とも黙っていたが、ふと奏音が呟いた。
「……琉環ちゃんって、いつから仕事してるの?」
「二ヶ月くらい前から、ですけど」
「ふぅん。二ヶ月で事務所一の奏音と共演、か。あんまりいい気にならない方がいいよ」
「……なりません」
奏音が何を言いたいのかは、よく分かっている。
他の人はみんな、何年も努力して、今のこの地位を築いてきた。
それなのに、『琉環』はたった二ヶ月で、ここまで来てしまった。
まさかこんなになるとは、琉環自身も信じられなかった。
今でさえ、夢のようだ。
ここでずっといるつもりはないのに。
本音を言えば、今すぐ辞めたいと思ってる。
でも、それがなかなか出来ないのは、仕事を『琉環』に取られてしまった人たちに、悪いと思うから。
琉環はその重荷だけで、今もこうやって、『琉環』の仕事をこなしている。
「……渉、何の用事だったんだろ」
奏音が窓の外を眺めながら、ポツリと呟く。
その視線の先に映るのは、本当に渉なのかは分からない。
でも、奏音が切なそうな表情をしたのを見て、琉環はぎゅっと目を瞑った。
そして、今この瞬間をどう表せばいいか悩む。
何かぴったりな言葉……。
「渉ちゃんは、デートだと思いますよ」
震えた声で、琉環はそう言った。
きっと渉にとっては、デートみたいなものだから。
何も知らない奏音は驚いたような顔をして、こちらを振り返る。
「マ、ジ……?」
嘘です、そう言って誤魔化せばいいのに。
琉環には、それが出来なかった。
琉環は色々な想いを込めて、ただ小さく頷いた。
……その想いに、奏音は当然気付かない。
隣で小さくため息をつく音が聞こえた。
呆れたのか、それとも傷ついたのか。
再び窓に視線を戻してしまった奏音の表情を、琉環は見ることが出来なかった。
その後は一言も交わさないまま、スタジオに着き、それぞれの楽屋に入った。
琉環は出番が来るまで、そこで待機する。
琉環は奏音を応援しに来た後輩として、その番組に出る事になっていた。
「琉環さーん、そろそろスタンバイお願いしまーす」
「分かりましたっ」
スタッフの人が呼びに来て、琉環は自分の出番を知る。
大きく深呼吸をして、気持ちを切り替えて。
大丈夫、と心の中で呟いて、琉環は楽屋を出た。
♪
「つ、疲れた……」
「どうだった? 初のテレビ出演は」
奏音と別れた後、すぐに更衣室に行き、『琉環』を剥がした。
渉の姿に戻り、ほっと息をついていると、社長が入ってくる。
「ま、これから何度か出てもらうから」
「もう出ませんっ! モデルの仕事だけっていう契約でしょ」
もう奏音との仕事は、こりごりだ。
渉の姿を知られているから、一つ一つの行動に油断出来なくて、いつもの倍近く疲れた。
「ま、そのうち嫌でも出てもらうけど。……そうそう、次の奏音のジャケット、琉環だから」
社長はそれだけ言って、渉の返事を聞かないまま、更衣室を出て行く。
渉が引きとめる前に、ドアが閉まってしまった。
「ちょっと、どういうことよっ!」
渉の叫びだけが、虚しく部屋に響いた。
♪
「なんかめちゃくちゃ疲れてるね、渉」
万知が心配そうに、渉の顔を覗き込んでいる。
昼休み、渉は万知と非常階段で、お弁当を食べていた。
なんとなく奏音の歌を聞きたくなくて、嫌がる万知を無理矢理引っ張って逃げてきた。
……でも、学校中で放送するので、やっぱり聞こえてきて。
外にもスピ―カ―があるから、厄介だ。
「そりゃ疲れるよ……もう、ヤダ」
「じゃあ、もう辞めればいいのに、『琉環』やるの」
万知は呆れたように言った。
渉が『琉環』をやっているのは、万知だけには教えている。
本当は教えちゃいけないんだけど、何回か前の仕事の後、お母さんに嫌味を言われて、その勢いで話してしまったのだ。
……もちろん、お母さんに教えてしまったことは、言っていない。
言ったら、仕事を増やされるのが、目に見えている。
「辞められたら、とっくに辞めてるよ」
「じゃ、頑張れ。いいじゃん、奏音と仕事出来るんだし」
「それが一番嫌なんだけど……」
万知が、何で? というような顔をした。
慌てて笑って誤魔化す。
奏が奏音だとはもちろん言っていない。
そこまで言ってしまったら、今度こそ確実に殺される。
「あ、また生徒会長からの呼び出しだ」
歌が途切れ、いつもの放送が流れる。
今日も学校に来ているらしい。
……あれ、収録があったはずなんだけどな。
取り敢えず渉は無視して、ご飯を口に運ぶ。
会いたくは、ない。
「いいの? 行かなくて」
「行っても、愚痴聞かされるだけだし」
「でも、まだ呼んでるよ? 他の用事かも」
「これ以上、私を疲れさせないで」
何故呼び出されているのかは、大体想像がつく。
大方昨日のことを聞かれるんだろう。
誰といたのか、何処でデートしてたのか、いつからそいつと付き合っているのか……。
考えるだけでもぞっとする。
そんな人、存在する訳ないのに。
「でも、やっぱり行った方がいいんじゃない?」
「……万知は、生徒会長の味方なの?」
「違うけど。生徒会長が凄い形相で、こっち向かってるから」
え、と思って、校舎の方に目をやると、廊下を走っている奏が見えた。
そして、不意に目が合う。
「もっと早く行ってよっ!」
渉は万知に食べかけのお弁当を渡して、そのまま非常階段を駆け降りる。
降りたところで振り返ると、渉をまだ追ってくる奏の姿が見えた。
何処まで追って来るつもりだ、と思いつつ、渉は再び走り出した。
♪
「こ、ここまで来れば大丈夫でしょ……」
「何がだ」
驚いて振り返ると、いつの間にか追いついた奏が、そこに立っていた。
逃げようとすると、腕を掴まれる。
「何で、逃げるんだよ」
低い声でそう言われて、ふっと体の力が抜けてしまった。
毒だ。
そんな声出されたら、嫌でも抵抗出来なくなる。
「……お前、彼氏いるのか?」
「い、いちゃ悪い?」
「いや……悪くはないけど。その、ごめん」
奏は渉から目を逸らすと、渉の腕を離した。
掴まれた腕を反対の手で擦りながら、奏を見る。
「そういうこと、もっと早く言えよな」
視線を逸らしたまま、奏は言う。渉は何も返せない。
ただ、遠くを見つめる奏の顔を見つめていた。
「……もう、呼び出したりしないから。そいつと仲良くやれよ?」
そう言って、奏は渉の隣を過ぎていった。
引き止められない。
振り返ることすら、出来なかった。
「な……何が仲良くやれよ、だよ……」
はは、と力無く笑う。
すれ違う瞬間に見た奏の表情は、とても哀しそうで切なかった。
……なんで、そんな顔するの?
