表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/55

サンカク関係。

 私と、君と、貴女。

 私たちの、チイサナカンケイ。


△▼△


「いいよ」


 ぱぁと浮かんだ笑顔に、私は心の中で冷笑する。

 そんなことを知る筈もない彼は、嬉しそうに次の言葉を紡ごうとしていた。

 だけど、それは言わせない。

 言う必要も言われる義理もないから。


「但し、三日だけだから。三日だけ、私の時間をあげる」


 一瞬で冷えた空気に、私はただ喜びを感じていた。


 *


 朝が来るのは、思っているよりも早い。

 まだ薄暗い街並を見下ろして、あるはずのないモノを探した。

 ―――流石にそこまでバカじゃないか。

 カーテンに手を伸ばした時、聞き慣れない音が部屋に響く。

 時計を見ると、六時を少し回ったところ。

 ……こんな朝早くに、誰が。

 側にあったカーディガンを羽織って、ゆっくり玄関に向かう。

 その間も一定の間隔で、それは鳴いていた。


「誰」

「俺……だけど」


 世間を騒がす詐欺の手口か。

 私はドア越しに来客を睨んだ。


「だから、誰よ」


 誰かなんて、とっくに分かっている。

 声も顔も、ちゃんと覚えている。

 でも、私は同じ質問を繰り返した。

 明らかに困った表情の彼を覗き見ながら。


「湊谷。湊谷未来」

「そう。じゃあ、私は?」

「……宮都七虹」


 返答を聞いて、ドアを開けた。

 湊谷は意味を理解するのに、困っているようだ。


「何か用?」

「え……宮都さんが」

「あぁ。そうだっけ」


 忘れてた、なんて、表情に出すと、湊谷は慌てて首を横に振った。


「ちょっと早過ぎたのかも。ごめんね」


 ―――バカだ。

 取り敢えず家の中に入れて、私は部屋に戻った。

 彼は玄関に突っ立ったまま、そわそわと家の中を見回していた。


「宮都さん」


 制服に着替えていると、名前を呼ばれた。

 敢えて気付かないフリをする。

 それから二、三度呼ぶ声が聞こえて、また静かになった。

 ―――明日、六時に迎えに来て。

 あの後、私は湊谷にそう告げた。

 何故、と言おうとした彼の言葉を遮って、私は続けた。

 ―――三日間、無駄にしたくないでしょう?

