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第8話 夏の終わり。鉄塔を見上げた夜

 八月の終わり、風の匂いが変わった。

 セミの声が遠くなり、空の色が少しずつ淡くなっていく。


 丘にはもうフェンスもなく、重機の跡だけが残っていた。

 雑草が少しずつ伸びて、地面を覆い始めている。


 俺はその真ん中に立って、空を見上げた。

 鉄塔のあった場所には、ただ空が広がっているだけだった。

 でも――不思議と、寂しさはなかった。



 学校では、いつも通りの日々が戻っていた。

 カズは部活で笑いを取り、サナは少し大人びた表情で髪を伸ばしていた。


 あの夜のことは、もう誰も口にしない。

 けれど、忘れたわけじゃない。


 放課後、サナと並んで歩く。

 夕陽が赤く差し、アスファルトの影が長く伸びていた。


 「……丘、行った?」


 「うん。昨日、お父さんと行った。草がもう伸びてて、ちょっと森みたいになってた」


 「そうか」


 「お父さんね、“次は遊歩道を作る予定だ”って言ってた。

  子どもが遊べる場所にするんだって」


 「へぇ……」


 俺は空を見上げた。

 もう赤い灯はないけれど、風の音はまだ同じだった。


 「ユウ」


 「ん?」


 「ありがとう」


 サナの声は、あの夜と同じ響きだった。

 けれど今度は、涙じゃなくて笑顔だった。




 夕陽の光が二人の間に伸び、やがて重なった。

 その瞬間、丘のほうから風が吹いた。

 草の匂いと、少しだけ鉄の匂いが混ざっていた。


 「なあ、また作ろうぜ」


 カズがいつの間にか後ろに立っていた。


 「何を?」


 「秘密基地。今度は、ちゃんと壊されないやつ」


 サナが笑った。


 「それ、ただの公園のベンチでしょ」


 「いいじゃん、それでも!」


 笑い声が、夏の終わりの空に溶けていった。




 帰り際、俺はもう一度だけ丘を振り返った。

 風が草を撫で、太陽が沈んでいく。

 空の真ん中に、うっすらと一本の白い飛行機雲が伸びていた。


 ――きっと、また何かを見上げる日が来る。


 そう思いながら、俺は歩き出した。





 それから、いくつもの季節が過ぎた。


 風の匂いが、昔と同じだった。

 車を降りて見上げると、丘の上にはもう鉄塔はない。

 かわりに小さな展望台とベンチが並び、家族連れが笑っていた。


 俺はゆっくりと坂を登った。

 草の種類も、風の音も少し違う。

 けれど、夕暮れの光だけは、あの頃と変わらない。



 展望台の端に、小さなプレートがあった。

 〈200X年 子どもたちによる植樹記念〉

 その下に、かすれた落書きのような文字が残っていた。

 〈ゆう・さな・かず〉


 思わず、笑ってしまう。

 当時の筆跡は、思っていたよりずっと幼かった。



 ベンチに腰を下ろすと、風が頬を撫でた。

 目を閉じると、あの夏の声が耳の奥で蘇る。


 「なあ、また作ろうぜ」


 「何を?」


 「秘密基地!」


 笑い声、泣き声、そして風の音。

 すべてが夕陽の中に溶けていく。



 足元に小さな花が咲いていた。

 サナが好きだった、あの白い野花だ。

 俺はしゃがみ込み、指先でそっと触れた。


 「……また来るよ」


 遠くで雷鳴のような音がした。

 見上げると、空の端に一本の飛行機雲が伸びていた。

 まるで、消えた鉄塔の代わりに空を支えているように。



 風が吹く。

 潮と草と、鉄のような懐かしい匂いが胸に広がる。


 世界は変わった。

 でも、あの夜の空だけは、まだここにある。


 ――俺たちは確かに、あの鉄塔の下で生きていた。

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