なんで、そんなこと言うの?
「嘘だってば……」
届かない、その言葉を呟く。
届かない、届けられない想いを込めて。
渉は強く唇を噛み締めた。
血の味が口の中に広がる。
「……切れちゃったじゃん、ばか」
血の滲む唇を手で押さえながら、渉は万知のいる非常階段に引き返した。
♪
非常階段に戻ると、まだ万知はそこにいた。
万知は渉の姿を見つけると、笑顔で手を振る。
だが、渉の表情を見た途端、その笑みは消えた。
「ど、うしたの?」
「何でもない。……教室戻ろっか。もう予鈴鳴るし」
心配そうな顔をする万知に、笑顔を向ける。
でも、そんなものが、万知に通用するはずもなくて。
「何があったの? 言いなさいよ」
「何もないってば」
「嘘。何もなかったら、そんな泣きそうな顔しないでしょ」
「嘘ついたのっ! それだけ、だから」
零れそうな涙を堪えながら、渉は強く言った。
万知は悲しそうな顔を見せる。
渉は踵を返すと、校舎の中に入った。
万知を待たないで、そのまま教室に入る。
丁度その時、予鈴が鳴った。
いつになくその音は、渉の心に重く圧し掛かった。
放課後になると、万知が遊びに行こう、と珍しく誘ってきた。
今日は仕事が入っていなかったので、渉はすぐに頷く。
「ケーキでも食べに行かない? 割引券持ってるんだ」
「うん、いいよ」
万知が無理矢理笑っているのには、気がついた。
たぶん万知のことだから、本当は怒りたかったのだろう。
何があったの、どうして泣きそうな顔してたの、なんで何も教えてくれないの……、と。
でも、万知は怒らなかった。
ケ―キ屋に着くまで、二人は黙ったままだった。
何か話さなきゃ、と渉は思ったけど、話題が全く思い浮かばない。
こんなに話さないのは、初めてかもしれない。
店に着いても、何も喋らなかった。
ケーキが運ばれてきて、やっと万知が口を開く。
「勘違いだったら、悪いんだけど。渉は……生徒会長のコトが好きなんだよね?」
「ぶっ」
いきなりその話題を振られ、口に入っていたケーキを吹き出してしまった。
それを見て、万知が笑う。
「きったなーい。もう、何してんの」
「ご、ごめん……って万知が変なこと言うからでしょっ」
机に飛んだケーキの残骸をお手拭きで拭いながら、渉はそう言った。
そして、万知と目を合わすと、二人で同時に吹き出す。
「あはは、本当汚いー」
「うるさいなぁ。ちゃんと拭いたし」
「で、好きなんでしょ?」
笑顔でそう聞かれて、渉は思わず小さく頷いた。
万知の笑みに、顔が赤くなる。
「……でも、無理だよ」
「なんで? 生徒会長、渉にメロメロじゃん」
「無理なものは、無理なの」
「生徒会長が奏音じゃあるまいし」
今度は吹き出さなかったが、その代わり、思い切りむせた。
どうしてこう、図星ばかり突いてくるのだろう。
紅茶でケーキを流し込む。
なんだかもったいない気がした。
けど、仕方ない。
「え、マジなの?」
「……私の家、芸能事務所だって、前に言ったよね? 奏音、うちと契約してるの」
肯定する形となってしまったけど、万知なら大丈夫だと思うから。
実際、『琉環』のことも、ちゃんと黙ってくれてるし。
今の渉には、どうでもよくなっていた。
……なんて、口に出したら、首を締められそうだけど。
「へぇ。似てるなぁ、とは思ってたけど……まさか同一人物なんて。あ、もしかして、いつも呼び出されてるのは、昼の放送が原因だったり?」
「まぁ、大方。今日は違ったけど」
ふーん、と万知はケーキを口に運ぶ。
今日の呼び出しの内容は、聞いてこない。
けど、無言で催促されているような気がした。
どうしようか、と一瞬迷うが、その空気が痛くて、結局話してしまう。
「……昨日、一緒に仕事したの」
「え、奏音と琉環が?」
「うん。丁度生徒会長に、ナマ見に来ない? って誘われちゃって。でも、行ける訳ないから、断ったんだけど。あろうことか、奏音が琉環に、『渉、何の用事かな』って聞いて来たのよ。一応先輩になるから、答えない訳にもいかないし……。で、琉環の姿で言っちゃったの。今日はデートなのって」
「バカじゃん」
間も入れずに突っ込まれて、渉は言葉を詰まらせてしまった。
そこまではっきり言わなくても……。
「分かりません、って答えなさいよ」
「うぅ……確かにそうなんだけど。……今日の呼び出しは、彼氏がいるかどうか、聞くためだったみたい」
「で、あろうことか、渉は肯定しちゃったんだ?」
「ま、ね。そしたら、仲良くしろよ、とか言われて……」
「バカ」
呆れたように万知は繰り返す。
渉はそのまま黙り込んだ。
バカだなんて、自分が一番よく分かっている。
「奏音をやってる生徒会長とは結ばれない、か……」
万知が小さく呟く。
渉は頷いた。
「なんか、運命って本当酷だよね」
苦笑しながらそう言う万知が、なんだか渉よりも傷ついているように見えた。
♪
「はーい、琉環ちゃん、そんまま視線こっちー」
カシャカシャッ、と連続して、シャッターが降りる。
カメラの向こうに、奏音が腕を組んで立っているのが、ここからも見えた。
今日は奏音の新曲のジャケット撮影。
社長の冗談かと思っていたけど……本気だったようだ。
奏音本人も、ジャケットの写真を選ぶために、このスタジオに来ている。
琉環はずっと、その存在を気にしていた。
集中しなきゃ、いけないのに……。
「じゃあ、今度は好きな人でも、思い浮かべてー」
「はぁっ?」
思わず起き上がってしまった。
若いカメラマンが、人懐っこい笑顔を見せる。
「あれ、好きな人おらんのん?」
「い、いないことも、なくはないですけど……」
「ま、何なら俺のこと、想ってくれてもええけど?」
「えぇっ……あ、その、あの」
「おい、困ってる」
