Angel/escape/2
Angel/escape/2
10/4 ∞
がむしゃらに出鱈目に、全力で走り続けて。
どこをどう走ったのか、どれくらいの間走り続けたのかさえわからないまま、それでも走って。
気がつけば学校に戻ってきていた。
身体は全身汗だくなのに、歯はがちがちと鳴り、震えが止まらない。
呼吸は荒く、吐き出す息は白い。
何キロも走ったはずなのに、体温は低下し続ける。
幻の寒さに必死に耐える。
恐い。恐い。恐い。
人体が温度を感じる機能は、なにも皮膚を通したものだけではない。
赤い色は暖かいイメージ。青い色は寒いイメージ。
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。五感全てが緻密に連動し、温度を感じ取る。
脳からの認識に対し、体が反応する。
逆に言えば、脳からの認識から逃れる術はない。
目に見えぬ、イメージにすぎない恐怖こそが、この寒さの原因だった。
「――――、―――、――」
二度目の尻餅をついて、声にならない呼吸を繰り返す。
「――痛ッ!」
全身が鈍く痛む。
見ると、右腕からは血が滲んで、制服は土で汚れて所々破れていた。
気が動転していたせいか、あまり憶えていないが、何度か人にぶつかったり、盛大に転んだりしたような気がする。
「……とにかく、保健室、行かなきゃ、な…」
朦朧とした頭を抱えて、ふらふらと歩き出す。
人に会える。
ただ、それだけの事実が胸を満たすようだった。
きっと、いつもみたいにボーっとして、あるはずもない幻覚。いや、悪夢を見てしまったんだろう。
文字通りの、悪い、夢を――。
はて、しかし保健室の先生にはなんと説明すればいいのだろう。
幻覚を見たあげく、クラスメートの女子を引っ張り倒して、逃げ出した挙句に、スッ転びまくりました。
……おお。
なんつーか、まさしく奇人変人そのものだ。
明日から前川に向けられるであろう、ゴミを見るような視線を想像すると、いっそ不登校にでもなってしまいたくなる。
なんて、な。
はは。
おかしいな、まるで、笑うことができない。
気分はどん底のまま歩いて、ようやく辿り着いた保健室の扉に手をかけた。
「……失礼します」
はたして先生はそこにいた。
机に座り、なにか仕事の途中なのか、こちらに背を向けたままだ。
反応は、ない。
なんだろう、よほど集中しているのだろうか。
いつもなら柔和に微笑んで迎えてくれるはず、なのに。
喉が渇く。
なんなら不機嫌でも構わない。
いっそのこと無視されていたとしたって、今は安心できる。
ただ振り返ってくれさえすれば、この悪夢の終わりに確証が持てる、のに。
「あの、先生? ちょっと怪我しちゃったんで手当てを」
先生は振り返らない。
冷水が背を伝っていく。
「……先生?」
それを否定したくて。
先生の肩に手をかけた。
どさり、と砂袋を落としたような音をたてて、先生は床に崩れ落ちた。
目を、開いたままで。
……ああ、よくできた人形だ。
これではまるで、つい先ほどまで血が通っていたみたいじゃないか。
瞬間、壁に掛けられた時計を見て、冷水だった汗が、ついに凍りついたような、錯覚を、感じ、た。
乱暴にドアを開け放ち、再び廊下へ走り出した。
―――秒針は動いていなかった。
走る。走る。走る。
すれ違う学校に残った数少ない生徒も。
楽しそうに会話と笑顔を止めた友人達も。
途中に寄った職員室でのことも。
全て頭から追い出して、ひたすら走った。
悪夢は、終わっていない。
なにかがおかしい。
なにもかもがおかしい。
まるで、オレ一人を置き去りにして世界が狂ってしまったかのよう。
どうして、こんなことに。
誰か、誰でもいい、教えてくれ。
助けを求める?
誰に?