 まさか、本当に来るとは予想していなかった。

 彼には家の場所すら教えなかったのだから。


「宮都さんは、朝早いんだね」


 鍵が掛かった事を確認していると、ふと声を掛けられた。

 ……さっきから、こんな感じ。

 返事もしない私に、呆れる事なく話しかけてくる。

 いや、内心は呆れているのかもしれない。

 でも、ここで終わらせたくないから。

 そこまで考えて、自分を笑った。

 自意識過剰。

 湊谷がそこまで本気で私を想う筈がない。

 だって、私たちには出会いさえなかったのだから。

 始発の電車に乗って、学校のある街を目指す。

 駅までの道すがら、私は何も話さなかった。

 がら空きの電車の中でも、駅を出た後も、何の言葉も発しなかった。

 私はもちろん、湊谷も。


「お昼、一緒に食べない?」


 学校まであと少し。

 そこで彼は、声を震えさせながら、やっと言葉を紡いだ。

 ―――拘束したいんだ。私を、その危うい関係に。

 そんなことを思ったのを知ってか知らずか、湊谷は緊張した面持ちで私の顔を覗き込む。

 答えは既に決まっているが、何となく焦らしてみた。

 校門に一歩近付く度に、隣の空気が重くなってくる。

 結局玄関に着くまで、私は何も言わなかった。


「じゃあ、俺こっちだから」


 階段を上り切ったところで、私は彼を見た。

 湊谷は自分の教室を指差したまま、固まっている。

 段々笑顔が強張って来ているのは、気にしないであげよう。


「お昼、迎えに来てくれるの? それとも、何処かに行けばいいの?」


 私の言葉をすぐに理解できなかったようだ。

 湊谷は固まったまま、私を凝視している。

 階下から声が響いてきて、やっと我に返ったらしい。


「あ、うん。迎えに行くから、教室で待ってて」

「私、売店なんだけど」

「休み時間に買いに行ってくるよ。何がいい?」


 何でも、と答えると、湊谷は、オススメを買って置く、と嬉しそうに言った。

 何だか見ていられなくなって、私は彼から目を逸らした。


「じゃあ、お昼に!」


 足音はやがて聞こえなくなった。

 椅子を引く鈍い音が聞こえて、何も聞こえなくなった。

 いつの間にか階下から響いて来た甲高い声も聞こえなくなっている。

 一息吐いてから、私は教室に向かって歩き出した。

 朝早い校舎は、昼間の姿が思い出せない程、静かだった。


 ―――あと二日。

 与えたのは、たったの三日間。

 多分、すぐにその時はやってくる。

 その時、彼に新しく与えるモノはもう決まっている。

 最後の日、私は。


△▼△


「好きです」


 友達に急かされて、やってしまった告白。

 まだそんなに好きじゃなかった。

 だから、もう少し後にしようと思ってた。

 だって、彼女は俺を知らない。


「いいよ」


 知らない筈なのに、彼女は肯定の言葉を口にした。

 それは、少しでも俺を知っていたということ。

 思わず笑みを浮かべてしまう。


「あり……」

「但し」


 ―――三日だけ、時間をあげる。

 訳が分からないという顔をしている俺に、彼女は最高に冷たい笑顔を見せた。


 *


 制限を与えられても、逸る気持ちを押さえ切ることが出来なくて。

 あっという間に待ち焦がれた昼休みはやってくる。

 彼女の教室に行くのは、これで三度目だ。

 告白した時と昨日同じ時間に迎えに行った時。

 どちらの時も、彼女は一人で教室の隅の席に座っていた。

 多分、今日も同じだと思う。

 彼女は一人、俺を待っていてくれている。


「宮都さん」


 ドアの外から小さく呼ぶと、彼女は顔を上げた。

 どんなに騒がしくても、宮都さんは俺の声に気付いてくれた。

 たまたまなんだろうけど。


「遅い」

「ごめん。今日はカツサンドにしてみたんだけど、どう?」


 彼女はただ頷いて、俺の隣を通り抜けていった。その後ろを慌ててついていく。

 ……まるで、母親に必死についていく子犬のような気分。

 そんな自分を笑いながら、俺は彼女の背中を追った。

 昨日と同じ空教室に入ると、彼女は俺の顔を見上げて、珍しく口を開いた。


「七虹。宮都さんじゃなくていい」


 それだけ言って、俺の手からカツサンドの入った袋を奪っていった。

 突然の事に、俺はただ呆然と彼女を見つめる事しか出来ない。


「なな、こ?」

「何」


 いつもと同じ鋭い視線で、俺を睨む。

 俺にとっては、痛くも痒くもないんだけど。

 いや、むしろ視界に入れてもらえるということが嬉しいんだけど。


「……用事もないのに、呼ばないでくれる?」


 不機嫌そうにそう言った七虹が、とても愛しく思える俺は相当ヤバいんだろうな。


「カツサンド、美味しい?」


 返事は返って来なかった。

 隣にそっと座って、自分の分のパンを袋の中から取り出す。

 ―――何のために三日間という時間を与えられたんだろ。

 パンに齧り付きながら、俺はふと考える。

 短いとしか言えないこの時間で、七虹は何をしようと思っているのだろう。

 三日間で俺を知ろうとしている、なんて甘い考えが浮かんで、俺は慌てて首を振った。

 ふと、彼女に視線を向けると、既に昼食を終えて、携帯をいじっていた。

 指の動きからして、多分メールを打っているのだろう。

 少しぎこちない動きに、小さく微笑む。

 ―――俺でも、もうちょっと速く打てるぞ?