奏音が呆れたように呟く。
さっきから何度か、二人は会話を交わしていた。
知り合い……っぽい。
「何や、奏。渉ちゃんに振られたからって、俺に八つ当たりすんなや」
これには琉環(渉)も驚いて、撮影に使っていたソファ―から落ちた。
渉の名前を出すのは、やめてほしいと切実に思う。
心臓がいくつあっても、保たない。
「誰がお前に……っ、いいからさっさと撮れよ、仁」
スタジオに珍しく人がいない理由が、やっと分かった気がする。
仁、と呼ばれたカメラマンは、奏音の本当の姿を知っているようだ。
しかも、結構打ち解けている感じ。
「あの……二人はお知り合い、なんですか?」
「そ、腐れ縁の幼馴染ってやつやねん♪」
「そうなんですか! で、奏音さんって、本名は奏っていうんですか?」
笑顔で言うと、仁はマズイ、という表情を見せた。
後ろで奏音が、怒りを顔に浮かべている。
同じ事務所の子だからって、油断して本名で呼んじゃダメだろ。
可哀相だけど、ごめんなさい。
「仁……」
「琉環ちゃん、聞かへんかったことにして!」
「了解です」
そう返すと、仁はほっとしたような顔をした。
その瞬間、顔を歪ませる。
……人生、そんなに甘くないってこと。
「いってー、何すんねん!」
「油断した罰だよ」
不機嫌な顔をして、奏音が言った。
宙に浮いた足から、蹴ったんだと分かる。
それを見て、琉環は慌ててソファに戻った。
とばっちりを、受けるつもりはない。
受けたくない。
「さっさと終わらせろ」
「分かったよ……じゃ、さっさと終わらせましょかー」
仁のその言葉を合図に、撮影が再開した。
♪
それからは何事もなく、順調に進み、なんとか奏音のOKも出て、撮影は終わった。
お先に失礼してスタジオを出ると、いいタイミングで携帯が震えた。
「あ、万知からだ。タイミングいいなぁ」
撮影が終わったら、万知と会う約束をしている。
すぐにメ―ルを返して、急いで控え室に向かった。
鍵を閉めてあるのを、何度も確認して、すぐに着替える。
ここで『琉環』を剥がすということは、奏音や仁がここに戻る前に出なければならない。
写真を選んでたし、話も長くなりそうな雰囲気だったから、大丈夫と思うけど。
「あれ、鍵閉まってるやん。なんで?」
後はここから出るだけになった時、ドアの向こうで声がした。
仁、だ。
「無意識に掛けたんじゃね―の?」
「んな訳ないやん。鍵、部屋ん中やし」
「俺、マスターキー借りて来るわ。ここで待ってて」
奏音は仁にそう言って、ため息をついていた。
渉は耳を澄ませる。
聞こえる足音は一つ。
たぶん……いや、確実に奏音のもの。
ということは、ドアの前には仁がいる。
窓の方へ駆け寄るが、ここは三階。
「……琉環ちゃん、いんの?」
仁がドアの向こうから聞いてくる。
今から琉環に戻ることは、無理だ。
メイクボックスは、事務所の更衣室の中。
メイク無しでバレない、という自信は、全くもってない。
そうこうしているうちに、奏音が戻ってきた。
鍵が差し込まれる音がする。
隠れようにも、隠れられそうな場所はない。
机の下……も、無理がある。
「じゃ、鍵返してくるから」
「よろしく―」
ドアが開かれる。渉は、目を瞑った。
「わ、渉ちゃん?」
仁の驚いたような声が聞こえて、渉は胸が痛くなった。
♪
「……ってことは渉ちゃんが、『琉環』やったっちゅうわけ?」
「そうです……」
仁は奏にお茶を買いに行かせて、渉から事情を聞いていた。
こうなってしまったら、隠しようもないので、渉も素直に全てを話す。
心の中で社長に謝りながら。
「このこと、奏は知ってんの?」
「言ってません。誰にも教えないことも契約の内でしたから。……あ、友達の万知には、言っちゃいましたけど」
「そっか。じゃあ、デートは嘘やったんやね」
「……はい」
だんだん自分が小さくなっていっている気がした。
もうどうしよう、としか言い様がない。
もうすぐ奏も帰って来る。
……奏はこのことを知って、どうするだろうか。
やっぱり怒るかな、それとも、呆れて……。
「ま、奏にバレたらヤバいんやろ。今のうちに帰りぃ」
「い、いいんですか?」
「人それぞれ、知られたーないこともあんやろ。それに、奏には、ちゃんと渉ちゃんの口から言った方がええと思うし。ほら、はよう行かな帰ってくる」
仁は丁寧に、裏口までの道を教えてくれた。
渉はお礼を言って、控え室を出る。
「……早めに奏に教えたってな……渉ちゃん」
最後に呟かれた言葉を、渉は不思議に思いながら、教えてもらった裏口に向かって走った。
♪
「で、バレたんだ?」
明らかにバカにした目で、万知とお母さんが見てくる。
家に帰ったら、部屋に万知とお母さんがいた。
いつの間にか、万知に話してしまったことがバレている。
「大体事務所に帰って来てから、『渉』に戻らないから、こんなことになるんでしょ」
「だって……」
「契約違反につき、テレビ出演決定」
「ちょっと、なんでそんな話になるのよ!」
「いいじゃん、ドラマ出演だよ? しかも、主役は奏音。愛しの生徒会長!」
「……あんた、奏音のことまでも、バラしたの?」
「す、すみません……」
今日二回目、小さくなりつつある渉。
二人の呆れたような視線が痛い。
……なんでこんなにも、悪いことが続くのだろう。
殆ど自分が原因なんだけど。
全部、か。
「ま、ちゃんと人気が出たら、奏音くんと付き合う許可、出してあげるわよ」
「……『琉環』と、でしょ? それじゃ意味ないじゃない」
「なんで? 『琉環』は渉なんだから、一緒じゃない?」
「奏音は『琉環』が私だってこと、知らないもん」
あ、そっか、と隣で万知が頷く。
渉はクッションを抱きかかえて、そこに顔を埋めた。
