雨の日は教会で
第一章 雨の日の教会
相沢透は二十六歳で、市内の小さな印刷会社に勤めている。
その日は午後から雨が降っていた。会社では大きな問題はなかった。上司に一つだけ修正を頼まれた。
透はそれを直して、六時半に会社を出た。傘は持っていた。駅までの道は混んでいた。透は人の多い道を避けて、住宅街の細い道に入った。
その道は以前にも通ったことがあった。けれど、その日は道の奥に小さな建物が見えた。白い壁の古い建物だった。
入口の上に十字架があった。透は足を止めた。
「こんなところに教会なんてあったか」
返事はなかったが、門は開いていた。敷地の中には雑草が少し生えていた。建物は古かったが、荒れてはいなかった。
入口の扉も閉まっていなかった。透はしばらく迷った。雨が強くなった。彼は軒下に入った。
扉の内側から、女の子の声がした。
「入ってもいいですよ」
透は驚いた。
「誰かいるんですか」
「います」
透は扉を少し開けた。中は狭い礼拝堂だった。長椅子が六列ほど並んでいた。正面には小さな十字架があった。ろうそくは灯っていなかった。けれど暗くはなかった。
窓から雨の光が入っていた。
白い服を着た少女が、前から二列目の椅子に座っていた。年は十二歳か十三歳くらいに見えた。髪は肩の少し下まであった。
少女は透を見ていた。そこで透は言った。
「ここ、教会ですか」
少女は答えた。
「そうです」
「普通に入ってよかったんですか」
「今日は開いています」
「今日は?」
「雨の日なので」
透は黙った。少女は続けた。
「相沢透さんですね」
透は顔をしかめた。
「なんで名前を知ってるんですか」
「知っています」
「知り合いでしたか」
「いいえ」
「じゃあ、どこで」
「ここに来る人の名前は、だいたい分かります」
透は扉の近くに立ったままだった。少女は席を勧めなかった。透も座らなかった。
奥の部屋から、老人が出てきた。黒い服を着ていた。牧師のようにも見えたが、透にはよく分からなかった。
老人は透を見て、軽く頭を下げた。
「雨宿りですか」
透は答えた。
「たぶん、そうです」
老人は言った。
「なら、雨が弱くなるまでいてください」
透は言った。
「ここ、前からありましたか」
老人は少し考えてから答えた。
「前からあります」
少女が言った。
「でも、いつも見えるわけではありません」
透は少女を見た。
「どういう意味ですか」
少女は普通の声で言った。
「雨の日にだけ開く教会です」
透は笑いそうになった。けれど、うまく笑えなかった。老人は棚から紙コップを出し、温かい茶を入れた。透は受け取った。
「ありがとうございます」
「熱いので気をつけてください」
透は長椅子の端に座った。少女は正面を向いていた。老人は奥に戻らず、入口の近くに立っていた。しばらく雨の音だけがした。
透は言った。
「宗教の勧誘ですか」
老人は答えた。
「違います」
少女も言った。
「違います」
「じゃあ、何ですか」
老人は答えなかった。少女は透を見て言った。
「あなたが来ただけです」
透は茶を飲んだ。味は薄かった。けれど温かかった。
彼は礼拝堂の中を見た。聖書らしい本はあった。讃美歌の本もあった。しかし、どれも使われている感じはあまりなかった。
透は言った。
「僕は、信者じゃないですよ」
老人は言った。
「そうでしょうね」
少女は言った。
「でも、神を嫌いではないですね」
透は少し不快になった。
「そういうことを勝手に言わないでください」
少女は謝った。
「すみません」
それ以上、少女は何も言わなかった。透は立ち上がった。
「雨も弱くなったので、帰ります」
老人はうなずいた。
「また雨の日に」
透は言った。
「来るかどうか分かりません」
少女は言った。
「来ます」
透は返事をしなかった。外に出ると、雨は細くなっていた。透は門を出て、駅へ向かった。駅に着く前に、一度だけ振り返った。教会はまだ見えた。
次の日、透は同じ道を通った。天気は晴れていた。そこには教会はなかった。空き地があった。錆びたフェンスがあった。雑草が生えていた。
入口も、十字架も、白い壁もなかった。透はフェンスの前で立ち止まった。通りかかった老女が、透を見た。
「そこ、何かありましたか」
透は言った。
「教会があった気がして」
老女は首をかしげた。
「ここは昔から空き地ですよ」
透は礼を言って、その場を離れた。会社では、いつも通り仕事をした。昼にコンビニの弁当を食べた。
夕方、天気予報を見た。明後日はまた雨だった。透はその画面をしばらく見ていた。そして、自分がもう一度あの道を通るつもりでいることに気づいた。
第二章 聖人ではない少女
それから明後日は、朝から曇っていた。透は傘を持って会社へ行った。
午前中に雨が降り始めた。
昼休みに窓の外を見ると、道路が黒く濡れていた。透はスマートフォンで天気予報を見た。雨は夜まで続くと出ていた。彼はその画面を閉じた。
仕事はいつも通りだった。印刷する前の紙面を確認し、誤字を探し、色のズレを見た。上司から二件、急ぎの修正を頼まれた。透はそれを終わらせた。
六時を少し過ぎて、会社を出た。傘を開いた。駅へ向かう大通りには行かなかった。住宅街の細い道に入った。
自分でも、理由をつけていることは分かっていた。帰る道を少し変えただけだと思うことにした。
雨は強くも弱くもなかった。空き地の前まで来ると、そこに教会があった。
白い壁。小さな十字架。開いた門。この前と同じだった。透はフェンスが消えていることを確認した。錆びた鉄のフェンスはなかった。代わりに低い石の門があった。
透は門の前でしばらく立っていた。中から少女の声がした。
「来ましたね」
透はため息をついた。
「来ましたね、じゃないですよ」
「来ると思っていました」
「僕は、確認しに来ただけです」
「そうですか」
透は敷地に入った。扉はまた少し開いていた。中に入ると、礼拝堂の中は前と同じだった。少女は前から二列目に座っていた。
老人は見当たらなかった。透は入口の近くに立ったまま言った。
「昨日はここ、空き地でした」
少女はうなずいた。
「晴れていましたから」
「晴れていたら空き地になるんですか」
「あなたからは、そう見えます」
「じゃあ、本当は何なんですか」
「教会です」
「答えになってない」
少女は少しだけ首を傾げた。
「答えています」
透は長椅子に座った。この前と同じ端の席だった。少女とは少し距離があった。
透は言った。
「あなたは何者ですか」
少女は答えた。
「まだ決まっていません」
「名前は」
「あります」
「教えてください」
「まだ呼ばれない方がいいです」
「どうして」
「名前を呼ばれると、近くなります」
透は少女を見た。
「近くなるって、何に」
「あなたに」
透は黙った。雨の音が窓を叩いていた。礼拝堂の中には、湿った木の匂いがした。透は言った。
「幽霊ですか」
少女は首を横に振った。
「違います」
「じゃあ、生きてるんですか」
「まだ生きていません」
「死んでいるわけでもない」
「はい」
「意味が分からない」
少女はそれを否定しなかった。
「分からなくていいと思います」
透は少し苛立った。
「分からなくていいなら、僕を呼ばないでください」
「呼んでいません」
「じゃあ、なんで僕はここに来たんですか」
「雨が降ったからです」
「そういうことじゃない」
少女は黙った。その時、奥の扉が開いた。老人が出てきた。この前と同じ黒い服を着ていた。手には古い布巾を持っていた。
「床が少し濡れていますね」
老人はそう言って、入口の床を拭いた。透は言った。