「メアド」


 急に掛けられた言葉に、俺は少し戸惑った。

 ……しまった。この展開、昨日もあった気がする。

 不思議そうに俺の顔を覗き込む七虹に、言葉を失うところまで同じじゃねーか。


「いるんなら、教えるけど」

「いるっ! え、俺、貰っていいの?」


 動揺を隠せていない俺を少し睨んで、彼女は自分の携帯を差し出した。


「えっと」

「赤外線とか分かんないから」


 ……勝手にやれ、ということだろうか。

 七虹から携帯を受け取ると、自分の携帯を取り出した。

 取り敢えず俺のメアド諸々を彼女の携帯に送っておいた。


「あとで、俺に送って貰える?」


 彼女は何も反応しなかった。

 それを肯定だと信じて、俺は携帯を握り締めた。


「三日間終わっても、持ってていい?」


 決して連絡を取ろうとしないから、と付け加えると、七虹は少し眉間に皺を寄せて、頷いた。

 彼女を教室に送って少しした後、ポケットの中の携帯が小さく震えた。

 期待しないように、深呼吸してから、携帯を取り出す。

 知らないメアドから送られたメールには、彼女の名前だけが淡々と表示されていた。


 ―――あと一日。

 明日が七虹との約束の日。

 タイムリミットまで、あとどれだけ彼女と一緒にいられるのだろうか。

 与えられたのは、たったの三日間。

 多分、その時はすぐにやってくる。

 その時、彼女から新しく与えられるモノは決まっているだろう。

 最後の日、俺は。


△▼△


「可哀相なことするね」


 珍しく電話してきたかと思えば、彼に告白されたという報告。

 それだけならまだしも、彼女の言葉は続いた。

 ―――三日間だけ、時間をあげることにしたの。

 彼女は知らないから、そんなことを私に報告できるんだ。

 彼女は知らない。


「程々にしてあげなさいよ? 全く」


 私が彼に告白を急かした事も。

 ……私が彼を好きな事も、何も知らない。


 *


 つまらない授業でも、いつかは終わって、夜が近付く。

 赤く染まった空は、明日も晴れると笑っている。

 私は彼女と一緒に、彼の迎えを待っていた。

 昨日も一昨日も、先に帰れと言ったくせに、今日は一緒に待ってくれなんて、本当にバカバカしい。

 そこで断れない私は、もっとバカバカしかった。


「……今日で終わり、だったっけ」

「うん、そう」


 素っ気無い返事はいつものことだけど、今日は無性に苛つく。

 ……多分、今日が彼にとっての大事な日だから。

 友達として、心配している。

 好きだから、心配なんだ。


「楽しかった? 弄んでみて」

「光海、何か勘違いしてるでしょ」


 七虹が眉間に皺を寄せたが、私は知らないフリをした。

 だって、本当の事だもの。

 彼女は、大切な彼を、傷付けた。

 これから、傷つけようとしている。


「ねぇ、光海」


 七虹が珍しく饒舌だ。

 いや、元々はおしゃべりだったんだけど。

 ―――そういや、あれから二年が経つんだ。

 彼女が寡黙になったのは、丁度その頃からだった。

 確か理由は単純で、誰もが笑ってしまうようなモノだった気がする。

 もう、忘れてしまったけど。


「湊谷は、どっちの私が好きなんだろね」


 私は答えない。

 答えは一つしかないのだから、答える必要もない。

 本当は二つの選択肢があるけれど、彼女は知らないから。

 知らせるつもりもないから。


「湊谷、遅いよねー。彼女待たせんなっつーの」


 わざと逸らしたことに、彼女は気付いただろうか。

 返事はなかった。

 多分、気付いてる。

 知らないフリをしている。飽くまでも推測だけど。

 ―――何のための三日間だったんだろ。

 意味がない訳ではないと思う。

 無意味なことを、彼女が彼に求めるはずがないし。

 三日、という微妙な時間が、彼女に何を求めさせたのか。


「光海と湊谷って、いつから知り合いなの?」


 突然の質問に、私は目を丸くして、七虹を見つめた。

 ―――どうして、それを。

 湊谷にはそれを言わないように、何度も繰り返して頼んだ筈。

 もちろん、私もそれを悟られるようなことは言っていない。

 何も言わない私をどう思ったのか、七虹は私を見て、少しだけ笑った。

 いつもの嘲笑うような笑みじゃない。

 もっと何か……優しい感じ。


「湊谷が言ってた」

「な、なんて?」

「私はもっとおしゃべりな方がいいってさ」

「それが、どうやって、さっきの質問になるわけ?」


 こんなこと言ってる時点で、湊谷と何か関係があると言ってるのと同じだ。

 でも、そんなことを気にしていられなかった。


「私がおしゃべりだったこと、光海しか知らない」


 ……そう来たか。