あのマネキン達以外に、この世界の、誰に。
ああ、そうか。オレは取り残されたのか。この、終わらない1秒に。
だから、きっと1秒前なら、あるいは助かったのかもしれない。
きっと彼らは人間のままで。
そして、前川は助からなくて。
どの道、どん詰まり。
あるいは、前川を助けようとしたことがそもそもの間違いだったのだろうか。
とっさの判断であれ、青臭い偽善であれ。見捨てるぐらいなら、助けるべきではなかった。
結果として、オレは傍観者から、加害者へ変わってしまった。
せめて無事であってほしいと、都合のいい、根拠もない願望にすがることしか許されない。
錆び付いて悲鳴じみた音をたてて、鉄製の扉を開く。
屋上。
無人にして無風。
「なんだよ、これ」
オレは確かに未知の存在に憧れてはいたけれど。
オレが望んだものは。
オレが焦がれた世界は。
オレが夢見た超状は。
こんな、誰かを犠牲にする、地獄のようなものなんかじゃなかったはず、なのに。
真ん中辺りまで歩いて、とうとう膝をついた。
「――――!」
ただならぬ気配。
絶対的な存在感を感じて。
確信を再認するために、ゆっくりと振り返った。
そこには、そもそもの始まりにして、全ての終わり。
他でもない。オレ自身が望んだ。望んでしまった終末の形。
鋼の翼を纏い、大鎌を構えた死神の姿。
……ああ。
終わった。
チェックメイト。完全に詰みだ。
どう考えても、ここからの逆転劇などありえない。
ゲームオーバーだ。
馬鹿だな、ホント。
クラスメートを見捨てて、散々逃げ回って、自分の願いに失望して、錯乱した挙句、よりにもよって、こんな逃げ場のない袋小路に行き着いた。
立ち上がり、近づく終わりから逃げようと後ずさる。
―――はは、なんだこれ。
一歩。
―――この期に及んで、まだ生きようとしてる、なんて。
二歩。
―――なにが、明日死んでも構わない、だ。
三歩。
―――なにも知らないくせに、世界は狭いと。
四歩。
―――世の中などつまらないと決めつけて。
五歩。
―――自分では何もしなかったくせに。
六歩。
―――他力本願で叶う、幻想を抱いて。
七歩。ガシャン。
―――その果てが、この末路か。
「――たく、ない」
―――悔しくて、悔しくて。なにが悔しいのかもわからなくなるほど悔しくて。
「―にたく、ない」
―――馬鹿みたいに。
フェンスが爆ぜる。
―――みっともなく。
背中から、空に舞う。
―――時が止まった、降るはずのない雨にも似た大粒の涙を流しながら。
「死にたく、ない」
―――愚かにも。
景色か逆さに流れてゆく。
―――そんな、身勝手な言葉を。
「死にたく、ない!」
―――ただ、懸命に、叫び―――
――――『汝が願い、確かに聞き届けた』――――
そんな、聞こえるはずのない声を幻聴した。
瞬間、目を潰すほどの光が天より一閃した。
音速などスローモーションであるかの如く。
厚い雲をぶち抜いて、降り注ぐ光の矢は豪雨となり屋上もろとも死神を薙ぎ払う。
豪雨どころか滝と化した大質量に飲み込まれ、塵一つなく、存在の痕跡すら残さず、まるではじめからそうであったかのように、死神は姿を消した。
「……まったく。そういうひねた所は変わりませんね、貴方は」
声に宿るのは呆れか、安堵か。
声の主はオレを抱きとめ、静かに呟く。
「はじめから素直になっていれば、こんな事にもならなかったでしょうに」
その姿はまさに。
白では比較にすらならない。
白銀でもまだ、届かない。
放出される雷を纏い、夕日の朱さえ拒絶する絶対色である“白”の化身。
―――そうして。
―――その奇跡は、まるで。
―――魔法のように。
「守護天使の盟約に従い、全ての迷える子等に救済を」
死神と対を成す機械の翼を持った、異形の天使は光臨した。
空には静寂だけが残り、暗雲は残っていなかった。