「説明してください」
老人は顔を上げた。
「何をですか」
「ここが何なのか。この子が何なのか。どうして僕の名前を知っているのか」
老人は布巾をたたんだ。
「一度に説明すると、信じにくくなります」
「少しずつなら信じるとでも?」
「少しずつなら、聞くことはできるでしょう」
透は否定しなかった。老人は少女の隣の列に座った。
「この教会は、普通の教会ではありません」
透は言った。
「それは見れば分かります」
「雨の日にだけ、こちら側に近づきます」
「こちら側?」
「あなたのいる側です」
「じゃあ、普段はどこにあるんですか」
老人は少し考えた。
「ある場所にある、と言うより、失われた場所に近いです」
透は眉を寄せた。
「宗教の話ですか」
「宗教でもあります。けれど、制度の話ではありません」
少女が言った。
「ここは、祈りが置かれる場所です」
透は少女を見た。
「祈り?」
「誰にも届かなかった祈り。誰かに向けられたけれど、行き場を失った祈り。そういうものが、雨の日に少しだけ形になります」
透は言った。
「詩みたいなことを言わないでください」
少女はうなずいた。
「すみません」
老人が続けた。
「この子は、聖人ではありません」
透は老人を見た。
「聖人?」
「この子は、そう呼ばれる可能性があった者です」
「意味が分かりません」
「生まれて、生きて、誰かのために祈り、誰かに覚えられ、死後に聖人のように扱われたかもしれない者です」
少女は正面の十字架を見ていた。透は言った。
「でも、まだ生きていないと言いました」
老人はうなずいた。
「はい」
「それなら、そんな可能性はただの想像じゃないですか」
「普通はそうです」
「普通は?」
老人は言った。
「まれに、可能性だけが先に届くことがあります」
透は笑った。今度は少し笑えた。
「そんなこと、本気で言ってますか」
老人は答えた。
「本気です」
「神様がそうしたと?」
「神様の御心だと、私が簡単に言うべきではありません」
透はその言葉で少し黙った。老人は続けた。
「ただ、人間の時間の外側にあるものが、人間の時間の中に影を落とすことはあります」
透は言った。
「神に近い魂とか、そういう話ですか」
少女が言った。
「私は神に近くありません」
透は少女を見た。少女は静かに続けた。
「私は、まだ何もしていません」
「じゃあ、聖人でも何でもない」
「はい」
「なのに、聖人になるはずだった?」
「そう言われています」
「自分ではどう思うんですか」
少女は少し考えた。
「困ります」
「困る?」
「生きてもいないのに、良い人だったことにされるのは困ります」
透は返す言葉に迷った。その答えは、予想より普通だった。老人は立ち上がり、前回と同じように茶を入れた。
透は受け取った。少女にも紙コップが渡された。少女は両手で持ったが、飲まなかった。透は言った。
「あなたは、僕に何をしてほしいんですか」
少女は答えた。
「今は、何も」
「今は?」
「話を聞いてくれればいいです」
「なんの話を」
「あなたの話です」
透は不快になった。
「僕の話なんて、あなたに関係ないでしょう」
「関係があるかどうかは、まだ分かりません」
老人が言った。
「無理に話す必要はありません」
透は茶を飲んだ。前と同じ薄い味だった。彼は言った。
「僕は、神を信じているわけじゃありません」
少女は言った。
「知っています」
「でも、完全に否定しているわけでもない」
「それも知っています」
「そういうの、気味が悪いです」
「すみません」
少女は素直に謝った。透は少し困った。怒る相手としては、少女は弱すぎた。彼は言った。
「僕は、神がいるならいるでいいと思っています。でも、だから何だとも思っています」
少女は何も言わなかった。老人も黙っていた。透は続けた。
「助けるなら助ければいいし、助けないなら最初から期待させなければいい。人間が祈ったとか祈らないとかで、何かが変わるなら、それはそれで不公平だと思います」
少女は言った。
「そう思うのは、悪いことではないと思います」
透は言った。
「また勝手に許すんですか」
「許してはいません」
「じゃあ、何ですか」
「聞きました」
透は少女を見た。少女は本当に、ただ聞いているようだった。それがかえって落ち着かなかった。老人が言った。
「この子は、誰かを救うためにいるわけではありません」
透は言った。
「では、何のためにいるんですか」
老人は答えた。
「まだ、それも決まっていません」
透は笑わなかった。彼は立ち上がった。
「帰ります」
少女はうなずいた。
「また雨の日に」
透は言った。
「毎回それですね」
「雨の日にしか会えませんから」
「晴れた日に来たら、空き地ですか」
「はい」
「あなたたちは、そこにいない」
「あなたからは、そうです」
透は扉に向かった。老人が言った。
「次に来る時は、聞きたいことを一つにしてください」
透は振り返った。
「なぜですか」
「本当に聞きたいことは、たいてい一つだからです」
透は返事をしなかった。外へ出ると、雨はまだ降っていた。彼は傘を開いた。駅まで歩いた。電車に乗り、家に帰った。
夜、透はインターネットでその地域の教会を調べた。地図には何も出なかった。古い教会、雨の日だけ開く教会、空き地、消える建物。
いくつかの言葉で検索した。それらしいものは出なかった。翌朝は晴れていた。透は出勤前に、また同じ道を通った。
そこには空き地があった。錆びたフェンスがあった。フェンスの向こうに雑草があった。透はフェンスの隙間から中を見た。
地面に、小さな白い紙コップが一つ落ちていた。それは昨日、少女が持っていたものと同じ形をしていた。
透はそれを拾おうとはしなかった。会社に行く時間が近づいていた。彼はその場を離れた。
昼休み、透はふと思った。次に聞くことは一つでいい。では自分は、何を聞きたいのか。少女の名前か。教会の正体か。神がいるのかどうかか。
彼はしばらく考えた。そして、自分が本当に聞きたいのは、なぜ自分がここに来たのかということだと分かった。
第三章 忘れていた祈り
次の雨は、四日後に降った。その日は朝から空が暗かった。透は出勤前に天気予報を見た。午後三時から雨と出ていた。
彼は傘を持って家を出た。会社に着くころには、まだ雨は降っていなかった。
午前中は、封筒の印刷データを確認した。昼前に、取引先から電話があった。文字の位置を少しだけ下げてほしいという内容だった。透は修正した。
昼休み、コンビニで買ったおにぎりを食べた。三時過ぎに雨が降り始めた。窓の外が少し暗くなった。透は画面を見ながら、何度か手を止めた。
次に聞くことは一つでいい。そう老人は言った。透はその言葉を思い出した。
五時半に仕事が一段落した。六時過ぎに会社を出た。雨は細かかった。傘を差しても、肩が少し濡れた。
透は大通りには出なかった。住宅街の細い道に入った。教会はあった。前と同じ場所にあった。
白い壁は雨に濡れていた。十字架の下に、小さな雫がいくつもついていた。
透は門をくぐった。扉は開いていた。中に入ると、少女はまた前から二列目に座っていた。老人は正面の近くで、古い本を閉じていた。少女が言った。
「こんばんは」
透は言った。
「こんばんは」
老人は言った。
「今日は聞くことを決めましたか」
透は傘を畳んだ。入口の傘立てに入れた。
「たぶん」
「では、どうぞ」
透は前と同じ席に座った。少女は透の方を向いた。透は少し間を置いた。それから言った。
「なぜ僕がここに来たんですか」