 逃げるようにここを受験したのだから。

 私以外に、彼女を知る人はいない。

 敢えて、そういう場所を選んだのだから。


「そっか、そうだよね。うん、湊谷とはここに入ってからすぐ仲良くなった」


 最初は、七虹から逃げるために。

 それからだんだんと、好きになっていって。

 結局七虹から逃げ切れなかったけど、もうどうでもよくなってた。

 ただ私は湊谷が好きで。

 いつか告白して、付き合えると思ってた。

 でも。

 彼が好きになったのは、いつも一緒にいた私じゃなくて、七虹だった。


「七虹」


 静まり返った教室に、優しいあの声が響く。

 温かくて愛しい大切な人の声は、私じゃなくて、彼女に注がれる。


「光海、付き合ってくれてありがと」


 彼女はそう呟いて、顔から感情を消した。

 無表情。

 彼女が三日間、彼に与えてきたモノ。

 決して崩さなかった、砦。


 ―――あと数時間。

 タイムリミットまで、あとほんの少し。

 彼女は友達の私にも答えを与えなかった。

 彼女が彼に与えたのは、たったの三日間。

 多分、その時はすぐそこにある。

 その時、彼女が彼に与えるモノは決まっているだろう。

 最後の時、彼女は。


△▼△


「何を、与えたの?」


 最後の日は、昨日。ほんの一日前のこと。

 でも彼女は、何も言わなかった。

 何も教えてはくれなかった。

 ただ、湊谷は笑っていた。

 それはもう、見たことがないくらい幸せそうに。

 だから、きっと予想通り。

 予想通りに、七虹は。


 *


「私が好きだったの、気付かなかった?」


 彼女は酷く顔を歪めて、教室を後にした。

 それを引き止める湊谷の声と、走り去る足音が廊下に悲しく響いていた。

 湊谷は、顔を俯けていた。

 あの後、彼は慌てて七虹を追いかけたが、追い返されたらしい。

 まだ彼女に頭が上がらない彼は、本当に小さく見えた。

 情けなくて、笑っちゃいたいほど。


「……七虹に、何言ったんだよ」


 ぽつりと呟かれた声に、私はすぐ反応できなかった。

 何度か頭の中で言葉を繰り返して、やっと理解できた。

 ―――私のせい、なんだ。全部、私のせい。


「何も言ってないけど?」

「じゃあ、何で」


 今にも泣き出しそうな声で、彼は私を責める。

 ……私の方が、泣きたい。

 いつか来ると思っていた未来を、全て無にされたのだから。


「何で、七虹に拒否されるんだよ」

「……好きだって、言っただけ」

「は?」


 彼は、私の言葉に顔をあげた。

 窓から入ってきた風が、二人の髪を靡かせる。

 じっと、見られている気がした。

 彼に、彼女に。

 見えない何処かから、全て見られているような気がした。


「好きって、何だよ」

「ずっと……好きだったの」

「だからっ」


 簡単に答えを教えるつもりはない。

 これが、彼女への最後の抵抗。

 離れたくても、離してくれなかった七虹への。

 納得のいかない表情を見せる湊谷を見て、小さく笑った。

 ―――あなたには、何も教えてあげない。

 何度も何度も尋ねてくる彼を半ば振り切るようにして、私は学校を出た。

 右手に残るのは、渡せなかった紙袋。

 落ち込んでいる彼を慰めようと、徹夜で作ったほろ苦いガトーショコラ。

 彼女が、彼が、好きだと笑ってくれた、ガトーショコラ。

 ―――結局離れられないんだ、七虹から。

 憎んでも、憎めない運命。

 どんなに嫌われようと、どんなに嫌いになろうとしても無理なんだ。

 誰にも渡せなかった紙袋を見て、泣きそうになった。

 心は泣きそうなのに、何故か笑みが浮かんだ。

 私は、学校を振り返った。

 今はもう小さい建物の何処かに、彼女は居る。

 彼は居る。

 七虹は、湊谷を。

 湊谷は、七虹を。

 それぞれ胸に何とも言えない思いを抱いて、それぞれを待っている。

 ―――これが、最後だから。

 最後の抵抗という、復讐。

 悩んで悩んで、分からなくなればいい。

 ここにいていいのか、このままでいいのか、悩めばいい。

 ……でも結局、一番悩むのは私なのかもしれない。

 彼女の隣にいてもいいのか、彼の傍で笑っていていいのか。

 ふと、ポケットが小さく震えた。

 すぐに止まったから、たぶんメールだろう。

 静かになった携帯を取り出して、画面を開いた。


「……七虹?」


 メールの送信者は、七虹だった。

 件名は無題。

 いつも通りのメールに、少しだけ戸惑った。

 恐る恐る開くと、無機質な言葉が一言。

 寂しく画面の中央を埋めていた。


 ―――『ごめんね、ちゃんと言えた?』


「バッカじゃないの?」


 笑いが込み上げてくる。そんなことのために、大切な彼を追い返したの?