……てか、なんでお母さんが、私の部屋にいるのよ。
「……ちょっと待って。ドラマ出演って、もちろん脇役だよね?」
「そりゃね」
「そのドラマって、やっぱり恋愛物でしょ」
「奏音くんの新曲から、出来たものだからね。最近の奏音は、そっち系しか歌わないし」
「……嫌だ、出たくない。私、出ないから」
目の前で他の女の子と仲良くしてる姿、見たくない。
ただでさえ仕事柄、そういう機会も多いのに。
テレビの世界だけでいいよ。
そんな姿、見るのは。
新曲から作られたものなら、甘酸っぱい青春の恋愛ドラマなんだろう。
一目惚れして、相手の気を引こうと頑張って。
無言の時間を愛しく想って、告白するきっかけを探して。
憧れる恋愛。
……奏としたい恋。
他の人としているのを見るなんて。
拗ねていると、万知とお母さんが笑い始めた。
……こいつら。
「な、何、笑ってんのよ!」
「そ、そんなに、嫌なら。奏音くんに頼んでみれば?」
お母さんが冗談混じりに言った。
それが出来て、主役になれたら、本当この世界から飛び出したくなる。
いや、飛び出してやる。
……それに。
自分から危ない道を、進むつもりはない。
奏音の相手役なんかやったら、絶対『琉環』が渉だってことがバレる。
それだけは、とにかく阻止したい。
「渉、かわい―」
「そりゃどうも」
二人はとうとうお腹を抱えて、笑い出した。
呆れて言葉も出ない。
笑い過ぎ。
……首、締めてもいいだろうか。
「いっそのこと、奏音にバラしちゃったら?」
「あ、それいいね。万知ちゃん、グッドアイデア」
「そんな簡単に、バラそうとか言わないでよっ」
「もう二人にバレてるんだから、三人になろうが四人になろうが、変わりないわよ。なんなら、社長の私から、言ってあげましょうか?」
「じ、自分で言いますっ!」
まだ笑い転げるお母さんにクッションをぶつけて、渉は万知の腕を引いて、家を出た。
♪
渉は拗ねたまま、万知の前を歩いた。
「ごめん、ごめん。で、バラすの? 生徒会長に」
「考え中。ここまで来て、本当のこと話したら、逆に嫌われそうだし……」
もう何度も一緒に、仕事をしてきた。
一度きりだったなら、言えたかもしれないのに。
今日も殆ど一緒に、仕事をしたようなものだ。
「まぁ、あの生徒会長だから、怒るのは確実だろうね」
「でしょ。怒りっぽいし」
「だーれーがー、怒りっぽいって?」
背筋にすっと寒気が走った。
万知と一度目を合わせて、恐る恐る後ろを振り返る。
「ひ、日高奏……」
「俺に、何を隠してるんだよ」
笑顔だけど、笑顔で言っているんだけど。
後ろに漂うオーラが黒く見えて、渉は思わず小さく悲鳴をあげてしまった。
「な、何もないよねぇ、渉。ただ生徒会長が、奏音に似てるなぁって、話してただけで」
万知がフォロ―するように、慌てて言った。
奏は一瞬眉間に皺を寄せて、渉を見た。
渉は慌てて首を横に振る。
犯人は自分だって、分かってる。
だけど、やっぱり怖かった。
「……まぁ、長谷川も勘が無駄にいいからなぁ」
「無駄に、は余計だと思うけど?」
「長谷川の察知の通り、俺が奏音だよ」
そんなに簡単にバラしていいのか、渉には謎だった。
万知もこれには驚いたようで、目を丸くしている。
「へ、へぇ……そうなんだ。じゃ、サインでもしてもらおっかな」
いいよ、と奏は言うと、万知から手帳とペンを受け取り、適当なページにサインしていた。
その間、渉は周りの人にバレないかと、そわそわと辺りを見渡す。
休日の午後ということもあって、人通りは多い。
何故か奏は、殆ど素の姿。
あれだけ人気が出ているのに、変装というものを知らないのだろうか。
バレても構わないと、思ってたり……するのか?
しそう。
「そういや、仕事は大丈夫なの?」
「あーうん。今日は昼から、オフだから」
「それなら、私達とちょっとお茶でもしない? いいこと、教えてあげるよ」
「ま、万知っ? ちょっと」
いいことって、まさか。
確認しようとする前に、奏が楽しそうに口を開いた。
「へー、いいね。お言葉に甘えて、行こっかな。ここの近くに、いい喫茶店が出来たんだ。そこ、行く?」
「行きたーい。そこでいいよね、渉?」
「へ、あ、うん?」
慌てて頷くと、万知と奏はくすくす笑いながら、歩き始めた。
とても楽しそうに話す二人の後ろ姿を、呆然と眺める。
いつの間に、こんなに仲が良くなったのか。
自分と奏がいるよりも、二人がいる方が絵になっている気がして、胸が小さく痛んだ。
♪
「ほら、早く言いなってば」
喫茶店に入ってからずっと、こうやって万知に催促されている。
目の前には、相変わらず黒いオーラを纏った笑顔で、こちらを見てくる奏。
思わず目を逸らしてしまう。
「い、言えるわけないじゃんっ。いつになく怒ってるし」
「でも、今言わなきゃ、何も変わらないよ? 善は急げ、でしょ」
万知がいつになく真剣な顔をして言う。
これでは、渉も折れるしかないような気がして、もう一度奏を見た。
奏は奏で待てなくなったのか、視線を窓の外に移して、人が通り過ぎていく景色をじっと眺めている。
何を考えてるのか、分からない。
でも、たぶん、きっと、怒ってる。
何に対してかは……十中八九自分だろうけど。
「どーすんの?」
「……言えばいいんでしょ、言えば。で、何処辺りを言えばいいのよ」
「全部でしょ。渉が生徒会長のこと好きだってことから、『琉環』が自分だってところまで」
全部は無理だろ、と思いながら、渉は何から言おうか悩む。
でも、こういう時にも上手く言葉が、思い浮かばない。
上手い言葉って、一体どんな言葉を指すんだろう。
相手を怒らせないような言葉?
自分をちゃんと庇い通せる言葉?