老人はすぐには答えなかった。少女も黙っていた。雨の音が続いていた。透は言った。
「あなたたちが呼んだわけではないんですよね」
少女はうなずいた。
「はい」
「僕が選ばれたわけでもない」
老人は言った。
「選ばれたという言葉を使うと、少し違います」
「じゃあ、何ですか」
老人は古い本を膝の上に置いた。
「あなたが、ここに置かれた祈りに近かったからです」
透は眉を寄せた。
「また祈りですか」
「はい」
「誰の祈りですか」
老人は答えた。
「あなた自身のものです」
透は少し笑った。
「僕は祈りません」
少女が言った。
「昔、祈りました」
透は少女を見た。
「いつ」
少女は答えた。
「中学生のころです」
透は何か言おうとした。けれど、すぐには言葉が出なかった。老人は言った。
「覚えていないなら、それでもかまいません」
透は視線を落とした。礼拝堂の床には、古い木目があった。濡れた靴の跡が少し残っていた。彼は黙ったまま、昔のことを考えた。
中学生のころ。特別な事件はなかった。家族も普通だった。学校も、嫌いではあったが、行けないほどではなかった。
ただ、何もかもが遠かった。自分が他の人間と同じ場所にいる気がしなかった。透は言った。
「たぶん、覚えています」
少女は何も言わなかった。老人も何も言わなかった。透は続けた。
「一度だけ、夜に祈ったことがあります」
少女は静かに聞いていた。
「誰かを助けてください、とかじゃありません」
「はい」
「自分が消えませんように、だったと思います」
少女はうなずいた。透は少し苛立った。
「そんな大したものじゃないですよ」
「はい」
「別に、神を信じていたわけでもない」
「はい」
「ただ、寝る前に、ふと思っただけです」
老人は言った。
「それでも祈りです」
透は老人を見た。
「何でも祈りにするんですね」
老人は首を横に振った。
「何でもではありません」
「では、何が祈りなんですか」
老人は少し考えた。
「自分ではどうにもできないものを、どこかへ差し出すことです」
透は黙った。その説明は、少し嫌だった。少女が言った。
「あなたは、その時、自分で自分を保てなかったのだと思います」
透は言った。
「勝手に決めないでください」
「すみません」
少女はすぐに謝った。透はそれ以上強く言えなかった。彼は長椅子の背に軽くもたれた。
中学生のころの自分を思い出した。夜、部屋の電気を消して、布団の中にいた。スマートフォンはまだ今ほど使っていなかった。ゲームをして、動画を見て、何かを読んでいた。学校では人と話していた。笑うこともあった。
けれど、自分の中に何も残らない日が多かった。その夜、何かに耐えられなかったわけではなかった。ただ、これがずっと続くのかと思った。そして、小さな声で言った。
消えませんように。
それが誰に向けた言葉だったのかは分からなかった。透は言った。
「あれは、祈りというより独り言です」
老人は言った。
「独り言で終わるものもあります」
「では、あれは違ったんですか」
「ここに残っているので」
透は不快そうに笑った。
「便利な理屈ですね」
老人は否定しなかった。
「そう聞こえるでしょう」
少女が言った。
「でも、私はそれを聞きました」
透は少女を見た。
「あなたが?」
「はい」
「その時、あなたはまだ生まれていなかったんでしょう」
「はい」
「じゃあ、どうやって」
少女は紙コップを両手で持った。今日は茶が入っていなかった。空の紙コップだった。
「私は、まだ生まれていないので、時間の中にきちんといません」
透は言った。
「それで、聞こえるんですか」
「聞こえるものがあります」
「僕の祈りが?」
「はい」
「なぜ」
少女は少し考えた。
「たぶん、似ていたからです」
「何に」
「私の状態に」
透は黙った。少女は続けた。
「あなたは、消えたくないと思いました。私は、まだ現れていません。消えることと、現れないことは違います。でも少し近いです」
透はその言葉を聞いた。分かったわけではなかった。ただ、完全に意味がないとは思えなかった。老人が立ち上がり、奥から茶を持ってきた。透に紙コップを渡した。
少女にも渡した。少女はまた両手で持った。透は言った。
「あなたは、僕の祈りに答えたんですか」
少女は首を横に振った。
「答えていません」
「じゃあ、何をしたんですか」
「覚えていました」
透は少しだけ目を細めた。
「それが何になるんですか」
少女は答えた。
「分かりません」
「分からないことばかりですね」
「はい」
少女は恥じる様子もなく言った。透は茶を飲んだ。やはり薄かった。けれど、前より少し熱かった。透は言った。
「僕は、あの時の自分をあまり好きではありません」
老人は黙っていた。少女は透を見た。
「なぜですか」
「弱いからです」
「今は強いんですか」
透は返事に詰まった。
「強くはないです」
「では、あまり変わっていないんですね」
透は少女を見た。少女は悪意なくそう言っていた。透は少し笑った。
「そうですね。たぶん、あまり変わっていない」
少女はうなずいた。
「それでいいと思います」
透はすぐに言った。
「そういうことを言われたくないんです」
少女はまた謝った。
「すみません」
透は額に手を当てた。
「いや、謝らなくていいです」
老人が言った。
「あなたは、自分の弱さを美しいものにされたくないのですね」
透は老人を見た。
「そうです」
「では、美しいものにはしません」
「できるんですか」
「少なくとも、ここでは」
老人はそう言った。透は何も言わなかった。雨は強くなっていた。窓の外は暗かった。礼拝堂の中だけが、少し灰色に明るかった。
少女は言った。
「私は、あなたの祈りをきれいだとは思いません」
透は少女を見た。
「そうですか」
「はい」
「では、何だと思いますか」
少女は答えた。
「小さいと思います」
透は少しだけ笑った。
「ひどいですね」
「でも、なくならなかった」
透は笑うのをやめた。少女は続けた。
「小さくても、なくならないものはあります」
透は紙コップを見た。中の茶は半分ほど残っていた。彼は言った。
「僕は、救われたいと思って祈ったわけじゃありません」
老人は言った。
「救いという言葉を使わなくても、人は何かを差し出します」
「差し出したら、何かが返ってくるんですか」
「返ってくるとは限りません」
「なら、意味がない」
少女は言った。
「意味がないものも、ここに残ります」
透はその言葉に少し苛立った。
「残るだけですか」
「はい」
「救われるわけでも、叶うわけでもない」
「はい」
「それで、何のために」
少女は答えなかった。老人も答えなかった。透は、その沈黙が答えなのかと思った。しばらくして、老人が言った。
「何のために、という問いに答えられないものもあります」
透は言った。
「宗教なのに?」
老人は穏やかに答えた。
「宗教だからこそ、答えられないことがあります」
透は時計を見た。七時を過ぎていた。帰らなければならない時間ではなかったが、長くいる理由もなかった。彼は立ち上がった。
「今日は帰ります」
少女は言った。
「はい」
老人は言った。
「また雨の日に」
透は傘を取った。扉の前で振り返った。少女はまだ前から二列目に座っていた。透は言った。
「あなたの名前は、まだ聞かない方がいいんですね」
少女はうなずいた。
「はい」
「じゃあ、次も聞きません」
「ありがとうございます」
透は外に出た。雨は強かった。傘に雨粒が当たる音が近かった。駅まで歩く間、透は中学生のころの夜を何度も思い出した。