 私なんかのために、大切な彼を拒否したの?

 ……馬鹿馬鹿しい。

 私は、裏切ろうとしたのに。

 あわよくば、離れようとしたのに。


「どうして、離してくれないのよ……」


 掴まれた腕が、痛い。

 でも、もっと痛いのは、掴んで離さない、自分の手。

 携帯をぎゅっと握り締める。

 もう一度画面に目を落とし、続きがあることに気が付いた。


 ―――『言えてないんだろうけど。ガトーショコラも渡せてないんでしょ? 夜持ってきてよ。一緒に食べよう。……あのね、ありがとう』


 ダメだ、と思った。

 留めていたものが、溢れ出る。

 どうして、どうして。

 最後に書かれた言葉を見て、涙が止まらなくなってしまった。

 どうして、彼なんだろう。

 こんなにも人は溢れているのに。

 どうして、湊谷だったんだろう。

 どうして私じゃなくて、彼女だったのかな。

 私が居たかもしれないあの場所に、七虹が居るのかな。私じゃダメなのかな。

 ……ねぇ、教えてよ。

 誰か、教えて。

 ―――私、ちゃんと未来のこと、好きだから。

 彼女はメールの最後にそう残した。

 言われなくても、七虹の想いは全部知っていた。

 全部、気付いていた。

 それでも何も言えなかったのは、きっと私が彼女を好きだから。

 彼が好きだったように、彼女が大切だったから。

 今はもう聞き慣れてしまったチャイムが、ドアの向こうに響く。

 少しだけ温かく聞こえるのは、きっと気のせい。


「七虹ーっ! さっさと開けなさいよ」

「うわっ、いきなり叫ぶなよ」


 開けられたドアの向こうにある姿を見て、私は心臓が止まるかと思った。

 湊谷の向こうで悪戯に微笑む七虹を見て、私はただ笑うことしか出来なかった。


△▼△


「本当によかったの?」


 最後の日は、一昨日。

 もう二日も経った。

 でも彼女は、俺の隣で笑っている。

 あの三日間、一度も見えなかった笑顔。


「本当じゃない方がよかったの?」


 悪戯に笑う七虹に、俺は慌てて首を横に振った。

 でしょう? と彼女はまた、笑った。

 そっと肩に触れると、体を堅くして顔ををあげる。

 そっと肩を抱き寄せると、彼女は一瞬だけ顔を歪ませていた。


 *


 彼女を今日も迎えに行く。

 あの日から変わらない習慣。

 少しだけ変わったのは、七虹と俺の間に空間が出来たということ。

 空間って言っても、何もない空間じゃない。

 彼女の、そして俺の友達である、峰原光海がいる。


「なんで、邪魔すんだよ」

「未来は光海が嫌いなの?」

「そうじゃないけど……」


 二人で居る時間がもっと欲しい。

 そう願っているのに、そう伝えているのに、彼女は一切聞いてくれない。

 頑なに断る姿は、あの頃よりも大きな壁を感じさせた。


「やっぱり、私先に帰ろうか?」

「だーめ。一緒に帰るの」


 何回隣でそんな会話を繰り返しただろう。

 俺は諦めて、彼女から目を離した。

 ―――本当は嫌なんだ。

 俺と帰ることも、俺と二人きりになることも、俺と……付き合うことも。

 七虹は違うと言うけど、絶対そうなんだ。

 初めて彼女に触れて抱き寄せた時、とても嫌そうな顔をしていた。

 それが何を意味しているのかは、分からないけど。

 たぶん……嫌なんだ。


「ちょっと湊谷、聞いてんの?」

「ん、あ、ごめん。何?」


 もうっ、と怒るのは、峰原。

 七虹はそれを、微笑んで見ているだけ。

 しかも、その微笑みは俺に向けられていない。

 寂しいとかそんなのより、とても苛々する。

 悔しい。


「ごめん、俺用事あるから、ここで」


 駅前に着いて、改札口を抜ける二人に叫んだ。

 不思議そうな顔をしたのは、峰原だけ。

 なんだか泣きたくなってきた。


「えー……ちゃんと彼女、家まで送っていきなさいよ」

「……ごめん」


 七虹は俺から目を離して、ホームの方に歩いて行った。

 峰原は俺に怒りの言葉を浴びせながら、彼女の後を追って、人波に消えた。

 彼女の姿は、既に見えなかった。

 ―――もう、ダメかもしれない。

 さよならの言葉さえ、貰えなかった。

 また明日、なんて、一生聞けないのかもしれない。

 あまりにも冷めた彼女に、段々虚しくなってくる。

 俺だけ、俺だけが七虹を好きなんだ。

 最初からわかっていた。

 でも、わかりたくなかった。


「いっそのこと、振ってくれればよかったのに」


 ははっ、と小さく笑って、目頭を押さえた。

 溢れてくる涙を抑えられない。

 こんなにも好きなのに、こんなにも悲しい。

 こんなにも、こんなにも想っていたのに。


「泣いてるの?」


 ふと後ろから声を掛けられて、俺は慌てて振り返った。

 涙を拭うことさえ、忘れて。

 それくらい驚いた。

 だって、この声は。


「七虹、どうして……」

「どうしてって、光海に怒られたから……」


 眉間に皺を寄せて言った彼女に、少しだけ軽くなっていた気持ちが重く沈んだ。

 そして、期待した自分がとても滑稽に思った。

 馬鹿だ。

 本当に、どうしようもないくらい、馬鹿だ。

 笑いと涙が同時に溢れてくる。


「……なんて、言うと思った?」

「え?」

「私、未来の彼女だよね?」


 確かめるような言葉に、俺は思わず大きく頷いた。

 それを見て、ほっとしたように七虹は笑った。

 何故笑ったのか、俺は理解できなかった。

 そもそも、質問の意味もよくわからない。

 ―――俺って、本当に彼氏なのか?