「ひ、日高奏っ!」
「……そのフルネーム、止めない?」
奏が呆れた顔で、こちらを見る。
万知が隣で、小さくため息をついたのが分かった。
「じゃあ、生徒会長」
「せめてさ、日高とか奏とか、そっち方面にしてくれない?」
今度は二人が同時に、大きなため息をつく。
それを見て、渉は顔を真っ赤にして、立ち上がった。
店が一瞬静かになる。
恥ずかしい。次の瞬間、そんな想いに捕らわれる。
ため息もそうだけど、勢いよく立ち上がってしまったことも、恥ずかしい。
一瞬集まった視線が、虚しくて。
「今度は何?」
「か、帰るっ!」
「はぁ?」
これまた先程同様、二人同時に言った。
呆れた顔まで、一緒。
似合っている、と思ったら、似てるんだ。
性格も言動も。
容姿も何となく似てるし。
だから、余計に絵になっちゃうんだ。
「じゃーねっ」
渉は自分の分のお金をテ―ブルに置いて、喫茶店を出た。
二人とも呆れ返ってしまって、追っても来れないようだ。
一度だけ振り返ると、窓際に座っている二人の姿が見えた。
あの微妙な空気は、もうない。
二人に浮かぶのは、困ったような表情じゃなくて、楽しそうな笑顔。
「……いっそのこと、二人がくっついちゃえばいいのよ」
渉は小さく呟いて、歩き始めた。
♪
あの日から何となく気まずくなって、万知と話してない。
昼休み恒例になりつつあった放送も、奏の言ってた通り、ピタリと止んでしまって、静かな毎日を過ごしていた。
相変わらず歌は、毎日流れているけど。
これを望んでいたはずなのに、なんか寂しくて、拍子抜けする。
あの呼び出しが、嬉しかったんだ。
必要としてくれてるんだって。
一番に思い出してくれるんだって。
失ってから、気付く。
そんなこと、信じてなかったけど、本当らしい。
渉は何度か生徒会室まで足を運んだが、結局入れない日々が続いていた。
特に、中から奏の声が聞こえた時は最悪で、聞いた途端走ってそこから逃げてしまう。
そしていつも、同じような場所で、後悔した。
……奏がいるって、折角わかったのに、と。
やっと生徒会室の扉を開けたのは、奏がツア―ライブでここを離れているという時だった。
当然のことながら、奏はいない。
いるはずがない。
全国ツアーなんだから。
生徒会の人たちは、会長の呼び出しがあった時だけ集まるらしく、生徒会室で見かけたことはなかった。
もちろん、この時も集合がかかっていないので、誰もいなかった。
「いない日に入っても、意味ないのに……ね」
「当ったり前でしょ? あんたは、誰に会いに来たんだっつーの」
後ろから声をかけられて、渉は自然と振り返る。
そこには、あの呆れた笑顔。
「万知……」
「いつになったら入るのか、ずっと見てたけど。今日入るとは、ね。ま、生徒会長には、お見通しだったようだけど」
そう言って、万知は一枚の封筒を、渉に差し出した。
「何……」
「生徒会長からのプレゼント。ツアーに行く前に、預かってたの。渉がここに入れたら、渡してくれって。……開けてみたら?」
渉は封筒を受け取って、封を破いた。
中には長方形の紙が二枚と、小さな紙切れが一枚。
そっと取り出してみる。
「チケット?」
長方形の紙はツア―ライブのチケットだった。
最前列、真ん中の特等席。
日付は明日の最終日で、ここから一番近い会場だった。
「あ、二枚ってことは私もってことかな」
「そう、みたい。一緒に来いって書いてる……」
小さい紙切れの方に、二人で来るよう書いてあった。
あと、よく分からないけど、『ごめん』と『ありがとう』も。
急いでいたのか、とても汚い字で。
その分、嬉しく思った。
そして、なんで何も出来なかったのだろうと悔やむ。
あと一歩、勇気を出せていたら。きっと直接貰えて、直接聞けたのに。
その方が二人にとって、一番よかったのに。
「どうする? そりゃ行くんだろうけど」
「ううん。私、行けないよ……行けない」
「え?」
涙が溢れてくるのを感じながら、渉は首を横に振った。
万知がどうして、という顔で見てくる。
折角くれたのに、最悪だ。
丁度その日は、仕事が入っている。
しかも。
「これ、私、出なきゃいけない。特別出演で、『琉環』として」
「あちゃー。タイミング悪いなぁ、生徒会長も」
「万知だけでも行って、よ。よかったら友達と」
「んー、一枚だけ貰っとくよ。渉の場所に違う子がいたら、それこそ大激怒で、ライブ放棄しちゃうかもしれないし。生徒会長」
万知は冗談で言っているんだろうけど、奏なら本当にやりかねない。
万知の言う通り、放棄しそうだ。
「……私、ちゃんと言うから」
「ん?」
「私、奏が帰ってきたら、全部話す。話せるまで時間かかるかもしれないけど、必ず、言う」
チケットを強く握りしめて、言った。
万知は小さく微笑んで、渉の肩を優しく叩く。
「頑張れ、ちゃんと応援してるから」
「うん」
このチケットはずっと大切にしておこう。
見に行けなくてごめんね、と心の中で呟く。
でも、一番近い場所で、ちゃんと見てるから……。
♪
二日後、渉は『琉環』の姿で、会場に来ていた。
さっきこの姿で、初めて万知と会話を交わした。
渉の分まで応援しておくから、と笑って観客席に戻る万知の背中を見送ってから、奏音の控え室に向かう。
ドアを小さく叩くと、すぐに中から声がした。
琉環は深呼吸してから、ゆっくりとドアノブを回す。
「あれ、琉環ちゃんやん」
ドアを開けると、奏音の他に仁もいた。
琉環は深く一礼してから、部屋に入る。
「今日はよろしくお願いします」
「え、琉環ちゃんがスペシャルゲストなん?」
「そーだよ。しかも一緒に歌うんだって」
奏音は吐き捨てるように、言った。
相当嫌われているらしい。
そして、『琉環』に向かって、不機嫌そうな声で言う。
「ちゃんと歌詞覚えてきたよね? ボイストレーニングは? リハ出てなかったけど、大丈夫なわけ? 最終日、失敗したくないんだけど」
「えっ! その、あの、えっと……」
「奏、これ以上緊張させたらあかんやろ」
「勝手に緊張してるだけだろ。じゃ、俺そろそろ時間だから」
奏音は、完全に固まってしまった琉環と苦笑いの仁を残して、部屋を出て行った。
残された二人は、ただ奏音の姿を見送ることしか出来なかった。
「……あの調子やったら、まだ言えてないみたいやね、琉環ちゃん」
「う。すみません……」
「えぇよー、謝らんでも。アイツ、タイミング難しいけんなぁ。なかなか言えんのは、よー分かる。まぁ、今日は頑張りや」
「はいっ。じゃあ、私もこれで」
琉環は奏音の控え室を出た。
そして、舞台裏まで向かう。
奏音のライブを、一番近い場所で見るために。
奏音が一度も、目を合わせてくれなかったことを、思い出しながら。
ライブは今のところ、問題なく進んでいた。
バラ―ドからロックに近いものまで、いろんなジャンルを歌う奏音は、本当にかっこよかった。
……奏音のことだから、もう気付いているだろう。
あの席に、『渉』の姿がないことを。
どんな想いで、そこに立っているのだろう。
どんな思いで、歌を歌っているのだろう……。
痛い。
痛い、よ。
なんで、琉環なんだろう。
なんで、渉じゃないんだろう。
ここにいたいのは、渉なのに。
琉環じゃなくて、渉なのに。
後悔、している。
今までで一番、琉環が嫌いだと思った。
琉環の出番は、刻一刻と近づいていた。
琉環と奏音が一緒に歌うのは、ドラマの基になる新曲、琉環がジャケットのあの歌だ。
通学中も家に帰ってからも、ずっと聞いてきた。
大丈夫。
歌詞もメロディーも、耳に残っている。
少しだけ自分と重なる歌は、心に残っている。
ちゃんと。
とうとうその時が来て、琉環は奏音と一緒に舞台に上がった。
「今日は事務所の後輩、琉環ちゃんが応援に駆け付けてくれました! ほら、琉環ちゃん、自己紹介して」
「じ、自己紹介……!?」
そんなこと、聞いてない。
歌を歌うだけじゃないの?