消えませんように。
その言葉を思い出しても、特別な感動はなかった。ただ、忘れていた物を部屋の隅で見つけたような感じがした。家に帰り、濡れた靴を脱いだ。夕食はコンビニで買った弁当だった。電子レンジで温めて食べた。テレビはつけなかった。
寝る前、透は部屋の電気を消した。布団に入った。目を閉じた。祈るつもりはなかった。けれど、少しだけ言葉が浮かんだ。
まだ消えていない。
それを誰に向けたのかは分からなかった。透はそのまま眠った。
第四章 生まれなかった人々
次の雨は、一週間後に降った。その間、透は二度、空き地の前を通った。どちらの日も晴れていた。
そこには教会はなかった。錆びたフェンスがあり、雑草があり、古い看板の跡があった。看板には何も書かれていなかった。透は一度だけ、フェンスの隙間から中をのぞいた。
紙コップはなくなっていた。誰かが片づけたのか、風で飛んだのかは分からなかった。透はそれ以上考えなかった。考えないようにした。
会社ではいつも通り仕事をした。朝に出勤し、昼に食事をし、夕方に修正を終えた。
土曜日は休みだった。透は洗濯をした。部屋の掃除をした。本棚の下から、中学生のころに使っていた古いノートが出てきた。表紙には何も書かれていなかった。
中を見ると、落書きと、意味のない言葉がいくつかあった。透はしばらく見た。そこに祈りは書かれていなかった。彼はノートを閉じた。捨てようと思ったが、結局、棚の中に戻した。
雨は火曜日に降った。朝から強い雨だった。透は傘を持って出勤した。靴下が少し濡れた。仕事中、雨の音が窓に当たっていた。
昼休みに弁当を食べながら、透は教会のことを考えた。次に何を聞くのかは決まっていなかった。
少女の名前はまだ聞かない方がいい。自分が来た理由は、だいたい聞いた。では次は、少女のことを聞くべきだと思った。
六時過ぎに会社を出た。雨は弱くなっていた。透は住宅街の細い道へ入った。教会はあった。前よりも、少し古く見えた。
白い壁の一部に黒い染みがあった。十字架は濡れていた。透は門をくぐった。扉の前で、少しだけ深呼吸をした。中に入ると、礼拝堂には少女と老人がいた。
しかし、それだけではなかった。後ろの方の長椅子に、男が一人座っていた。中年くらいに見えた。黒い傘を膝の上に置いていた。
前の方には、女が一人立っていた。窓の外を見ていた。年齢はよく分からなかった。奥の壁際には、小さな子供のような影があった。
透は立ち止まった。少女が言った。
「こんばんは」
透は言った。
「こんばんは」
老人も言った。
「今日は、少し人が多いです」
透は男を見た。男は透を見なかった。女も振り返らなかった。子供の影は動かなかった。
透は小声で言った。
「この人たちは?」
老人は答えた。
「ここに来る人々です」
「生きている人ですか」
老人は少し考えた。
「そういう人もいます」
「そうじゃない人もいるんですか」
「はい」
透は少女を見た。少女はいつもの席に座っていた。今日は紙コップを持っていなかった。
透は長椅子に座った。いつもの端の席だった。男とは二列ほど離れていた。老人は透の近くに立った。
「怖いですか」
透は答えた。
「分かりません」
「そうですか」
透は言った。
「幽霊ですか」
老人は首を横に振った。
「幽霊という言葉は、少し違います」
「では何ですか」
少女が言った。
「生まれなかった人。忘れられた人。祈られなかった人。祈ったけれど、届かなかったと思っている人」
透は少女を見た。
「それが、ここに来るんですか」
「雨の日にだけ」
「全員、見えるんですか」
「見える時と、見えない時があります」
透は後ろの男をもう一度見た。男は床を見ていた。膝の上の傘から、雨水が少し落ちていた。透は言った。
「あの人は、生きているんですか」
老人は答えた。
「生きています」
「なら、普通の人ですか」
「普通の人です」
「僕と同じですか」
「ある意味では」
男が少しだけ顔を上げた。透と目が合った。男は言った。
「娘がいました」
透は何も言えなかった。男は続けた。
「生まれる前に死にました」
礼拝堂の中が静かになった。雨の音だけがした。男はそれ以上、何も言わなかった。老人も何も言わなかった。少女は男の方を見ていなかった。ただ正面を向いていた。
透は視線を落とした。前の方にいた女が言った。
「私は、名前を忘れられました」
透は女を見た。女は窓の外を見たままだった。
「家族もいました。友人もいました。でも、もう誰も私のことを正しく呼びません」
透は言った。
「死んだ人ですか」
女は答えなかった。老人が言った。
「この人は、死者ではありません」
透は眉を寄せた。
「生きているんですか」
「生きています」
女は言った。
「生きているけれど、いないのと似ています」
透は黙った。子供の影が少し動いた。少女が言った。
「あの子は、まだ名前がありません」
透は聞いた。
「生まれていないんですか」
「はい」
「その子も、聖人になるはずだったんですか」
少女は首を横に振った。
「違います」
「では、なぜここに」
「誰かが、その子のために泣いたからです」
透はその子供の影を見た。顔は見えなかった。ただ、小さな体の形だけがあった。透は言った。
「ここは、そういう場所なんですか」
老人は言った。
「そういう場所の一つです」
「一つ?」
「人間が知らない場所は、いくつかあります」
透は少し笑った。
「ずいぶん大きな話ですね」
老人は言った。
「大きな話に見えるだけです。ここにあるのは、たいてい小さなものです」
少女が言った。
「小さな祈りです」
透は黙った。彼はその言葉を、前より嫌だとは思わなかった。ただ、まだ好きではなかった。老人は奥へ行き、茶を持ってきた。今日は紙コップではなく、薄い湯呑みだった。
透は受け取った。男にも渡された。女にも渡された。子供の影には渡されなかった。少女は何も持たなかった。透は聞いた。
「あなたには、ないんですか」
少女は答えた。
「今日はありません」
「飲まないんですか」
「飲める時と、飲めない時があります」
「なぜ」
「今日は、私のための雨ではないからです」
透は意味を考えた。分からなかった。
男が茶を飲んだ。女は湯呑みを持ったまま、飲まなかった。老人は言った。
「ここに来る者は、必ずしも救われに来るのではありません」
透は言った。
「では、何をしに来るんですか」
「残っていることを確かめに来ます」
「残っている?」
「悲しみでも、祈りでも、名前でも、後悔でも」
少女が言った。
「残っているものは、すぐには消えません」
透は言った。
「消えた方がいいものもあるでしょう」
少女はうなずいた。
「はい」
「なら、なぜ残すんですか」
老人は答えた。
「人間が残してしまうからです」
透はその答えに納得しなかった。けれど、反論もしなかった。後ろの男が立ち上がった。彼は傘を持った。老人に頭を下げた。少女の方も見た。そして、透の方を少し見た。
「お先に」
透は反射的に言った。
「あ、はい」
男は扉から出ていった。外の雨の音が一瞬強くなり、また小さくなった。女はまだ窓の前にいた。子供の影は、いつの間にか見えなくなっていた。透は言った。
「消えましたか」
少女は言った。
「帰りました」
「どこへ」
「それぞれの場所へ」
「死後の世界ですか」
老人は答えた。
「そうである場合も、そうでない場合もあります」
透はため息をついた。
「本当に、はっきりしませんね」
老人は言った。
「はっきりしているものだけなら、ここには来ません」