 声にならない問いは、届かないまま自分の中に消えていく。

 彼女が知ることはない、不安。

 気付かれる前に、気付かれて何かが変わってしまう前に……この関係を。


「七虹。……もう、いいよ」

「何が?」

「もう、無理して、俺に付き合わなくていいよ」


 終わりにしよう。

 逃げたって言われてもいい。

 意気地なしだって、何だって言えばいい。

 間違ってたんだ。

 告白もあの三日間も。

 全部、間違ってたんだよ。


「……私のこと、嫌いになっちゃった?」

「違うっ! 好きだから、好きだから……もう嫌なんだ、こんなの……」


 呆れてる。

 顔を見なくても、雰囲気でわかる。

 ……仕方ない。

 耐えられなかった俺が、悪いんだ。

 目を閉じて、溢れた涙を拭った。

 俯いた頬に温かいモノを感じて、俺は目を開けた。

 一番に飛び込んできたのは、少し悲しそうな顔をした、彼女。

 俺の戸惑いを感じたのか、頬に当てた手をそっと首に回してきた。


「最後に、ぎゅってして」


 お願い、と呟いた彼女の顔は見えない。

 でも、何となく泣いているような気がした。

 そっと七虹の腰に腕を回して、優しく抱き締める。

 それに応えるように、七虹も俺を抱き締めた。

 暫くして、彼女から腕を離した。

 俺も、名残惜しく思いながら、彼女を解放する。


「ありがとう」


 七虹は、小さく笑った。

 そして、俺に背を向けると、振り返ることなく改札口の向こうに消えた。

 もう見えない彼女を、俺はずっとそこで見ていた。


△▼△


「私は、ただ繰り返したくなかっただけ」


 ここにいない彼を想いながら、誰もいない部屋で小さく呟いた。

 私は、一人。

 また同じ過ちを繰り返して、一人ぼっち。

 手を伸ばしても、もう何も掴めない。

 掴めそうもない。


「一人に、しないで」


 暗闇に消えていく言葉に、自分を重ねる。

 私も誰にも知られないまま、消えてしまい。

 誰にも見つけてもらえない、暗闇に。

 あの人も、未来もいない、何処か遠い場所に。


 *


 目を開けると、カーテンの向こうが明るくなっていた。

 はっと急いで起き上がったが、今日が土曜日であることを思い出して、またソファに倒れ込んだ。


「未来」


 そっと呟いても、返事は返って来ない。

 知ってる。

 わかってる。

 だって、私には誰もいない。

 彼女をいつまでも縛り付ける訳にもいかない。

 ―――丁度、自由にしてあげる時なのかもしれない。

 いつも一緒にいてくれた光海。

 私から離れようとして、離れられなかったことを、私は知っている。

 いつか離してあげなくちゃいけないって、その時誓った。


「光海、未来」


 どうしよう。

 どうしようもないほど、手放したくない。

 この手でずっと、捕まえておきたくなる。

 忘れなきゃ。

 忘れるの。


「お願い、忘れて……」


 誰か、全てを奪ってくれる人がいればいいのに。

 切実にそう思う。

 あの日と、同じように。


「ウザイんだよ、お前」


 やっと手に入れた、大好きな人の隣。

 嬉しくて、嬉しくて、どうかしてた。

 告白なんて、嘘だったこと。

 気付こうと思えば、気付けたはずなのに。


「俺がこんなウルサイ女を好きになるわけないだろ。てか、お前、大人しそうに見えたのにな」


 ぎゃはは、と笑う声が今も耳から離れない。

 クラス中に響く嘲笑。

 周りの皆が敵に回った、一瞬。

 私は手で両耳を塞いだ。

 また、笑われているような気がした。

 怖い。

 きっとまた、笑われる。


「やだ……」


 悪かった。

 私が悪いってわかってる。

 だから、もういいでしょ?

 笑われなくても、わかってるから。

 もう、放って置いてよ。

 もうやめるから。

 全て、やめるから。

 全部、全部やめるから。

 のそり、と立ち上がって、キッチンに向かう。

 シンクの前に立って、そっと包丁を手に取る。

 涙が、出てきた。

 視界が歪んでくる。

 腕で涙を拭って、刃を手首に当てた。


「バイバイ」

「っ! やめろっ」


 ちくり、と痛みを感じたところで、包丁を取り上げられた。

 あ、と思っているうちに、抱き締められる。


「ごめん、七虹。ごめん」


 手首の小さな傷に、そっと優しくキスされる。

 少しだけ滲み出た血は、キスと一緒に舐め取られてしまった。


「七虹、ごめん」


 泣いていた。

 私じゃない、未来が泣いていた。

 目にいっぱい涙を溜めて、謝っていた。

 何度もずっと、謝り続けていた。


 *


 私はソファに座っていた。

 キッチンで、カタカタと音が聞こえる。

 少し前に光海が来て、キッチンに入っていった。

 閉め切られていたカーテンは、全部未来によって開けられた。

 真っ暗だった部屋は、温かい光に包まれている。


「出来たよ、お昼食べよ」

「なんで……」

「え」

「なんで、止めたの? 放って置いてくれればよかったのに。未来も光海も、私のこと、嫌いになったんでしょう? 助けなきゃいいじゃない」


 呼びに来た彼女は、ぎょっと目を見開いた。

 キッチンまで聞こえたのか、未来も顔を出す。

 