慌てて首を横に振ると、会場が笑いに包まれた。
「挨拶も出来ないくらい、緊張してるみたい。皆さん、許してやってくださいね。それでは……ラストは、新曲を琉環ちゃんと一緒に歌います」
奏音が苦笑い混じりに言うと、前奏が始まった。
奏音にマイクを渡された瞬間、琉環は大きな緊張が襲ってくる。
「大丈夫。ちゃんとフォロ―するから」
前奏が終わる。琉環は大きく息を吸い込んだ。
フラフラになりながらも、なんとか琉環の出番は終わった。
最後の方は、奏音に支えられていなければ立てない状態になって、大きな迷惑をかけてしまった。
それでも笑顔を向けてくれて、ちょっと安心した。
作り笑いだったのは、バレバレだけど。
……終わったら、嫌味言われそう。
当然のことながら、『渉』の席は、最後まで空席のままだった。たった一つの空席。
そこに座りたいと思った人は、何人いるだろう。
なんか、本当に申し訳ない。
チケットさえ、手に入れられなかった人もいるのに。
「お疲れ」
舞台を降りてから、小さく奏音が言った。
琉環も慌てて、「お疲れ様でした」と返す。
顔は上げたが、やっぱり琉環と目を合わせないまま、奏音はアンコ―ルの準備に取り掛かっていた。
スタッフの人に連れられて、控え室に戻る。
「お疲れー、琉環ちゃん」
「仁、さん」
何故か、仁がいた。
一応、女性の控え室なんだけど、関係ないらしい。
ゆったり寛いでいる姿に、力が抜けた。
「渉ちゃんの席やな? あの空席は」
「……はい」
「奏も分かりやすい奴やな、ホンマ」
苦笑いは、奏音に向けられている。何が分かりやすいやすいのか。
首を傾げると、琉環にも苦笑いが向けられた。
「何ですか」
「いや、何もない。……琉環ちゃんがちゃんと言えた時、全部分かるわ。やけん、頑張ってな」
仁はそれだけ言って、奏音の控え室に戻っていった。
ドアが閉まった途端、腰が抜けて、その場に座り込む。
「……どうしよ」
琉環はそう呟いて、小さくため息をついた。
「お疲れっ! どうだった、初ライブ共演は」
無事にライブを終えて、渉は『琉環』の姿で万知と合流した。
もちろん帽子、サングラス着用でプチ変装している。
「どうもこうも。死ぬかと思いました」
「そりゃそうか。あんな大勢の前で歌ったしね。何気に上手かったじゃん」
「猛特訓したからね。失敗したら、怖いし」
真面目にそう答えると、万知がおかしそうに笑った。
それにつられて、渉も笑う。
「明日が怖いねー」
「もう、人事だって思って」
「ごめん、ごめん。そういや、ドラマの撮影はいつからなの?」
「明後日から。学校休むけど、適当に理由つけといてね」
長期休みになると、クラスメイトも疑いを持つだろう。
一番仲がいい万知に聞いてくるのは、目に見えている。
まぁ、長期と言っても、一週間くらいなんだけど。
脇役で、出番が少ないので、他の役者よりもずっと早く終わる。
「了解。この万知様に、任せときなさいっ」
「……なんか任せたくないー」
そう言って、顔を合わせてまた笑った。
そうやって笑えるのも、一週間はお預けになる。
その一週間が過ぎたら、何か進展を伝えられるといいな、と思った。
♪
「はいっ」
田舎の風を感じていると、今回限りのマネ―ジャ―が呼びにきた。
今は、奏音が主演のドラマの撮影に来ている。
田舎の高校生の青春ドラマで、奏音の新曲が基。
琉環は、奏音の相手役の、ちょっと仲のいい友達役だった。
台詞も少なく、こうやって田舎を楽しむ余裕もある。
「琉環ちゃん、さっき言った位置に立って」
「はい」
初めてのセーラー服を身に纏って、軽い足取りで言われた場所につく。
他の人がそれぞれ自分の配置につき、撮影は始まった。
こうやって撮影していると、モデルよりも女優の方が合ってるかも、と思ってしまう。
一枚の絵を表現するより、一人の女の子の思いを表現する方が、断然楽しかった。
ドラマの撮影の間には、雑誌用の撮影もあった。
カメラマンはあの仁で、二人で川原や山の麓、閉校した学校まで遊びに行った。
もちろん、撮影もしたけど。
「琉環ちゃん、黒髪も似合うなぁ」
「そうですか?」
仁は琉環の髪に触れながら、そう言って笑った。
ドラマに合わせて、今は黒髪。
さすがに灰色でいく訳にもいかない。
「いっそ、黒にせーへん? 渉ちゃんも」
「えー……考えときます」
「で、琉環ちゃんは、いつ奏音に話すつもりなん?」
「近いうちに。やっぱりいざとなると、怖いですね……」
「分かる、分かる。なんかオーラが違うんよな。どす黒いオーラが」
「誰が、どす黒いオーラを纏ってるって?」
仁と二人で土手に座り込んでいると、上から声が降ってくる。
仁はその声を聞いて、逃げるように川原に下りて行った。
それを奏音が追うのかと思えば、渉の隣に立ち、呆れたように仁を見つめている。
「ったく。……この前のライブはお疲れ。結構、歌上手いんだね」
「いえ、そんなことないです。奏音さんの迷惑にならなかったなら、いいんですけど……」
「いや、琉環ちゃんのお陰で、大成功だよ。評判もよかった」
「そうですか。よかったです」
まだ目を合わしてはくれなかったけど、微笑んでくれたので、琉環はほっとした。
今が、チャンスかもしれない。
ここには他のスタッフもいないし、平日だからか、住民も歩いていない。
「あの……」
「何?」
「は、話があるんですっ」
勢いに驚いたのか、奏音がこちらを見た。
久々にあった視線。
だけど、あまりにも勢いよく行き過ぎて、逆に緊張を高めてしまった。
「話って?」
「あの、その……今日、夜時間ありますか?」
夜に呼び出しなんて、逆にヤバくないか? と言ってしまってから、思った。
でも、奏音の方は大して気にしていなかったようで、少し考えた後、頷いた。
「じゃ、旅館の庭で会う?」
「はい! ありがとうございます」
「何、二人で仲良く話してんのー、俺も混ぜてや」
仁が小さくピースをしながら、琉環と奏音の間に割り込んできた。