透は湯呑みを見た。茶は冷めかけていた。彼は聞いた。
「彼女は、どうしてここにいるんですか」
彼女、と言いながら、少女を見た。少女は正面を向いていた。老人は答えなかった。
少女が口を開いた。
「私は、本来なら生まれるはずでした」
透は黙って聞いた。
「女の子として生まれるはずでした」
「どこに」
「この町ではありません」
「日本ですか」
「はい」
「いつ」
少女は少し考えた。
「もう少し先です」
「未来?」
「はい」
透は少女を見た。
「未来に生まれるはずだった?」
「はい」
「でも、生まれなくなった」
「はい」
「なぜ」
少女は答えなかった。老人が言った。
「まだ、そこまでは分かりません」
透は老人を見た。
「本人にも分からないんですか」
少女が言った。
「分かることと、分からないことがあります」
「あなたは、短い人生を生きるはずだったんですか」
少女は透を見た。
「誰から聞きましたか」
「あなたたちが前に言いました。聖人のように扱われたかもしれない、と」
少女は少しだけ目を伏せた。
「はい」
「短い人生だったんですか」
「たぶん」
「病気ですか」
「たぶん」
「多くの人に覚えられる?」
「たぶん」
透は言った。
「たぶんばかりですね」
少女はうなずいた。
「私は、可能性なので」
透はその言葉を聞いた。少女は、自分のことを人間のように言わない時があった。それが透には少し嫌だった。透は言った。
「でも、あなたはここにいるでしょう」
少女は答えた。
「はい」
「なら、可能性だけではないと思います」
少女は何も言わなかった。老人が透を見た。
「それを言うために、あなたは来たのかもしれませんね」
透はすぐに言った。
「そんな大げさなことじゃありません」
老人はうなずいた。
「そうでしょう」
女が窓の前から離れた。彼女は湯呑みを老人に返した。そして透の横を通った。透は彼女の顔を見た。顔は見えたはずなのに、後で思い出せないと思った。女は言った。
「名前は、呼ばれるうちに形になります」
透は何も言えなかった。女は扉から出ていった。礼拝堂には、透と少女と老人だけが残った。雨は弱くなっていた。透は言った。
「名前を聞かない方がいいというのは、そういうことですか」
少女はうなずいた。
「はい」
「僕があなたの名前を呼ぶと、あなたは形になる」
「少しだけ」
「それは悪いことですか」
「分かりません」
老人が言った。
「近くなることは、良いことでも悪いことでもあります」
透は言った。
「また、そういう言い方ですね」
老人は少し笑った。
「すみません」
透は湯呑みを返した。立ち上がった。
「帰ります」
少女は言った。
「はい」
透は扉の前で振り返った。
「あなたは、生まれたいんですか」
少女はすぐには答えなかった。雨の音が小さく続いていた。
やがて少女は言った。
「まだ分かりません」
透は言った。
「そうですか」
「はい」
老人は言った。
「また雨の日に」
透は外に出た。雨はほとんど止んでいた。空は暗かったが、雲の隙間が少し明るかった。透は駅へ向かった。帰りの電車で、彼は教会にいた人々のことを考えた。
娘が生まれる前に死んだ男。名前を忘れられた女。名前のない子供の影。そして、まだ生まれていない少女。
透は、自分がその中で何に一番引っかかっているのか考えた。答えはすぐに出た。少女が、自分を可能性だと言ったことだった。
家に帰ると、雨は完全に止んでいた。透は濡れた傘を浴室に置いた。夕食を食べた。
風呂に入った。寝る前に、スマートフォンで「名前 祈り 聖人」と検索した。いくつかの記事が出た。
どれも関係があるようで、なかった。透は画面を閉じた。部屋の電気を消した。目を閉じる前に、彼は少女の顔を思い出そうとした。顔は思い出せた。けれど、名前はなかった。
名前がないということが、その夜だけ、妙に重く感じられた。
第五章 奇跡を拒む
次の雨は、二日後に降った。天気予報では、夕方から雨となっていた。しかし実際には、昼前から細い雨が降り始めた。
透は会社の窓から外を見た。道路の色が少しずつ濃くなっていた。昼休み、透は近くのコンビニへ行った。傘を差して歩いた。弁当と水を買った。
帰り道で、透明な傘を持った親子とすれ違った。母親は子供の手を引いていた。子供は水たまりを踏もうとして、母親に止められていた。透はそれを見た。特に何かを思ったわけではなかった。
けれど、会社に戻ってからも、その子供の足元を少し思い出した。
午後の仕事は長かった。印刷データに小さなミスがあり、何度も確認することになった。透は画面を見ながら、少女のことを考えないようにした。それでも、時々思い出した。
まだ生まれていない少女。名前を聞かない方がいい少女。自分を可能性だと言った少女。
六時半に仕事が終わった。雨は強くなっていた。透は傘を開き、住宅街の細い道へ向かった。教会はあった。
白い壁は暗く濡れていた。入口の十字架は、前よりもはっきり見えた。透は門をくぐった。扉は開いていた。
礼拝堂には、少女と老人だけがいた。他の人影はなかった。少女はいつもの席に座っていた。老人は正面の十字架の下に立っていた。透は言った。
「こんばんは」
少女が言った。
「こんばんは」
老人も言った。
「こんばんは」
透は傘を傘立てに入れた。いつもの席に座った。今日は、礼拝堂の中が少し寒かった。木の床も、長椅子も、雨の匂いを吸っているようだった。
老人は透に茶を出した。透は受け取った。少女には何も出されなかった。透は言った。
「今日は、飲まないんですか」
少女は答えた。
「今日は、飲めません」
「この前も、そんなことを言っていましたね」
「はい」
「雨によって違うんですか」
「はい」
透は茶を見た。湯気が少しだけ上がっていた。老人が言った。
「今日は、この子のための雨です」
透は老人を見た。
「どういう意味ですか」
老人はすぐには答えなかった。少女も黙っていた。透は紙コップを持ったまま、二人を見た。
「何かあるんですか」
老人は言った。
「この子を、こちら側へ近づけることができます」
透は眉を寄せた。
「こちら側?」
「あなたたちの世界です」
透は少女を見た。少女は正面を向いていた。
「生まれさせる、ということですか」
老人は少し考えた。
「近い言い方です」
「本当に、そんなことができるんですか」
「できる場合があります」
「この子の場合は?」
「できるかもしれません」
透は紙コップを置いた。茶はまだ飲んでいなかった。
「なぜ、それを僕に言うんですか」
老人は答えた。
「あなたが、そのための近道だからです」
透は何も言わなかった。雨の音が少し強くなった。少女は顔を上げなかった。透は老人を見た。
「どういう意味ですか」
老人は言った。
「この子は、あなたの祈りに近いところにいました」
「それは前に聞きました」
「はい。そのため、あなたが何かを差し出せば、この子を少し現実に近づけられる可能性があります」
透はしばらく黙っていた。それから言った。
「何かを差し出す?」
「はい」
「お金ですか」
老人は首を横に振った。
「そういうものではありません」
「では何ですか」
「記憶、寿命、才能、縁。人によって違います」
透は笑わなかった。少女が小さく言った。
「私は望んでいません」
透は少女を見た。
「望んでいない?」
「はい」
「生まれることを?」
「今は、望んでいません」
老人は少女を止めなかった。透は言った。
「どうして」
少女は少し考えた。
「誰かのものを奪ってまで、生まれることではないと思うからです」
「奪う?」