「知ってるんだよ、私。光海が私から離れようとして、未来と仲良くなったこと」

「う、そ……」

「未来だって、本当は私のことが嫌になったから、昨日振ったんでしょう? ……未来は優しいから、本当のこと言えなかったでしょう?」

「違っ」

「違わないっ」


 膝に顔を埋めて、両耳を手で塞いだ。

 何も聞くつもりはない。

 肯定の言葉も、否定の言葉も。

 何も、聞きたくない。

 ―――早く、帰って。私を一人にして。

 もう、嫌だった。

 自分が、嫌だった。

 早く、一刻も早く、ここから消えてしまいたい。

 でも、この二人の前で消える訳にもいかないから。

 それだけはしちゃいけないって、わかってるから。


「もう、早く帰って……」

「帰らない」


 そっと手に、誰かの手が添えられる。

 耳から離されて、強く握り締められた。


「帰ったら、また死ぬつもりだろ? じゃあ、俺は帰らない。絶対、帰らない」

「嘘つき。絶対帰らないことなんて、出来ないじゃない。未来には帰らなければならない家があるんだから」

「じゃあ、七虹を連れて帰るよ」


 顔をあげると、彼は笑っていた。

 光海も、苦笑いを浮かべていた。

 何だか気恥ずかしくなって、私は目の前に居た未来に抱き付いて、顔を伏せた。

 彼は、少し困ったように笑って、優しく抱き締めてくれた。

 その腕はとても、温かかった。


 *


「七虹、おはよ」


 朝目を開けると、一番に飛び込んできた笑顔。

 ほっとしたような表情に、私の胸は強く痛んだ。

 その痛みを隠すように微笑むと、彼は私を抱き寄せた。


「好きだよ」


 囁かれた言葉は、とても甘い。

 でも、何処か切ない甘さで、不安になった私は未来に腕を回して、目一杯の力で抱き締めた。

 私も好きだよって、言うのはまだ怖いから。

 その腕に、一杯の愛を詰めて。

 着替えてリビングに出ると、既にテーブルの上に朝食が三人分並んでいた。

 キッチンから、聞き慣れた声が聞こえる。

 もう、来ていたらしい。

 時計を見ると、まだ八時にもなっていなかった。


「七虹、おはよっ!」

「おはよ、光海。早いね」

「あー、結局泊まっちゃったから」


 ソファを指差して、少し恥ずかしそうに言った。

 何故かは何となく聞きたくなくて、適当に流した。


 昨日、あれからどうなったのか、あまり覚えていない。

 ただベッドの上に連れて行かれて、ずっと彼が抱き締めて、話し掛けてきてくれたのは、うっすらと覚えていた。

 その間光海は、一人でリビングに居たということだろうか。

 ずっと、好きな人が自分の友達に囁く言葉を、一人で聞いていたということだろうか。


「七虹も峰原も、早く朝ご飯食べよ」

「うん」


 光海は少し嬉しそうな表情を見せて、彼の前に座った。

 私は必然的に彼の隣になる。

 少し迷っていると、未来に手招きされた。


「ほら、おいで」


 いつになく優しく声を掛けられて、ドキッとする。

 慌てて彼女に視線を向けた。

 少しだけ歪んだ表情が見えて、体が動かなくなる。

 ―――ダメ、そんな優しい声で私に話し掛けないで。


「い、いや」

「は?」

「私、いらない」


 首を横に振りながら、私は後ずさった。

 二人が不思議そうな顔をして、こちらを見てくる。

 その視線さえも、責められているような気がして、怖くなった。


「まさか、気使ってる?」


 彼女の言葉に、はっとなる。

 こんな態度……バレバレじゃない。

 慌てて首を振ったけど、取り返せない。

 困ったように笑う光海を見ていられなかった。

 私は隣の部屋に駆け込むと、鍵を掛け、ドアにもたれて座り込んだ。


「七虹が言ったんでしょ。ちゃんと好きだって。だから、私はここにいるんだよ?」


 ドアの向こうから、優しい声が聞こえる。

 少しドアが軋んだ。


「出て来なさい。湊谷が待ってるよ」

「でも、私……」

「湊谷、泣きそうだけど」

「ヤダっ」

「じゃあ、早く行ってあげなさい」


 恐る恐るドアを開けると、光海が呆れたようにため息をついた。


「私はもう、新しい恋に進んでるの。邪魔しないでくれる?」

「……ごめん」


 わかったならよし、と背中を思い切り叩かれた。

 涙目で彼女を見ると、顎で未来のいる方を指される。

 私は小さく頷いて、歩き出した。

 そっと顔をあげると、彼はテーブルに顔を押し付けて、じっと動かないでいた。

 そっと肩に触れると、ビクッと体が反応して、私も手を引っ込めた。


「未来……?」

「何」


 昨日とは違う冷たい声に、次の言葉を失う。

 何を言えばいいのかわからなくなって、おどおどと周りを見渡した。

 後ろを振り返ると、彼女がガッツポーズを取っていた。

 たぶん、頑張れって意味。


「私、未来のこと、好きになってもいい?」

「好きじゃなかったんだ、今まで。同情? 俺と付き合ってたのは」

「……かもしれない」


 小さく答えると、彼は肩を震わせて笑った。

 耐えられなくなったのか、上を向いて声を出して笑い出す。


「俺、みじめだな」

「みじめじゃないよ、未来は」

「七虹に言われても、何も救われないんだけど」


 ―――終わりなのかな。

 たった一つの言葉が、上手く言えない。

 もどかしい想いが、心の中をぐるぐる回っている。

 でも、このままでいいのかもしれない。

 面倒臭いって、ウザイって捨てられるよりは、まだいいかもしれない。

 私は光海の視線を感じて、大きく首を振った。

 違う。

 このままじゃいけない。

 彼女のためにも、彼のためにも、答えを出さなきゃいけない。


「未来には、まだ話してなかったよね」


 私の言葉に、彼も彼女も目を丸くした。

 その表情に、二人が知っていることを悟る。

 きっと光海が未来に話したのだろう。

 でも、それは『誰か』伝いの言葉。

 私の言葉じゃない。

 だから、私は話さなきゃいけない。

「中三の夏のこと、だった」

 酷く歪んだ彼の顔から視線を外して、私は思い出したくない過去を話し始めた。


 *


 日差しが段々強くなってきた、梅雨の終わり。

 少しでも涼しい風を取り入れようと、開け放った窓には真っ青な空が広がっている。


「七虹ーっ、秋保くんが来てるよー」

「あ、ありがと」


 窓の外から視線を外し、廊下を見る。

 ドアの前に、大好きなあの人の姿。

 私は夢にいるような気持ちで、秋保くんに駆け寄った。

 彼を好きになったのは、丁度一年前。

 雨の日に傘を貸してくれたのが、最初の出会いだった。

 それまで男子に優しくされたことのなかった私は、シナリオ通り彼に恋した。

 本当に、シナリオ通りに。


「七虹」

「秋保くんっ。どうしたの? 何かあった?」

「いや、ちょっとね。通りかかったから」

「そっか。でも嬉しいな。学校ではなかなか会えないんだもん」


 浮かれてたことに気付くのは、全てが過ぎ去ってからだった。

 このとき、彼の表情の変化に気付いていれば。

 たぶん、もっと違う未来が待っていただろう。


「秋保くんが告白してくれたの、まだ夢みたい」

「なんで?」

「だって、絶対無理だと思ってたんだもの」

「ふぅん。あ、帰り、俺の教室来て?」

「うん、わかったっ」


 秋保くんは、私の頭を優しく撫でてから、自分の教室に戻った。

 とても、幸せだった。

 教室の片隅で、私を見て笑っている人がいたことを、気付かなかったくらい。



 放課後になると、私はすぐに教室を出て、彼の教室まで走った。

 いつもは重く感じる鞄も、今日はとても軽い。

 帰る人、部活に向かう人の波を潜り抜けて、彼の教室に着くと、丁度SHRが終わったところだった。


「秋保くーん……」


 教室の中を見て、私は浮かべていた笑顔が消えるのを感じた。

 何の変わりのない普通の教室。

 だけど、そうなんだけど。

 ―――うそ、だよね?