それが自分に向けられたものだと気付いた琉環は、仁にピースを返す。
仁は渉の肩を抱き寄せて、「ファイトやで」と耳元で囁いた。
♪
夜、そっと部屋を抜け出して、庭に出た。
まだお風呂にも入っていないので、『琉環』の姿のままだ。
メイクボックスを手に持って、約束の場所に向かう。
約束していた池まで行くと、既に奏音が来ていた。
もうお風呂に入ったのか、浴衣姿だった。
「奏音さんっ」
「やっと来た。まだお風呂入ってないの?」
「えっと、はい、いろいろ事情がありまして……」
マネージャーも、琉環が『渉』だということは知らされていないので、そう簡単にお風呂に入り、『渉』に戻ることは出来なかった。
ましてや、奏音と会う約束もしている。
「あの、奏音さんの部屋って、仁さんと二人でしたよね?」
「うん、そうだけど。あ、仁なら、今温泉に行ってるよ」
「なら、丁度よかったです。……部屋に、行ってもいいですか?」
奏音は驚いたように、こちらを見た。
それもそうだろう。
こんな意味深な言葉を、後輩、しかも異性に言われたら、誰だって驚く。
正直、言った自分も驚いていた。
「嫌なら、いいんです。その、あの、そういう意味じゃなくって……あの……」
「……まぁ、いいよ。散らかってるけど、それでもいいなら」
そう言って、奏音は歩き始めた。
渉は見失ってしまわないように、慌ててその後に続く。
暗い庭では、すぐに姿を見失いそうだった。
見失っては、ここまで来た意味がない。
メイクボックスが、カチャカチャとなるのを気にしながら、琉環はこれから後のことを考えていた。
♪
「どーぞ」
通されたのは、琉環の部屋よりも、随分と広い和室だった。
奏音の言っていたように、結構散らかっている。
奏音は荷物を端に寄せて、空いた場所に座るよう言った。
奏音も、そこに座る。
このまま座ったら、結構近くない? と気にしてしまうのは、琉環の姿だからか。
これから、やろうとしていることからか。
どっちにしろ、座れなかった。
「座らないの?」
「いいです。あの、ちょっと、見て欲しいことがあって……一つだけ、約束してください」
「何?」
「絶対に、叫ばないで下さい。あと今日のことは、他の人には秘密で。それさえ約束してくだされば……殴っても蹴っても追い出しても焼いても煮ても食べちゃっても、構いませんっ」
「焼いたり煮たり食べたりは、誰もしないと思うけど。……まぁ、いいよ。約束する」
ほっと息をついてから、琉環は『琉環』を剥がす準備に取り掛かった。
最初に、カラーコンタクトを外す。
次は、メイクを。
その間、奏音は黙ってその様子を見つめていた。
視線が、痛い。
琉環は我慢しながら、髪に取り掛かる。
だんだん手が強張ってきて、上手くピンが外せなくなってきた。
怖い。
奏音がどんな反応をするのかが、とても怖い。
拒絶。
その言葉が、ぐるぐる回る。
なんとかピンを全部外ししたが、カツラを外す勇気が出なかった。
手も足も震えている。
「……大丈夫?」
心配そうに、奏音が尋ねてくる。
琉環は小さく頷いたが、全然大丈夫じゃなかった。
「何がしたいのか分からないけど……今日は止めた方が、いいんじゃない?」
その言葉に甘えそうになる。
ダメ、止めたらダメ。
そう何度か言い聞かせて、思い切りカツラを外した。
髪を結い纏めていたゴムも外した。
これで、変わる。
全てが、終わる。
「わ、渉……?」
奏が呟くように、言った。
信じられない、そんな表情を浮かべている。
言葉も出ないようだ。
逃げ出したい。
ここから、奏から、逃げたくなる。
それをなんとか堪えて、渉は口を開いた。
「『琉環』は、私なの。ずっと……言えなくて」
「嘘、だろ? なんで、もっと早く、言わなかったんだよ……」
「ごめん、なさい」
「……渉」
夢じゃないよな、と小さく呟いて、渉に手を伸ばしてくる。
渉は奏が触れやすいように、膝をついた。
目を瞑ると、そっと触れてきた手を、頬に感じる。
「なんで……」
「それが契約のうちで……万知と仁さんには、バレてしまったんだけど。その……奏には、ちゃんと自分から言わなきゃいけないって思って……ずっと言おうって、早く言わなきゃって、思ってたんだけど」
渉は、ゆっくりと目を開けた。
一番に映るのは、奏。
傷ついたような、そんな表情を見せる、奏の顔。
「……嫌われたく、なかったの」
「え?」
「彼氏、なんていないよ。彼氏なんか、いない」
涙が溢れてくる。
目の前の奏の姿が滲んで、よく見えない。
今もまだ触れている奏の手が、そっと優しく、渉の涙を拭った。
「嘘吐いて、ごめん」
「……じゃあ、なんであの時、そう言わないんだよ……俺、もう諦めてたのに。諦めようとしてたのに……ちゃんと渉のこと、応援しようって決めたのに」
奏の手に力が篭る。
渉は次々と溢れる涙を、抑えられないでいた。
まだ大切なこと、伝えきれていないのに。
言わなきゃ。
ちゃんと伝えなきゃ。
たとえ、拒絶されても、今更遅いって言われても。
上手く言えなくても……自分自身のために、言わなきゃ。
そう思って、手で溢れる涙を拭った。
と同時に、奏の手が離れる。
「あの時は……初めて、一緒に仕事したあの夜は、私にとってデートみたいなものだった。初めて、奏とあんなに近くでいられたから……勘違いさせるようなこと、言っしまって、本当悪いって思ってる。もう……嫌われても、仕方ないって思ってる……。だけど、私は奏が好きなの。奏が、好きです」
「本当……最悪だよな、お前は」
再び溢れ出た渉の涙を拭いながら、奏は呟いた。
その言葉に、苦しくなって、もうどうにもならないくらい、胸が痛くなって。
腕を引かれて、抱きしめらた時には、何が起きたのか理解できなかった。
やっと理解できた渉は、されるがままに、抱きしめられた。
浴衣越しに聞こえる奏の音が、心地よく耳に響く。
抱き締める腕に、少しだけ安心する。
……嫌われた訳じゃない?
