第2話 サナの帰り道
風が吹くと、夏草の匂いが鼻をくすぐった。
丘を下る道の向こうで、サナがスカートを押さえながら歩いている。
夕暮れの光が、彼女の髪をオレンジ色に染めていた。
「ねえユウ、なんでいつもあの鉄塔ばっかり描くの?」
サナが振り向かずに言う。
「……別に、好きだから」
「理由になってない」
「うるさいな」
「ほんと、変なやつ」
そう言って笑ったサナの声が、
風鈴の音みたいに小さく響いた。
町を囲む丘の上には、いくつもの鉄塔が並んでいる。
子どもの頃、あれを“町の守り神”だと信じていた。
雨の日も、雷の夜も、あいつらだけはずっと立っていたから。
だけど今、その足もとに工事用の杭が打たれている。
先週まではなかった看板も立っていた。
《立入禁止区域 土地整備計画予定地》
見た瞬間、喉の奥が詰まった。
「ねえ、ほんとに壊しちゃうのかな」
サナの声が少しだけ沈んでいた。
「まだ決まったわけじゃねぇよ」
「でも、看板出てた」
「……見た」
しばらく黙って歩いた。
遠くでセミが鳴いている。
夕焼けが少しずつ紫に変わっていく。
「やだな」
「何が?」
「町が変わるの。なんか、さびしい」
サナの言葉に、胸の奥が少し痛くなった。
何も言えずに、俺はただうなずいた。
秘密基地に行くと、もうカズたちがいた。
ベニヤの壁に絵の具で“灯”の文字を書いているところだった。
「どうよ、俺たちのサイン!」
カズが胸を張る。
リョウがすぐに笑った。
「“ともしび”の“び”の字、逆じゃん」
「マジ!?」
「ほら、バカだ」
みんなが笑う。
その笑い声が、丘の向こうまで届きそうだった。
でも俺は、その笑いの中でふと気づいた。
――この時間が、いつか終わるんじゃないかって。
夕方、サナが丘まで来た。
手に小さな紙袋を持っていた。
「差し入れ。おばあちゃんの手作りクッキー」
「おお!」とミツルが歓声を上げた。
リョウがちゃっかり袋をのぞく。
「これ、バター入ってるやつ!?」
「入ってるけど、そんなガツガツ食べないの」
「はいはい」
サナは笑って、俺のほうを見た。
「ねえ、ここに来るの、久しぶり」
「そうだな」
「昔は一緒に虫取りしてたのに」
「お前が泣いたんだろ、セミ怖いって」
「うるさい!」
笑い合う。
でも、その笑いが少しだけ切なかった。
日が落ちるころ、みんなが帰っていった。
俺だけが残って、ベニヤに描かれた“灯”の文字を見つめた。
指でなぞると、まだ絵の具が乾いていなかった。
鉄塔のランプが、暗闇の中で点滅している。
それを見ていると、
まるで誰かがそこから見下ろしているような気がした。
「……お前も、なくなるのかな」
小さくつぶやいた。
答えは風の中に消えた。
帰り道、サナがまたいた。
「ユウ、待ってた」
「どうした?」
「ちょっと寄り道しよ」
サナが手を引いた。
指が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
丘を越え、田んぼ道を抜けて、線路沿いまで歩いた。
夜風が肌をなでていく。
草の間で、虫が静かに鳴いていた。
「ここ、好きなんだ」
サナが言った。
「風が気持ちいいし、電車の音が近いから」
遠くでガタン、とレールの音がした。
光の線が通りすぎ、暗闇がまた戻る。
「……ねえユウ」
サナの声が少し震えていた。
「もし町が変わっても、うちら、変わらないよね」
俺は息をのんだ。
言葉が出てこない。
「……ああ、変わらない」
やっと出た声は、自分でも情けないくらい小さかった。
サナは笑ってうなずいた。
「じゃあ、約束」
月明かりの下で、サナが小指を出した。
俺も指を絡めた。
その瞬間、鉄塔の灯が遠くでまた瞬いた。
まるで、あの光が「見てるよ」と言っているみたいだった。
翌朝、町の掲示板に貼り紙があった。
《北丘再開発プロジェクト 来春着工予定》
俺は言葉を失った。
サナとの約束が、
たった一晩で現実に押しつぶされそうになった。
鉄塔を見上げる。
昨日と同じ場所に立っているはずなのに、
何かがもう違って見えた。
――それでも、あの光だけは変わらず瞬いていた。