「あなたが差し出すなら、それはあなたからなくなります」
透は老人を見た。老人は否定しなかった。
「本当に、なくなるんですか」
「はい」
「どのくらい」
「それは、選ばれるものによります」
「誰が選ぶんですか」
老人は言った。
「あなたではありません」
透は少し不快になった。
「では、誰ですか」
「この教会が、と言うのが一番近いでしょう」
「教会が勝手に決めるんですか」
「勝手に、という言い方もできます」
透は言った。
「そんなものを、選ぶ人がいるんですか」
老人は答えた。
「います」
少女は黙っていた。透は少女に聞いた。
「あなたは、本当に生まれたくないんですか」
少女は首を横に振った。
「分かりません」
「分からない?」
「生まれたいと思うこともあります」
「なら」
「でも、生まれることが救いとは限りません」
透は少女を見た。その言葉は、透には少し腹立たしく聞こえた。
「生きていない人に、それを言われても困ります」
少女は透を見た。
「そうですね」
「そうですね、じゃないですよ」
「すみません」
透は少し声を強くした。
「生きてもいないのに、生きることが救いじゃないとか、分かったように言わないでください」
少女はすぐには答えなかった。老人も口を挟まなかった。透は続けた。
「生まれることができるなら、生まれた方がいいでしょう。普通はそうでしょう」
少女は言った。
「普通は、そうかもしれません」
「あなたは、自分を可能性だと言いましたよね」
「はい」
「可能性なら、形になった方がいいんじゃないですか」
少女は黙った。透は自分が何に苛立っているのか、よく分からなかった。少女が生まれないことか。少女がそれを受け入れているように見えることか。それとも、自分に何かを差し出せと言われたことか。老人が言った。
「相沢さん」
透は老人を見た。
「これは、あなたに犠牲を求める話ではありません」
透は言った。
「でも、差し出せと言っている」
「選ぶかどうかは、あなたです」
「選んだ後は、僕では選べない」
「はい」
「ずいぶん不親切ですね」
老人は言った。
「奇跡は、たいてい不親切です」
透は黙った。少女が言った。
「私は、奇跡が嫌いです」
透は少女を見た。
「どうして」
「何かが叶う時、叶わなかったものが見えにくくなるからです」
「それは、ただのきれいごとではないですか」
「そうかもしれません」
「あなたは、何でもそうかもしれませんと言う」
「分からないので」
透は立ち上がりそうになったが、座ったままだった。雨はさらに強くなった。窓の外は暗かった。昼間ではないが、夜でもない。教会の中だけが、薄く白かった。老人は言った。
「今ここで決める必要はありません」
透は言った。
「いつ決めるんですか」
「この雨が終わるまでです」
透は時計を見た。七時前だった。
「短いですね」
「はい」
「もし選ばなければ?」
老人は少女を見た。
「この子は、また可能性のまま残ります」
少女が言った。
「私は、それでいいです」
透は言った。
「本当に?」
「はい」
「それは、諦めではないんですか」
少女は少し首を傾げた。
「分かりません」
「生まれたい気持ちが少しでもあるなら、諦めじゃないですか」
「そうかもしれません」
透は少し苛立って笑った。
「あなたは、それでいいんですか」
少女は言った。
「いいかどうかは、分かりません。でも、あなたから何かがなくなるのは嫌です」
透は言葉を失った。少女の声はいつも通りだった。強い感情はなかった。だから余計に、その言葉は透の中に残った。
老人が奥へ行き、小さな木箱を持って戻ってきた。木箱は古く、手のひらより少し大きかった。老人はそれを透の前に置いた。
「これを開ければ、差し出すことになります」
透は木箱を見た。鍵はついていなかった。蓋には何も書かれていなかった。
「開けたら、何がなくなるかは分からない」
「はい」
「それで、この子が生まれるかもしれない」
「はい」
「必ずではない」
「はい」
透は少女を見た。少女は木箱を見ていなかった。正面の十字架を見ていた。透は言った。
「あなたは、僕に開けないでほしいんですか」
少女は答えた。
「はい」
「なぜ」
「あなたのものだからです」
「僕の何がなくなるか、あなたには分かるんですか」
「分かりません」
「なら、大したものじゃないかもしれない」
「そうかもしれません」
「忘れていい記憶かもしれない。いらない才能かもしれない。会わなくてもいい人との縁かもしれない」
少女は言った。
「それでも、あなたのものです」
透は木箱を見た。彼は自分の人生に、そんなに守る価値があるものが多いとは思っていなかった。
記憶。寿命。才能。縁。
どれも、自分には少し薄いものに思えた。なくなって困るものが、どれだけあるのか分からなかった。けれど、それを自分以外の何かに選ばれることは、不快だった。透は言った。
「僕は、別に大した人生を送っていません」
老人は言った。
「そうかもしれません」
「なくなってもいいものは、たくさんあります」
「はい」
「でも、何がなくなるか分からないまま開けるのは、怖いです」
老人はうなずいた。
「それは自然です」
少女が言った。
「怖いなら、開けないでください」
透は少女を見た。
「あなたは、生まれないままでいいんですか」
少女は静かに答えた。
「生まれないままでも、私はあなたと話しました」
透は黙った。少女は続けた。
「それが、なかったことにはならないと思います」
「名前もないのに?」
「はい」
「晴れたら空き地になるのに?」
「はい」
「僕が忘れるかもしれないのに?」
少女は少しだけ間を置いた。
「それでも」
透は木箱に手を伸ばした。指先が蓋に触れた。木は冷たかった。老人は何も言わなかった。少女も止めなかった。透は蓋を開けようとした。その時、彼は中学生のころの夜を思い出した。
消えませんように。
あの小さな言葉。自分でもくだらないと思っていた祈り。誰にも言わず、誰にも覚えられないはずだったもの。
それが、ここに残っていた。少女がそれを聞いていた。なら、自分が差し出してしまうものも、どこかで誰かに関わっているのかもしれない。それが何か分からないまま、なくしていいとは言えなかった。
透は手を引いた。木箱は閉じたままだった。老人は静かに言った。
「開けませんか」
透は答えた。
「開けません」
少女は透を見た。透は少女に言った。
「あなたを助けたくないわけではありません」
少女はうなずいた。
「はい」
「でも、これは違うと思います」
「はい」
「僕は、あなたを生まれさせるために、何かを失うことが正しいとは思えません」
少女は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
透は言った。
「感謝されることでもないです」
老人が木箱を手に取った。
「それでいいと思います」
透は老人を見た。
「本当に?」
「はい」
「あなたは、僕に開けてほしかったんですか」
老人は少し考えた。
「どちらでもありません」
「ずるいですね」
「そうですね」
老人は木箱を持って奥へ戻った。礼拝堂には、透と少女だけが残った。雨の音は少し弱くなっていた。透は座り直した。少女は言った。
「私は、生まれたいと思ったことがあります」
透は何も言わずに聞いた。
「朝起きることや、学校へ行くことや、誰かに名前を呼ばれることを、少し考えたことがあります」
「はい」
「病気になることも、死ぬことも、たぶんありました」
「はい」