「俺こそ……嫌われたと思ったよ……あんなしょうもないことでしか、渉と会う機会を得られなくて。もっと、素直に教室に会いに行けばいいのに、放送でしか呼び出せなくて……。彼氏が出来たって聞いた時、終わったって思った。もう愛想も何もかも、尽かされたんだって、思ってた」
そう言って、奏は腕に力を込めた。
今にも泣き出しそうな声に、切なくなる。
そして、そんなことを想ってくれたことが、嬉しくてたまらない。
それを知ってか知らずか、奏は渉の肩に顔を埋めて、言葉を続けた。
「俺も、渉が好きだよ。初めて会った時から、ずっと好きだった。どうすれば、渉に見てもらえるか、一晩中悩んだこともあった。あの歌も、ここ最近の歌も、全部全部、渉を想って歌ってた」
耳元で響く奏の声が、とてももどかしい。
そして、とても愛しかった。
そっと回した腕に、力を込める。
大好きだよって、想いを込めて。
奏も、答えるように力を込めてくれた。
幸せだって、思った。
たぶん、どんな女の子よりも。
世界中の誰よりも。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
そう、切実に思う。
このままずっと、奏の腕の中にいれたい。
ずっとここに、いたい。
離さないで。
もう離れたくない。
でも、そんなこと、叶えられるはずもなくて。
渉も奏も、入り口で入っていいものかと悩む人影に、全く気付かなかった。
気付きたくなかったのかもしれない。
「あのー、いい雰囲気のとこ悪いんやけど、入ってえぇかな?」
遠慮がちの仁の声が聞こえて、渉と奏は慌てて離れた。
心なしか奏の顔が赤い。
それを見て、渉も自分の顔が赤くなるのを感じた。
「なーんか初々しーて可愛いなぁ」
「うるせーよ、バカ仁。お前、タイミング悪過ぎ。気使えよ、アホ」
赤い顔を腕で隠しながら、奏は言った。
渉は思わず吹き出してしまう。
「わ、笑うなよ」
奏が恥ずかしそうに言うのを見て、渉は声を出して笑い始めた。
後ろで仁も笑い始める。
暫くは拗ねたように見ていた奏も、最終的には笑っていた。
「よっしゃー! お祝いしよっ」
「渉。明日も撮影だから、そろそろ寝るよ」
「うん。おやすみ、奏」
「……無視っすか?」
「仁、渉送ってくるから、布団敷いておけよ」
「自分で、敷けや!」
仁の嘆きを聞きながら、渉は琉環に戻った。
手慣れた様子に、奏が何故か頷いている。
「琉環、だな」
「うん?」
よく分からなくて首を傾げると、優しく頭を撫でられた。
♪
「じゃ、お先ぃー。奏、渉ちゃんは任せときや」
「……めちゃくちゃ、任したくないんだけど」
二人の会話を聞きながら、渉はマネージャーの車に乗り込む。
暫くして、仁も助手席に乗った。
予定通り『琉環』の出るシーンは撮り終わり、一足先に帰ることになった。
もちろん、『琉環』の取材のために来ていた仁も一緒に帰るので、ここには奏音が一人残る。
「渉ちゃんおらへんからって、他の子に手出すなよー」
「出さねぇよっ! ……じゃ、またな」
「はい、頑張ってくださいね」
車の窓から顔を出して、微笑んだ。
奏音もつられるように、微笑む。
「帰ったら、初デートな」
小さく頷いて顔を戻そうとすると、奏が小さく手招きした。
不思議に思って、もう一度顔を出すと、唇に何かが触れる。
「……キスシーン、あるから。一応先にしとく」
奏音は少し顔を赤くして、呟いた。
「……ありがと」
琉環がそう囁くと、奏ははにかむような笑顔を見せた。
琉環も、微笑んだ。
そこで車が動き出したので、琉環は慌てて顔を中に入れる。
撮影に戻る奏音の後ろ姿をちらっと見てから、琉環は前を向いて座り直した。
♪
「へぇ。この一週間で、そんなことがあったんだぁ」
翌日学校に行くと、すぐに万知が駆け寄ってきた。
どうだった? と会うなり聞いてくる万知に、苦笑する。
昼休みにあの非常階段まで行き、お弁当を食べながら、一週間の出来事を伝えた。
「でも、よかったじゃん。両想いで」
「うん……信じらんないけど」
「まぁ、奏音って考えるとそうかもね。で、その奏音はいつまで撮影なの」
「一ヶ月後くらいまでだと思うよ。順調に行けば、もう少し早いかもしれないけど」
今はどのシ―ンまで行っているのだろう、と考える。
ラストのキスシーンは、確か最終日……。
「うわっ! 何、いきなり顔赤くしてんの」
「は、初めてやっちゃった……」
何が、という目で見てくる万知を無視して、渉は赤くなった顔を両手で押さえる。
思い出しただけでも、顔がにやけてきた。
ヤバい、絶対危ない人になってる。
「幸せそうで何よりやな、ほんま」
聞いたことのある声が、突然上から降ってきて、渉は首を傾げた。
つい最近まで、毎日のように聞いていた声。
いや、昨日まで聞いてたかも……?
振り返って、その姿を見る。
渉は階段から落ちそうになりながら、その声の主の名前を叫んだ。
「じ、じ、仁さんっ!」
「よぉ、二日振りやんな。この子、渉ちゃんの友達?」
「ふ、副会長っ!」
万知が仁を指差して言った。副会長なんだ……って。
「仁さん、高校生だったんですか!?」
「あれ、言うてなかった? 俺、奏と同じクラスやで」
しかも同級生だった。
大学生くらいだと思っていた渉は、目を点にして仁を見つめる。
副会長ということは見たことはあるはずなのに、全く記憶に残っていない。
「まぁ、奏が結構目立つからなぁ。気付かんのも、仕方ないやろ」
よいしょ、と万知と渉の二段上に腰掛けた。
そして、手にしていたビニール袋からパンを取り出すと、袋を破ってそれに噛り付く。
「まさか、渉と一緒に帰ってきたカメラマンの仁さんって、更科仁?」
「ありゃ、この子も渉ちゃんが『琉環』やって、知ってるん?」
「前に言ってた、万知です。この子が」
渉は苦笑いで、万知を紹介した。
今の状況に、頭が追いつかない。
仁は、奏と腐れ縁の幼馴染で、副会長で、同い年で、奏と同じクラスで、カメラマンで……。
「……なんで、奏がこの高校にいられるのか、初めて分かったような気がする……」
渉は小さくため息をついた。
♪
それは、もう何度目かのデ―ト。
渉は高校に程近い公園の芝生の上で、仰向けに寝転がっていた。
目に映るのは、雲ひとつない青い空。
いつかの夢のように、手を伸ばす。
「何してんの?」
隣に座る奏が、不思議そうに尋ねてきた。
渉は視線だけを奏に向けて、答える。
「……何か掴めそうだな、と思って……」
もちろん掴めるものはない。
あるとすれば、見えない空気と運悪く潰された虫くらいだろう。
渉は小さくため息をつく。
何かを掴みたいのに、何も掴めない。
それが夢の中同様に、もどかしく思えた。
奏は何を思っているのか、黙ったままだ。
指の間から見える空を見つめて、渉はもう一度ため息をつく。
その時だった。
夢と重なる光景。
何も掴めないはずの手が掴んだもの。
「これで、掴めただろ?」
驚いて奏を見ると、奏は何故か嬉しそうに笑っている。
「こうやって、ずっと掴んでろよ。俺も絶対離さないから」
奏はそう言って、渉の手を握った。
渉も握り返す。
そして、顔を背けた。
可笑しくて笑えてくる。
奏が怪訝そうな顔をしているのを想像しながら、渉は手を握ったまま、上半身を起こした。
その顔に笑みを浮かべて、奏を見る。
「そんなこと言って、離したら許さないよ?」
「……お前こそ、な」
二人で顔を見合わせて笑った。




