素敵な恋の歌
何も変えることなんて出来ない。そう信じていたから、今の私がある。そう信じていたから……私の隣には、もうアイツはいない。もう……昔みたいに笑い合うことなんて出来ないんだ。
誰よりも何よりも近かったのに、今ではもう誰よりも何よりも遠い存在となってしまった。それでも家が隣同士ということは変わらなくて。窓を開ければ、嫌でもアイツの部屋が見える。滅多にカーテンが開けられることがない幼馴染の部屋。昔はよく屋根伝いに遊びに行ったのに、今では家具の配置さえ分からない。何よりもそれが寂しかった。誰よりもアイツのことを知っていたはずなのに。それなのに……今は誰よりもアイツを知らない。……何も。
「……また何か歌ってる」
窓を開けて耳を澄ませると、ギターの音に乗って、歌が聞こえてくる。高校に入ってからは毎日のように歌っているようだ。有名な歌手の歌が流れたり、全く知らない歌が流れたり。由夏はどんな歌が風に乗って運ばれるのか、毎日楽しみにしていた。
「何の歌だろ……」
アイツの低くなった声が言葉を紡ぐ。知っている曲なら、アイツの声に自分の声を重ねることが出来るのに。何故か最近は由夏が知らない曲ばかりが聞こえてくる。だから、声を重ねることが出来ない。……アイツに近づくことが出来ない。
「……智のばか」
由夏はそう呟いて、窓を閉めた。何か苛々するので、カーテンも閉める。薄暗くなった部屋で、由夏は仰向けに寝転がって、天井を見つめた。今も微かに聞こえるギターの音に耳を傾けながら、由夏は目を閉じた。
その後すぐに眠ってしまったようだ。次に目を開けたときには、部屋も窓の外も真っ暗になっていた。ふと、カーテンが風に靡いていることに気付く。
「あれ、窓閉めたはずなのにな」
由夏は首を傾げながら、窓に近寄った。もちろんもう音は聞こえない。少しだけ表情を暗くして、由夏は窓を閉めた。
*
次の日も同じ時間に窓を開けて、隣の部屋に耳を澄ます。だが、いつものように歌は聞こえてこない。今日はやらないのかな、と窓を閉めようとしたその時だった。
「……覗き見かよ」
後ろからあの低い声がする。慌てて振り返ると、いつもはカーテンの向こう側に描いていた智が立っていた。
「時々声が聞こえると思ったら、そうやって聞いてたのか」
「う、うん。えっと……ダメだった?」
「……別に」
智は由夏から目を逸らすと、久々に入った部屋を懐かしそうに見渡す。確か最後にこの部屋で会ったのは、中学に入る前。もう四年以上、この部屋で智の姿を見ることはなかった。
「結構変わったな、部屋も」
少しだけ寂しそうな表情をして、智は呟いた。由夏は何も言えない。ただ曖昧に頷いて、智の次の言葉を待っていた。
「……海行くぞ」
暫く沈黙が流れた後、智が唐突に言った。
「海……って今から?」
「今からじゃなきゃ、いつ行くんだよ」
「う……じゃあ、着替えるから外で待ってて」
「了解」
智はそのまま由夏に背を向けて、部屋を出て行った。由夏は緊張を解すかのように、深く息を吐く。……緊張する。何年振りだろう、こうやって智に誘われるのは。もう一生そんな日は訪れないと思っていた。
由夏は内心焦りながら着替えを済ませて、家を出た。智は自転車に跨って、家の前で待っていた。背には大きなギターケースを背負っている。
「乗れよ、後ろ。乗れるだろ?」
「重いからいいよ。私も自転車、出してくる」
「……時間無いから。乗って」
智にそう言われて、由夏は渋々頷いた。智に背を向けて、荷台に腰掛ける。智はそれを確認してから、自転車を扱ぎ始めた。
海に近い町だから、数分で到着する。その間、一言も話さなかった。沈黙を気まずく思いながら、由夏は前を歩く智に遅れないようについて行った。
「いつもここで練習してるんだ」
「そっか……私、ここ来るの久しぶりかも」
潮風に靡く髪を押さえながら、由夏は言った。智はその様子を小さく微笑みながら見つめていたが、由夏は全く気付かなかった。……空白の時間を埋めることに、必死だったから。
「楽譜読めたよな?」
「うん、一応は」
そう答えると、智は一枚の紙を由夏に差し出した。不思議に思いながらも、それを受け取る。智は由夏が受け取ったのを確認してから、ギターケースを開いた。
「まさか……歌えとか言いませんよね?」
「歌え」
嘘、と思っている間に、智はギターを弾き始めた。前奏が終わっても歌い出せない由夏を見かねて、小さく歌い始める。
「あ、これ、昨日の……」
楽譜で歌詞を追いながら、由夏は呟いた。と、そこで演奏がストップする。楽譜から顔を上げると、不機嫌そうに智が由夏を睨んでいた。
「歌えっつってるだろーが」
「そんな、すぐに歌えるわけないでしょうが!」
ふーん、と智は由夏から目を離すと、また演奏を始める。今度は何とか歌い出せた。最初は小さな声で囁くように。メロディーに慣れ始めたら、少しずつ声量を大きくしていく。
ふと、智の方を見ると、満足したように微笑んでいた。え、と驚くと同時に、メロディーが狂いだす。
「……てめぇ、やる気あんのか」
「う……ごめん……てか、何で私が歌わなきゃいけないのよ」
「そりゃ、由夏の声が好きだから」
顔が赤くなるのを感じた。さらりとそんなことを言わないで欲しい。言った本人も由夏を見て、顔を赤くした。
「そ、そ、そういう意味じゃねぇよ!」
「分かってるよっ」
慌てて視線を楽譜に戻し、歌詞を最初から最後まで通して読んでみる。切なくて、甘い歌。何故か自分たちの姿がぴったりと当てはまる。
「ねぇ、これ。誰の歌?」
「……誰の歌でもない。俺が書いただけだし」
「書いたの?……これを?」
「文句あんなら、聞いてやる」
智はギターの弦をいじりながら、そう言った。心なしか、さっきよりも顔が赤く見える。きっと恥ずかしいのだろう。自分の書いたものが他の人に、しかも、幼馴染に見られるなんて。
「……私が見てもよかったの?」
「由夏に書いた歌だから。……裏も見ろよ」
そう言って、智は由夏に背を向けた。由夏は楽譜を裏返しにする。何も書かれていないと思ったが、紙の下端のところに、鉛筆で薄く何かが書かれていた。それを読んで、由夏は思わず口元を手で押さえてしまった。何度も何度もそれを読み返す。ただ単に嬉しかった。短い短い手紙だったけれど、その分あの歌に全てが込められているような感じがして。
「……何笑ってんだよ」
「別に。……さて、もう一回歌おうかな」
由夏は智の伴奏も待たずに、覚えたばかりのメロディーで言葉を紡ぎ出す。途中から智の音と声も重なって。二人は顔を見合わせて、微笑んだ。
毎日のように同じ歌が波音に重なって、浜辺に響き渡る。何よりも澄んでいて、何よりも綺麗な歌。
それは、きっと素敵な恋の歌。