「それでも、生まれていたら、何かを好きになったと思います」
透は言った。
「そうでしょうね」
少女は続けた。
「でも、それは私が持っていないものです」
透は言った。
「持っていないから、欲しいんじゃないですか」
少女はうなずいた。
「はい」
「それでも、いいんですか」
少女は答えた。
「今は、いいです」
透は少女の顔を見た。いつもより少しだけ薄く見えた。雨のせいかもしれなかった。透は言った。
「あなたの名前を聞いたら、少し形になるんですよね」
少女はうなずいた。
「はい」
「聞かない方がいいんですよね」
「はい」
「でも、名前がないままなのは、少し嫌です」
少女は透を見た。
「あなたが名前をつけることもできます」
透は少し驚いた。
「僕が?」
「はい」
「それは、呼ぶのと違うんですか」
「少し違います」
「どう違うんですか」
少女は考えた。
「本当の名前ではありません」
「仮の名前ですか」
「はい」
透はしばらく考えた。
「雨子、みたいなのは嫌ですね」
少女は少しだけ笑った。透は初めて、少女が笑ったところを見た気がした。
「嫌です」
「ですよね」
透は正面の十字架を見た。何かを信じたわけではなかった。ただ、白い壁と、雨の音と、名前のない少女がそこにいた。透は言った。
「シロ、とか」
少女は首を横に振った。
「犬みたいです」
透は少し笑った。
「たしかに」
また少し沈黙があった。透は言った。
「灯、はどうですか」
少女は聞き返した。
「あかり?」
「はい。光の灯です」
少女は正面を向いた。
「いいと思います」
「本当に?」
「はい」
「では、仮の名前で」
少女は言った。
「はい」
透は少し迷ってから言った。
「灯」
少女はゆっくり透を見た。その瞬間、礼拝堂の中が少しだけ明るくなったように見えた。実際には、窓の外の雨が弱まっただけかもしれなかった。少女は言った。
「はい」
透はそれ以上、何も言わなかった。老人が奥から戻ってきた。木箱は持っていなかった。
「雨が上がりそうです」
透は外を見た。窓の雨粒は少なくなっていた。彼は立ち上がった。
「帰ります」
老人は言った。
「はい」
少女が言った。
「また雨の日に」
透は少女を見た。
「また雨の日に、灯」
少女は少しだけうなずいた。外に出ると、雨はほとんど止んでいた。雲の切れ目から、少しだけ夕方の光が見えた。透は傘を閉じずに、駅まで歩いた。傘にはもう雨粒がほとんど当たらなかった。
家に帰ってから、透は夕食を食べた。何を食べたかは、あまり覚えていなかった。風呂に入り、布団に入った。電気を消した。目を閉じると、木箱の感触を思い出した。
冷たい木の蓋。開けなかった手。生まれなかった少女。灯という仮の名前。
透は、自分が正しいことをしたのか分からなかった。ただ、何かを拒んだことだけは分かった。それは奇跡だったのかもしれない。あるいは、奇跡に見えるものだったのかもしれない。
透は祈らなかった。けれど、眠る前に一度だけ思った。
灯が、無意味ではありませんように。
第六章 雨がやむ
次の雨は、しばらく降らなかった。三日経った。一週間経った。
空は晴れていた。曇る日もあったが、雨にはならなかった。透は毎朝、天気予報を見るようになった。以前はあまり見なかった。傘を持つかどうかを決めるためだけに見ていた。今は、雨の表示を探していた。
会社ではいつも通り仕事をした。封筒の印刷。チラシの校正。名刺の再注文。取引先からの細かい修正。透はそれらをこなした。昼休みに弁当を食べた。帰りにスーパーへ寄った。洗剤と卵を買った。休日には部屋の掃除をした。
古いノートは、まだ棚の中にあった。透は一度だけ取り出した。中身を見た。落書きと、意味のない言葉と、途中でやめた計算があった。
そこに、消えませんように、という言葉はなかった。透はノートを閉じた。
捨てなかった。
次の週の木曜日、朝から雨が降った。強い雨ではなかった。細かい雨だった。
透は天気予報を見る前に、窓の音で気づいた。彼はしばらく窓の前に立った。出勤の準備をした。傘を持った。
靴は少し古いものを選んだ。会社へ行った。午前中、仕事は少なかった。透は何度か窓の外を見た。雨は止まなかった。昼過ぎに一度弱くなった。三時ごろ、また降り始めた。
五時半に仕事が終わった。上司に一件だけ確認された。透は答えた。
六時前に会社を出た。空は暗かった。雨は静かに降っていた。透は住宅街の細い道に入った。
教会はあった。
今までより、はっきりと見えた。白い壁は濡れていた。十字架の下には、小さな光のようなものが見えた。実際には、街灯の反射だったのかもしれない。
門は開いていた。透は門をくぐった。扉も開いていた。礼拝堂に入ると、老人が入口の近くに立っていた。少女は前から二列目に座っていた。透がつけた仮の名前で言えば、灯だった。
今日は、他の人影はいなかった。長椅子は空いていた。正面の十字架の下に、白い布がかかっていた。透は言った。
「こんばんは」
老人が言った。
「こんばんは」
少女が言った。
「こんばんは」
透は傘を畳んだ。傘立てに入れた。いつもの席に座ろうとした。老人が言った。
「今日は、前の方へ」
透は少し迷った。それから、少女の一つ後ろの列に座った。少女は振り返らなかった。透は言った。
「今日は、この子のための雨ですか」
老人は答えた。
「はい」
透は黙った。少女も黙っていた。老人は茶を出さなかった。紙コップも湯呑みもなかった。礼拝堂の中は、いつもより明るかった。雨の日なのに、窓の外が白かった。透は言った。
「雨が上がるんですか」
老人は答えた。
「上がります」
「そうしたら、ここは消えるんですか」
「はい」
「また雨が降れば、来られますか」
老人は少し間を置いた。
「おそらく、あなたはもう来られません」
透は老人を見た。
「なぜですか」
「あなたの祈りは、ここから離れ始めています」
透には意味が分からなかった。けれど、完全に分からないとも思わなかった。彼は少女を見た。
「灯も、いなくなるんですか」
少女はゆっくり振り返った。
「はい」
透は黙った。少女の顔は、前よりも薄く見えた。目や口が消えているわけではなかった。ただ、そこにいる力が弱くなっているように見えた。透は言った。
「どこへ行くんですか」
少女は答えた。
「分かりません」
「生まれるんですか」
「分かりません」
「可能性に戻るんですか」
「たぶん」
「それは、消えるのと違うんですか」
少女は少し考えた。
「違うと思います」
「どう違うんですか」
「消えたものは、なかったことに近づきます。可能性は、まだどこかにあります」
透は言った。
「それは慰めですか」
少女は首を横に振った。
「分かりません」
透は少し笑った。
「最後まで、それですね」
少女も少しだけ笑った。
「はい」
老人は正面の十字架の近くへ行った。白い布を整えた。透はその動作を見ていた。教会の中には、特別な儀式の準備のようなものはなかった。花もなかった。ろうそくもなかった。聖書は置かれていたが、開かれていなかった。老人が言った。
「相沢さん」
透は返事をした。
「はい」
「あなたは、この子を生まれさせませんでした」
透は言った。
「はい」
「それは、この子を見捨てたことではありません」
透は老人を見た。老人は続けた。
「人は、できないことをできないまま持つことがあります」
透は言った。
「それは慰めですか」
老人は答えた。
「慰めであればよいと思います」
「事実ではないんですか」
「事実でもあります」
透は少し息を吐いた。
「あなたの言うことは、最後までよく分かりません」