 あの人は、教室の真ん中にいた。

 その隣には、とても綺麗な女の子。

 彼の腕に自分の腕を絡ませて、嬉しそうに甘えていた。

 秋保くんも何処か幸せそうに、彼女を見つめている。


「お、秋保ーっ。例の彼女が来てるぜ?」


 彼の周りにいた男子の一人が、私を指差して言った。

 教室中の視線が私に集まる。

 何だか悪い予感がして、逃げ出したくなった。


「なんだ、お前?」

「秋保くん……どういうこと?」


 やっとの思いで、かすれた言葉を紡ぎ出す。

 それを聞いた途端、彼は笑い出した。

 彼の周りも笑い始める。


「こっち、来いよ」


 手招きされて、私は教室に入っていった。

 足取りは重い。

 肩にかけた鞄が、さっきとは打って変わって、とても重く感じた。

 彼の前まで行くと、さっと彼の友達に囲まれた。

 逃げ場は、ない。

 あの人の隣には、まだあの女の子が腕を絡ませている。


「お前さ、俺が本気でお前に告白したと思ってたの?」

「ち、違うの?」

「あはははっ、バッカじゃねー?」


 彼が笑い出すと、周囲の人も笑い出した。

 ショックで動かない頭で、やっと騙されていたことに気付いた。


「ウザイんだよ、お前」

「俺がこんなウルサイ女を好きになるわけないだろ。てか、お前、大人しそうに見えたのにな」


 あぁ、なんてこと。

 自分の中にあったあの人の姿が、鈍い音を立てて崩れ落ちる。

 周りは、皆彼の味方。

 笑い声と一緒に、からかいの言葉も飛んでくる。

 耳を押さえても、声が聞こえた。

 教室に誰もいなくなっても、笑い声が頭に響いている。


「勘違いとか、迷惑なんだけど。つーか、お前に好かれるとか、本当気味悪い」


 最後に囁かれた言葉が、ずっと耳から離れなかった。



「ちょっと、どうしたのっ?」


 呆然と座り込んでいると、彼と同じクラスの女の子が私に近づいてきた。


「大丈夫?」

「来ないでっ。笑わないで……」


 周りが全員敵に思えた私は、彼女を突き放した。

 彼女はあの中にいなかったのに、このクラスというだけで、また笑われると思った。


「秋保にやられたの?」

「……っ、だったら」

「大丈夫、私もあんな奴、大っ嫌いだから」


 彼女はにっこり笑って、私を抱き締めてくれた。

 そして、ずっと私の途切れ途切れの言葉を聞いてくれた。

 彼女は、光海と名乗った。

 これが彼女との出会いだった。

 その日から、彼女と行動するようになった。

 光海の前しか笑わない。

 喋らない。

 彼女以外、信じない。

 県外の高校を受けると言ったとき、彼女も一緒に行くと言った。

 ずっと、ずっと一緒だった。



 卒業式の日。

 私は校門から校舎を見上げていた。

 隣には当然のように、彼女の姿。


「ねぇ、光海」

「何?」

「私、もう恋はしないから。誰も好きにならない。私は、光海しかいらない」


 これが彼女の重荷になるとは、このとき思ってもいなかった。

 ただ、頷いてくれたことが嬉しくて、私は光海に抱き付いた。

 ―――きっとまた、私は恋をする。

 ずっと人を好きにならないまま、生きていくことは出来ないと、わかっている。

 でも、今は。

 この傷が癒えるまでは。

 私は誰も好きにならない。


 *


 話し終わった途端、体がふらついて、未来に抱きとめられた。

 そのまま強く抱き締められる。

 私は体を預けたまま、言葉を続けた。


「でも、好きになっちゃった。恋、しちゃった」


 彼は何も言わずに、腕に力を込めた。

 後ろで、鼻を啜る音が聞こえる。

 静か、だった。

 昼間と思えないほど、とても静かだった。


「私、未来のこと、好きだよ」


 口にしたと同時に、視界が歪んだ。

 涙が零れそうになって、彼の肩に顔を埋める。

 漏れそうな声を懸命に抑えて、涙を堪えた。


「……ごめんなさい」


 ごめん。

 何も悪くないのに、当たってしまって。

 ごめん。

 辛い想いをさせてしまって。

 ごめん。

 こんな苦しい話を聞かせて。

 ごめん。

 ごめん、ごめん。


「もういいよ、未来。……別れましょう」

「……」


 何か呟かれたが、聞こえなかった。

 聞き返そうかと思ったけど、やめておこう。

 たぶん知らない方がいい。

 きっと、知らない方が。


「別れないよ、俺」

「え?」

「折角好きって言ってくれたのに、別れられるわけないだろ」


 未来は、目を赤くして笑って言った。

 何が何だかわからなくなって、私は首を傾げた。

 その様子を見て、彼はもっと笑った。


「大丈夫?」


 優しく髪を梳かれて、また抱き締められた。

 光海に助けを求めようとするが、後ろを振り返らせてもらえない。


「峰原、朝ご飯温め直して」

「自分でやりなさいよ、自分で」

「無理。俺、七虹のこと離してやんないから」

「……端迷惑な奴ね」


 呆れたように言いながら、それでも何処か楽しそうな足音が聞こえた。

 通り過ぎるときに、ぽんっと頭を叩かれた。

 ―――私、結構幸せ者なのかな……。

 あんなことがあったけど。

 でも、なかったら、彼女に会えていなかった。

 彼女に会えてなかったら、彼に会えていなかった。

 今のこの時間も、あの三日間も。


「未来、痛いよ」

「んー、知らない」


 知らないって、何。

 一瞬そう思ったが、すぐにどうでもよくなった。

 ……こんな日が、こんな時間があってもいい。


「嫌い」

「は、ちょっ、えぇっ?」

「ばーか」


 力を緩めた隙に、彼の腕の中から抜け出して、キッチンに駆け込んだ。

 光海が驚いたように、こちらを見ている。

 私は気付かないフリをして、丁度温め終わった朝食をレンジから取り出した。

 すぐに飛び込んできた未来の顔を見て、私たちは思わず爆笑してしまった。


 *


「七虹、酷すぎ」

「ごめんって、ね?」


 さっきから拗ねたままの彼を、宥めながら笑いを堪える。

 堪えているから、拗ねてるんだろうけど。

 ソファに座っている彼女をちらっと見ると、肩が小刻みに震えていた。


「許さない」


 彼も彼女の姿に気付いたのか、もっと不機嫌な顔をしてそっぽを向いた。

 呆れて、ため息が出る。


「ガキ」

「んだって……っ」


 こちらに振り返った瞬間、私は身を乗り出した。

 目を閉じて、顔を近づける。

 暫くそうしていた後、そっと離れて、にこっと微笑んだ。


「機嫌、直った?」

「……バカ」


 顔を真っ赤にした未来を見て、とても愛しくなった。

 あの日感じることのなかった愛しさを、彼に感じた。

 あの人と違うと言うことが、とてもとても嬉しく思った。


「ふざけんなよ」

「こっちのせ……」


 言い終わる前に、唇を塞がれる。

 強引で、何処か優しいそれに、私はそっと目を閉じた。


「……明らかに、私がいること、忘れてるよね?」


 光海がソファの端からそっと覗きながら、ため息をついたことを、私たちは気付かなかった。


△▼△


 一つ、また新しい朝が来る。

 新しい、始まりがくる。

 昨日とは、少し違う三人。


「湊谷、遅いっ」

「……俺は、七虹を迎えに来ただけなんだけど」

「はぁ? 湊谷の分際で私に」

「はいはーい、喧嘩しないの」


 口喧嘩を始めた二人の傍を通り過ぎながら、ため息をつく。

 もう、空は明るい。

 薄く青付いた空を見上げて、私は大きく深呼吸した。

 今日も、また始まった。

 始まりには、ふさわしい色の世界。


「七虹、待って」

「峰原、お前邪魔」

「まだやってんの?」


 駅までの道のり、私が先頭を歩き、二人が後ろで喧嘩し続けていた。

 どっちかと言えば、二人が付き合っているような気がする。

 いや、端から見れば、確実にそうかもしれない。

 はぁ、とため息をつくと、後ろから抱き付かれて、一瞬息が詰まった。


「うっ……な、何すんのよっ!」

「あーぁ、彼女怒らせてやんのー」

「誰のせいだよ」

「あんたたちのせいよっ」


 まだ目覚めかけの街に、三人の声が響く。

 ―――きっと、ずっと続いてく、サンカク関係。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