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標本の偏り

【登場人物】

神崎零壱かんざきれいいち:元東京中央技術大学 情報工学科の教授。日本の情報工学の第一人者で、インターネットの普及に貢献した。2020年に定年退職、現在は年金生活。子どもは独立、妻に先立たれてからは、東京都北区にある築40年以上の二階建て住宅で、妻の思考を学習させたAI(人工知能)と暮らしている。

木下きのした:ペガサス電子の社員。

※ブログにも掲載中。

東京都北区。

残暑厳しい中、ビジネスバッグを手にした半袖シャツの木下が駅の改札から出てきた。

「暑っ」、木下はいうと、アーケードのある駅前商店街へ向かって歩き出した。

アーケードの骨組みは錆が出ているところがあり、シャッターの閉まった店が多かった。


木下は、昭和レトロな喫茶店『バロック』の前で立ち止まった。

入口横のケースにあるメニューのサンプルは、どれも色あせていた。

一人なら絶対に入らない店だ、木下はガラスドアを開くと店の中に入った。

寒っ、店の中は冷房が効いているが、設定温度が低すぎるように思った。


店内は外観と同じく、昭和レトロな雰囲気があった。

奥のテーブル席で新聞を読んでいる高齢男性に向かって、歩き始めた。

テーブル席で立ち止まった木下は、新聞から顔を上げた高齢男性にいった。

「はじめまして、神崎教授ですよね。お電話したペガサス電子の木下です」


木下が神崎に電話したのは2日前。

木下の会社で行われる社内会議の資料について、意見を聞くことが目的だった。

木下は神崎と面識がなかったが、上司から意見を聞いてくるよう指示されていた。

注文したアイスコーヒーが運ばれると、木下は本題を話し始めた。


ペガサス電子の社内システムを作り直すことになった。

3社から提案資料を取り寄せ、経営層にプレゼンするが、意見を聞かせて欲しい。

木下はテーブルの上に、バッグから取り出した3社の提案資料を並べた。

神崎は、並べられた提案資料を見た。


「どうぞ、手にとって、ご覧ください」、木下がいう。

だが、神崎は提案資料の表紙を見るだけで、手に取ろうとはしなかった。

顔を上げた神崎は、まっすぐに木下を見ると、いった。

「社内システムを作り直すことになった理由を聞かせて欲しい」


木下は作り直すことになった理由を話し始めた。

現在の社内システムは、社内に設置してある端末でしか使えないようにしている。

2か月前、社外秘の機密データが不正コピーされていたことが発覚した。

コピーされた日は休日で、システムを作った会社の社員がメンテナンスを行っていた。


システムを作った会社に、誰がコピーしたのか、調査するよう依頼した。

だが、誰もコピーしていないと回答されたことで、不信感が生まれたことが理由だった。

「コピーされたことで、何か被害はあったのか」、神崎が聞く。

「被害は確認されていませんが、これから出てくるかもしれません」、木下がいう。


「メンテナンスを行った時間とコピーされた時間は」、神崎が聞く。

「入退出は10時から16時までで、コピーされたのは15時です」、木下がいう。

「メンテナンスしていた場所は」、神崎が聞く。

「サーバールームと一般社員が仕事をするオフィスフロアです」、木下がいう。


「コピーした端末がある場所は」、神崎が聞く。

「オフィスフロアにある端末です」、木下がいう。

「メンテナンスを行っていたのは1人なのか」、神崎が聞く。

「いいえ、チームリーダー1人とスタッフ2人の3人でした」、木下がいう。


「ペガサス電子の社員は、メンテナンスに立ち会っていたのか」、神崎が聞く。

「休日出勤していた社員はいますが、作業には立ち会っていません」、木下がいう。

「コピーされた時間に、社内にいた社員は何人か」、神崎が聞く。

「その時間にいたのは、総務2人と経理1人、営業1人の4人だけです」、木下がいう。


「なるほど、そういうことか」、神崎は何かに気づいたようだった。

「そういうこととは、どういうことでしょう」、木下が聞く。

「おそらく、コピーしたのは、4人の社員の誰かだ」、神崎がいう。

「4人とも機密データにアクセスすることはできません」、木下がいう。


「なぜ、アクセスできないのかね」、神崎が聞く。

「アクセスには権限を付与された個人のIDとパスワードが必要です」、木下がいう。

「IDとパスワードがわかれば、アクセス可能ではないのか」、神崎がいう。

「そ、それは…」、木下が絶句する。


「機密データにアクセスできないと思わせることで、調査対象から外れた。

調査対象から外れたことにより、サンプリングデータが偏ってしまったんだよ。

コピーされた時間に、他の端末を動かしていたか、いなかったか。

そのことを確認するだけで、特定できるかもしれないよ」、神崎がいう。


「まさか、あいつが…いや、あり得ない…」、誰か心当たりがあるのか、木下が呟く。

「私の意見は、システム会社の見直しより、社員の見直しだ。

もし、システム会社の見直しをするのであれば、意見を聞きに来てくれ」

神崎は立ち上がると、レジへ向かった。

END

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