老人はうなずいた。
「それでよいと思います」
少女が言った。
「私は、うれしかったです」
透は少女を見た。
「何が」
「名前をつけてもらったことです」
透は黙った。
「灯、という名前です」
「仮の名前でしょう」
「はい」
「本当の名前ではない」
「はい」
「でも、うれしかったんですか」
少女はうなずいた。
「はい」
透は視線を落とした。自分がつけた名前は、特別考え抜いたものではなかった。ただ、その場で浮かんだものだった。それでも少女は、それを持っていた。透は言った。
「もっと良い名前があったかもしれません」
少女は答えた。
「でも、それが私の名前でした」
「仮の」
「はい。仮の」
透は何も言えなかった。雨の音が少し弱くなった。窓の外が明るくなっていった。老人は言った。
「時間です」
透は立ち上がった。少女も立ち上がった。初めて、少女が長椅子から離れて立つところを見た気がした。背は思ったより低かった。白い服は、膝のあたりまであった。足元は裸足のように見えた。けれど、床に足音はなかった。透は言った。
「最後に、何かできることはありますか」
少女は首を横に振った。
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「何も?」
「はい」
透は少し苛立った。
「何か言ってください」
少女は透を見た。
「何をですか」
「分かりません。忘れないで、とか。祈って、とか。生きて、とか」
少女は少し考えた。それから言った。
「忘れてもいいです」
透は言葉を止めた。少女は続けた。
「私は、あなたに覚えてもらうためにいたのではありません」
「じゃあ、何のために」
「分かりません」
透は顔をしかめた。少女は少しだけ笑った。
「でも、あなたと話しました」
「それだけですか」
「はい」
「それでいいんですか」
少女は言った。
「それでいいかどうかは、まだ分かりません。でも、なかったことではないです」
透は前に自分が言った言葉を思い出した。名前もないのに。晴れたら空き地になるのに。忘れるかもしれないのに。
それでも。透は言った。
「僕は、あなたを救えませんでした」
少女はうなずいた。
「はい」
「生まれさせることもできませんでした」
「はい」
「覚えていられるかも分からない」
「はい」
「それでも、あなたが無意味ではないと思っていいんですか」
少女は透を見た。
「それは、あなたが思ってください」
透は黙った。老人が静かに言った。
「祈りますか」
透は老人を見た。
「祈れるんですか」
「はい」
「僕は、信者ではありません」
「知っています」
「神を信じているとも、信じていないとも言えません」
「それも知っています」
「それで祈っていいんですか」
老人は言った。
「祈ってはいけない人はいません」
透は正面の十字架を見た。十字架は小さかった。古く、少し傾いているようにも見えた。透は手を組まなかった。目も閉じなかった。ただ、少女の方を見た。少女は透を見ていた。透は小さな声で言った。
「この子が、無意味ではありませんように」
それだけだった。信仰告白ではなかった。立派な言葉でもなかった。誰に向けて言ったのかも、透には分からなかった。けれど、その言葉を言った。礼拝堂の中で、雨の音がほとんど聞こえなくなった。
少女は静かに言った。
「ありがとうございます」
透は言った。
「それだけでいいんですか」
少女はうなずいた。
「はい」
「本当に」
「はい」
老人は入口の方を見た。
「雨がやみました」
透は振り返った。扉の外が明るくなっていた。雨音はもうなかった。透は少女を見た。少女の輪郭が、少しずつ薄くなっていた。
「灯」
透はその名前を呼んだ。少女は返事をした。
「はい」
「忘れてもいいと言いましたけど」
「はい」
「たぶん、忘れたくはないです」
少女は少しだけ首を傾げた。
「それでも、忘れるかもしれません」
「そうですね」
「それでいいです」
「よくはないです」
透はそう言った。少女は少し笑った。
「よくなくても、いいです」
透も少しだけ笑った。少女は正面の十字架の方を見た。それから、透に向き直った。
「相沢透さん」
「はい」
「あなたは、まだ消えていません」
透は息を止めた。それは、中学生のころの祈りへの返事のようだった。けれど、少女は救い主ではなかった。聖人でもなかった。まだ生まれていない、名前も仮の少女だった。透は言った。
「はい」
少女はうなずいた。その姿は、白い壁の光に溶けるように薄くなった。老人も薄くなっていた。礼拝堂そのものも、少しずつ遠くなっているように見えた。透は一歩前に出ようとした。しかし、足は動かなかった。老人が言った。
「それでよいのです」
透は老人を見た。
「あなたは、誰だったんですか」
老人は少し笑った。
「この教会の番人のようなものです」
「人間ですか」
「昔は」
透はそれ以上聞かなかった。聞いても、答えははっきりしないと思った。老人は頭を下げた。
「ありがとうございました」
透は言った。
「僕は何もしていません」
老人は答えた。
「何もしないことを、したのです」
透はその言葉を理解できなかった。けれど、覚えておこうと思った。次の瞬間、透は空き地の前に立っていた。傘を持っていた。雨はやんでいた。教会はなかった。錆びたフェンスがあった。雑草があった。古い看板の跡があった。透はフェンスの前で立ち尽くした。
空は灰色だった。
雲の隙間から、少しだけ光が見えた。透は教会のことを思い出そうとした。
白い壁。十字架。長椅子。老人。少女。名前。
名前を思い出そうとした。喉元まで出かかった。けれど、はっきりとは出てこなかった。
灯。
そうだった気がした。本当にそうだったのかは分からなかった。透はしばらくその場にいた。通りかかった自転車の学生が、透の横を通り過ぎた。車が一台、細い道をゆっくり走った。日常の音が戻ってきた。透は駅へ向かった。
その日は、いつも通り家に帰った。夕食を食べた。風呂に入った。布団に入った。眠る前に、少女の顔を思い出そうとした。顔は少し曖昧になっていた。声も、思い出せるようで思い出せなかった。けれど、最後の言葉だけは残っていた。
あなたは、まだ消えていません。
透は目を閉じた。祈るつもりはなかった。しかし、短く思った。無意味ではありませんように。
誰のことを言ったのかは分からなかった。少女のことか。自分のことか。生まれなかった人々のことか。あるいは、雨の日にしか形にならないものすべてのことか。分からなかった。それで眠った。数日後、透は同じ道を通った。空き地は空き地のままだった。雨の日にも通った。そこには教会はなかった。
透は少しだけ立ち止まった。フェンスの向こうに、雑草が揺れていた。彼は何かを忘れている気がした。しかし、忘れているなら、それはもう確かめられなかった。
それからも透は、普通に暮らした。会社へ行った。仕事をした。時々、人と話した。買い物をした。部屋を掃除した。古いノートは捨てなかった。雨の日になると、彼は少しだけ足を止めるようになった。信仰を持ったわけではなかった。教会へ通うようになったわけでもなかった。何かを悟ったわけでもなかった。ただ、雨を見ると、誰かのために短く思うことがあった。
その人が、無意味ではありませんように。
それは祈りと呼べるのかもしれなかった。呼べないのかもしれなかった。
透には分からなかった。けれど、その言葉は雨の日にだけ、少し自然に出てきた。
そして透は、そのたびに少しだけ黙った。




